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⑭1978年 巴里にひとり 番外編(ミディム音楽祭)

2017年11月06日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

J友さんから教えていただいた→「からすの楽墨ブログ」さん、久しぶりに読みましたが お母様とお姉さんのジュリーとのエピソードには爆笑してしまいました 忙しいジュリーには大変迷惑なお話です。こういう事で「電話の歌」ができたんやな~と納得しました。

電話がうるさい 電話がやかましい 電話にゃ もうデンワ ♪

そういえば、J友さんが以前に1972年のACBでお姉さんがジュリー自身に直接「電話の歌」をリクエストされたという、羨ましいコメントをくださっていましたっけ。色々と曲が有る中で、なんでリクエストが「電話の歌」だったのでしょう? 

追記 ※コメント欄にJ友さんが「電話の歌」をリクエストしたわけを書いて下さっています。当時のジュリーの活動も知れるコメントです。是非コメ欄もお読みください



J友さんから頂いた1978年の1月23日、フランス・カンヌでのミデム(国際音楽見本市)画像です。パーティー会場で握手をしている男性は、あの「ウエストサイド・ストーリー」ジョージ・チャキリス。ジュリーがこの映画のチャキリスの吹き替えを担当したこともありました。真ん中の若い男性は、当時人気者だったアイドルグループの・・・誰だっけ?名前が思い出せません 

下を拡大、木の実ナナさんと、二人でカジノ劇場でステージ。

ジュリーの隣の金髪女性、金髪のせいでシルビーバルタンかと間違えそうになりましたが、顔が全然違いました。何者?

この後はいつまで海外でプロモーションをしていたのか、大賞の受賞後はさらに日本での活動が忙しくなって、以前のジュリーの言によると、日本で売れる方が大事だという事になったので海外のプロモーションにはいつの日か行かなくなりました。

これで番外編、終わります。

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⑬巴里にひとり(番外編)1975年のNHKニュースでジュリー

2017年11月05日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

ジュリーさまは、今日は栃木の足利市民会館。足利ライブでは、ジュリーはご機嫌さんで楽しかったそうですが、「PRAY」の時に「座って」の揉め事や、倒れた方がいたのだとか? 詳しいご報告をお待ちしています。昔々よくTVCMで流れていた『アシカガ よろしく~♪』アシカが何度もお辞儀をする、足利銀行のCM知ってます? 関西で流れていたとは思えない?どこで見ていたのかな? タローさんのブログでサリー→「ドクターⅩ」


先日のブログで、1975年4月24日のNHKで放送された、ニュースセンター9時の報道⇒「日本人歌手のレコード海外進出―沢田研二―」フランスで「MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE」がヒットしていたジュリーが、飛行機のタラップから降りてきたところを、NHKにインタビューされていた場面を覚えている方はおられませんか?

と書いたところ、ヨシケンさんから覚えていますと、コメントをいただきまいした。おお~嬉しい!!有難うございま~す(^-^)


ヨシケンさんより⇒ 『9時のニュースに出てきたジュリーは、覚えています。涼やかな笑顔も覚えていますが、インタビューの内容は思い出せません。
だだ、忘れられないことがあります。当時のニュースキャスターは、磯村尚徳さんで、彼はフランス語が堪能でした。その磯村さんが、「ジュリーの(たぶん彼と言ったと思います。)フランス語の発音は素晴らしい!」と、コメントしました。

その当時は、さすがジュリー!と思ったかな⁉
しかし、その後、いかにジュリーがフランスで苦労し、また頑張ったのかを知るにつけ、当時の磯村さんの言葉をよく思い出すのです。
そして、今回のコンサートでの「巴里にひとり」。タラップから降りてくる映像や磯村さんの言葉を思い出しながら、聞いています。』

磯村尚徳さんとは懐かしいですね(^-^) NHKの夜9時のニュースは見ていたので、磯村さんの穏やかで知的で紳士的なキャスターぶりはよく記憶に残っています。そうそう、外国語が堪能で有名でした。もう40年も前でしたか、この斜めにかまえたスタイルが話題になりました。

wikiによると昭和4年生まれ、私の母と同じ(^-^) 幼少期はトルコのフランス人学校で学ばれたので、フランス語は堪能なんだそうです。その磯村さんに褒められたのなら、お世辞ではなくジュリーのフランス語は上手いのね✨

