自然コレクション

秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

コキアでホウキを

2022年11月30日 04時07分00秒 | DIY
コキアを従兄弟が大量に育てて楽しんでいる。一度育てると翌年には勝手に生えてくるのだ。
春先、苗を4本もらって自分の庭先に移植した。
4本ともしっかり成長してくれて真っ赤に紅葉して楽しませてくれた。




そのコキアだが、ほうき木という和名で、昔から箒に利用されている。
枯れてきたが捨てるのは忍びないのでホウキを作った。



卓上用と外を掃くホウキを作った
これが本当によくゴミを掃き出してくれる。
市販のホウキの比では無い。細かな砂もしっかり掃き出してくれる。
耐久性には欠けるが、本当に良いものだ。




来年はホウキ用のコキアを多めに作ろうと思う初冬であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊芋を食らう

2022年11月23日 05時56分00秒 | 食いもん
朝から菊芋の調理調査をしています。畑のインシュリンと言われている菊芋ですが、あまりクセがなくサラダでもいけますが、飽きてきます。




よくきんぴらレシピも出てきますが、ゴボウにはかないません。
まずは薄くスライスしました。




そこで、ニンニク油で軽く炒めて鳥だしとあじ道楽で味付けをしました。




炒りごまをたっぷりかけて食らう。
あーこれはありだと!




うめーぞ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由利への入部400年

2022年11月20日 05時34分00秒 | 郷土史

1623年は由利地域への領主が入部した年です。そうです来年が入部400年の年になります。

六郷、岩城、内越、仁賀保各氏が小藩ながらこの地を治めたスタートの年です。由利本荘市でもイベントの準備をしているようです。

私たちは市史を平易に書き換え小学校高学年でも読めるものに書き換え作業をしていますが、小学校高学年まで下げるのはとんでもなく難しいです。まず近世のプロローグ文書ですが、これでは小学校では理解不可能です。


由利は一つ〜由利12頭〜

 私たちの住む、由利地方には「由利十二頭記」という、いわゆる戦(いくさ)を題材にした物語があります。これは、由利地域において戦国の時代に「由利十二頭」と呼ばれた、それぞれの領主の由緒(それまでの歴史)と互いの争いが話の中心です。本当にあったと思われる内容もあれば、そうでない部分もありますが、その当時の勢力の様子がよく分かります。

 中世と呼ばれる時代に活躍した由利十二頭ですが、江戸時代に入ると大部分は、由利の領主としては生き残れませんでした。

 それでも「由利十二頭記」は、由利地方の旧家の武家・商家から村名主・肝煎(きもいり〜名主とも呼ばれ百姓の代表)など幅広い人びとに書き写されて残されています。

 なぜ、このような記録が広く残されていると思いますか。

 それは江戸時代以降も、武士から町人・百姓に至るまで、自分たちは「由利」の人であるいう共通の思いがあったからだと思われます。現代になっても、由利地域の人びとにとっては「由利は一つ」がつづいているからです。


諸領主の配置

 天正十八年(1590)に、豊臣秀吉の全国統一によって由利の諸領主は秀吉の支配下に組み込まれました。秀吉の朝鮮侵略にも動員されているのです。しかし、慶長五年(1600)に起った関ヶ原の戦い後に、由利12頭は、領地替えや今までの領地を没収されてほとんど由利には残っていません。

 江戸時代になると、私たちの由利地域は山形城主の最上氏に与えられました。そして、その家臣である館岡満茂(たておかみつやす)が本城(本荘)に城を築いて、城下町を建設するなど、近世的支配への歩みが始まったのです。

 しかし、元和年(1622)に最上氏は、改易(領主をやめさせられること)されてしまいます。翌年の元和九年に、六郷政乗(ろくごうまさのり)に本荘藩二万石、岩城吉隆(いわきよしたか)に亀田藩二万石、仁賀保挙誠(にかほきよしげ)に一万石、打越光隆(うてちみつたか)に三千石をそれぞれが由利を与えられました。

 またしても由利は分割して支配されてしまいます。このように、由利地方の本格的な近世は1633年に始まったといえます。

 それぞれの領主の領地は、その後18年間で一部変動します。寛永三年(1626)に仁賀保氏の所領が、挙誠の長男の良俊七千石、二男の誠政に二千石、三男の誠次に千石と三人の息子に分割されたました。寛永八年に良俊が死去しましたが跡継ぎがいなかったために、七千石は没収となりました。さらにその三年後には打越氏が改易され矢島の領主でなくなりました。

 矢島藩には、寛永十七年に転封された讃岐(現在の香川県)の生駒氏に現在の矢島・鳥海地域の一万石が与えられたのです。その後は、その時に定められた領域が十九世紀前半まで続くことになります。

