(花巻市中根子の集会所脇の小神社)
大晦日の夜更けにふと干支の「子(ね)」が気にかかり、手持ちの南方熊楠著『十二支考』(岩波文庫)を読んでみた。
「鼠に関する民俗と信念」という項では、古今東西の事例があまた紹介されていた。まさに“博覧強記”、“知の巨人”と言うしかない。国内での学究生活、渡米の後、渡英して大英博物館で研究を重ねたことは広く知られるところだが、それにしてもどのように調べ、それをどのように整理すればこうできるのか? 南方曼荼羅に興味は尽きない。
読み進めていくと「按ずるに薫勛(とうくん)『答問』に歳首松枝を折り、男は七、女は二、以て薬と為してこれを飲むと侍れば、唐土にもかゝる事の侍るにや」との記述が出てきた。
これを目にしてすぐに思い出したのは、宮澤賢治『永訣の朝』。
賢治さん(花巻の人たちは親しみを込めて賢治さんと呼ぶ。)は、最愛の妹トシからの(あめゆじゅとてちてけんじゃ)という頼みを受けて、まがったてっぽうだまのように飛び出して松の枝から二椀の雪を採ってくる。
古来、松は神が下り立つ依代(よりしろ)であり、その葉は薬であったし、栄養満点の非常食ともなっていたという。葉にはスレオニン、バリン、ロイシン、チロジンなど、現在確認されているだけで24種類のアミノ酸が含まれているとのこと。敵に攻められ長期の籠城を余儀なくされた場合でも、城の壁土と松葉を合わせ噛むことで飢えに耐えることができたとも言われているそうだ。
はげしい熱やあえぎにさいなまれているまもなく逝ってしまうだろう妹に「すこしでも神のご加護と葉の持つ薬効を届けてあげたい!」との思いが働いたかどうかは、わたしは知らない。しかし、そうあって欲しいと勝手な想像を膨らましている。
前述の「女は二、以て薬となして飲む」ということと、『永訣の朝』の「ふたつのかけた陶椀」「ふたきれのみかげせきざい」「雪と水とのまっしろな二相系」「つややかな松のえだ」「ふたわんのゆき」が繰り返す共鳴のように感じられ、そこにも賢治さんの心憎いばかりの企図があるように思えてならない・・・。
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系(にそうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫(しずく)にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだつてきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍(あゐ)のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Ora de shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりゃのごとばかりで
くるしまなぁよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変って
やがてはおまへとみんなとに
聖(たふとい)い資糧(しりやう)をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
出典:日本詩人全集20『宮沢賢治』 新潮社刊
昭和42年4月10日発行
昭和47年3月30日三刷
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