ジュリーがNHKニュースに登場した事を、当時の日記に書いているかも?と思い、調べてみましたが見当たらず・・ あれ~?と思っていましたが、ようやく探し出しました。やっぱり書いていました!ほぼ原文のままです。


※1975年4月24日(木)の日記 

ジュリーさんのレコードが、外国でヒットとNHKニュースでやってくれたわよ。嬉しがって見てた。『ケンジ サワダは、わずか数日の滞在でフランス人を魅了した』ですって。Julieさん、さすがにうれしそうな顔をしてたけど『珍しいこともあるんだろう』って、2曲目が勝負とレコーディングしていました。(後略)※この後にヨシケンさんのコメントを繋げさせていただくと・・ ニュースキャスターは、磯村尚徳さんで、彼はフランス語が堪能でした。その磯村さんが、「ジュリーの(たぶん彼と言ったと思います。)フランス語の発音は素晴らしい!」と、コメントしました。

おお、当時の映像の記憶が40数年ぶりに繋がりました!完璧や~(多分) 42年前のニュースが甦えりました、ヨシケイさん有難うございます。この時のジュリーのファッションも日記に書いておりました。

載せるべきか載せないべきか・・随分迷いました、かな~り とても恥ずかしいです💦 でも、当時の映像が無い代わりに、ジュリーのその当時の普段着?旅行着?ファッションがよくわかりますので、コッパズかしいですが小さく載せます。

サングラスに白いカーディガンは、映画「炎の肖像」で、冒頭に着ていたカーディガンと同じかも??ボトムはサロペットジーンズ


日記の左横に小さい文字で『ボサっとした白いカーディガンに ボサっとした姿で、ボサァーっとフランスから日本へ帰ってきて、ボッサ ボッサと歩いてゆくjulieちゃん』

あれ?ボッサ ボッサ? カッコよく、おフランスから帰ってきたんじゃなかったのか?? 少なくとも当時の私の目には、フランス帰りのジュリーが、颯爽と飛行機のタラップから降りてきた、ようには見えなかったようです(汗)


75年、76年はまさに紆余曲折の時、そんな激動の時代を経て77年は大活躍!

世界のサワダでございます(^-^) 

 

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⑫1975年 巴里にひとり(番外編)

2017年11月03日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

カテゴリー「1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)」番外編です。

私には、いまも忘れない記憶の中のニュース映像があるのです。1975年、ジュリーがフランスで発売した「モナムール・・」がフランスでヒットしている事は知っていました。ジュリー、スゴ~イ 

そんなある夜、夜9時のNHKニュースを見ていたら、ジュリーがフランスで曲をヒットさせていると、ニュース映像が流れたのです。映像には『日本のポップスがフランスでヒット』というような、わかりやすい惹句がついていました。

場所は羽田の飛行場で、映像はフランスからまさに戻ったばかりのジュリーが、飛行機のタラップを降りてくる姿でした。帰国したばかりのジュリーがタラップから降りたとき、早速NHKのマイクがジュリーに向けられて、それに笑顔で答えるジュリーの姿がNHKのニュース番組で流れたのです。たまたま見ていたのですが、国営放送のNHKの、夜9時の、全国ニュースで取り上げられたというのが、とっても嬉しかったわ~! もっともジュリーが何と答えていたのか、全然覚えてはいません。それほど長い紹介ではなかったように思います。

このニュースで取り上げられたという事を、今回のカテゴリーにも書き加えなければ・・と思いつつも、私の乏しい記憶のみなので いまいち信憑性が弱い・・ と思っていたら、あったんですよ~ J友さん情報にその記憶を裏付ける証拠が NHKクロニクルを沢田研二で検索すると→「日本人歌手のレコード海外進出―沢田研二―」 ずーっと下にスクロール

1975年04月24日(木)
午後09:00~午後09:40 アナログ総合 ニュースセンター9時  
(番組内容をクリック)→「日本人歌手のレコード海外進出―沢田研二―」

私としては、もう少し柔らかい表現だったような気がしていますが『日本のポップスが海外進出』のような? どなたか私もニュースを見ていました、という方はおられませんか? とにかくNHK全国ニュースで取り上げられたという事実が嬉しかったです。

J友さん、有難うございます 

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⑩1976年 傷心の巴里にひとり

2017年10月30日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

東京フォーラムにお二人のフランスからのジュリーファンが来られていたと知ってから始まった、今回の『1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)』 ジュリーの1975年のヨーロッパ進出を中心にスポットを当てていますが、今回は1976年です。

お正月コンサートの、大阪フェスの後の日劇でのライブ画像を新たに頂きました。

                       文字拡大

年末の東京駅の事件についてのコメントがありますね。

このコンサートは「憧れのハワイ航路」がオープニングという

意表をついた選曲のせいか41年前でも記憶に残っています。

3月に再び渡欧、そこで今TVで話題のデヴィ夫人と会談。財産を横領されたんだとか?