 この間、仁賀保では、端数のない石高で所領を与えるために一つの村が複数の領主に分割支配されるということも起っています。

 室沢村・三森村・伊勢居地村などです。このようにして、「由利は一つ」という地域感覚が存在した一方で、由利という小さな地域で複数の領主による分割支配が行われていたことが近世由利の特徴なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火鉢の魅力

2022年11月18日 08時32分00秒 | Weblog
うちには大小3つの火鉢があります。
一人では持てないほど大きな陶器の火鉢と片手でnも持てる小さな陶器の火鉢と中型の木製火鉢です。
全て、秋田市の古物屋で購入したもので、数千円でした。
昨年までは木を焚いて暖をとっていたのですが、洗濯物に匂いが付くと言われて猛反発をくらい、仕方ないので石油ストーブに戻してしまいました。
しかし、これだけ石油が高くなると、日中1人で暖をとるのに石油ヒーターは効率が悪すぎます。
そこで登場したのが火鉢です。
中型の木製火鉢は移動も簡単なので昨日から活用しています。
いつも執筆などしているパソコンの脇に置くと自分専用の暖房器になります。炭の匂いもとてもいい感じです。


この火鉢に合う五徳を探しています。近日中に準備したと思います。
さて火鉢うんちくです。
古くから日本人の間で親しまれてきた暖房器具である火鉢ですが、庶民に伝わったのは江戸から明治にかけてです。それまでは、上流の武家や公家の間では、奈良~平安時代からすでに生活に取り入れられていました。
日本三大随筆とされる「枕草子」の一節にもある「昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるは わろし」の炭櫃・火桶とは、今でいうところの火鉢を指しているのです。
千年も前から人々の生活の中に火鉢が息づいていたのだと思うと、感慨深いものがあります。

木材の内側をくり抜いて、その穴に炉を埋め込んで作られるくりぬき火鉢は軽くて庶民の間でブームでした。
丸太をそのまま活かした切り株のようなものから、成形されたきれいな曲線を描くものまで、様々な形があります。
くりぬき火鉢の最大の魅力は、なんといっても自然の木そのままの形、質感、そして雰囲気を味わえるところです。それにピンキリですが、比較的安価なものも多いです。
木そのものの美しさと意匠の美しさ、どちらも味わうことができるのは、くりぬき火鉢ならでは楽しみ方だと思います。
私は10年以上前に1280円で購入しました。これで十分楽しめます。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なめこタワー

2022年11月17日 03時24分00秒 | 山菜
キノコがでないでないと言われてた今シーズンでしたが、ついにスイッチオン。


なめこが大量発生中です。
ナラの立ち枯れにムキタケが付いていればその周辺にはなめこタワーが出現します。


1時間半ほどでリュックがいっぱいになります。目を閉じてもなめこタワーがカラーで出てきます。

熊はまだ冬眠前なのでとても心配ですが、時は刻んで行くのでやめられない止まらない状態です。
瓶詰めち冷凍保存で一年間なめこを買わなくても良くなります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南天が実をつけた

2022年11月16日 05時06分00秒 | Weblog
3年前豊栄のM氏に分けてもらった南京の苗木が成長して遂に実をつけました。
南天の苗をいただく - 自然コレクション←クリックしてくださいね


一年で伸びる丈は30cmほどしかありませんが、3年目には少ないですが立派な実です。

南天の実には咳止め効果のあるアルカロイドが含まれており、生薬として使われいますが、生食はできません。
 冬になるとヒヨドリがやってきて、庭のナンテンを食べていきますが、ナンテンの実の薬効は強いということなので、食べ過ぎると毒になるのではないかと心配したりします。鳥に食べてもらって遠くに運んでもらうのがナンテンの戦略です。



今年の門松作りに使うのはまだ無理ですね!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥海山滝沢登拝道

2022年11月11日 06時26分00秒 | 霊場
鳥海山滝沢口登拝道を登ってみました。まさしく紅葉真っ只中です。


鳥海山滝沢口登拝道は、江戸時代から昭和 20 年代まで、修験者が、森子大物忌神社から鳥海山 山頂の大物忌神社本殿を目指して登拝した道であり、矢島口登拝道と同様に、『出羽国風土記』に も記された、江戸時代から知られる「鳥海山古道」です。


森子スタートで木境大物忌神社経由で祓川から頂上の大物忌神社を目指していたルートのスタート部分が国史跡鳥海山の追加指定になったのです。滝沢口から市道に通じる登拝道は吹上まで1、2kmの基本急な登りです。



