のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

己を受容する(4)

2016-04-23 | 5次元宇宙に生きる(神)

(フーの実と箱虫たち)

 

己を受容する。その究極にあるものは、自然です。自分は自然であるということを受けいれ理解するということですね。

自然に対して、人工という言葉があります。人工的という言葉は、人間を特別な存在として位置づける意味が含まれていますね。人間は自然の外にいて、必要なものは何でも自分でつくりだすことが出来るという思想があります。

私は山奥から大阪に出てきました。(ほどなく大阪万博がありました)

そんな私が始めてみたコンクリートと、ビルの街の印象は「死の街」でした。めまいがするほど人がいるのに、無機質の世界に恐ろしい孤独を感じたことがあります。

もちろん今では、好んでアスファルトの上を歩きますし、害虫や泥のないコンクリート世界を、清潔と思える感覚を持つようにもなりました。何年も土を見ないで生きていくこともできるでしょう。都会人として成長したわけです。

人間にとって自然は、克服し安全に利用する対象だと考えるわけですね。しかし、環境を整え、身綺麗な生活を追及するうちに、たくさんの忘れものをしてきたのです。

なかでも大きな忘れものは、「生かされている」という事実の忘却ではないでしょうか。

立派な大学を出て、就職して出世する。それが理想の社会では、「生かされている」のではなく、「自分で生きる」という思想が定着しますね。成功しない者は自分の努力不足に嫌悪感を感じ続けるかもしれません。自分で生きなければならないという強迫感の中では、生かされているなどとのんきなことを言ってはおれないですよね。

原因はどうあれ、私たちは自然と対立するような概念で人工的ということばを理解しています。しかし考えてみてください。人間の科学がどんなに頑張ってみても、血の一滴すらつくることはできません。科学がやっていることは自然の模倣であり、いかに自然に近づくかですね。たとえ自然界にはない物質をつくり出したと言い出しても、それは自然界にあるものを組み合わせただけのことですよね。

もし仮に、科学が究極のところまで極められたとしたら何が見えると思いますか。まさにこの自然を丸ごと理解できるようになっただけの話です。

つまり、何を言いたいのかといえば、人工的なものもまた自然の中に組み込まれているということです。

たとえコンクリートの街の中に生きる私たちであっても、例外ではありません。そればかりか、もっとも大切なことですが、私たち自身が自然そのものだということです。その肉体も、精神も、自然の産物であるわけですね。

自分の中にある自然を眺めてみてください。注意深く眺めていると分かってきます。この身体は生かさているのだと。水も、ご飯も、空気も、光も、何一つ自分でつくり出したものはありませんね。そして呼吸、鼓動。肌感覚、すべては自然に起こっているのがわかるでしょか。

思考も同じです。今思い出して台所に行くとしましょう。夕食の準備。さあ、それはあなたが 考えたのでしょうか。違いますね。もしあなたが意識して考えたのなら、夕食を考える前にその考えを始める準備をしなくてはなりませんね。しかもその準備を意識するためにはその準備の準備を意識しなければできないでしょう。そしてこの話は永遠に終わりません。

意識して何かを考えのであれば、必ずその前にその意識を意識しなければならない。でなければその時点で、考えはあなたではなく自然に生まれたことになるのです。もし仮に、思考は意識してすると仮定すれば、思考はその前の段階で準備の意識が次々と必要となって、一歩も歩めないことになる訳です。

つまり私たちは、意識して考えを始めることはできないのです。思考は突然私たちにやってきます。新しい理論を発見する研究者の思考を考えるだけでもそれはわかりますね。

つまり、私たちはしっかりと考えに基づいて動いているときでさえ、それは自然に起こっているのです。

ただし、私たちは突然起こってくる思考に対して、意識的に判断することはできます。良し悪しを判断して起こってくる思考を取捨選択しているわけですね。良い人、悪い人はそこで振り分けられるわけです。つまり善人にも悪人にも、おなじ思考がやってきている可能性は十分にあります。(少し話がそれましたが)

ともあれ、私たちが人工と思っていることも、実は自然の流れであるということはわかっていただけたでしょうか。

ややこしい話をあえてしているのは、己の受容を深めていくと、私たちは最後にこの自然に行き当たるからなのです。

自己受容を深く進めていくと、生かされている自分を見ることになります。

この命は自然そのものであり、その自然の中で相互依存しながら生かされているのです。

浅い自己受容の段階では、自然から孤立して独自に生きているように見えます。しかしそれは大いなる勘違いというもので、その勘違いが私たちに苦悩を舐めさせていると言ってもいいかもしれません。あるいは、苦悩はその間違いを知らせるシグナルなのかもしれませんね。

 己の内に自然を受容するということは、この宇宙と同化することを意味します。内宇宙と外宇宙、それは同じものだという理解がそこにあるのです。

 

 

 

 

 

 (初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。その後(五次元宇宙に生きる(心))を経て五次元宇宙に生きる(神)に至ります。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)

 

 

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