倭人在帶方東南大海之中
( 倭人は帯方の東南方面の大海の中に在ります。)
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、南に行ったり又東に行ったりすると、その<倭国の>北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。)
(從郡至倭)
群から倭に至るには・・・と書いてあり
(從郡至邪馬台国)
群から邪馬台国に至るには・・・とは表記してません、なので魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたのではないことがわかります。
倭国とは倭国という実在する1つの国家があるのではなく、倭人が住んでる所の地域(場所)と解釈したほうが良い。
以前ソ連国がありましたがソ連国という国家がどこかの場所にあったのではなく、
連合国の総称として使われてました。
倭国も倭人が住んでる場所の総称として使用していたと思います。
到其北岸狗邪韓國の其はその前の從郡至倭の倭を指します。
また狗邪韓国まで群から7000里とだけあり、狗邪韓国の説明は有りません。
ゆえに、狗邪韓国はまだ倭人が住んでる所ではないとわかります。
始度一海 千餘里 至對海國
(狗邪韓国から始めて一つ海を越すこと千里余りで対海国に至る。)
魏志倭人伝はこの対馬国から戸数とか環境等を説明を始めてます。
魏志倭人伝は倭人(倭国)の紹介してる条ですので、この対馬国から倭国ですよと説明が始まってます。
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
( 対馬国から又、南へ名を瀚海と曰う海をひとつ渡る。千里余りで。一大国に至る。)
又渡一海 千餘里 至末盧國
「一大国から又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
又渡一海と書いてあり、この箇所には方向の表示がありません。
そして中国船は九州本土の末盧国に着きました。
次から中国語学習歴15年の私が解釈した説明に入ります。
邪馬台国の大研究 其一 前ページ | 次ページ
( 倭人は帯方の東南方面の大海の中に在ります。)
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、南に行ったり又東に行ったりすると、その<倭国の>北岸の狗邪韓国に到る。七千余里。)
(從郡至倭)
群から倭に至るには・・・と書いてあり
(從郡至邪馬台国)
群から邪馬台国に至るには・・・とは表記してません、なので魏志倭人伝は邪馬台国への道程を書いたのではないことがわかります。
倭国とは倭国という実在する1つの国家があるのではなく、倭人が住んでる所の地域(場所)と解釈したほうが良い。
以前ソ連国がありましたがソ連国という国家がどこかの場所にあったのではなく、
連合国の総称として使われてました。
倭国も倭人が住んでる場所の総称として使用していたと思います。
到其北岸狗邪韓國の其はその前の從郡至倭の倭を指します。
また狗邪韓国まで群から7000里とだけあり、狗邪韓国の説明は有りません。
ゆえに、狗邪韓国はまだ倭人が住んでる所ではないとわかります。
始度一海 千餘里 至對海國
(狗邪韓国から始めて一つ海を越すこと千里余りで対海国に至る。)
魏志倭人伝はこの対馬国から戸数とか環境等を説明を始めてます。
魏志倭人伝は倭人(倭国)の紹介してる条ですので、この対馬国から倭国ですよと説明が始まってます。
又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
( 対馬国から又、南へ名を瀚海と曰う海をひとつ渡る。千里余りで。一大国に至る。)
又渡一海 千餘里 至末盧國
「一大国から又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
又渡一海と書いてあり、この箇所には方向の表示がありません。
そして中国船は九州本土の末盧国に着きました。
次から中国語学習歴15年の私が解釈した説明に入ります。
邪馬台国の大研究 其一 前ページ | 次ページ