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般若心経を読み解く?(五次元的解釈)

2020-03-09 | 般若心経を読み解く(五次元)

色不異空 (色は空に異ならず)

空不異色 (空は色に異ならず)

色即是空 (色はこれ空なり)

空即是色 (空はこれ色なり)

 

般若心経によれば、「色」とは実体のあるモノとそれに付随する現象を指すという。この自分も色という存在なのである。

これに対して「空」とは、実体のないものを指す。

その色と空は互いに異ならず、空=色というのである。

 

つまり、この世に実体は存在しないという結論が釈迦の教えという事になるのだ。(私の知る限りの解説はそう書いている)

人は、肉体と心をもって自分だと理解している。

しかし、この肉体のどこに自分があるのかと分解して行っても、それは最後には素粒子の集団に分けられるだけで、そこに自分としての実体はない。

では心はどうかと探してみても、心は感覚器(目耳鼻口身)が感じとる感覚(色音臭味触)と、それに加えて頭脳の知覚と想いが加わったものである。

つまりそこには自分という実体は存在しないのだ。

お釈迦様は結局自分という実体は存在しないし、その実体がない自分が思い描く一切のものにも当然ながら実体がないと悟ったというのである。

したがってまた、自分が思い描く苦悩も実体はなく、ただ己が作り上げた妄想に過ぎない。

つまりこれを理解すれば一切の苦厄はなくなると説いている。

苦は実体のない単なる幻想である。

己という存在そのものが幻想であるのだから、その幻想である自分が思い描く苦悩は幻想の幻想。苦悩の実体はどこにもないというのだ。

 

では実体はどこにあるのか

ここに思考を探求する意味がある。

実体のない意識が最も実体に近づくことのできる思考。

それが五次元、スケールの概念だと思いたい。

真実に向かう思考は、決して真実(無)そのものを語れない。般若心経でさえ最後にはその教えそのものもまた実体ではないと言わざるを得ないのだ。

真実に入るには、思考の産物を飛び越えて彼岸に行くしかない。

 

思考によってどこまで彼岸に近づくことが出来るのか

そう考えると、スケールのイメージは

人間の思考が、真実(実体)と交わる地点まで進んで行ける概念なのではないかと思えるのだ。

五次元の、時間とスケールの交わる原点がそこにあるような気がする。

 (のしてんてん 五次元心の羅針盤) 参照

 

ともあれこれは、一作家の心の探求の一つの道筋に過ぎない。

まず行けるところまで行ってみよう。

どんな風景が見えてくるのか。

そこから生まれてくる作品を見てみたい。

その旅先で生まれるものを、五次元絵画と呼ぶことにしよう。

 

 

 

 

 


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2 コメント

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先駆者 (桂蓮)
2020-03-10 14:39:25
何年か前に『空』と『色』を通訳するにあたって
グーグル通訳を参考にしようとしたら
空は空っぽの意味のEmpty
色は色彩のColorに訳していました。
機械だから現状は飲めましたが、
訳す側に課せられた役務的な重さを感じたのでした。

のしてんてんさまの空や色の解釈は
簡単明瞭ですっきり感があるので、
それが機械が到底追いつけない人だけの特権かなと思ったりします。

5次元は、そうですね。
どんなに誠実に説明されようと
感覚器官では掴みとれない次元だと思うので、
論議できずにいますが、

のしてんてん様は、その次元を
映像化してくれるだろうから
信託して(託して)おこうと思ってもいます。

人が見えてないことや領域を
芸術家は先に視て
それを見せるーこの過程で共感できる者とできない者が割れて
見ようと、あるいは
見るべき焦点に注意を向けるために
他をぼかそうとする努力をするのでしょう。

先に何かを視て
自分より先に視た者が周りにいなければ、
孤独と付き合うことになるでしょうね。
見えていないところに戻れないわけですから、
見ようとしない人、
見えているのに気づけない人、
見ても素通りする人たちを
そっと導く、それが芸術家に課された役務かもしれませんね。

行ってしまったら
着いてしまったら
周りに誰もいなくなっても
そのまま
まっすぐ
行ってください。

いつか、私も行ける日がくるかもしれませんので。


桂蓮様 (のしてんてん)
2020-03-11 06:49:52
私の見ている己の風景が見事に表現されていて、まるで自問自答しているような感覚を覚えました。
不思議ですね。人は同じ風景を観ることが出来る、これはその証しなのかもしれませんね。ありがとうございます。

そうすると、私もいくらかは、桂蓮さんの風景が、桂蓮さんの心が同意する程度には見えていると考えていいのでしょうね。

「感覚器官では掴みとれない次元」と、五次元について言われていることもその風景が見えるような気がするのです。

しかしもちろん見えている訳ではありませんので、不用意なことを言うかもしれませんが、他意はない。そういう想いです。

理屈も何もいりません。ただ素のままで思い浮かべる心の風景。
「その中に空間があって、球体がいくつも浮かんでいる。」

桂蓮さんの心の中にそんな風景はありませんか?

もしその風景が見えるのなら、五次元はもうすでに感覚器で掴み取っておられます。五次元はそれだけの意味ですから。

五次元を理解するために必要な感覚は、空間と物質を、宇宙空間と同じだと想像する力だけです。

私はこれを、誰もが持ちうるイメージだと思っているのです。

宇宙空間こそ「色」と「空」の現れである。そう思うことが五次元なのです。

是非五次元を味わってみてくださ^い^

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