すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

プロが「ブログのためだけ」に取材して一次情報を流すってありえるのか?

2005-04-23 12:38:34 | メディア論
 こないだひさしぶりに渋谷へ行ったら、無料喫煙スペース「渋谷カフェ」っていうヘンなお店を見つけた。「たばこを吸う人はここでねっ♪」てな半・公共スペースらしい。

 で、それを見た私はあれこれ思索したあげくに、「ジャーナリズムとしてのブログの限界」を悟るに至ったのでありましたとさ。

 いったいどういう関係があるのかって? まあ話は最後まで聞きなさいよ。

 まず店の女の子(たぶんバイト)に軽くインタビューしてみた。するとココんちはもう1年半も前にオープンしたらしい。なら、さんざんマスコミに取り上げられてるんだろうな、と思い「渋谷カフェ」で検索してみると……なんと一件も出てこない。

 で、たばこを1日3箱吸う時代遅れな私としては、おそるおそるブログに書いてみることにした次第だ。

 さて「渋谷カフェ」である。店内にはなんとCDの新譜がヘッドホンで聴けるコーナーが、壁面一面を使って設置されている。なかなか気が利いてるじゃないか。さらにはいかにも渋谷にいそうなおねえさんが、気だるくたばこを吸ってたりして目の保養にもなっていい(謎)。

 ただし店じゅうがとんでもなくたばこ臭いのが玉にキズだ。1日3箱吸う人間のクズな私が「臭い」って感じるんだから、吸わない人はホント迷惑だろうな。でも吸っちゃうけど。

 店の人によると、なんでもココはJTが運営してるらしい。JTサンも大変ですな。ここまで嫌煙ムーブメントが一般的になると。

 だってこれって、たとえるならば……。

 自分の会社じゃ「越前ガニ」売ってる。弊社は越前ガニの専門店である。

 なのに世間では「越前ガニを食うとガンになる」って話になり、レストランや喫茶店には「禁・越前ガニ」スペースはできるわ、「道を歩きながら越前ガニ食べちゃいけません」って規則ができるわ、って状態なわけでしょ(問題ちがうよ)。よくつぶれないよなあ、JT。いやまじめな話。

 さらに調べてみると、JTがやってるこの喫煙スペース、秋葉原とか六本木とかあちこちにあるらしい。こりゃ現代の世相としてネタ的に非常におもしろい。JTのこの企業戦略を前フリにし、たばこをめぐる日本文化論が展開できそうだ。

「日本の禁煙ブームなんて、しょせんアメリカ様のマネゴトじゃないか? 日本人は『アメリカ=世界』と思ってるから嫌煙は世界的な現象だとカンちがいしてるけど、フランス人なんてガンガンたばこ吸ってるじゃん」みたいなことが言えれば、いい原稿になりそうである。

 つまりたばこをとば口にし、日本という国の成り立ちにまで問題を敷衍して考察するわけだ。

 そこでますは喫煙スペースを企画した意図とか、いまの嫌煙ムーブメントをあんたらはどう思うか? あたりをJTに正式に取材しようかと思ったが、なんかめんどくさくなってやめた。ブログで取材の結果をレポートし、分析しても儲からないしなあ。

 商業主義にどっぷりつかり、堕落しきった分泌屋、もとい、文筆屋としては、これはどうもやる気になりまへん。たとえて言えば、医者が無料で患者を治療するようなモンかも。んー、そんなリッパなもんじゃないな。八百屋のオヤジが、「なんか今日はやけに気分がいいやっ。ええい、大根はタダだっ。もってけぇドロボー!」って3日おきに継続してやらかすのに近いか。

 や、そこでもし仮に取材したら、それこそ「真のパブリック・ジャーナリスト」たらいうモンになるのかもしれないけど。

 というかよく考えたら実際のところは、実入りの問題よりも単に「なんとなくめんどくさくなった」っていう気まぐれな理由のほうがデカい気がしてきた。で、その「めんどうくささ」を乗り越えるモチベーションになるものが、「収入になること」だったり「世の中に重要な問題提起をする充実感」だったりするわけだ。つまりそれがあれば最初から、「めんどうくさい」なんて感じないのである。

 たとえば仕事で取材したネタのうち、ヤバくて媒体に書けなかった部分、またはスペースの関係で書き漏らしたことをブログに書く。あるいはそれらの取材をもとに、仕事としての原稿には書かなかった「もっと深い分析」や「評論」、「二次報道」をブログでやる。これならイケるだろう。

 だが「ブログのためだけ」にプロがハナから手弁当で取材して書く、ってありえるんだろうか? ブログを有料にするなら話は別だが、そんなビジネスモデルが成立しないのはもうとっくに証明されてるし。

 まあライブドアPJみたいなアマチュアの人たちが「趣味」で取材して書く、あるいはその無料取材を足がかりにし、モノカキ業界でこれからのし上がっていこうって人なら別かもしれないが。

 てなわけで渋谷の無料喫煙スペースを見て、独自取材をガンガンかましながら一次情報をブログにアップしていく新しいジャーナリズムのあり方、たらいうもんのはかない限界を見た私でありました。

 まあそのうちやる人も出てくるんだろうから、その人に期待しよっと。

(追記)文意が正確に伝わらないんじゃないか? と考え、一部を加筆修正した(4/25)。

(追記)第1稿の文中で「私が連想した」と書いたSF作品は、眉村卓氏のものではなく筒井康隆氏の「にぎやかな未来」であることが判明した。また内容についても前後の辻褄が合わなくなるため、該当する部分を段落ごと削除した。眉村卓氏、筒井康隆氏に謹んでお詫び致します(5/3)。

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偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論

2005-04-18 21:54:42 | メディア論
 自分好みのおもしろいブログが読みたい。どこにどんなブログがあり、それはいったいどういうふうにおもしろいのか? そんな的確なブログ情報を効率よくゲットしたい。そう考えている人は多いんじゃないだろうか?

 もちろん現状でも、その種のセレクター型ブログはある。大きく分けると2種類だ。ひとつは人気(アクセス)ランキングのたぐい。もうひとつは「なるべく客観的な目で選びました」というスタンスのお店である。

 前者についていえば、ランキングが必ずしも「おもしろさ」を保証してくれるモンじゃないのはご存知の通りだ。また後者のように客観性を装うセレクトのしかたでは、選んだものが無色透明になってしまう。

 そうじゃなくて、もっと「極めて個人的な好み」が剥き出しになったセレクターがたくさん出てこないかなあ、と思う。とてもパーソナルで、細分化された嗜好にもとづくチョイスをする芸のある仕分け役がほしい。

 すこし前に「ブログ時評」さんが、「ブログの自律的な情報組織化が欲しい」というエントリーを提示されていた。そこでの議論ですっぽり抜け落ちているのが、この「選び手自身の個性」なのである。

 ちなみに「ブログ時評」さんはその続編で、「ウェブログ図書館」さんを辛目に採点していた。でも私はあそこ、健闘してるほうだと思うな。だって大変だよぉ、あの電子司書の作業って。

 もっとも私はその「大変な作業」を、「もっと個性的にやれ」ってな無理をいってるわけではあるが。

 たとえば本を買うときのことを考えてみよう。みなさんはどんな選び方をしているだろうか? 特に小説なんかは、たぶん好みの作家で選ぶパターンが多いはずだ。

「この作家は私の趣味に合う」

「この作家なら、私がおもしろいと思う作品を書く傾向にある」

 作家の名前がいい意味でのブランドになり、モノを選別するための尺度になっている。

 私自身、まるっきりこのパターンだ。思えば昔読んでいた作家の傾向は、10代から20代にかけてハマった筒井康隆の影響をモロに受けていた。筒井氏がエッセイなんかで「この作家の○○って本はおもしろい」と書けば、かたっぱしから買い漁ったものだ。するってえとあなた、ものの見事にそれは「おもしろい」のである。

 つまり私が感じるツボと、筒井氏のツボはとても近いわけだ。だから筒井氏の選球眼に身をゆだね、巷にあふれる本をある程度、効率よく絞り込むことができた。

 ブログにもこの理屈は当てはまるはずだ。

「客観的・中立的見地から選びました」じゃなく、「オレがおもしろいと思うものを独断と偏見で選んだ。なんか文句あっか?」的な、いい意味でのゴーマン・セレクター。もしそのセレクターと私のツボが似ていれば、きっとブログ選びがかなり効率的になるだろう。

 もちろんできることならネット上に林立するすべてのブログに目を通し、自分の目で見て決めたい。だがいかんせん、そんなことは物理的に無理だ。

 だからこそ「このブログにはこういう種類のおもしろさがあるよ」と、思い入れたっぷりに自分の好みをゴリ押しする「必殺選び人」がほしいのである。

 で、もしこのテのセレクター型ブログが一般化すると、何が起こるか? たとえば同じように「メディア論」というカテゴリーでおすすめブログを選んでいるのに、セレクターAと、セレクターBはまるでちがうブログを店先にならべてる、てな状況が生まれる。

 これって情報のあり方が「専門店型」なインターネットに、とても合っている。

 もうひとついえば「客観的に選びました」な切り口だと、まんべんなく無難なものがならんでしまうはずだ。

 ほりえもんさんが作ろうとしてるらしい新聞にチャチャを入れたエントリーで書いた通り、ある一定数の分母になる人たちが読んだとき、「みんなが同じようにおもしろい」と思う最大公約数的なブログが選ばれるだろう。

 これってなんだか平凡でつまらないなあ、と私は思う。

 また客観的な選び方に頼ってしまうと、選び手になるセレクターの数もそう多くはならないだろう。似たようなものを選ぶサイトがたくさんあっても意味がないからだ。

 一方、Aさんが「おれの目で選んだぞ」てなふるいのかけ方をすれば、Aさん好みの「偏った」リストができあがる。この偏りにこそ、おもしろみがあるわけだ。かつ、このスタンスだと、セレクターの数はけっこうな数になるんじゃないかな。

 いろんなものがあちこちに散らばっていて、そのひとつひとつがキラキラ光ってる。これってとても「ネット的」だ。

 もっともそうなるとセレクターの数が多くなりすぎて、今度は「どのセレクターの目が確かか?」をセレクトするブログが続々と登場したりして。なんだか永久運動だな、こりゃ。おあとがよろしいようで。
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ガ島通信@藤代氏が毎日新聞に書いた「つまらない原稿」を深読みする

2005-04-17 07:48:52 | メディア論
 ガ島通信@藤代氏が毎日新聞(4/13付)に寄稿したメディア論を読み、正直いってガッカリした。と同時に「やっぱり新聞では限界があるのか」と強く感じた。おそらく「新聞に載ること」を意識して書いたために、文章が死んでいるのだ。

 そこには藤代氏がブログで見せるいつもの面影はなく、ただ無機的で人の心に刺さらない文字の羅列だけがあった。「R30」さんが激賞していたので期待して読んだのだが、残念ながらアテがはずれてしまった。

 とはいえ私は別に藤代氏を批判するために、この駄文を書いてるわけじゃない。同じひとりの書き手が媒体のちがいによって、これだけ手足をもがれた状態になることに非常な興味を覚えたのだ。

 そこで今回は氏が見せた落差をキーワードにし、ブログがもつ媒体としての可能性と、新聞の限界について考えてみたい。

 まず初めにお断りしておかなければならないことがある。なぜ、あの「おもしろい藤代氏」が、毎日新聞に書いたとたんに「おもしろくない藤代氏」になったのか? これからその理由とおぼしきものを書くが、ただしこれはあくまで私の想像にすぎないということだ。

 冒頭で氏の文章の落差を指摘したのは、ブログと新聞のちがいを考察するためのいい素材になると考えたからだ。まったく他意はない。だからもし私の読みがはずれていたら、謹んで謝罪し訂正させていただく。

