映画やドラマを見るのは楽しいものです。1時間や2時間の間に、まあ色々な事が次から次へと展開するものです。危険な場面や悲しいシーンも付きものです。
見ている自分自身は、「絶対安全な場所」=自分の部屋から見ているのですから面白いのです。
このような、ドラマと鑑賞者の関係とは、人生と魂の関係に良く似ています。
2時間の映画=80年間の人生。
映画を鑑賞している「絶対安全な場所」=自分の心の深奥。
映画の主人公。映画監督。おまけに、見ている観客も=自分自身。
人間は、自分の心の不死性を信じられない間は、悩み、迷い、苦しみます。
やはり、死ねば終わりだと思って居れば、この世の苦しみは嫌だし、怖いし、慌てて罪も犯すことも有るかも知れません。自分には時間が無いと思い、慌てて幸福に成ろうともします。慌てれば、余計に失敗するものです。
ただ、この様に思っている人も長く生きて、人生のパターンを繰り返す間に、だんだんと観念していくものです。良い意味での諦めでしょうか。
死ねば終わりだと思いながらでも、真面目に人生を生きれば、自分の心の奥に在る絶対安全な場所に行き着くことは出来ます。ただ、時間を要するのです。
それよりも早いうちに、自分の心は永遠であるから、慌てずにユッタリと自分の良心に沿って生きようと思える人は幸(さいわ)いです。
もし災難に遭っても、「まあ仕方がない。また、やり直せば良い。」
他人からイジワルされても、「いつかは自分に帰るのに、気の毒な人だなあ。」
自分が病気に成れば、「これも仕方がない。出来る範囲で楽しもう。」
などなどと、何事も明るく受け入れることが出来ます。
このような心境が、結局は物事を早く好転させる結果に繋がります。
このような話の真実性を理解するために参考と成る事実は、
この世のすべては、「必ず変化して行く」と言う現象を見ることです。
歴史を見ても、人生どころか文明や国家でさえも終わり、また違う場所で新しい文明が起こっているのです。
この事実を延長すれば、死さえも「終わり」と言う固定ではなく、変化の一側面にすぎないのです。
2時間の映画には必ず「終わり」という、「区切り」=死があるのは事実です。でも、映画の続編もあるものです。映画館には、必ず次の映画が流れます。
死が終わりでは無いから、先祖供養は重要なのです。
死んだ先祖も、何らかの違う形で存在しているからです。先祖が生きたから、私たちが存在していると言う事実は、絶対的な切れない繋がりを意味しています。
先祖を供養すれば、自分が生かされるのは、反射する物理法則でもあります。ただし、反射を期待した自分の為の供養は、欲望と迷いを自分に反射させます。
良い事を期待せずに、自分の状況が改善しなくても関係なしに、苦しい先祖がいれば可哀想だと思って「継続できる」ことが、その人の供養の是非を表します。自分のための供養だったならば、意味が無い、効果がない、と感じて必ず供養を止めることに成ります。これで良いのです。まだ、供養できる自分では無かったと言うことです。
生きている私たちでも悩むのですから、死んだ先祖でも悩み苦しんでいる先祖霊は、誰でも必ず居ます。
他人を助けようとする人は、自分自身を助ける事に繋がる反射の世界に、神は現実界を創っています。この事に早く気付き、体験をしましょう。
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