自分好みのおもしろいブログが読みたい。どこにどんなブログがあり、それはいったいどういうふうにおもしろいのか? そんな的確なブログ情報を効率よくゲットしたい。そう考えている人は多いんじゃないだろうか?
もちろん現状でも、その種のセレクター型ブログはある。大きく分けると2種類だ。ひとつは人気(アクセス)ランキングのたぐい。もうひとつは「なるべく客観的な目で選びました」というスタンスのお店である。
前者についていえば、ランキングが必ずしも「おもしろさ」を保証してくれるモンじゃないのはご存知の通りだ。また後者のように客観性を装うセレクトのしかたでは、選んだものが無色透明になってしまう。
そうじゃなくて、もっと「極めて個人的な好み」が剥き出しになったセレクターがたくさん出てこないかなあ、と思う。とてもパーソナルで、細分化された嗜好にもとづくチョイスをする芸のある仕分け役がほしい。
すこし前に「ブログ時評」さんが、「ブログの自律的な情報組織化が欲しい」というエントリーを提示されていた。そこでの議論ですっぽり抜け落ちているのが、この「選び手自身の個性」なのである。
ちなみに「ブログ時評」さんはその続編で、「ウェブログ図書館」さんを辛目に採点していた。でも私はあそこ、健闘してるほうだと思うな。だって大変だよぉ、あの電子司書の作業って。
もっとも私はその「大変な作業」を、「もっと個性的にやれ」ってな無理をいってるわけではあるが。
たとえば本を買うときのことを考えてみよう。みなさんはどんな選び方をしているだろうか? 特に小説なんかは、たぶん好みの作家で選ぶパターンが多いはずだ。
「この作家は私の趣味に合う」
「この作家なら、私がおもしろいと思う作品を書く傾向にある」
作家の名前がいい意味でのブランドになり、モノを選別するための尺度になっている。
私自身、まるっきりこのパターンだ。思えば昔読んでいた作家の傾向は、10代から20代にかけてハマった筒井康隆の影響をモロに受けていた。筒井氏がエッセイなんかで「この作家の○○って本はおもしろい」と書けば、かたっぱしから買い漁ったものだ。するってえとあなた、ものの見事にそれは「おもしろい」のである。
つまり私が感じるツボと、筒井氏のツボはとても近いわけだ。だから筒井氏の選球眼に身をゆだね、巷にあふれる本をある程度、効率よく絞り込むことができた。
ブログにもこの理屈は当てはまるはずだ。
「客観的・中立的見地から選びました」じゃなく、「オレがおもしろいと思うものを独断と偏見で選んだ。なんか文句あっか?」的な、いい意味でのゴーマン・セレクター。もしそのセレクターと私のツボが似ていれば、きっとブログ選びがかなり効率的になるだろう。
もちろんできることならネット上に林立するすべてのブログに目を通し、自分の目で見て決めたい。だがいかんせん、そんなことは物理的に無理だ。
だからこそ「このブログにはこういう種類のおもしろさがあるよ」と、思い入れたっぷりに自分の好みをゴリ押しする「必殺選び人」がほしいのである。
で、もしこのテのセレクター型ブログが一般化すると、何が起こるか? たとえば同じように「メディア論」というカテゴリーでおすすめブログを選んでいるのに、セレクターAと、セレクターBはまるでちがうブログを店先にならべてる、てな状況が生まれる。
これって情報のあり方が「専門店型」なインターネットに、とても合っている。
もうひとついえば「客観的に選びました」な切り口だと、まんべんなく無難なものがならんでしまうはずだ。
ほりえもんさんが作ろうとしてるらしい新聞にチャチャを入れたエントリーで書いた通り、ある一定数の分母になる人たちが読んだとき、「みんなが同じようにおもしろい」と思う最大公約数的なブログが選ばれるだろう。
これってなんだか平凡でつまらないなあ、と私は思う。
また客観的な選び方に頼ってしまうと、選び手になるセレクターの数もそう多くはならないだろう。似たようなものを選ぶサイトがたくさんあっても意味がないからだ。
一方、Aさんが「おれの目で選んだぞ」てなふるいのかけ方をすれば、Aさん好みの「偏った」リストができあがる。この偏りにこそ、おもしろみがあるわけだ。かつ、このスタンスだと、セレクターの数はけっこうな数になるんじゃないかな。
いろんなものがあちこちに散らばっていて、そのひとつひとつがキラキラ光ってる。これってとても「ネット的」だ。