 また、あるいはひょっとしたらあの文章には、毎日新聞サイドの手で意味のない赤字がかなり入っているのかもしれない。

 せっかくの生きた文章が、編集部サイドによる下手クソな直しのせいで殺されてしまう。説明すると長くなるので省くが、メディアの世界ではよくあることだ。

 現に私もフリーランスになって以後、某だれでも知ってる大新聞のWeb媒体に一定期間、書いていたことがある。いやはや、あのときは原稿を渡すたび、オリジナルの文章をつまらなくするだけの意味のない赤字が大量に入って参った。署名入りの人の原稿を、まるでお役所が書いた無味乾燥なプレスリリースみたいに変えようとするのだ。いわゆる「新聞特有の文体」にである。

 で、私はそれらのジャマな直しを見つけるたび、校正でことごとく元にもどした。こっちはフリーランスなんだから、あんなヘタクソな文章を私が書いたと読者に思われるんじゃかなわない。

 もっとも自分が入れた直しをまた元にもどされるわけだから、向こうも愉快なはずがない。必然的に関係がギクシャクし、最後のほうはあまりいい仕事ができなかった。

 さりとてこれにしろ、そのテの出来事が氏にも起こったのかどうかは外からでは知りようがない。だからここではあくまであの文章が、まるごとオリジナルだという前提で書く。

 さて、ではなぜ毎日新聞に掲載された文章を読み、私はおもしろくないと感じたのか? それは物書き業界の言葉でいえば、いわゆる「べタな文章」だったからだ。

 氏がいつもブログで見せているユーモアは感じられないし、機知に富んだレトリックがあるわけでもない。なにより文体が微妙に固い。いつもの「ですます調」じゃないせいもあるが、理由はそれだけではないだろう。

 また内容的にも、氏がいつもブログに書いていること、あるいはメディアをお題にした批評系ブログの間で、すでにいい尽くされていることばかりである。

 もちろん巷で散発的に指摘されている問題点をずらりとならべ、交通整理することは無意味じゃない。だが「あのガ島通信」の書き手であるだけに、読む側の期待値はいやがうえにも高くなる。無意識のうちにハッとさせられるような視点の新しさを求めてしまうのだ。

 ブログを読む限り、氏は「専門的で難解なこと」を、おもしろく笑わせながら読ませる技術と才能をもっている。これは物書きとしては、いちばん高等でむすかしい芸である。なのにその人が毎日新聞に書くと、なぜああなるのか?

 ここからは想像だが、氏は新聞に載せる原稿であることを意識しすぎたんじゃないだろうか?

 新聞という媒体の特性を考え、「新聞にふさわしい文体」「新聞に掲載されても違和感のない文体」を使おう。で、意図的に書き分けた。

 そのことが無意識のうちに、自分の持ち味を殺す自己規制になり、皮肉なことに新聞を批判する内容でありながら新聞に飲み込まれた文章になってしまったのではないか?

 プロの方ならおわかりだろうが、掲載するメディアによって文体を書き分けるのはよくあることだ。

 たとえば女性雑誌に書くときと、『世界』に寄稿するとき、あるいは『ポパイ』に連載するとき。それぞれの読者層と媒体の属性を考え、ちがう文体にするのはめずらしいことじゃない。

 媒体のテイストにあわせることで一冊全体を通した統一感を出し、それによって部数を売り上げるための一種の手法だ。

 もちろん本を出すたびにベストセラーになるような「大先生」クラスなら、ひとつの文体で押し通すことが逆にウリになる。だがそうじゃない大部分の書き手たちは、媒体に応じてこんなふうに書き分けることがよくある。

 では私が前述した「新聞にふさわしい文体」とは、どんなふうか? まず基本は文体が固いことだ。そのことによってそこはかとなく重々しさを演出し、「新聞がもっていなければならない権威の衣」をまとうことができるからだ。なんのことはない、専門的にはタダの悪文なのだが。

 そして視点はあくまで大所高所から俯瞰する形を取り、あちらこちらに調味料としての「批判精神」をまぶしておく。

 もちろん読む側が「おもしろい」と感じるような凝ったレトリックなんぞは、ご法度だ。新聞の文章はある意味、「つまらなければならない」のである。

 もちろん氏が毎日新聞に書くに当たり、こんなことを考えたかどうかはわからない。だが私も同じように新聞社にいた人間であり、同時にフリーランスになってからは硬軟取り混ぜ、あちこちの雑誌に雑文を書き散らしてきた。だから同業者が初めて書く媒体を前にしたときの心理は、ある程度わかるつもりだ。

 もし私だったら、こう考えるかもしれない。

「マジメなテーマだし、おちゃらけて読者を笑わせるような手法は極力抑えよう。心もち格調高くしたほうが無難だ。新聞の紙面にならんたとき、浮かない文体にしておこう」

 自分の文体をコントロールできるプロならではの、悪しき誘惑にかられるわけだ。

 結論をいえば、ブログであれだけおもしろい文章を書く藤代氏を人並みにさせてしまう新聞という名の装置が悪いということになる。

 あの文章を読んで、私はなんだか新聞というメディアの限界をヘンな形でしみじみ感じてしまった。もっとも新聞の問題点を身をもってあぶり出したという意味では、氏の原稿は「意図せざる意義」があったことになるわけだが。

 さて一方、ブログの場合は書き手をおかしなふうにコントロールしようとする「編集部」なるものは存在しない。「こんなレトリックを使うと、ユーモアのわからない人に『不真面目だ』と思われるんじゃないか? やっぱりやめておこうかなぁ」などと自己規制する義務もまったくない。

 売るための戦略を考える必要がないから、法律やモラル、人権にふれない範囲で自由に書ける。

「何を当たり前のことを」と思われるかもしれない。そう、本来ならこんなことは既存のメディアでも保証されていて当然のことだ。だが実態はそうじゃない。だから問題なのである。

 そこへいくとブログはいろんなテクニックを使って、いくらでもおもしろくできる。だからそのぶん人の心に刺さる。

 既存のメディアはなにかといえば、報道、言論の自由なる印籠をチラチラさせる。だがその実、内部は自己規制だらけで身動きが取れない状態だ。前述したような新聞ならではの「格調高き表現の縛り」なんかはその象徴である。

 使う言葉や文体のテイストに決まった枠組みがあるんじゃ、おもしろくするにも限界がある。天井の高さが決まっていては、それ以上は高く飛べない。

 私は新聞、雑誌、広告、チラシの裏、といろんな媒体で書く経験をし、ほんの1ヵ月前、なんの気なしにブログを始めた。で、やってみてつくづく実感したのは「天井がないことの愉悦」だった。もっともこれは同時に「天井がないことの不安」とウラハラではあるのだが。
 
 さて、最後に藤代氏と毎日新聞の名誉のために、ひとことつけくわえておきたい。ブログを読む限り、氏はマジメで気むずかしいことを書いていながら、それをエンタテインメント作品として成立させる技量がある。

 だからもし私の邪推が当たっているならば、自分で自分の枠組みを小さくする自己規制などせずに、できるだけまっすぐ書いてほしいと思う。

 もちろん食って行かなきゃならない以上、処世術は必要だ。私みたいに編集長と打ち合わせしている最中に、「あなたは読み違えている」と叫んで机をひっくり返したりするのは禁物だ。

 そこはうまく立ち回って、自分を通してほしい。いや、私ごときがこんなことをいうのはまったくおこかましい話だが。

 また逆に私の想像がハズレていて、あの原稿は「たまたま調子が悪かっただけ」なんだとしたら、前もって深くおわびしておきたい。

 余談だが、ウワサでは氏は私の故郷の新聞社におられたと聞く。もし本当ならば、私は高校時代、まさにその新聞社の前を毎日チャリンコこいで学校に通っていた。

 私のほうが10年くらい長生きしてるので、同じ時期にあの町に住んでいたってことはないだろう。だがひょっとしたら帰省したとき、商店街あたりですれちがっていたりするかもしれない。なんせお盆はとんでないことになる町だから。

 また退社し、独立されたらしいことも私と重なるところがある。なんだか妙に他人とは思えないのだ。陰ながらご活躍をお祈りしている。

 次は毎日新聞についてだ。

 現在、新聞を定期購読してない私が、「どうしても新聞を取れ。でないと殺すぞ」といわれたら、おヒネリを投げるつもりで毎日新聞にする可能性は高い。

 取ってつけたように聞こえるかもしれないが、ちゃんと理由はある。売れてないのは商業媒体としては、もちろんマズい。だが無骨に「何か」を追求しようとする社風(のように見えるところ)が共感できるからだ。

 また藤代氏の原稿が掲載された特集「ネット時代のジャーナリズムとは何か」も、なかなか着眼点がいい。今後も折にふれこのテの企画を組んでいけば、いつかは閉塞した状況に風穴をあけられるかもしれない。

 私は「買ってないもの」にケチはつけない。で、必然的に何かに言及するとしたら、自分が認めているものに対してさらに注文をつける形になってしまう。

 この性格が災いし、さんざん誤解されるわけだが、すべては愛あるがゆえである。「お前に愛されたかないよ」といわれてしまえば、それまでではあるが。

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ジョニー・デップとジュード・ロウ―― 「かっこいいけど性格俳優」の系譜

2005-04-13 00:47:45 | 映画


 ジョニー・デップの爆発ぶりを見ていると「かっこいいけど性格俳優」な時代がきたんだなあ、と実感させられる。

 その系譜を紐解くと、ここ10年~20年の範囲なら元祖はまちがいなくカイル・マクラクランだ。デヴィッド・リンチが好んで彼を使ってることでもそれは証明されている。

 カイル・マクラクランは「Dune 砂の惑星」(1984年)で印象に残り、当時ひそかに脳内メモしておいた役者だった。

 その後、彼のややこしいキャラをそっくりそのまま映画にしたような作品である「ブルー・ベルベット」(1986年)、バツグンの出来だった「ヒドゥン」(1987年)と続き、世間的には「ツインピークス」(1990年)で人気が一気に炸裂することになる。

 ところがこの人の最高なところは、売れたからといってヒュー・グラントが出るような一般ウケするラブコメあたりに出たりしないところだ(いやヒュー・グラントもすばらしいよ。「すばらしさ」の切り口がちがうだけで)。

 や、実際、「ツインピークス」で当てたあとのカイル・マクラクランの作品が、リブ・タイラーあたりと組ませてこんなふうになっていたってちっともおかしくはない。

 マクラクラン&タイラーが恋人たちに贈るハートウォーミング・コメディ「恋のチャンスは電話から――いつもあなたにダイヤルイン」

 ところがカイルは決してそうならない。するとそこから導かれる法則は……。

■カイル・マクラクランの定理

「カイル・マクラクランはヘンな作品にしか出ない」

 彼はヘンな作品、もとい、おかしな作品、ううん、「個性的」な作品にしか出ない。いや単に話がこないだけかもしれないが、私の勝手な想像では彼はポリシーをもってるんだと思う(んー、ハリウッドはそんな甘い世界じゃないかなあ)。

 映画俳優がダメになるパターンってのは厳然と存在する。なんかの作品でイッパツ当てると、本人のキャラとは無関係に2匹目、3匹目のどじょう狙いな企画が殺到する。その典型が大向こうウケする売れ筋狙いのラブコメだ。

 で、やってくる企画を次々に受けてるうちに、もともとの持ち味がなんだったのかワケわかんなくなっちゃう。自分自身も、観客も。かくて業界はその俳優を使って一定の利益をあげて、えっへっへ。一方、すっかり消費された俳優本人は、擦り切れてあえなく消えていく。

 業界から見たら、彼が消えようがどうしようが利益さえあがりゃ、んなこたカンケーない。代わりはいくらでもいるんだから。

 カイル・マクラクランはこのパターンに、はっきり「No」と言ってるのである(勝手な想像)。

「おれはシナリオを読んで、自分がおもしろいと思った作品にしか出ないぜ。金? そりゃいったいどこの世界の話だい?」(私の「脳内マクラクラン」)