世界中を股にかけて走るジュリーでしたが、再び5月に事件が・・・

このテーマの一番最初に上げたこの画像の時は6月半ば、既に二度目の事件が起きた後です。

巴里の小さな少年を見つめる笑顔のジュリーの心中は、

本当はいかがなものだったのか。


ちょっと字が小さいのでコントロールキーで拡大して読んで下さい。

YOUNG7月号の記事

1カ月の謹慎に関しては、ジュリーが繰り返しMCで話していますが

決してナベプロ側の決めた事ではなく、ジュリー自身が決めた事だったとか。

 

あと味のよくない事件ではありましたが、深く反省して自分を見つめなおし

マイナスをプラスに変える事ができるのがジュリーです。

この後の大活躍はファンなら誰でもが知っています。

YOUNG記事。この項終わります。


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⑨1975年、いくつかの場面

2017年10月30日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

大賞こそな~んにも取れなかった1975年、ヨーロッパ進出、結婚、TVドラマの悪魔のようなあいつ出演、時の過ぎゆくままにの大ヒットと まさに充実の1975年でした。

アルバム「いくつかの場面」12月21日発売。

声を震わせながら歌うジュリーの「いくつかの場面」の歌唱には、ファンなら誰もがそれまでのジュリーの「いくつかの場面」を思い浮かべて 胸をいっぱいにして涙したはずです。

タイガース時代からほんとに 色んなことがあった。下手とバカにされ、あれほど売れたのにタイガースは解散、PYGを経てソロ歌手へ・・ ファンなら ほんとによく頑張った!ジュリーあなたはエライ!とそれまでの「いくつかの場面」を振り向き思ったたはず。そしてこの先も新たな「いくつかの場面」はまだまだ もーっと続いてゆくのです

何はともあれ充実の75年は終わった

私は76年の年明けは大阪フェスで。

日記を読んだらJ友さんから「3日はチケットがとれず、4日に回されたと連絡があった」と書いていました。これを読んでくれてると思う幼馴染のJ友さん、覚えてないでしょ?私も全く覚えていないわ・・・ 今なら、第二希望ならそれなりの席が来るとおもうじゃない?ところが、Wだよ!それまでがZばっかりだったから、前よりもちょっと前になったと 日記には健気にも書いていましたが、毎回が ヒドイ席ばっかりだったのよ~(田舎だから売り場に並んで席は取れないし、そこまでやれない)

※J友さんによると、今回の50周年は第二希望でもイマイチだそうです

76年1月4日の日記

『大阪フェスにジュリー見に行った、もちろんとっても楽しかったよー。LPの曲が中心でやっぱりナマはいいなぁ・・ (中略)おしゃべりもとても楽しかったよ。駅での事件の話しが多かったけれども、でもジュリーは二度とあんな事はしないでしょう。ジュリーもしきりに言っていました。悔しかったろうなぁ と思うと可哀そう。今さら仕方のないことだけど。

(コンサートには)サリーやデイブ平尾が出て来て、もうあの事件はパロディであります。

※比叡山に行った日の事、私達が京都駅に着いたら改札で国鉄駅員から「また来たのか」と言われた。と日記に書いていました。そういえば、おぼろな記憶が・・・昔の国鉄は、親方日の丸で駅員教育がなってなかったんじゃないでしょうか  

今年で10年目、新たな気持で頑張って欲しい。ジュリーってまるでハーフみたいでスラっとしてカワユイの今回はあんまりロックっぽいものは少なかった。私はとてもおとなしくて、ジュリ~♪なんてひと言も叫ばなかった。前に押しかけることもせず上品に聞きました。

Julie、始めは船長みたいな白い服に帽子を被って「あこがれのハワイ航路」なんて歌うの。変わっていて面白かった。それから紅白の時のぶどうのついたラメの衣装、とてもキレイ。2時間なんて短い・・ 4月7日に神戸国際会館に来るの、ジュリーシートが4500円。一度は前で見たいから4500円出そうと3人で決めた(あとの1人は誰か忘却)でも4500円て高い、ファンクラブの会費も払わなきゃいけないし お金がいっていって トホホ・・・お金~~~!! 