もっともそうなるとセレクターの数が多くなりすぎて、今度は「どのセレクターの目が確かか?」をセレクトするブログが続々と登場したりして。なんだか永久運動だな、こりゃ。おあとがよろしいようで。
もちろん現状でも、その種のセレクター型ブログはある。大きく分けると2種類だ。ひとつは人気(アクセス)ランキングのたぐい。もうひとつは「なるべく客観的な目で選びました」というスタンスのお店である。
前者についていえば、ランキングが必ずしも「おもしろさ」を保証してくれるモンじゃないのはご存知の通りだ。また後者のように客観性を装うセレクトのしかたでは、選んだものが無色透明になってしまう。
そうじゃなくて、もっと「極めて個人的な好み」が剥き出しになったセレクターがたくさん出てこないかなあ、と思う。とてもパーソナルで、細分化された嗜好にもとづくチョイスをする芸のある仕分け役がほしい。
すこし前に「ブログ時評」さんが、「ブログの自律的な情報組織化が欲しい」というエントリーを提示されていた。そこでの議論ですっぽり抜け落ちているのが、この「選び手自身の個性」なのである。
ちなみに「ブログ時評」さんはその続編で、「ウェブログ図書館」さんを辛目に採点していた。でも私はあそこ、健闘してるほうだと思うな。だって大変だよぉ、あの電子司書の作業って。
もっとも私はその「大変な作業」を、「もっと個性的にやれ」ってな無理をいってるわけではあるが。
たとえば本を買うときのことを考えてみよう。みなさんはどんな選び方をしているだろうか? 特に小説なんかは、たぶん好みの作家で選ぶパターンが多いはずだ。
「この作家は私の趣味に合う」
「この作家なら、私がおもしろいと思う作品を書く傾向にある」
作家の名前がいい意味でのブランドになり、モノを選別するための尺度になっている。
私自身、まるっきりこのパターンだ。思えば昔読んでいた作家の傾向は、10代から20代にかけてハマった筒井康隆の影響をモロに受けていた。筒井氏がエッセイなんかで「この作家の○○って本はおもしろい」と書けば、かたっぱしから買い漁ったものだ。するってえとあなた、ものの見事にそれは「おもしろい」のである。
つまり私が感じるツボと、筒井氏のツボはとても近いわけだ。だから筒井氏の選球眼に身をゆだね、巷にあふれる本をある程度、効率よく絞り込むことができた。
ブログにもこの理屈は当てはまるはずだ。
「客観的・中立的見地から選びました」じゃなく、「オレがおもしろいと思うものを独断と偏見で選んだ。なんか文句あっか?」的な、いい意味でのゴーマン・セレクター。もしそのセレクターと私のツボが似ていれば、きっとブログ選びがかなり効率的になるだろう。
もちろんできることならネット上に林立するすべてのブログに目を通し、自分の目で見て決めたい。だがいかんせん、そんなことは物理的に無理だ。
だからこそ「このブログにはこういう種類のおもしろさがあるよ」と、思い入れたっぷりに自分の好みをゴリ押しする「必殺選び人」がほしいのである。
で、もしこのテのセレクター型ブログが一般化すると、何が起こるか? たとえば同じように「メディア論」というカテゴリーでおすすめブログを選んでいるのに、セレクターAと、セレクターBはまるでちがうブログを店先にならべてる、てな状況が生まれる。
これって情報のあり方が「専門店型」なインターネットに、とても合っている。
もうひとついえば「客観的に選びました」な切り口だと、まんべんなく無難なものがならんでしまうはずだ。
ほりえもんさんが作ろうとしてるらしい新聞にチャチャを入れたエントリーで書いた通り、ある一定数の分母になる人たちが読んだとき、「みんなが同じようにおもしろい」と思う最大公約数的なブログが選ばれるだろう。
これってなんだか平凡でつまらないなあ、と私は思う。
また客観的な選び方に頼ってしまうと、選び手になるセレクターの数もそう多くはならないだろう。似たようなものを選ぶサイトがたくさんあっても意味がないからだ。
一方、Aさんが「おれの目で選んだぞ」てなふるいのかけ方をすれば、Aさん好みの「偏った」リストができあがる。この偏りにこそ、おもしろみがあるわけだ。かつ、このスタンスだと、セレクターの数はけっこうな数になるんじゃないかな。
いろんなものがあちこちに散らばっていて、そのひとつひとつがキラキラ光ってる。これってとても「ネット的」だ。
もっともそうなるとセレクターの数が多くなりすぎて、今度は「どのセレクターの目が確かか?」をセレクトするブログが続々と登場したりして。なんだか永久運動だな、こりゃ。おあとがよろしいようで。