 いいねえ、あんた。いいよぉ。かっこよすぎだよ。

 私はそんな彼を、地獄の底まで支持するつもりだ。このブログの1回目で書いたジョン・ウェットンがあんなふうにフヌけていったのに対し、彼は好対照であるといえる。

 とにかく私はマクラクランが出た作品はもれなく観るし、おヒネリも投げる。機会さえあれば、何かに書いて微力ながらパブリシティもしちゃう。みんなぁ、「ルート9」(1999年)を観てやってくれよ。たのむよ。絶対ソンしないからさ。

 ああ、また前フリがすっかり長くなっちゃった。

 で、そんな「かっこいいのに性格俳優」な系譜を継ぐのが、ジョニー・デップなんである。

 みなさん、彼のデビュー作ってなんだか知ってます? 「エルム街の悪夢」(1984年)ですよぉ。

 まあデビュー作というのは「とにかく何でもいいから出たい」ってのがあるだろうから、参考にはならない。が、彼のその後の出演作を見ていると、やっぱり本人の意図が感じられる。象徴的なのは初ブレイクした「シザーハンズ」(1990年)だろう。

 彼は超メジャーになったため、いまやファン層がはっきり2分している。パターンその1は、「きゃー、かっこいぃぃ。ステキ。ジョニー好きぃ♪」な方々(もちろん他意はない。楽しみ方は人それぞれだ)。

 かたやパターンその2は、「おれは屈折した役を演じるジョニーが好きなんだ」って偏屈な人たちである。

 たとえば私の場合、彼の出演作でいちばん好きなのをひとつあげると、圧倒的に「エド・ウッド」(1994年)だ。

 1950年代に“史上最低の監督”といわれたエドワード・D・ウッド・ジュニア。彼はいつも「ヘンな思いつき」にこだわり、熱をあげている。

 で、そんな自分の思いを人々に伝えようと、「自分がおもしろいと思うこと」をまんま映画にするんだが、さっぱりウケない。だってヘンなんだもん。

 それを理解できる人ってね、地球人口の20%しかいないんだよ。残りの80%はごくごく平凡で当たり前な人たちなの。で、この80%に支持されることを俗に「売れる」という。そして平凡な80%にウケるてっとり早い方法が、前述の通り「ラブコメ」である。

 ただし方法はある。エド・ウッド本人みたいに剛球一直線な方法じゃなく、ティム・バートンが「シザーハンズ」で使った手法だ。根っこになってるのは「ヘンな思いつき」ではありながら、人をひきつけるための切り口を工夫し、わかりやすい味つけをする。

 すると一部の人にしか支持されない剛球じゃなく、80%の人たちにもおもしろいと思わせる「大リーグボール」(古いよ)になる。

 ヘンなことを思いつくのは「才能」だ。だが加えてティム・バートンみたいに、それを売れる物にアレンジする手腕はプロの「技術」といえる。プロはどっちも兼ねそなえてなきゃだめなのだ。

 それはともかく。

 この「エド・ウッド」が熱いのは、製作者の思い入れが感じられるからである。監督のティム・バートンは、「こいつ(エド)はまったくおれ自身だよ」って思ってる。そう考えたのが製作の動機だ。

「あんたの気持ちはよくわかるよ、エド」

 そしてジョニー・デップもおそらく同じことを感じてる。

 スクリーンを通してそんなヤツらの熱さと思い入れ、エド・ウッドに対する愛が伝わってくる。映画でも文学でも音楽でもなんでもそうだけど、こういう「念」は作品を通して届くんだよね。それが人の心に刺さるんだ。

 たとえば人と同じようにピアノの鍵盤を叩いてるんだけど、グレン・グールドはあきらかにほかのピアニストとはちがう。

 使ってる楽器はもちろんただのピアノだし、音を出す道具が「指」なのもほかのピアニストと条件は同じ。でもグレン・グールドが鍵盤をなでる1打、1打には、平凡な表現だけど魂がのっかっちゃってる。だから彼のCDはいまこの瞬間にも、衛星に載って宇宙を飛んでいるのである。

 ん、また話がそれてるな。こんなふうに書いてるうちに第2、第3のポイントが湧き上がってきて、それをまんま書くから私の原稿はいつも長くなっちゃう。そこで頭のいいヤツは「2回に分ける」んだよ、2回に。そしたら原稿料が2倍もらえるじゃないか。

 なんの話だっけ? ああ、デップの出演作だ。

 ほかには「ニック・オブ・タイム」(1995年)にも参った。この作品はとにかくシナリオが抜群にいい。ただしデップはごくふつうの「おとうさん」を演じてて、別に彼じゃなくてもこの映画は成立するわけではあるが。

 てなわけでハジからあげたらキリがないけど、カンタンに私が観ておもしろかった彼の出演作を開陳しよう。

 かつてマフィアを摘発しまくった実在のFBI潜入捜査官、ジョー・ピストーネを題材にした実録物「フェイク」(1997年)。こいつもピカイチだった。このピストーネはいまもマフィアに50万ドルの懸賞金を掛けられたまんま、引退し隠れて生きてる。映画のモトになってる実話自体がとんでもないのだ。

 映画では分厚い「物語エネルギー」で人間ドラマに仕立てているが、この物語エネルギーはちょっと前に私がツボったソダーバーグ監督の「トラフィック」(2000年)にも共通している。第73回アカデミー賞で最優秀監督賞を取った作品だ。とにかくベニチオ・デル・トロが最高です。トロけます(おい)。

「ラスベガスをやっつけろ」(1998年)は、マイフェイバリット監督のベスト5に入るテリー・ギリアムだったんで期待したものの、見事にコケました。ええ。

 が、続く「GO! GO! L.A」(1998年)はすばらしい出来だった。監督は同様にマイフェイバリット監督ベスト5のカウリスマキだ。たのむからみんなコレを観てくれよ、って感じ。作品全体はもちろんだが、ヴィンセント・ギャロがめちゃんこいい味出してて、あの演技だけでも観る価値はある(とキッパリ断言)。

「ショコラ」(2000年)もハートウォーミングでまあ印象に残った。ただしこれは映画そのものより音楽がよかった。あの映画でデップがジプシー音楽を演奏するのを観て、「これいいなあ」と角度のちがうハマり方をしちゃった。

 で、第2のジャンゴ・ラインハルトとか言われてるらしいチャボロ・シュミットのCD「ミリ・ファミリア」を買ってきて、一時は毎日ずっと流してました(このCD、マジおすすめです)。

 ちょっと変わったところでは、ギリアム好きじゃなきゃおもしろくもなんともないであろう「ロスト・イン・ラ・マンチャ」(2001年)も感慨深かった。

 これはギリアムが作るつもりだった映画が流れ、ボツになるのを刻々と記録したドキュメンタリーだ。大雨でセットが流されるシーンを見て、「ギリアムの夢が流れていくなあ」と無性に悲しかった。ああ、いとしの我がギリアムは立ち直れるんだろうか……。非常に心配だ。

 最後に「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」(2003年)も理屈抜きに楽しめるエンターテインメントである。この映画でもデップはふたクセある海賊を演じ、実にいい味を出している。

 さて駆け足でデップの作品群にふれたが、このうちデップじゃなきゃ成立しない映画は実はそれほど多くない。それだけ彼がメジャーになり、ふつうの役どころも演じてるってことだ。

 じゃあ、マクラクラン、デップと続く「かっこいいけど性格俳優」の系譜を継ぐ者はだれか? もちろんジュード・ロウに決まってるじゃないか。

 彼は「真夜中のサバナ」(1997年)みたいなクソにも出てたりして、デップほど「ハズさない度」は高くない。けど、この人、役にハマると観てる人間がフリーズしちゃうほど鬼気せまるモンがある。

 出演作で3本だけおすすめをあげると、「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)、「イグジステンズ」(1999年)、「スターリングラード」(2000年)だ。

 クローネンバーグ監督の「イグジステンズ」は、彼お得意のヘンてこりんな小道具を主役にした作品である。

 人間の脊髄にイグジステンズって呼ばれるゲームを接続し、バーチャルリアリティな悦楽的遊戯に興じる世界に引きずり込まれる主人公を描く。シナリオがよく、一気に物語世界にひっぱりこまれてラストまで突っ走っちゃう。

 お次の「スターリングラード」は、「薔薇の名前」「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のジャン=ジャック・アノー監督作だ(どっちもサイコーの映画だったでしょ? この監督さん、優秀だよ)。

 主人公は、第二次大戦中に実在した伝説の狙撃手(スナイパー)である。ヨーロッパ最大の激戦地だったスターリングラードを舞台に、極限状況に置かれた人間はいったい何を考え、どうなってしまうのかをテーマにした戦争ドラマだ。

 さてトリは真打、「ロード・トゥ・パーディション」である。この作品、ジュード・ロウはホンの脇役でちょいと出る程度なんだが、これがいいんだなあ。あのジュード・ロウのガイキチぶりには、まったくシビレさせられた。

 彼は暗殺者を演じてるんだけど、これがタダの悪役じゃない。でっかいカメラを持ち歩き、人を殺すたんびに射殺現場を写真に撮るのを無上の楽しみにしてる。ま、異常者ですな。で、この破綻した人格を表現するロウの演技がとびきりいい。死に方まで最高だった。

 これまであげた3作の中では、彼の真骨頂がいちばん出てるのがこの作品だと思う。ジュード・ロウでなきゃ絶対、こんなふうにはならないもの。

 私の個人的希望では、彼は「コールド マウンテン」(2003年)みたいな映画に出るのはもうやめて(笑)、こういう役ばっかりやってほしいな。カイル・マクラクラン風にね(傍観者だから勝手なことばっかり言う)。

 さて。はたしてジュード・ロウは今後、マクラクラン系の割り切り方をするのか? それともジョニー・デップみたいにいろんな作品群に出ながらも、それぞれに自分の味を出していくのか?(でもこれってかなりむずかしい芸当だ)

 あるいは人気が出ちゃってもうどうでもいいような売れセン作品に出まくったあげくに、堕ちていくのか? 映画ファンとしては大いに気になるところだ。

 ジュード・ロウよ、ハリウッドの罠にかかって自分を見失うんじゃないぞ。しっかりやれ(命令)。

-----------【本文中に使った作品のデータ集】--------------

※「★」は、私の独断と偏見によるおすすめ度。
取り上げるに値する作品しか出してないから当然平均点は高い。
5段階評価でござんす。

●「Dune 砂の惑星」(1984年) ★★★★ 

監督:デヴィッド・リンチ
出演:ホセ・ファーラー、マックス・フォン・シドー

●「ブルー・ベルベット」(1986年) ★★★

監督:デヴィッド・リンチ
出演:イザベラ・ロッセリーニ、デニス・ホッパー

●「ヒドゥン」(1987年) ★★★★

監督:ジャック・ショルダー
出演:マイケル・ヌーリー、エド・オロス

●「ツインピークス」(1990年) ★★★

監督:デヴィッド・リンチ
出演:マイケル・オントキーン、シェリル・リー、ジョアン・チェン

●「ルート9」(1999年) ★★★★

監督:デヴィッド・マッケイ
出演:ピーター・コヨーテ、エイミー・ロケイン

●「シザーハンズ」(1990年) ★★★★

監督:ティム・バートン
出演:ウィノナ・ライダー、キャシー・ベイカー

●「エド・ウッド」(1994年) ★★★★★

監督:ティム・バートン
出演:マーティン・ランドー、サラ・ジェシカ・パーカー

●「ニック・オブ・タイム」(1995年) ★★★★

監督:ジョン・バダム
出演:クリストファー・ウォーケン、マーシャ・メイソン

●「フェイク」(1997年) ★★★★★

監督:マイク・ニューウェル
出演:アル・パチーノ、マイケル・マドセン

●「ラスベガスをやっつけろ」(1998年) ★★

監督:テリー・ギリアム
出演:ベニチオ・デル・トロ、キャメロン・ディアス

●「GO! GO! L.A」(1998年) ★★★★★

監督:ミカ・カウリスマキ
出演:デヴィッド・テナント、ヴィネッサ・ショウ

●「ショコラ」(2000年) ★★★

監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ジュリエット・ビノシュ、ヴィクトワール・ティヴィソル

●「ロスト・イン・ラ・マンチャ」(2001年) ★★★

監督:キース・フルトン
出演:テリー・ギリアム、ジャン・ロシュフォール

●「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年) ★★★★

監督:ゴア・ヴァービンスキー
出演:オーランド・ブルーム、キーラ・ナイトレイ

●「イグジステンズ」(1999年) ★★★★

監督:デヴィッド・クローネンバーグ
出演:ジェニファー・ジェイソン・リー、

●「スターリングラード」(2000年) ★★★★

監督:ジャン=ジャック・アノー
出演:エド・ハリス、ジョセフ・ファインズ

●「ロード・トゥ・パーディション」(2002年) ★★★★

監督:サム・メンデス
出演:ポール・ニューマン、タイラー・ホークリン
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12年ぶりの来日公演~ジェスロ・タルをめぐる音楽業界の魑魅魍魎

2005-04-12 19:31:39 | 音楽

※フルートを吹き狂うイアン・アンダーソン@ジェスロ・タル in ワイト島

 いやはや、すっかりダマされるところだった。何がって、ジェスロ・タルのDVD発売をめぐる音楽業界の巧妙な仕掛けの話だ。

 ジェスロ・タルは、1968年にデビューしたイギリス出身の古参バンドである。イアン・アンダーソンなるおっさんが率いている。日本ではあんまり知名度がないが、好きなやつは思いっきり好き、どちらかといえばマニア受けするバンドだ。

 私は高校1年のとき、1971年にリリースされたアルバム「アクアラング」で彼らの音を初めて聴き、一発でやられた。それからというもの、もう高校時代は毎日ジェスロ・タルのアルバムを聞いてすごしたものだ。

 じゃあいったい、そのジェスロ・タルの何がどうしたのか?