 


※日記はほぼ原文のままです。文章力も頭の中身もともに、40年たっても全く進歩が無いことが よ~っくわかりました 当時は至極真面目に書いていますが、今読むと・・・笑えます 若い時はお金がなくてツアーに行けず、働いてお金が自由に使えるようになったら、今は家庭や介護で自由に行けない。そんなもんですね。

この後、1月21日に新曲「立ちどまるな ふりむくな」発売。TBSの久世さんプロデュース、セブンスターショーに出演。2月11日に「巴里の哀愁」が公開になりました。3月からは2週間のヨーロッパへ、スイスでTV出演・フランス・イギリスでレコーディング。

帰ってきたらスプリング・ロックンツアー春の全国縦断コンサート。ジュリーにならい、若手の歌手も全国縦断ツアーをするようになったそうで、なんでも先駆者のジュリーです。

長くなったので予定の某夫人は明日やります、ごめんなさい。明日で激動の「1975年・巴里の哀愁」のカテゴリーは終わります。

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⑧1975年 年末賞レース

2017年10月28日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

てるさんから、昨日のコメント欄に「比叡山フリーコンサート」の事を書いていただいたので、去年の「比叡山フリーコンサート」のカテゴリーに追加させていただきました。ファンにも色々な想いがあったのですね それぞれの比叡山フリーコンサート。 まだまだ 比叡山の思い出は募集中です 


いよいよ1975年も年末・・・YOUNG11月号

10月、映画「巴里の哀愁」の撮影の為にまた渡仏。

文字拡大 ジュリーの隣りは加勢さんですね。

そして各賞レースが始まりました。賞の為にフランスから日本へ、とんぼ返りの強行軍です。でも受賞できず・・11月24日、歌謡大賞は布施さんの「シクラメンのかほり」ジュリーは放送音楽賞でした。

日記には『一番に放送音楽賞の名前を呼ばれたからほっとした。大賞はやっぱり布施さん。26対18(布施対ジュリーの票数)ジュリー来年はもっともっとやるわよね』

そしてレコード大賞の部門賞11月19日

12月19日の日記に、国鉄職員とジュリーとの間に起こったトラブルを書いています。 

大晦日12月31日の日記(要約しました)『ジュリーは何にもとれませんでした。あの事件が影響したのかね?下馬評では布施さんの対抗馬はジュリーだと言われていた。でも大賞候補の指名順位は 10人中8番目の低さ。なんであんなに下なの?南沙織や小栁ルミ子のどこがジュリーより活躍していたというのでしょう?私は悔しいわ。いつもジュリーはおかしな評価しかされていない。ジュリー可哀そう! あの事件は確かに彼が悪い。27にもなってジュリーのような慎重な人のやる事じゃない。あきれた、子供ね。でもジュリーも反省している 忘れてしまおう。ジュリーもラジオで「自分の首を絞めた」と言っている。あれがなければ 申し分なくいい年でした。来年はもっと頑張って下さい。』この時は思いもよらなかった、次の年に自分でさらに自分の首を絞めるとは

私は今朝の「せやねん」を見るまで全く出来事を知らなかった、明日は今ワイドショーで話題の某夫人が登場します

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⑦1975年 ROCK'N TOUR75

2017年10月27日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

桃子姫さん、ぷーさんから、75年9月の仙台の「インド政府茶業局」のご招待コンサートに参加しました、とコメ欄にいただきました。

ぷーさんの席順の裏話は笑劇です(笑)マジですかっ!なんでそんな事をさせるの、私ならノロイから絶対に負けてる ドラフト会議みたいにくじ引きにしてよ!そう主催者にはお願いしたいです こちら→ROCK'N TOUR75(インド政府茶業局) 

こういう全く知らなかった昔のエピソードをJ友さんからいただけるのが、とても楽しく嬉しいです。


 予定ではとうに「巴里にひとり ヨーロッパ進出」のカテゴリーは、あの膀胱炎二回の記事をもって終わっているつもりでした。でもJ友さんから75年のROCKN TOUR75の画像をいただいて、やっぱり順番としてこれを先に紹介したいと思います。75年のジュリーは瑞々しく若い。そしてファンも共に若い

