【あなたと十八成浜と・十八成浜での活動②】
スタッフ徳倉です。
東日本大震災から10年が経とうとしています。3月1日~10日まで、
この10年という月日を想いながら
私たちスタッフが撮影してきた写真を投稿していきます。
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仮設住宅に引っ越しをされてからは、くぐなり食堂・心配り・よろずやチーム恭一と3つの班に分かれて
活動を行っていきました。
2011年9月。仮設住宅に引っ越ししてすぐのボランティアに
9歳の子がヴァイオリンを携えて、十八成浜ボランティアにお母さんと一緒に参加しました。
彼女が演奏する童謡「ふるさと」に合わせて、集会所に集まった人で大合唱、涙を流していた人も。
あの時、愛知ボラセンを始めてよかったと心から感じました。
そして、人のちから、音楽のちからを力強く感じました。
「音楽への道の原点は、あの初めて参加したボランティアの日なんですよ!あそこで目にした光景、活動、涙を流していた人々、
全ての事から何となく...何となく進むべき道が見えていったようです。
だから親としても私も本当に出会った皆さまに感謝の気持ちでいっぱいなのです。
そして何より、幼いあの子をイチ参加者として、いつも温かく迎え入れて下さったボラセンの皆さんには格別の感謝です。」
(9年後にお母さんから頂いたメッセージより)
(写真は2017年4月第154回十八成ボランティア)
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「はなちゃんは宝」阿部邦子
2011年09月26日 23時33分14秒 (愛知ボラセンブログより)
またおじゃまします。9歳の子が参加と聞いて、心がほわほわしました。
仮設の我が家の玄関前で、青空コンサートをしてくれました。仮設住宅の談話室でコンサートをしてくれました。ボランティアの方々にも聞いてほしいと思いました。
いつぞや 長渕剛さんが、赴任して活動してくれている自衛隊の皆さんを応援するコンサートをやったって聞いて、私は「よくやってくれた!」と思いました。
はなちゃんは長渕剛さん以上のことをしてくれる。ボランティアの皆さんと被災者がともに楽しめるなんて。
十八成浜からの出発式に、舞台で演奏してほしいと、身もだえするほど熱望しました。
はなちゃんの透明な演奏は、そこに集ったみんなの心を、言葉以上に一つにしてくれました。
お母様が目を真っ赤にして、「私は何もできないけれど。そして、連れて行っていいのだろうかと迷ったけど、良かったんですよね」とおっしゃいました。
「何言ってるの!あんないい子を産んでくれたってだけで、あなたはすごいことをしてくれてるよ!」はなちゃんは お母さんだけの宝ではなくなった瞬間でした。愛知ボラセンの宝。
私たち被災者の宝。そして日本の、地球の宝。
人はどんな人生を歩むようになるか、誰にも、本人にもわかりません。
高校や就職や結婚や友人や。・・・自分で決めているようだけど、実は 偶然や必然や出会いや不可抗力や理不尽や幸運や・・・様々な要素が絡み合って今の自分があるのだと私は思います。
つまり、視点を変えれば、今の阿部邦子のマイナスもプラスも、それがあるからこそ、阿部邦子。
がんを三度もやって、子供もできなくて、それでも、そういう経験があるからこそ、今の私がある。つまりは、すべてが、私を形作っているパーツ。そのことに、私は誇りを持っています。
でも人は、足並みを揃えることを求めてきがち。
あの人、なんで結婚しないの?あの人、なんで子供がいないの?
人とあまり交われない人を疎外し、障害のある人を横目で見る。
はっきり書きます。 けっこうそういう視点は多いと思う。
はなちゃんのお母さんははなちゃんとお兄ちゃんを、そうは育てないだろうなと思えました。
はなちゃんは、相手のことを、受入れ、受け止めてくれる人になってくれるだろうな。
ううん、もうそうなってるよ。
はなちゃんだけじゃない。ボランティアに行こう、そう思えた人は、きっとそういう人たちだと私は思います。
たとえ実際には来られなくても。愛知ボラセンのリーダーは、そういう人たちを育ててくれるために立ち上げてくれたような気さえ、してきました。
ねえ。
認め合おうよ。
受け止め合おうよ。
そして自分を知ってもらえるように、心を開き合おうよ。
愛知ボラセンで、人と人との付き合い方を学んで、それを自分に生かそうよ。
なぜって あなたがたには胸を張って生きて行ってほしいから。
3月11日、リセット釦を押されてしまった私は、その日から新しい自分を生きています。
胸を張って生きていこうと思っています。ただ、肩の力は抜こうね、無理は長続きしないから。
肩に力が入りそうなときは、はなちゃんの演奏を思い出そうね。
はなちゃん、海辺の町の邦子『お姉ちゃん』は、また会えるのを楽しみにしているからね。
お姉ちゃんってあまりにも図々しいって?ほらほら 相手の思いに添うって、そういうことなんだもんね~~
阿部邦子