 前回のブログ『「韓流」がいつも1面トップの新聞なんていらない』を書いたとき、ジェスロ・タルについてちょっとだけふれた。で、ついでに何の気なしにちょっと検索してみたのだ。「ジェスロ・タル」とグーグルに入れて。

 そしたらなんたることか。まったくすごい偶然なのだが、なんと彼らが今度12年ぶりに来日し、5月に東京・渋谷公会堂でコンサートをやるという。

 しかもこれまた激しく偶然なんだが、5月12日の公演では、彼らは「あのアクアラング」の収録曲を特別に「全曲」演奏するっていう。前述の通り、「アクアラング」は私の高校時代そのものだ。ユーミンじゃないが、「あ~なたはぁ~、わ~たしのぉ~、青春そのものぉ~♪」である。ええ、私は叫びましたとも。

「おおっ? まじかよぉおい。ぜったいにっ、行かなきゃ」

「イアン・アンターソンはもう爺さんだから、これを逃したら生で見る機会なんてないぞ。なんせあとは寿命で死ぬだけだからなぁ」

 すっかり頭に血がのぼり、速攻でウドー音楽事務所に電話してチケットを取りましたとさ。S席・8000円だ。

 で、有頂天になってさらに検索していると、またもやとんでもない発見をした。ジェスロ・タルが1970年にあのイギリスのワイト島でやったライブが、なんとDVDで発売されるっていうじゃないか。リリースされるのは4月27日らしいから、もうすぐだ。


※ジェスロ・タル in ワイト島

「うわぁー。これも、ぜ・っ・た・い・に・っ、買わなきゃ!」

 1970年のワイト島っていろんなバンドが出てたんだけど、とにかくどのバンドの演奏もとんでもない。全体にえらいテンションが高く、もうサイコーなフェスティバルだった。


※ザ・フー in ワイト島

 ただし私がもってるのはコンサート全体を収めたビデオと、このときの「ザ・フー」のビデオだけだ。ワイト島フェスティバルはミュージシャンの権利関係がややこしく、フィルム自体が長いことお蔵入りしてた。だからそれにちなんだ商品があんまりリリースされてないらしい。

 もしこのコンサートで演奏した「フリー」のDVDが出たら、私はもちろん買う。「マイルス・デイビス」のが出ても買う。もうなんでも買っちゃう「禁治産者状態」である。


※フリー、てかコゾフ in ワイト島


※マイルス in ワイト島

 や、それはともかく。ジェスロ・タルがきっかけで、もう目の前に出てくるモンはなんでも買っちゃうありさまな私。もううれしくてうれしくてしかたがない。

 がっ、しかし。ちょっと時間がたつうちに、だんだん背後に存在する「あるシステム」に気づき始めた。よく考えてみるとDVDの発売が4月27日で、東京公演が5月11日と12日なわけでしょ? てことは彼らが来日したのって……。

 DVDをプロモーションするためじゃんよ。

 で、さらにアマゾンにアクセスし、くだんのDVDについて調べてみると……。驚愕の事実が発覚した。

 日本でリリースされるDVDは4月27日付で、「予約受付中」になっている。人間、「まだ買えない」ってわかると逆に「どうしても欲しくなる」ものだ。で、実際、私も「予約しちゃおかな」とか考えてたわけ。

 ところが笑ったのは、アマゾンが宣伝のためにやってる「仕組み」が私の熱をさましちゃったことだ。どういう意味か? 

 私はアマゾンにユーザ登録してある。だからブラウザでサイトにアクセスすると、(たぶんクッキーを使って)私がアマゾンで最近検索した履歴がぜんぶ出る。

 一方、アマゾンはこれらのデータをもとに「コイツはこういう商品に興味があるんだな」と目星をつけ、類似の商品を「おすすめ商品」として自動的に画面に出して宣伝する仕組みになっている。

 で、例の4月末に日本で発売されるDVDの「類似商品」として、すでに海外では発売されてる「まったく同じDVDの輸入版」まで画面に表示されちゃったんだ。自動的に。いやあ、驚いたねえ、まじで。なんでかって? だってさ、

 日本版は定価が「4,935円」なのに、輸入版はなんと「1,708円なんだぜ(価格は4/12現在)

 しかも輸入版はすでに発売されてるから、中古だと「1,393円」(同)で買えちゃったりするわけだよ。

 俺をなめてんのか? >音楽業界

 音楽業界の流通の仕組みはよく知らないけど、どこをどうやったら「1,708円」で買えるモンが「4,935円」になっちゃうわけ? 日本の消費者をバカにしてるだろおまえら(誰に言ってるんだ?)

 これじゃあさ、「ファイル交換ソフトによる商品の流通は著作権侵害行為だ」とかいくら言っても、ぜんぜん説得力ないじゃん。や、だから著作権侵害してもいいって意味じゃないよ。けど、心情的に「冗談じゃないよ」ってなるでしょ、ふつう。「まあ、ファイル交換するヤツの気持ちもわかるわな」で終わりだ。だって「サギ」じゃんよ、こんな値段は。

 輸入版との差額が、「3,000円以上」もあるんですよ?

 おまけにもうひとつ追加すると(まだあるのか?)

「これを機会に儲けよう」ってんで、東芝EMIが例のアルバム「アクアラング」をどうやらリバイバル発売しようとたくらんでるらしい。で、こっちは「4月13日発売予定」になっている。もうね、みーんな、セットになってるわけ。「アレを買ったら、コレも買わせて」って業界側の仕掛けが。

 業界から見たら、そざかしハマった人を笑ってるんだろうなあ。「またバカが食いついたよ。入れ食い状態で笑いが止まらねえぜ。へっへっへ」とか言って。

 ん? まてよ。

 おいおい、ひょっとしたら5月12日の公演だけ特別に、ジェスロ・タルが「アクアラング」の収録曲を全曲、演奏するのって……。

 ひょっとしたら東芝EMIと、なんかウラ取り引きがあったんじゃないのか?

東芝EMI「イアンさん。いやね、今度ウチで『アクアラング』を売り出そうと思ってるんですがね。へへ。でね、モノは相談なんですが、来日したら1日だけ『アクアラング』DAYみたいな日を作るってのはどうですかねえ? ほら、たとえばその日だけは、このアルバム中心の選曲にするとか。や、もしやってもらえたら、ウチとしては宣伝になっていいんですがねえ、へっへっへ」

アン・アンダーソン「ふむ。それ、僕たちのアルバムの宣伝にもなっていいよね。バンドもトクするし、お宅らもウハウハ、と? 東芝EMIはん、あんさんもごっつうワルでんなあ。ふぉっふぉっふぉっ」

 イアン・アンダーソンがそのとき果たして大阪弁を使ったかどうかは定かじゃない。だがこんな会話を妄想し、すっかりトドメを刺されました私は。業界のどす黒さに。「俺の青春が日本に来る」ってんでせっかく有頂天になってたのに。

 8,000円も出してコンサートのチケット買ったけど、なんかよろこびが半減しちゃったよ。

 どうしてくれるんだ? >ウドー音楽事務所

 前にブログでメディア・リテラシーについてふれたとき、すべての情報には「必ず意図がある」と書いた。要はこういうことなのだ。

 来日公演にはDVDを売ろうって業界側の意図がある。すでに海外じゃ破格値で売られてるDVDを、日本ではバカ高い値段つけて予約受付するのも、プレミアム性をつけて確実に売ろうてな意図だ。

 しかも真偽の程は不明だが、東芝EMIはこの騒ぎに便乗し、CD「アクアラング」をリバイバル発売して儲けようなんて意図をチラチラさせてやがる。

 これってさ、コアなファンの人はみーんな買っちゃうよ、まじで。実際、私も買おうとしてたし。消費者はこういうテで乗せられて搾り取られちゃうんだよねえ、なけなしの金を(まあ好きなモンに使うんだからいいんだけどさ)

 しかし正直なところ、私自身はDVDの輸入版が「1,708円」で売られてるなんて知りたくなかったよ。

 それさえ知らなきゃ、素直に彼らの戦略にハマってすべての商品を買い、ああトクした。幸せだって気分でいられたのに。これについてはアマゾンにすべての責任がある。ぶち壊したのはアマゾンのクッキーだ。

 俺の青春を返せよな >アマゾン

【追記】(4/21付)

今日、渋谷のHMVへ行ったら、なんとワイト島のマイルスのライブがモニターに映し出されてた。DVD、出てたのね(^^; びっくりして店員さんに調べてもらったら、やっぱりワイト島のライブでDVD化されてるのはザ・フーとマイルスだけらしい。ジミヘンは出てたけど、廃盤になったとか。意外だ……。でも出せば売れそうなのになあ。フリーとか(笑)

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「韓流」がいつも1面トップの新聞なんていらない

2005-04-07 00:23:07 | メディア論
 人気ランキングで上位のニュースだけ流す。あとのニュースはただのゴミだ――。ほりえもんさんは、ジャーナリストの江川紹子さんにこんなことを言っていた。だから以前、私はブログで「彼は矛盾している」とだけ書いた。

 つまりこういうことだ。

 そもそもインターネットがおもしろいのは、品揃えが徹底的な「専門店型」だからだ。途方もない数の人間がネットにつながっていて、その1人1人が自分の興味あること、自分が専門的に語れることを情報発信してる。

 たとえばサッカー・アルゼンチン代表のユニフォームの「袖だけ」を見て、「これは○年に開かれたW杯『○○大会』でアルゼンチン代表が採用したユニフォームだ」なーんて即答できるオカルトな人が世の中にはいる。

 そんなやつが自分のウンチクをこれでもかと振り絞り、だれも知らないマニアックなサッカー・ネタをウェブ・サイトで開陳する。これって興味のない人にはおもしろくもなんともない。だけど「わかる人」が見れば、狂喜乱舞するコンテンツだ。

 かと思えば音楽の分野でも、こんなやつがいるだろう。彼はジェスロ・タル(イギリス出身の古いバンド)マニアで、世界に流通してる彼らの音源をほとんど聞いてる。もちろん非公式なものまですべてだ。

 で、ジェスロ・タルが1968年に結成して以来、ベストなライブは○年に出た「○○」という海賊版だ、その中の3曲目がベストテイクである、てなことをねっとりとサイトに書き連ねる。