J友さんがピンナップされていたという、年代物のかなりヨレた記事。ツアーに参加した方もしなかった方にも、その時の臨場感を味わっていただけるんではないかと思います。

文字拡大

今も昔も、ジュリーはファンに囲まれるのは嫌ってるよね。


拡大

フォー エバー 永遠に・・ 

「永遠に!」といいながら、その後ジュリーから離れた人もいるでしょう。それもいい、それは仕方がないと思う。気持がうつろうのが人間だし、それも一つの選択肢。私にはジュリー以上の選択肢が見つからなかっただけ。

来る人があれば 離れる人もある、それが人生なんだと思うわ。ジュリーが一番それを感じながら、それでも歌い続けてきたんだと思います。

有難う 有難う 有難う と何度も何度も頭を下げるジュリーを、三田(さんだ)で初めて見ました。眼の前の観客だけではない、今までの全ての見えない物にも感謝をしているように 思えました。

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⑥1975年 ROCK'N TOUR75(インド政府茶業局)※追記あり

2017年10月25日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

※下に赤字で追記があります。

東北のJ友さんから、1975年の宮城県の沢田研二ショーの画像を送って下さいました。有難うございます

『1975年のROCK'N TOUR は、山形と渋谷のファイナルに行きました。
仙台はツアーには入っていなくて、9月でした。
会場は、県のスポーツセンターで、ステージが広くてパワフルだったと記憶していますが、何故かお客さま招待のステージでした。
出演者には、ジュリーと堯之バンドとありますが、ミッキー吉野グループも一緒でした。』 


※追記 ぷーさんより笑劇のエピソードをいただきました。マジですか・・

Saoさん ずっと 謎でした。仙台での体育館みたいなとこでのコンサート
座席指定などなく 私は前日の夜から徹夜で席取り
当日 会場時間が近ずくと 整理券を持った別グループの方々が
主催者が前の日に整理券を配って解散させていたんですね〜
で (席順を)どうしたと思います?
50m走をさせて 勝った方のグループを一番にさせたんですよ〜
もちろん 勝ったと記憶しておりますぅ
それが この75年のコンサートだったんですね

スパンコールの衣装が豪華で華やか~ この時のYOUNGのスケジュールを確認したら、仙台のご招待会と書いてありました。主催がインド政府茶業局で、ご招待になっていますが、ジュリーとインドは いったいどんな関係が??う~んレア!J友さん、珍しいものを有難うございます(^-^) 

全体像。この画像自体が招待券なんですね。

私は8月22日の大阪フェスのROCK'N TOUR75に行きました。内容をその日の日記に書いていました。恥かしげもなく一部書き写します。

『席はSの一番後ろだけど、良かったなぁ。一番良かったのが「イザベル」と「悪い予感」とってもいい歌、もう一度聞いてみたい。ジュリーの声が綺麗・・(※イザベルは8月の大宮のMCで、海外で売り出した頃のお話で、「イザベル」だけを感じを変えて「イザベル~イザベル~イザベル」と素敵に歌ってくれました。とJ友さんからレポをいただいていました。日記に書いていたとは、全く忘却です。ジュリーはこの曲に想い出があるのでしょうね)

フィナーレは白煙がモクモク、大きな風船がゴロゴロ転がり回るのです。彼、力いっぱい歌ってくれた。気持がいいね、もう手が痛くなるほど手拍子を打って イエ~イ!と叫んでジュリ~♪とわめいて必至だった。目に涙なんか浮かんでしまうのです。 I believe in music I believe in love♪と皆で一緒に歌った。

彼が「結婚したのにも関わらず、ようこそ来ていただけました。」と面白おかしく言っていたけど、もうスッキリしています。ずっと前から、結婚しても彼のファンでいられるとわかっている。(中略)

ジュリーがラジオでPYGのレコードをかけて「花・太陽・雨」レコードは全然つまんないから、ステージを見に来て下さいって。ほんとにステージの「花・太陽・雨」が抜群に良かったよ。

TV(悪魔のようなあいつ)の方も見ておりますが・・ まぁ~ やりきれなくなってきた感じだぞ。可哀そうなジュリー・・いや良でした。死んじゃうんだろうな・・(後略)』

日記を42年ぶり読んで、大きな思い違いをしていたことに気がつきました。ジュリ~♪とは恥ずかしくて 長いこと叫べなかった・・そう信じていたのに、しっかり「叫んだ」と書いてあるではありませんか。ほんとに記憶っていい加減。どこかで記憶がすり変わってしまう事が多々あるんだな・・とわかりました。 

