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自分と大事な人の命を守るため~阿部邦子さんのお話@第132回活動報告(その3)

2015年02月04日 08時09分01秒 | [東日本大震災]宮城県牡鹿半島十八成ボランティア

代表の久田です。

第132回活動報告(その3)をお届けします。
活動報告その2、その3になったのは、三宅さん、寺部さんがとてもすてきな詳しい報告をしてくださったからです。

その3は寺部さんによる阿部邦子さんのお話の報告です。 

「震災のことを風化させてはならないのは、自分と大事な人の命を守る為。
だから被災した当時のことを思い出すのはとても辛いけれど、私は話し続けます」と、阿邦子さんがお話してくださったこと・・・

 
大事なお話だから、と
しっかりメモをとったつもりでいたのですが、残念ながらなくしてしまいました。
 
でも、「いざ」というときにメモを見ている余裕などありません。
 
邦子さんも、心と身体、特に身体「丹田(たんでん)」に刻んで!と、
おっしゃっていたので、今、思い出せることを書いておきます。
 
 
2011年3月11日、
あの日、
残念なことに命を落としてしまった方々のことを
邦子さんは話してくださいました。
 
 
ほんのちょっとのことだった、ちょっと気をつけていれば、知識があったら死なないで済んだ、
そんな、本当に残念な死に方だった・・・
 
だけど、その人たちの死から皆さんが学んでくれて、
地震のとき、津波のとき、思い出してくれて、あなたの命を助けることができたなら、
その人たちの死もただ残念な悔しいだけのものではなかった、ということになる、
そんな言葉に一同深くうなづきながらお話を聞きました。
 

 
 
*第一波が小さいからと油断してはならない、第二波のほうが大きい! 
ある人は、津波が一度来てたいしたことがなかったので、次に来る第二波の津波の方が大きいということを知らずに家に戻ってしまった。
そして、そのまま帰らぬ人となってしまった。
 
*車で避難は絶対にダメ 
ある人は、やはり一度避難したのにもかかわらず、子ども達が寒がるから、と言って、子ども達を連れて、車で家に戻ってしまった。
自分ひとりで、さっさと戻って上着だけ持って戻って来れば、自分も生きられたし、子どもも死なさずに済んだのに。 
津波が来るというときに、車で逃げるのは絶対にダメ。
波の高さが車のドアの下より上に来たら、もう水圧でドアが開かない。
もし、波が車の窓の上まで来そうだったら、必ず、窓をあけなさい。
運転席だけでなく、反対側の窓も。
(そしてシートベルトはもちろんはずす)
そうしたら、流れ込んでくる水の出口ができるから、その水流に乗って脱出できる。
 
・・・あの日、車の中で亡くなった方、とても多いそうです。
 
十八成に来る時のバスの中でも、
久田代表が、とある避難所へ行ったら、
避難所の前に老人福祉施設の車が数台停まっていたので、
ああ、助かったんだな、よかったな、と思ったら、
そこまで来ていた人たちを助けられなかった、
一週間もそのままだった、と、避難所にいた方が泣かれたという話をされていましたが、
それは、邦子さんのお話の通り、例え、誰かが水の中に潜って、
その車のドアや窓を開けようとしたとしても、
窓は電気系統がダメになれば開かないし、ドアは水圧であけることができない、
本当にどうすることもできなかったのだなあ、と改めて思いました。
 
*毎日飲む薬のある人は一週間分は持ち歩きましょう。
薬をとりに戻った、という方も多かったとのこと。
私も昨年来高血圧の薬を毎日飲んでいるので、他人事ではありません。
毎日の薬が命綱・・・という人も、特に高齢者には多い。
どうしたらいいのか?
邦子さんのおすすめは、常用の薬のある人は
一週間分を肌身はなさず、お財布の中や、いつも持ち歩くかばんの中に入れておく、ということ。
一週間あれば、だいたい医薬品も届くから、とにかく一週間分。
そして、実物があれば、どんな薬か、ということもわかるし!
↑これ重要ですよ。高血圧の薬でも何種類もあるし、薬の名前も覚えにくいし。
私のように、薬が切れてから病院へ行くのもダメですね~。
薬が切れる一週間前には病院へ行く習慣をつけなければ、と反省しました。
 
*ルージュの伝言は、震災時こそ!!!!
そして、持っててよかった、意外なものは・・・赤い口紅・・・。
確かに油性で何にでもかけるし、目立つし・・・
白い布に大きく「SOS」と書けば・・・見つけてもらいやすい・・・
なるほど~~~ でした。
「あの人のママに会うために出かける前にバスルームの鏡に伝言」するだけじゃない使い方があるんですね!
 