 しかもそのページにはデビュー以来、ブートレッグまで含めたアルバム「ベスト10」の表かなんかがついちゃってる。これもサッカーの話と同じだ。おもしろいと思わないやつは鼻もひっかけない。でも好きなやつはそれこそ徹夜で読んでしまう。

 ネットのおもしろさはまさにコレでしょう。いろんなコア人間がいろんなことを勝手にやってる一種のカオス。ひとつひとつの「お店」がその分野に特化した専門店になっている。

 ひとつのサイトにいろんなものが揃ってる「百貨店型」だと、ひと通りのものは見られるかわりに深みがない。1コンテンツあたりの情報の深度がどうしても浅くなる。でもコアな人が作るコアなサイトは、情報だってコアになる。もうコアの3乗だ。

 おまけにヤツらは商売でやってるわけじゃないから、「みんな」に支持される必要はない。ネット人口全体の0.005%の人にウケればそれでいい。

 たとえばAというコアな映画サイトがあったとしよう。ここにはいつも1日に5人しかアクセスがない。でもAを訪れる5人は全員、超がつくようなマニアばかりだ。で、5人はいつもサイトのデキに満足し切って帰っていく。

 こんなふうにネットはいろんなものがごった煮になってるところがおもしろい。

 さてほりえもんさんといえば、そんなネットの申し子みたいな人物だ。なのに彼が作るらしい新聞は、人気ランキングで上位のニュースしか流さないっていう。

 すると何が起こるのか? 毎日毎日、「韓流」のニュースが1面トップだよ、その新聞って。極端にいえばね。そんな媒体、私だったら見る気も起こらない。「みんなに人気があること」、「世の中の最大公約数にウケるネタ」なんて情報としてまるでつまらないもん。

 まあ「つまる人」もいるんだろうから、商売にはなるかもしれないけれど。

 ところがジャーナリストの江川さんや筑紫さんをはじめとする勢力は、こんな論法でほりえもんさんの考えに異議を唱える。

「たとえ人気はなくても、世の中には『伝えるべきこと』がある」

「人気がすべてじゃない。大事なことは小さなことでも伝えるという使命だ。そういうジャーナリストの『志』や『矜持』が大切なんだ」

 いやね、私は同業者だから言いたいことはわかるけど、こんなレトリックじゃ一般の人にはちっとも説得力ないよ。自分たちはジャーナリストだから「志」とか言ってリキみ返ってるけど、普通の人が聞いたら「あんた、なに様?」って感じでしょ。

 そうじゃなくて。「だれにでも人気がある情報」なんて、「おれ」にとってはちっともおもしろくないよ。おれはユニフォームの「袖だけ」を見て、それがなんだかわかるヤツが書いたニッチな話が読みたいんだ――こういうことなんじゃないの?

 だってタダでさえメディアは売れるものを作ろうとして、現状でも人気ランキングに頼ってるわけじゃない? 結果、雑誌も新聞も似たような造りになっている。

 2月になったらどこも「バレンタインデー特集」やってるし、4月になれば今度はあちこちで「お花見特集」が満開だ。ああ、うんざり。

 なのにそこへほりえもんさんが言うような造りの新聞がひとつふえても、「有象無象」がまたできるだけだ。

 そうじゃなくて、時代は「専門店型」だと思うけどな。「みんな」にウケるものじゃなくて、ある程度ターゲットを絞り込み、でもそれが好きなやつには100%、熱狂的に支持される、みたいな。

 そのほうが内容的には絶対おもしろくなるはずだ。

 ただしこれだとターゲットになるパイが小さいだろう。だから利益もあんまり出ないかもしれない。ゆえにコストはかなり絞って、少数精鋭でやんなきゃダメかもしれない。

 小所帯で小回りがきき、ビリリと冴えた集団が「限られた人たち」だけにモノを売る。そのかわりいろんな分野ごとにスペシャリスト集団がたくさんできて、専門店を次々にオープンしていく。

 そういう世の中のほうが、私はエキサイティングだと思うけどなあ。
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日本に「ゲシュタポ」を作ってどうする? 人権擁護法案が招く暗黒の世界

2005-04-06 02:13:24 | 社会分析
 おい、みんな。おキラクにネットなんかしてる場合じゃないぞ。何がって、今、とんでもない法律がまかり通ろうとしてるんだよ。政府が今国会に再提出を目指してる「人権擁護法案」のことだ。

 といわれても「なにそれ?」って人も多いだろう。で、まずはこやつの骨子と、問題点をカンタンに整理してみよう。

◆5人の人権委員会、人権擁護委員2万人からなる組織が、「この行為は差別だ」と独断でジャッジしたら罰則が下される。

⇒そもそも、いったいだれが委員になるのかが不明。「差別」の基準もあいまいで、いくらでも拡大解釈できる。人権委員会は差別と決めたらもうナンでもアリ、いわば「神」の集団である。これにより、あらゆる芸術活動、言論活動が萎縮する可能性がある。

◆人権委員会は、人権侵害、および「人権侵害を誘発・助長する恐れ」のある発言や出版などに対し、調査する権限を持つ。人権侵害が疑われると、委員会は該当者を出頭させることができる。

⇒あやふやな基準で「差別」と疑われ、調査されたり出頭させられる。

◆委員会は証拠品の提出や、立ち入り検査などの措置を取ることができる。委員会は「令状なし」で立ち入り検査まで行える。

⇒罰則を含む「措置」はなんと裁判所の令状もなしで、人権委員会の判断だけで行われる。警察でさえこんな権限はもってない。まさに超法規的集団である。一歩まちがえるとほかならぬ彼ら自身が、逆にとんでもない人権侵害を犯す可能性がある。

◆委員会はこうした措置に非協力的な人物に対し、罰則を課すことができる。たとえば「氏名等を含む個人名」を公表する権限がある。

⇒あいまいな基準でプライバシーを侵され、「差別者」の烙印を押されたあげく、名前を公知される。

◆差別と判断されて実は冤罪だった場合、人権委員会は訂正・謝罪する事はない。

⇒はぁ? ていうか、「差別者だ」と公に告知されたあとで、訂正なんかしてもらっても後の祭りだ。本人の名誉回復はとてつもなくむずかしい。

◆委員会をコントロール(抑止)する機関や法律がない。

⇒人権委員会が差別と判断したら止めようがない。たとえ組織が暴走したとしても「やりっぱ」である。

 これっていわば、「絶対にまちがえない正しい独裁者ならば、国の運命をまかせてもいいね」って論理でできてる法案なわけだ。チェック機構がないんだから。

 あるいはまた、被疑者を一方的に断罪する「セクハラ論議」とも共通してる。女性本人が「イヤだ」と感じさえすれば、すべてがセクハラ。片思いの好きな男性にされるんならいいけど、同じことをイヤな相手にされたらそれはセクハラ。

 なんでもかんでも「人権委員会」が独断で決める、この法案と似てないだろうか?

 さすがに自民党の中にも「これはヤバイ」と考える議員もいて、4月6日付の読売新聞によれば、総勢30人が法案に反対するための懇談会を設立したようだ。
 
 こんなのが可決されたら、まさに暗黒時代の到来だ。日本に「ゲシュタポ」を作ってどうしようっていうんだ?

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ライブドアのPJってマトモな人はいないの?

2005-04-05 17:18:06 | メディア論
 ご存知の通りライブドアでは、「パブリック・ジャーナリスト」(PJ)なるものを一般公募している。ところがこのPJ、掲げたコンセプトはまずまずなのに、関わっている人たちの言動がどうもあやしい。で、結局、「PJってなんだかうさんくさいな」てなイメージになってしまう。非常に残念である。

 PJには、もっとまともなことを言える人っていないんだろうか?

 たとえばPJの小田光康氏は4月2日付の「ライブドア・PJニュース」で、「『言論江湖』署名記事というPJの勇気【東京都】」と題してこう書いている。

『最近、「パブリック・ジャーナリスト(PJ)とブロガーの違いは何ですか」といった質問をよく受ける。(中略)それは、PJが勇気を持って署名記事で自身の存在を明かし、社会に向かって主張をしている点である』

 署名記事を書くという行為は、「勇気を持って」などとことさら強調しなけりゃならないほど「大変なこと」らしい。

 私事で恐縮だが、私は今まで雑誌にさんざん雑文を書いてきた。で、私の記事を無署名にしようとする編集者とは、必ずといっていいほどひと悶着起こしている。

 まあそれらのケースに関して言えば、原稿が無署名になるのは書いたページの体裁上、ハナから決まっていることだ。編集者にすれば、それを「署名にしろ」と言われても困るだろう。

 だがなぜ署名にする必要があるのか、私の主張はその都度述べてきた。で、現場のデスククラスじゃ決裁できないからと、編集長あずかりになったケースもある。こんなやつはサラリーマン編集者から見れば、まったく「めんどくさい人間」だろう。まあ私も年を取ったから相手の立場もわかるし、今ではもうそこまでやるつもりもないが。

 とはいえそんな私から見れば、「勇気を持って署名記事で自身の存在を明かし」てな理屈がサッパリわからないのだ。

 署名にし、「これは私が取材で得た結果であり、そこから導き出された私の言説である」と明示するなんて当たり前の話だろう。まあPJなるものは、そういうイロハから素人さんに教え込むものなんだ、ということならば了解ではあるけれど。

 また小田氏は同じ記事の中で、こうも書いている。

『匿名による誹謗中傷といったコメントやトラックバックの問題のとして(原文ママ)、それが、ネット上で社会に意見したい人々を躊躇させてしまう点だ。これでは表現の自由が保てない。実際、PJの方々からも、「署名入り記事を掲載すると、ネット上で罵倒されるのが怖い」といった意見が多く寄せられた』

 なーんだ。結局、「その程度の覚悟しかない人たち」の集団なのね、となってしまう。

 ところで小田氏は「ブログ時評」の団藤保晴氏と論争(といえるかどうかは疑問だが)をしている。この件について小田氏は、自身のブログ「私人的電脳日記」で、4月5日に「あとがきブログ時評批判」という一文を公開している。ちょっと長いが引用しよう。

『ライブドアのPJニュースについて論拠無き批判を繰り返している自称「全国紙の記者」(全国紙に記事が載らない記者は通常、全国紙の記者とは言わない)団藤保晴氏の論理破たんについて、不覚にも小生は理性を失いつつ、3回にも渡って殴り書きの批判を繰り返すという愚行を犯してしまった。
(中略)
 まあ、50歳を超えて受賞作どころか、本業で署名記事すら書けない輩の欲求不満の捌け口が、「ブログ時評」であることだけは、よく分かった。こんな輩を雇い続ける朝日新聞社の度量の深さには感嘆する。また、この先生の原稿を掲載しない朝日新聞には、ジャーナリズムの良心の残影を垣間見た』

 ちっともディベートになっていない。これではだれが読んでも、単なる誹謗中傷にしか見えないだろう。

 もっともこんなことを書くと小田氏から、「松岡というどこの馬の骨とも知れぬフリーの使い捨て100円ライターから、こざかしい批判があったが」などと罵倒を浴びせられそうで、とってもこわいわけだが。

 また同じ文章の中で小田氏はこうも書いている。

『ちなみに「ブログ時評」の事実誤認を挙げたらきりがない。例えば、ソニーに関して「ゲーム機や映画ソフトの儲けで食いつないでいる」と解説するが、ソニーの頼みの綱は今や金融業である。

 こんなことも知らずに、もっともらしくソニーの経営戦略にうんちくを語るのだから、無知の勇気とは恐ろしい。団藤氏への批判などは豚に真珠、思考の浪費そのものなのだ』

 もし「ブログ時評」に事実誤認が「山とある」ならば、なぜそれらをすべてあげないんだろう? そうした客観的な指摘をせずに、結局は「無知の勇気」とか「団藤氏への批判などは豚に真珠」なんていう主観的な罵詈雑言に終始している。

 小田氏はネット上にあふれる「匿名による誹謗中傷」を自分で批判していながら、「署名による誹謗中傷」なら許されるとでも思っているのだろうか? どうしてもっと建設的な議論ができないのか、残念でならない。