しかもジュリーを「彼」と書いてますが、今の私はジュリーを「彼」なんて呼びかたしないよ~(笑) カッコつけてんな

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⑤巴里にひとり

2017年10月24日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

前にも紹介した、ネットラジオのミナキーさんが、明日の水曜日午後9時から またまたジュリー特集をされるそうです。こちら→ミナキーの洒落と歌の日々 

ジュリーへの熱い思いにみち溢れたミナキーさん、前回初めて聴きました こちら→「ジュリーバースデイ特集」 いささか前回は慌てまくっておられたようですが、明日は落ち着いてやっていただきたいです。 


勝手に「巴里にひとり祭り」を開催中。まだ続いています。J友さんから、1975年のロックンツアーのジュリー画像を送って下さいました。オープニングが比叡山のフリーコンサート、その次は8月1日の北海道へ、それから東北です。北海道から青森へ向かう青函連絡船の中で撮影されたようです。

 

ロックンツアー75の日程表。

大阪・渋谷だけでなく あの頃は名古屋も2日間あったのですね。

意外にツアーの日程が短いけれど、おそらくTVドラマ「悪魔のようなあいつ」の撮影があるからだと思います。9月以降もポツポツとコンサートの日程は入っていました。

8月21日には 新曲「時の過ぎゆくままに」が発売、画像がボケていますが これは元からです。

9月にフランス向けLPのレコーディング、10月からは「パリの哀愁」の撮影の為フランスへ。ジュリー、ほんとに世界を股にかけてお忙しい!

ドラマの視聴率は良くないけれど「時の過ぎゆくままに」は大ヒットで、結婚が人気に影響を与える事もなく、ジュリーはノリに乗っています。ジュリーがMC「売れて 売れて 売れて・・ 調子にのってました」状態になるのも無理はありません。記事はYOUNGの10月号より。

 

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④巴里にひとり

2017年10月22日 | 1975年 巴里にひとり(ヨーロッパ進出)

只今午後9時、神戸市は暴風雨が吹き荒れています。風の音が怖いくらいです。ジュリーさまがライブの飯能は大丈夫でしょうか。参加の皆さんは無事にお帰りなったでしょうか、どうか気をつけてお帰り下さい。


当分「巴里にひとり祭り」状態です。1974~5年当時に発売した、海外版を含むジュリーのシングル一覧(10枚目は追憶です)

★11th single
1974.11.21 愛の逃亡者 /I WAS BORN TO LOVE YOU


☆1975.01.20 MON AMOUR JE VIENS DU BOUT DU MONDE


12th single
★1975.03.01 白い部屋/風吹く頃


☆1975.05.20 ATTENDS MO


13th single
★1975.05.21 巴里にひとり/明日では遅すぎる


14th single
★1975.08.21 時の過ぎゆくままに/旅立つ朝

短い期間に、海外版も含めて沢山リリースして ほんとに忙しく大変だったでしょう。50周年LIVEで、この中の曲を「追憶」も含めると4曲も歌っているのは、それだけ栄光としんどかった思い出と、曲への思い入れもひとしおなんだろうと思いました。

YOUNGの5月号

この後に続くのが6月の結婚と、7月の比叡山フリーコンサートです。話が長くなるのでここでは触れないつもりでしたが、J友さんから

「あなたはこの中に写っていますか?」と、メールをいただきました。

42年と3カ月前の写真ですが、ここに私は写ってはいないです、私は遥かに後方の席だったから・・

ジュリーと客席が、ともに写った画像を見ただけで、あの日を思い出して胸がいっぱいになりました。やっぱり私にとっても、おそらく参加した皆さんにも、比叡山はいつものコンサートとは違う 大事な青春の1ページだと思います。デビューから見続けたジュリーの結婚を祝福できた事、それは自分ではない女性の幸福を心から祝える自分になれた。ファンもこの熱い夏の日、確かに一歩 大人へと成長したのだと思います。この後の結末はどうあれ 

ステージから遥か後ろの席でジュリーが遠い・・と不満だった私も、アンコールの時には少しでもジュリーに近寄りたいと、多くの人波をかきわけ かきわけして前進し、ジュリーにやっと10mくらいに近づけた!と日記に書いていました。

記事には花嫁の腕をとる、加瀬さんのお姿も写っていました。

                                           

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