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意識を砥ぐ(第六感)

2016-08-31 | 5次元宇宙に生きる(一人旅通信)

第六感

《五感以外にあって五感を超えるものの意》理屈では説明のつかない、鋭く本質をつかむ心の働き。インスピレーション。勘。直感。霊感。「第六感が働く」 (デジタル大辞泉)

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五感を観てきたので、第六感について書いておきたいと思います。

念のため申し上げておきますが、この話を絶対に正しいというスタンスで書くわけではありません。正しいかどうかの答えは、これを読まれる皆様方の心の中にしかありません。

つまり、なにかをそのまま得ようと思って読まれても、何も得られませんし、有害な場合だってあります。是非とも、この記事を踏み台にして、自分と出会うために役立てていただきたいと思います。

もちろん、これを書く私(のしてんてん)にとってはすべて正しいことと思っている。このことは信じていただいて大丈夫です。間違いと思ったら、正直に書きましょう。それも一つの道ですから。


さて、六感。

冒頭に引用したように、五感を超えて、本質をつかむ能力。

この第六感と、意識はどんな関係にあるのか。

それを知るためには、頭脳の働きから観ていかなければならない。

先に、体感について考えたが、実は思考も、頭脳がつくり出している体感と考えることが出来る。

体感と言っても、思考はけっして単純ではないし、身体を飛び越えて、私の心に強烈な影響を与える。だから当然、思考は体感を超えた別格のものと考えてしまうだろう。

事実私自身、そう考えて、何の不思議も感じなかった。思考は特別だと。


しかしそれは大変な過ちだった。

間違いなく思考は頭脳がつくり出す体感なのだ。


まず私自身の誤りから語らねばならない。

たとえばここにパンがある。

すると私は、ここにパンがあると認識する。

私は長いあいだ、この認識が、パンがあることに気付いている自分だと思い込んでいたのだ。

もしそれが正しいのなら、

意識がなくても、認識だけでパンに気付くことになる。

つまり、意識を失った人間が、認識を働かせてパに気付くというありえない結果を生み出すのだ。


誤りは、認識と意識を混同してしまったことにある。

私はそれを、認識意識の癒着と呼ぶ。


認識は頭脳の働き、つまり体感である。その認識を意識が照らし出すことによってパンを認識している頭脳(私)に気付く。

じっくり考えないと分かりにくいし、理解しがたいかもしれない。それだけこの問題は微妙な言い回しにならざるを得ないのだが、ことは重大な問題を含んでいる。

この問題をクリアしないと、

意識を砥ぐという鍛錬は破たんする。

意識以外に、認識に気付きの力があるとすれば、意識を研ぎ澄ませても何の役にも立たない。意識という統一された存在が否定されるのだから。

そこから人は頭脳の奴隷と化してしまうのだ。

実際、頭脳の奴隷となっている人はけっして少なくはないし、それが様々な苦悩を生み出す原因となっているのも事実だ。それを私は己の心の中に観る。

真実が悲鳴を上げているのに、思考は無益な欲を追及し、その富こそしあわせだと主張する。認識は真実だという思い込みが、その陰で苦悩する真実を気付かせないのだ。

それこそが、思考がつくり出した自我と言える。

この自我は、思考の描いたしあわせを追い求める。そのためには人ばかりか、この身まで犠牲にする。苦悩に身が引き裂かれる。いったい何のための幸せなのだろう。

そう何度も問い続けてきた。

しあわせを求めている人間がなぜ苦しまなければならないのか。

 

しかし幸いなことに、この考えは誤りだった。思考と意識の癒着がその元凶だったのだ。自我は己の作り物だったのだ。


己の思考と意識の癒着に気付き、その二つを切り離せ。

思考は頭脳の働きだ。しかしその働きに気付くのは頭脳ではない。それは、意識の働きによる。

触覚を、意識の働きによって知るのと全く同じことで、

思考を、意識の働きによって知る。(思考はそれだけで気付きがある訳ではない。意識がなければ闇に閉ざされたままなのだ。)


つまり思考(認識)は、頭脳の体感という訳だ。


ところで頭脳は、生まれてゼロ認識から始まる。

その赤ん坊は、育まれ、教えによって知識を身に着ける。

大人になると、身に着けた知識を活用して世界を認識するようになる。

人間の歴史は、認識で得た知識を、教え育むことで、世代を超えて成長させてきた道程のことだ。

しかし知識は既存の範囲を超えてものごとを理解し得ない。そのために、人は全く新しい世界を認識することが出来ないのだ。


どんなに既存の理論を組み立ててみても、説明できない世界はある。宇宙は未知の世界に満たされている。

それを人はどう理解していくのか。


リンゴの落ちるのを見て万有引力の法則を発見した、ニュートンの逸話もそうだ。

既存の知識をいくらこねまわしても、リンゴが木から落ちるのは熟したか、虫食いくらいの理由しか出てこない。なぜなら、頭脳の描く真実は既存の知識の他にはないからだ。

 

そんな時、インスピレーション。勘。直感。霊感。が働く。

第六感という訳だ。


五感は、体験から生まれる真実の理解。

第六感は、未知の領域から直接やってくる真実の理解。つまり直観なのである。

インスピレーション。勘。直感。霊感。どんな呼び名で言い表しても、言っていることは同じだ。


それは思考を介さずに、真実の方から直接やってくる。


思考を介さない理解。

それこそが、意識そのもののことだ。

直観は、文字通り、真実(意識)を直接観ることなのだ。


五感は、身体の器官にある感覚器の反応や、生態系の動き、頭脳の働きであり、

この私をつくっているいのちの営みの全般を、

意識が見つめている。それが私の正体だった。


この私という実在感は、意識の匂いであり、味わいなのである。

そして、第六感は、意識そのものの体感。真実の香りと言えるものなのだ。


自我のよりどころは物質だ。己の説明できる物質に囲まれる安心感と所有感がそのしあわせの目指すところとなる。

しかし、その自我そのものが作り物という理解は、自我に恐れをいだかせる。その恐れは、自我の解体、つまり死を強く思い描かせるのだ。自我の抵抗は計り知れない。


しかし、

「吾は空なり」これも思考なのだ。

自我は反発しながら、己の思考にその思いが生まれたことを認めるしかない。自我は怯えている。殺されかねないのだ。恐怖があってあたりまえだ。


さあ、どうする。

私は自我を愛する道をとる。


吾は空なり。

この新しい達観で、自我を優しくくるんでやりたい。

自我だって、しあわせになりたいという思いは同じなのだ。その思いを否定してはならない。

その思いと共に、もっとも価値のあるしあわせに、ともにたどり着きたいのだ。


吾は空なり、この達観は自我なしには得られないということでもある。

 

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