 一方、小田氏は同じくブログに掲載した「匿名で誹謗中傷する人々へ」(3月31日付)の中で、こんなことも書いている。

『なにやら、このブログの題名にもぐちゃぐちゃ言ってくる輩がいるが、名前を変更したのは、公に言いたいことはPJニュースや他の新聞・雑誌で、私的なことはここで、という線引きをしたためだ。
(中略)
だんどう氏(原文ママ)批判のあとがきは、削除したというより、操作を誤って消えてしまった、というのが実情だ。どなたか、あの文章を持っている方がこのブログに送ってくれれば、掲載します。アナクロな小生には、このブログを立ち上げるのさえ、一苦労だった』

 これだけでは、なにがなんだか事実関係がよくわからない。だが文脈から推測すると、どうやらくだんの団藤氏を批判した一文が、小田氏のブログ上から消えてしまったらしい。

「操作を誤って消えてしまった」というのだからその通りなんだろう。だが外から眺める傍観者たちには、こんな「イメージ」が残ってしまう。

「まちがえて消したって書いているけど……なんかちょっとなあ。なんのかんの言いながら、都合が悪くなるとブログの題名を変えたり、いったん書いた自分の文章を削除したりして、ちまちま立ち回ってる感じがするよな。信用できる人なのかなあ、この人は」

 事実関係がわからないから単なる「イメージ」にすぎないが、人間はイメージに大きく左右される生き物である。これでは小田氏にとってプラスにならないだろう。

 おまけに前述の文章から察するに、小田氏は公に他人を批判しようとしているのに、どうやらテキストエディタで下書きをしているわけでもなく、バックアップも取ってないらしい。ますます「信用できる人なのかなあ?」というマイナスイメージが補強されてしまう。

 一方、同じくパブリックジャーナリストである堀口剛氏は、自身のブログ「堀口剛のライブドア・パブリックジャーナリスト宣言」の4月2日付で、「署名記事というPJの勇気」と題する文章を公開している。こちらもちょっと引用しよう。

『ちなみに、このPJの場合、報酬は良くて1000ポイントです。しかし、金を多くもらったからといって、いい記事は絶対に書けないと思いますよ。そうなったら、賃金ジャーナリストさんになってしまう。そうなったらおしまいだ』

 私は堀口氏のこの言説に対し、ハッキリと批判しておく。「賃金ジャーナリストさん」とはいったいどういう意味か? ブロである以上、原稿を書いた対価をいただくのは当たり前だ。いい原稿を書いたら、そのぶん原稿料が上積みされたってちっともおかしくはない。

 私に言わせれば、堀口氏のような「銭金の問題じゃない」風のタテマエ的きれいごと、「武士は食わねど高楊枝」的なまったく意味のない「見せかけの立派さ」こそが、諸悪の根源だ。

 PJというのは何か新しいことをやろうとしてるらしい。だが関わってる人がこんな旧弊で頑迷な認識しかないのでは、そこから生まれてくるものだってどうせロクなもんじゃないんだろう、と思わせるに充分である。

 書く側にこんな低レベルのアマチュア意識しかないから、フリーランスで仕事をしている物書きのポジションや、当然プロに対して考慮されるべき保証(原稿料)が日本では向上しないんだ。

 私は匿名でものを言う輩とちがい、ブログのタイトルに自分の実名を掲げている人間だ。この件に関して何かもし反論があったなら、もちろん議論に応じるつもりだ。私を名指しで堂々と「あなたの意見はここがこうまちがっている」と批判してもらいたい。

 最後になったが、PJに対する私の個人的な考えを書こう。たとえばライブドアは「livedoor ニュース」の中で、「パブリック・ジャーナリスト募集」と銘打ち人々にこう呼びかけている。

『日本社会は高度成長期を経て世界の経済大国の仲間入りを果たしました。しかし、国民一人ひとりの豊かさへの実感はいまなお不十分です。一体それは何が問題なのでしょうか。そこで、livedoor ニュースでは、インターネットを活用したパブリック・ジャーナリストシステムを構築、それを通して生活の現場、仕事の現場から寄せられた生の声をお届けすることで、豊かさを感じさせない日本社会の問題点に光を当て、それらを一つひとつ解決に導いていく一助になりたいと考えています』

 なるほど、なかなかいい着眼点だ。このコンセプトにもとづいて、「国民を幸福にしない日本というシステム」を徹底的に検証する記事が、ガンガン上がってくれば見物である。現状、そうなっているのかどうかはさておき、ポイントはやり方の問題だろう。

 せっかく新しいことをやるんだから、大新聞と同じ土俵で、同じフレームワークに乗って活動するんじゃ意味がない。

 たとえばPJが力を発揮するとしたら、それは日常生活に潜む「ちょっとした違和感」や「ちょっとした不安」、「ちょっとした不服」、「ちょっとした輝き」を切り取ってくるときだろう。

 身近な町の話題でもいいし、自分の生活感を通して見える日本の姿でもいい。PJからたくさんの「ちょっとした」が発信されれば、人を動かす点火装置になりそうな気配がする。

 とまあ、そんな淡い期待を抱きつつ……。でも前述のような関係者たちの言動を見ていると、「どうもアテがはずれそうだなあ」とも思う今日このころである。

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自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋

2005-04-04 00:19:28 | エッセイ
 前回は「自分探し」に明け暮れて、人生も脳もおかしくなっちゃう人がこの20年ほどふえている、って話をした。「目標をもつべきじゃない平凡な普通の人たち」なんて挑発的な書き方に、「オレのことかよ」と怒り心頭の人もいるだろう。だがまあ、ちょっと落ち着いてほしい。

 物書きなんてのは一種の「作話師」なんだから、そんなやつの言説をまに受けて怒るなんてエネルギーのムダだ。

「松岡ってやつはこう書いてるけど、実は別の意味があるんじゃないか?」

「こいつはわざと煽ってるんじゃないか?」

 てなぐあいにメディアリテラシーを働かせてほしい。私は手を変え品を変え、思考実験を仕掛けている。「自分が思ってること」をストレートに書いているとは限らない。なのに書いてあることをまに受けるのはとっても危険だ。何回か前に説明した通りね。

 で、書きっ放しじゃナンなので、自分探しから抜け出せない人のために処方箋も書いておこう。もちろん「答え」は自分の頭で考えるものだ。だから今から書くことは何かのヒントになればいい、程度の気持ちで読んでほしい。

 結論からいえば老子を読みなさい。ちゃんちゃん。

 うむ。これでおしまいにするのもまずいな。もうちっと説明しよう。

 たとえば家が魚屋さんをやってるA君がいるとする。自営業だからA君が家業を継いで魚屋さんになるのは規定路線だ。親にとっては「想定内」である。だがまだ20才の彼にはどうしても納得できない。他人に自分の人生を決められるのもイヤだし、そもそも家業に魅力を感じない。

「魚屋なんてダセエ商売なんかやる気ないよ。オレはオレのやりたいことをやる。東京に行ってミュージシャンになるんだ」

 ミュージシャン目ざして試行錯誤する過程が、彼にとっての自分探しなわけだ。

 こうしてA君は上京し、フリーターをしながらバンドに明け暮れる毎日を送る。だが世の中はなかなかにキビシく、彼のバンドは認められない。自分では最高の曲を作ってるとしか思えないのに、まったく反応がない。そこでA君はこう考える。

「世の中はオレの才能を見分ける目をもってない。悪いのは世の中だ」

 かくてA君は華やかなアーチストとして酒池肉林の生活を送る「理想」と、4畳半ひと間で毎日ラーメンをすするちっぽけな自分=「現実」のギャップに、いつも悩まされることになる。

 自分には輝くような音楽的才能があるのに、周囲に認めてもらえない。なぜだ? なぜなんだ? 現実の世界で自己実現できない自分。ちっぽけでつまらないオレ。満たされない自分に耐えられなくなっていく。いや、これは本当の自分じゃない。オレは絶対に否定するぞ。

 そんな自問自答をくり返すうち、5年もたてばA君は脳も人生もすっかりおかしくなっている。

「もしミュージシャンになれなかったら、オレの人生はゼロだ。まったく意味のないものになる」

 こんなふうに視野狭窄に陥って絶望し、自殺してしまう人もいる。冗談じゃなく、そういう人が今の世の中にはたくさんいるんだ。

 だが彼が30代の半ばにもなれば、だんだん考えが変わってくる。

 魚屋っていったい何者なんだ? それはオレを満たしてくれるのか? まったく考えようとしなかった可能性を考えてみる気になる。

 毎朝、早起きして朝日を浴びながらうまい空気を吸い、築地の市場で魚を仕入れる。仕入れはこの商売じゃ生きるか死ぬかの真剣勝負だ。彼は魚の目利きのプロフェッショナルとして、ずらりとならぶ商品を見る。で、「これは」と思ったものを買い付ける。

 店頭では毎日、近所のおばちゃんが声をかけてくる。

「Aさん、あんたんとこの魚はどれ買ってもおいしいねえ。あんたにまかせときゃ、安心だわ。毎日ありがとうね」

 彼はプロとして認められてる。だから自己実現できている。これって強烈な快感だ。しかも家にはホレた美人の女房がおり、5歳のかわいい娘がまとわりついてくる。目に入れても痛くない愛犬の新太郎もいる。

「こいつらのためにがんばろう。彼らのよろこぶ姿を見るのがなによりの楽しみだ」

 オレはなんでミュージシャンになろうなんて考えたんだろう? 結婚もせずに、たったひとりでささくれ立ち、心の空腹をずっと抱えてたなあ。本当にバカだったよ……。

 もちろんここにあげた2つのストーリーは、どっちの道が「正しい」なんて性質のもんじゃない。一種のサイコドラマにすぎない。

 20代のA君みたいにミュージシャン目ざして活動し、あげくに彼が飢え死にしたって世の中から見れば大いにプラスだ。

「就職=企業に頼るんじゃなく、自分の能力を売り歩く生き方もアリなんだ。今まで自分は就職するのが普通だと思ってたけど、そんな方法も許されるのか」

 A君の「死」によって、彼の生き方の思想は次世代に受け継がれる。彼と同じような同士たちの「無数の失敗と死」が澱のように降り積もり、やがては既成概念が崩れていく。新しい生き方が常識になる。社会革命とは、「多くの屍と多大なる失敗」の上にしか成し遂げられない。犠牲が必要なわけだ。

 フリーターという社会思想は、必ず多くの犠牲を伴う。だが人生を棒に振るフリーターたちが何代にもわたるうち、10年もたてば就職して企業におんぶに抱っこだった世の中の方がだんだん変わってくる。

 たとえA君は自分の人生を思うようにまっとうできなくても、長いスパンで国家単位、あるいは地球規模で見れば彼の死は充分に意味がある。

 こんなふうに改革の旗手として敵弾に倒れて死ぬのも、また一興である。だがその気になれば、A君は別の生き方もできる。それが稼業を継ぐ道だ。

 ひとつ言えるのは、20才だったA君は「家業を継ぐ」という社会システムに反発していたってことだ。そのため父親に意味のないレジスタンスを試み、ものごとを一面的にしか見られなかった。

 彼はとにかく「ぶっ壊したかった」んだ。くだんのほりえもんさんみたいに。

 20才当時のA君から見れば、魚屋さんって稼業は実に色あせていた。いったいそんなものになんの価値があるんだ? そんなふうに否定的にしか見られなかった。だが30代半ばのA君には、まったく新しい別の価値を伴って見えるようになっている。

 要は「ものの見方」の問題なのだ。「魚屋はダサイ」と直感すれば、そうとしか思えなくなる。だが角度を変えて眺めれば、見えなかったものが見えてくる。

「待てよ。魚屋になると、どんないいことがあるんだろう? ひょっとしたらオレを満たしてくれる何かがあるのかもしれない。それを探してみよう」

 こんなふうに視点を変えて考えれば、彼の人生はまったく変わる。「認知が歪んだ人」の目には映らないものがキャッチできる。

 練炭を買い込んでるそこのあなた。死ぬのは個人の自由だし、私は別に取り立てて止めようとは思わない。私だって小学3年のときに、あることがきっかけでさんざん人生について考えた。

「自分は何のために生まれてきたんだろう?」

 毎日思案し、でも答えが見つからなくて、もう自殺するしかないと思ったことがある。子供だからカッターナイフで腹を切ろうと計画してたよ。そんなもんで死ねるわけないのに。風呂に入りながら、「ああ、明日のこの時間には、おれはもう生きてないんだな」って思ったりした。

 でも時間がたてば、そんなもんはただの笑い話だ。だからあなたが「死ぬことしか見えない袋小路」にハマってる状況がとてもよくわかる。「それ」しか見えないんだよね? すごくわかるよ。

 でも、もし私が書いた20代のA君のエピソードを読んで何か感じることがあったなら、ちょっとだけ立ち止まって深呼吸してみてもいいんじゃないか?