他にもあったかもしれませんが、私の中に落ちたのは、この4つでした。
 
気がつくと皆、真剣。
「私の話、わかってくれた?わかってくれたら、『生きてください』っていうのに、
はいっ!て返事をしてね」と
言われて、思わず正座!!!

 
 
 
「はい!」

 
 
大きな声で返事をして、スッと手があがりました。
 
そして、お話の後、
「ありがとうございました。」と
皆が言ったら
邦子さんがちょっとびっくりしたような表情に。
「ありがとうございました、と言われるのは珍しいです。拍手のときが多いのだけど。
今日は、それだけみんなが私の話を真剣に受け止めてくれたということだと嬉しく思います。」とのことでした(^^)。
 
***
 
震災の記憶を風化させてはならないのは、被災者のことを思いやるというだけじゃない、
いつか、また、何か起こったときに、その場にいる人の命を守ることなんだ、
そして、さらに、その人につながる人たちの命を守ることにもつながる、
邦子さんがおっしゃったこと、
 
本当にそうだと思います。
 
自分自身が、怖い目にあえば、忘れません。でも、「他人事」でいると忘れてしまう、
だから、被災者の経験は他人事じゃないんだと、
こういう機会に深く心身に刻んでおくことはとても大切なことだと思います。
 
***
 
昭和の宮城県沖地震の時、数名の人がブロック塀の下敷きになって亡くなりました。
当時仙台市内在住で、中学生だった私も外で大きな揺れに立っていられなくなり、
思わず友達と近くにあったブロック塀に身を寄せたのです。
幸い、ちゃんとシンのとおった丈夫なブロック塀でした。でも、そうでなかったら死んでいたかもしれません。
誰もそれが危ない(かもしれない)と教えてくれなかったから。
 
バスに乗って家に帰りました。
幸い、地震直後におまわりさんが、交通整理をしていたので、
停電になって信号機が機能していなくても、交通は混乱することなく無事に家に帰りつきました。
でも、もっともっと混乱していたら、信号機が機能してなくて、交通整理がされていない交差点で事故に巻き込まれていたかもしれません。
割れたガラスの破片などで、バスのタイヤがパンクしてたかも?
 
歩いて帰れる距離でした。大きな地震のあとは歩いて帰りなさい、と教えられていたら、歩いて帰ったのに。
津波がこない内陸であっても、地震が起こった後にどんなことが危険なのか、
そのことは忘れてはならない、伝えていかなければならないと改めて思わされました。
 
非常食を備えておくことも同じだと思います。
自分のためでもあるけれど、誰かのためにもなります。
自分のため、とだけ、考えると、自分はなんとかできるだろう、と思ってしまいますが、
備えておけば、誰かのためにもなります。
私は昭和の宮城県沖地震以来、3日分以上の簡単に食べられる食品と電池などを常備していますが、
それをそのまま、あの震災の時、仙台市内で物資不足に悩む友達のところに送ることができました。
こちらでも電池がなくて騒ぎになっていましたが、私は昭和の宮城県地震でものがなくて困った記憶を風化させないで、
ちゃんと備えていたから、困っている友達を助けることができました。
 
バスの中の久田代表のお話によれば、
私学の生徒さんたちのためにと準備した非常食は、
その子達の卒業時に消費期限がまだ残っているので、
それを、遠くアフリカでエボラ出血熱のために飢餓に苦しむ子供達のために送ろうというお話があるとか。
 
震災の記憶を風化させないことが、遠くアフリカの子ども達まで救うことになるのか、
「備えあれば憂いなし」というのは、まこと、自分の「憂い」ばかりではないのだな、と
そんなことも思わされた、今回の十八成行きでした。ありがとうございました。
コメント (1)
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