 あなたはきっと、何か偉大なことを成し遂げようとしてたんだろう。とてつもなく高い理想を掲げて。私にはあなたの気持ちが痛いほどよくわかる。そして今はつらいだけの人生だ、と感じてるんだよね?

 でも人間の幸せは「世界一になる」ことや、「天才だ」と呼ばれることだけじゃない。かわいい奥さんの顔を毎日見られたり、子供をおんぶするのもちっぽけではあるが幸せの仲間だ。

 人はそんな小さな喜びを1つづつ束ね合わせて、「大きな幸せ」にすることだってできるんじゃないか?

 練炭に当たればあったまるでしょう。せっかく買ったんなら死ぬ道具にする前に、そいつで心をあっためてみたらどうだろう? で、ちょっと気持ちが落ち着いたら、視点を変えて自分の人生をもう一度よく観察してみようよ。 

 ほら。

「魚屋ってかっこいいなあ」と思えてきませんか?

【関連エントリ】

『人生をスルーした人々』

『自分探しシンドロームを超えろ』

『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
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「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん

2005-04-03 04:23:48 | 社会分析
「答えを教えてあげるよ」。結論を先に言えば、ほりえもんさんがオウムに近いのはこの一点だ。だから切込隊長の俺様キングダム「ライブドア騒動と、オウム真理教事件が構造的に酷似している件について」は微妙に空振りしてる。よせばいいのに、それ以外の枝葉もふくめて全部オウムに当てはめようとしてるからだ。

 たぶん切込隊長はこう考えたんでしょう。

「なんか似てるよな」

「よし。いっちょう、あいつをオウムに仕立て上げてやれ」

 たしかに切り口はいい線行ってるんだけど、でもこれって小林よしのりと同じ論理だよ(笑)。自分に都合の悪いヤツが出てくると、すぐ「あいつはオウムに近い」って話になっちゃう。それこそ酷似してるよねえ、小林よしのりと切込隊長は。逆にさ。

 例の言説の冒頭近くで、隊長はこう書いてる。

「※ 本稿はライブドアが犯罪性のある集団であるという意図ではなく、メディアでの取り上げられ方や組織の構造が類似していることを示唆するもので、誤解のないようにお願いしたいと思います」

 隊長、煙幕張ってるけどさあ、でも結局、結論はソコに行ってるじゃん。

 わはは。 

 ていうか、実はこの注釈こそが、隊長の発想の原点なんだよね。これが隊長の衣の下の鎧だ。

 で、そのあとからすべてのディテールをほりえもんさんに無理やり当てはめようとするから、論理が破綻しちゃうんだよ。隊長。

 ほりえもんさんとオウムは「答えを教えてあげるよ」の一点で酷似してる。ここで留めときゃいいのに。じゃあ「答えを教えてあげる」ってのは何を意味してるのか? 説明するには20年前にさかのぼらなきゃ。

 このブログのコメント欄でも前にちょっと触れたけど、それまではみんな何も考えずに大学を出て就職し、2、3年たったら結婚してセックスして子供作って、社会の成員としてせせこましく暮らしてたわけだ。ちまちま税金払いながら、こうしてみんな一生終わってた。

 それで世の中はうまく回ってたし、ずっとこいつが人生の「答え」だった。全員でちょっとづつ社会に貢献し、平凡ながらも小さな幸せを糧にして死んで行く。それが答えだった。

 ところが80年代初頭にフリーターって概念が出てきた。この社会思想は、いままでの世の中のメカニズムを根こそぎ壊すカウンター・アタックだった。

 世の中なんてカンケーねえよ。俺は俺のやりたいようにやるぜ。国民年金? んなもん、払うわけねえだろバカヤロー。

 保守陣営にとってはえらい脅威だ。もっと言えばほりえもんさんに代表されるITバブリーな人たちって、明らかにフリーター思想の延長線上にある。

「ネクタイなんかしなくたっていいだろ」

「俺らはやりたいこと(=IT)をやって食ってくぜ」

 ところがフリーター思想を掲げる大多数の人たちは、そんな答えを明確にもってなかった。だいたいごく一部の天才をのぞいて、世の中の80%の人たちは平凡な「普通の人」なんだから、そもそもフリーターなんてキビシイ生き方は似合わないの。でも時代の同調圧力に負けて、みんながこう考えちゃった。

 今の自分は、「本当の自分」じゃないんじゃないか?

 んで、就職せずにひたすら「自分探し」の旅を始めちゃった。

 じゃあ、あのころ旗振り役になった勢力は、大衆をどう煽ったか? たとえば中小企業でお茶汲みやってるOLさんに、こう問いかけた。

 今のあなたって、お茶汲みなんかやってるよねえ。それって「つまらない自分」だと思わない? 実は「本当の自分」はそうじゃなくて、もっとほかにあると思わないか? さあ僕らといっしょに探しに行こうよ。

 で、何の取り得もない平凡なOLさん(に代表される世の中の80%の人たち)が、みーんな、カンちがいしちゃった。

 今のアタシはたしかにつまらないわ。

 もっと輝かしい「本当の自分」を見つけよう。

 本来ならこの人たちって、何も考えずに結婚して税金払いながら世の中に食わせてもらって一生終わる、「つまらない人」なんだよね。誤解を恐れずに言えば。でもさ、それがこの人たちの「役割」なの。

 なのにアジテーターの煽りに乗って、みんながカンちがいしちゃった。で、そこまではいいんだけど、彼らってホントは別段「目標をもつべきじゃない平凡な人たち」なわけだ。だから別の生き方をしようなんて考えても、それがなんだかわかんない。

 答えが見つからないわけ。

 実は「答え」なんて、そんなん、どこにもないんだよ。ないものを探してるから、いつまでたっても見つからない。

 あーあ、余計なことしなきゃ、「そこそこの幸せ」で一生終えられたのに。アジ演説にだまされて踏み外しちゃったよこの人も。そんな感じ。

 これが80年代に起こった変動の第一波だった。

 で、続く90年代には、第二波がやってきた。そんな人たちをだまして、彼らから上がりを巻き上げよう。オウムに代表される新々宗教がぞろぞろ出てきた。

「あなたたち、私が答えを教えてあげますよ」

 ないはずの答えを求めて浮遊してるかなりの人たちが、こうして吸収されていった。つまりオウムは「ひっかけの集団」だったわけだ。冒頭の定義に戻ると、この「ひっかけの集団」って意味でほりえもんさんはオウムに「酷似」してるよね、たしかに(笑)

 たとえば宮台真司さんが2002年に出した本も、同じ原理を利用して売ろうとしてた。

「これが答えだ! ―新世紀を生きるための108問108答」(朝日新聞社)

 ほら。宮台さんの本でも、「答えを教えてあげるよ」がキーワードになってる。(実は黒幕は別にいるんだけど)宮台さんは確信犯的に「答え」って言葉を使ってる。

 でもそれ以前の1996年には、「ありし日」(笑)の鶴見済が「人格改造マニュアル」(太田出版)の中ではっきり答えを出してる。ちょっと長いが引用しよう。

『何人かの知人から「(自殺マニュアルの件で/注釈・松岡)インタビュアーに詰問されているのに、なぜニコニコ笑っているのか」と聞かれた。答えは「抗うつ剤を多めに飲んでいたから」だ。こうすれば何を言われたってニコニコしてしまう。こうして僕は、狙いどおりの「にこやかな著者」として多くの人の目に映ることになった。

 もちろん、初めは色々な仮面をつけている気分になっていた。それがだんだんどれが仮面で、どれが“本当の顔”なのかわからなくなってきた。けれども、もともと“本当の顔”などというものがないのだ、と気づくまでにそれほど時間はかからなかった。その時、体が一気に軽くなった気がした』

 本当の自分なんて、実はないんだよ。

 でも相変わらずネクタイせずにテレビに出てきちゃ、ほりえもんさんがなんか正論言ってる。それ見てハマっちゃう人はこう考える。

 ああ、この人について行けば答えが見つかるんじゃないか? 今の自分を決して満たしてくれない、この社会システムを壊してくれるんじゃないか? 

「満たされない自分」を満たしてくれる世の中が、その先にあるにちがいない。俺って今まで「本当の自分」がわかんなかったけど、きっとこのおっさんについて行ったら「ワンダーランド」にたどり着けるんだろう。 

 ほりえもんさんが背負ってるポピュリズムの正体はこれだ。で、ウンカのように「平凡でつまらない人たち」の支持が集まる。この「ひっかけの構造」が、まったくオウムと同じだ。

 じゃあ宮台さんはあんまり叩かれないのに、なんでほりえもんさんは叩かれるのか? それは宮台さんは完全に「わかってやってる」んだけど、ほりえもんさんの場合、半分、ワケわかってないのね。残りの半分は本気なんだよ、あれ。

 100%、ひっかけなんだったら、「ああ、なんかやってるな。ミエミエだな」で終わるのに、ほりえもんさんの場合は衣の下に鎧が見える。その意味では切込隊長のほりえもんバッシングと同じだ。もうね、本気の部分がチラチラしてる。だから保守な人たち、今までの社会のあり方をかろうじて保とうとしてる勢力が危機感をもつ。

「こいつ。ほっといたら、まじでやばいんじゃないか?」

「ホントに世の中を変えちゃうんじゃないか?」

 こう思われてんだよね。あの人。で、叩かれる。そもそもほりえもんさんて、いじられキャだしねえ。叩く人にとっては、いじめるとすごいキモチいいタイプなんだよ。かわいそうに(笑)

 そんなわけで切込隊長も無理くり叩くわけだけど、果たしてどっちが答えをもってるのかな。たぶんほりえもんさんについてっても、ロクなことにゃならないと思うけどね。わかんないけど。

 でもねえ、実はそんなことやってる場合じゃないんだよ。世の中はかなりやばくなってるんだ。もう10年くらい前から、認知心理学の専門家たちはかなり危機感をもってるよ。「21世紀はウツ病の時代だ」ってのが大問題になってるの。

 いったい、どゆことか? 

 自分探しをして答えが見つからない。どっかにもっといい生き方があるんじゃないか? そんなことをずーっと考えてると、常に理想と現実のギャップがつきまとう。これがストレッサーになって、みんなかたっぱしからウツになっちゃうんだよ。

 これって下手に思考する人ほどなりやすい。何も考えずに就職して結婚する人よりもね。

 で、病院で正式に診断されてなくても、ウツ病、あるいは抑ウツ状態にある人がここ10年くらい激増してる。先進国の中で日本の自殺率が飛びぬけて高いのも、実はそのせいだ。長くなるから解説は別の機会にゆずるけど、試しにグーグルに「認知の歪み」って入れて検索してみ。みんな。

「あーっ。これって俺そのものじゃん」

 そんな症例がぞろぞろ出てくるぞ。そのへん普通に歩いてる人たちが、みんな結構当てはまってるはずだ。

 実は今の日本の抱えてる深刻な社会問題って、北朝鮮でもイラクでもなんでもないんだ。

 自分探しの果てにやってきた、「ウツという名の荒れ果てたゴール」なんだよ。

 1980年代以降に激変した現代日本が解決すべき難問は、海の向こうにあるんじゃない。最大のテーマは「内なる自分」だ。まじでやばいよ、この問題は。

 だって答えがないんだもん。

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ほりえもんで読み解く「ブログはアウトサイダー」か?

2005-04-01 14:10:39 | メディア論
 このブログで7回前に、「ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱」と題してメディアリテラシーについて書いた。えらく文章が長くなったが、まだまだ言い足りないことがある。そこで今回はあの文章が誤読されそうな部分について補足したい。「誰もが情報発信することの是非」についてだ。

 実はあの一文を書いてから知ったんだが、3月18日付の「産経抄」がほりえもんさんをネタにタコな言説をふりまいている。ところがよく読んでみると、一見、私が書いた文章と同種の主張をしてるように見えるのだ。

 あんなふうに高みから人を見下ろす不遜な一文といっしょにされちゃたまらないから、今回はちょっち釈明会見をさせていただきたい。

 端的に言えば私の主旨は、情報発信大いにけっこう、ただしそのとき必要になるのがメディアリテラシーである、ということだ。

 前回は「玉石混交」なんていう誤解されげな言葉を使ったが(なんと「産経抄」も同じ言葉を使ってる)、私はもちろん「産経抄」とはちがい(笑)、「石」の価値を否定してない。インターネットは玉から石までいろんなものがあるからこそ、おもしろいんだ。で、この点でほりえもんさんは実は自己矛盾してるんだが、これについては回をあらためて書く。

 さて私の見解と「産経抄」の主旨が唯一、一致してるのは一ヶ所だけだ。「流通する情報には当然まちがったものもあり、プロはその裏を取って確認した上で情報発信している」という点である。たとえばくだんの「産経抄」はこう書いている。

「玉石混交さまざまな情報の真偽を確認し、伝えるべき事柄を掘り起こす。それを読みやすい形に編集し提供するプロ集団が必要だと。思いは今も変わらない。新聞を殺せばその集団も消える。それはあり得ない」(一部を引用)

 真偽を確認するのがプロの常識であることはまちがいない。だから前段で言ってることは事実だ。だがよせばいいのにこの短文は、みょうに気負っている。裏を取り、読みやすく編集・提供する「プロ集団が必要だ」ときたもんだ。

 こやつを素直に読めば、以下のように翻訳できる。

「オレたちはそんだけ崇高な社会的使命を追ってるんだぜ。そうすることで(事実関係の確認もしない)無知な大衆に、「答え」を下知してやってるんだよお前らわかったか。そもそもライブドアなんかとは、社会的な存在価値がダンチなんだぜおれたちは」

 社会の木鐸だか木魚だか知らないが、ある種のいやらしさがミエミエだ。それは続く後段の「新聞を殺せばその集団も消える」にあからさまにあらわれている。つまり「われわれ新聞だけ」が情報の裏を取る機能を果たしてるんだ、「オレら新聞にしか」それはできないんだぞ、てな主旨である。んなアホな。

 だれもあんたに頼んでないよ、そんなこと。

 たしかに情報の裏を取るのがいかにむずかしいかは、私も前に説明した。「極論だが」とことわった上で、イラクのテロを例にあげ、「こういう種類の裏取りは一般の人にできるんですか?」といくぶん誇張して書きもした。

 だが新聞だけがそれをできるんだ、なんてのは傲慢以外の何物でもない。「新聞を殺せばその集団も消える」ってあなた、いったいどんな顔して書いてるんですかぁ? きっと鼻の穴が1.5倍くらいにふくらんじゃってるんだろうなあ。ああ、はずかしい。

 こないだ取り上げた共同通信といい、産経新聞といい、いったい新聞はどうなってるんだろう? だから新聞読むやつが減るんだよ。

 あの「産経抄」を読んだいま、私は安易に「玉石混交」なる言葉を使ったことを著しく反省している。「玉」=新聞に代表されるプロが作るもの、かたや「石」=アマチュアの情報発信、てなぐあいに誤読される可能性があるからだ。

 文章を書くことのアマではあっても、プロの物書きよりグンバツに(死語?)いいものを書いてる人はたくさんいる。たとえば以前、気まぐれにキングクリムゾン(バンドね)を検索してたら、あるWebサイトを見つけた。それ書いてる人はもうとんでもなくて、世の中に存在するクリムゾン関連の音源をほとんど聞いてチェックしてる。

 しかも分析がまた細かい。アルバム「○○」の3曲目の頭から4小節目に出てくるジョン・ウェットンのベースのフレーズは、別のアルバム「●●」に収録されてる「△△」でも使われている、みたいなレベルなのだ。

 おまけにこの人は最近のジョン・ウェットンをけちょんけちょんにやっつけてるんだが、それ読むと「ああ、好きなんだなあ、この人はジョン・ウェットンが。だから怒ってるんだよねえ(わかるよおー、オレも同じだし)」と、対象に対する熱い想いがキリキリと伝わってくるいい文章だった。

 少なくとも私はチマタのプロの音楽評論家が、こんな緻密な分析をしてるのって読んだ記憶がない。「玉」はプロも作るし、アマだって作るのだ。(反対に「石」ばかり作ってるプロもいるから困ったもんだが)

 したがってプロからアマに至るまで、いろんな人がブログで情報発信するのは非常に意義がある。任意の分野についてプロの書き手よりくわしいアマの人には、じゃかすか書いてほしいと思う。もちろんくわしくない人だって、「オレはこう思う」風な感想を書くだけでも充分に意味がある。

 さてここからが本題ね。ただし自分の分析や主張を「文字にして世間に発表する行為」には、一定の重みがあるんだ、ってことをアマの人にも認識しておいてほしいと「私は」思う。

 前回書いたように、「アタシがこのサイトに書いたことに関しては、一切責任は負いません」なんて逃げを打つんじゃなく、「もしオレがまちがったこと書いてたら、自分のケツは自分で拭くよ」くらいのスタンスでいてほしい。と、「私は」願っている。

 世の中に書いたものを公知する以上、いったん書いた文章を推敲するくらいは常識だ。また最低限、事実関係にまちがいがないかどうかは、きっちり確認した上で書きたい。(まともな)プロならだれでもやってることだ。

 もちろんプロったってなかには「石」もいる。「あれはたしか○○さんが●●したときだったと思うが~」。こーんな書き方をしてるエッセイストやらがときどきいる。

 おいおい、あんたプロだろう? だったら文章に書く前に、事実関係くらい自分で調べなよ、と思ってしまう。ロクに裏を取らないこんなレベルの文章だったら、それこそだれだって書けるじゃん。

 あともうひとつは文章そのもののレベルだ。たとえばIT系の書き物によくある例をあげよう。

 書いてる人は技術者で、テーマについてはもちろんくわしい。「知識をもってるかどうか」に関してはプロである。だけど文章が致命的に下手クソで、もう見てらんない。わかりにくい上におもしろくもなんともない。つまりウンチクだけはプロなんだけど、「物書き」としては完全なアマチュアなわけ。

 あなた、原稿料もらって文章書くのは100年早いよ。ちっとは文章の書き方を勉強してからにしようね、と言いたくなる。

「知識がある」というだけで、金もらって原稿書いていいのかなあ。人が読むに耐える文章、読んで面白いと思わせる文章でもなんでもないのに、おアシを巻き上げるのっていったいアリなの? 要はこの人はあくまで技術者なんであって、プロの「物書き」じゃないわけだ。 

 まあブログだったら、文章のレベルが低いからって「その人には書く資格がない」なんてことにはならない。けど書いたものを世の中に流通させる以上、できれば事実関係の確認や、書くことの重みを感じていてほしい。と「私は」思う次第なんだが、どうなんだこれ?

 もちろん素朴な感想文や身辺雑記のたぐいなら別だ。だがブログで一定以上に踏み込んだ自分の主張なり、おのれの目で見た独自の分析なりを書くならば、みんながプロと同レベルの意識でいてほしい。だってそのほうが世の中が「おもしろくなる」じゃん。

 たとえばアマの人がプロと同じ意識をもち、ブログで緻密な情報発信をバンバンやるとするよね? それらの情報には事実誤認もなく正確無比。しかも下手なプロより視点が鋭かったり、ユニークだったりする、と。

 そしたらさ、もう「産経抄」みたいなプロの勢力は、アマのブロガーに対して「恐れ入りました」って沈黙するしかなくなるよね。もう彼らは、「オレたち『新聞だけ』が正確に情報発信できるんだ」なんてこと言えなくなっちゃう。アマがプロを駆逐する状況にすらなるかもしれない。

 するとさっき例にあげたような、いいかげんなエッセイストみたいのには、もう仕事がこなくなる。で、代わりにアマではあるけど文章がおもしろく視点もユニークな人が認められ、原稿料もらってどんどん書くようになる。プロ、アマ問わず、本当の意味での「実力勝負」になる。これってすごいおもしろい社会状況だと思いませんか? 

 これが「私の主張@その1」である。

 ブログがこれだけ広がる中、たぶんこの論点は今後の大きなテーマになるんじゃないかな。ホントにむずかしい問題なんだよね、これ。

「そんな『縛り』をかけちゃったら、ブログで気楽にモノが言えなくなるじゃないか」って反対意見もあるだろう。ブログがジャーナリズムの代替になる必要なんてあるのか? みたいな疑問も提起されるにちがいない。(ちなみに私は、「ブログはジャーナリズムたれ」なんてコト言ってるわけじゃないよ。念のため)

 あるいは、

「ブログはあくまでプロが書いたものにツッコミ入れたり、プロのまちがいを指摘するところに意味があるんだよ。プロの言説をもっとくわしく補足するのも、ブログの社会的存在価値だ。いわばブログは『補完物』であって、ブログ自体が『主体』になったらブログの意義がなくなるのでは?」

 ……とかね。

 いわばブログは「社会的物言い」のメインストリームじゃなく、既存のメディアに対する一種のアウトサイダーとして存在するからおもしろいんだ。だからこそ意味があるんじゃないか? そんな考え方もできるだろう。(ブログじゃないけど、この方向を徹底させたメディアが2ちゃんねるだ)

 まあとにかく賛否両論いろいろ出てくるにちがいない。なわけで今後そのテの議論が発生すれば、私も遠い末席から観察を怠らずにいようと思う。

 さて「私の主張@その2」は、前回書いたのでカンタンにすませよう。「その1」で述べた「裏取り」その他に関する私の主張と同じ考えの人が、一定数、実践したとする。でもこの人たちは一部にすぎない。

 そんなのめんどくさいよ、って人もいるだろう。あるいは事実をわざとねじまげ、恣意的な情報や主張を書く人もいるはずだ。ゆえにみんながメディアリテラシーを働かせ、そこに書いてあることを「自分の脳みそ」で考えて、きっちり目利きしていく審美眼をもたなきゃね。これが「私の主張@その2」である。

 以上、ご清聴ありがとうございました。

 いやまあ、たまたま気が向いて2週間ほど前に私はブログを作ったわけだが、自分がこんなにハマるとは想像もしなかった。

「そんなん書いても原稿料もらえないやん」

「オレはプロなんだから、書く以上は商業媒体でなきゃ。日記に独り言書いてマスこいてどうするんだよ」

 そんなふうに事態をナメていた。しかしいまや、ブログ上で繰り広げられるコミュニケーションの圧倒的な密度に、もう「お代官様、参りました」な状態になり果てている。

 おい、仕事の原稿たまってんのに、こんなん書いててどうするんだよ? 編集者様もこれ見てるぞやばいぞ、おまい。

 いままさに私の頭部の右上方には、もくもくとフキダシが湧き上がっている。で、そのフキダシの中では、白い天使と黒装束の悪魔がさかんに戦ってる。2週間目にしてこのありさまだ。きっとみなさんも同じでしょ? やばいよまじでこれ。

 だがしかし最後に勝つのは、決まって黒装束の悪魔なのだ。少なくとも私の人生においては。でもそんな反省を踏まえた上で、あらためて自分に問おう。

 こんなことしてていいんですかぁ?

 いーんですっ。

(川平慈英風にカツゼツよく)
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