ゆっくり歩いて40分程で吹上まで行けます。
途中クリタケの大量発生の遭遇しました。ムキタケもたくさん生えています。


もし頂上まで行くとすると初日は花立牧場あたりで一泊して、2日目で祓川で一泊、3日目頂上アタック往復で祓川泊かな。森子まで戻るにはもう2日かかるので、アルプス縦走並みの計画になってしまいます。
鳥海山はすでに雪なので、ゴールデンウィーク明けから9月いっぱいの4か月ほどしかできないです。
修験道エセ上級コースとしてツアーが組めないかと思案しています。

 
    江戸時代中期以降、鳥海山信仰 の隆盛とともに、「道者(どうし ゃ)」と呼ばれた人々が講を組織 し、東北一円から鳥海山を目指し て登拝を行うようになると、修験 者は、先達として、山頂まで道者 を案内するようになりました。そ うしたことから「道者道」とも呼 ばれています。滝沢口登拝道に は、道者から道銭を徴した場所や 水を汲んだ場所、月を眺めた場所 が、それぞれ「小屋掛けの松」、 「水飲場」、「大月」と称され、確 認されています。
この度追加指定される滝沢口 登拝道の範囲は、当時のまま現在 まで保存されてきた、森子大物忌
一面もみじに覆われる、秋の滝沢口登拝
 -1-

神社社殿から東由利原高原「吹上(ふきあげ)」まで至る、道幅約 1.5m、長さ 1.218 kmの範囲で す。途中には、31 度の急勾配な坂があるものの、鳥海山を仰ぐ展望所や休憩椅子などが設けられ、 春には新緑の美しい散策道、秋には紅葉の美しい散策道として知られ、活用されています。この 滝沢口登拝道は、森子大物忌神社文化保存会が、下草や雑木を伐採して往時の姿に復元し、さら に、展望所を設けるなど、数年に亘って整備し蘇らせたもので
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥海山の頂上を!

2022年11月09日 04時13分00秒 | 霊場
木境大物忌神社(きざかいおおものいみじんじゃ)は、矢島の花立牧場から祓川にむかってすぐのところにあります。鳥海山方面に(西へ)約1.2km。県道に面しているが、木立に隠れていて、見逃しやすいですが、駐車場もあります。



「木境大物忌神社」は、いくつかある「鳥海山」登山口の1つ、「矢島口」の本拠地となった神社です。

伝承によれば、嘉祥3年(850年)に美濃国土田から来た比良衛・多良衛という兄弟が鳥海山を開山し、貞観12年(870年)には修験道当山派を開創した醍醐寺の聖宝(後の理源大師)が鳥海修験を興したとされています。比良衛・多良衛は赤鬼・青鬼と呼ばれるようになり神社の向かい側付近にある「開山神社」に祀られています。





なお、開山後、比良衛・多良衛は麓に下りて土田氏を名乗って土着し、現在も善童鬼の家系という土田家の氏神として祀られいます。


「木境大物忌神社」は、鳥海山の北麓、二合目に位置していて、建長6年(1254年)に改めて出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請して、遥拝所として整備されました。江戸時代には、本山堂には役行者像、新山堂には薬師如来像が祀られ、女性の参拝も許されていたため、別名「女人堂」とも言われていました。
元禄14年(1701年)、「鳥海山」山頂御堂(現・「鳥海山大物忌神社山頂御本社」)の建替えの際に山上の支配権を掌握しようとしましたが、従来から建替えを行ってきた「蕨岡」にかないませんでした。
元禄16年(1703年)には「鳥海山」の峰境についても「蕨岡」との間で争いを起こしましたが、政治上の問題にもなったことから、最終的には宝永元年(1704年)に江戸幕府の裁定によって蕨岡の支配下という事になりました。
実際問題として、1万石に満たない小藩である矢島藩と庄内平野を領して豊かな庄内藩(14万石)との争いともなったので1その経済力の差で敗れたとも言われています。
なお、この採定により由利郡側の山腹七合目から以南は飽海郡に属するとされ、これが現在に至るまで秋田・山形県境が「鳥海山」では北側に突き出した形になった原因にもなっているのです。

更ににかほ市自体が酒田県に組み込まれていた事もあって、通常分水嶺で区切られる県境が歪な形になっています。

最近県境を分水嶺で区切るよう変更させたいグループがいますが、宗教的にも難しいと思いますね。

更に山形県側には現在も修験者のグループがいて修験の姿で遊佐から登山しています。

我が由利本荘市が頂上を獲得するためには、修験者の育成から始めないと無料かも。エセ真言宗や天台宗でも良いので矢島周辺のお寺の力を借りて修験体験ツアーなどを企画するのも良いかも。

2合目からホラ吹きながら山頂目指すツアーをみんなでやりませんか?もちろん白装束で!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巴館に行ってきました

2022年11月08日 04時20分00秒 | 霊場
巴館の調査
 由利町の鮎川地域の最深部に屋敷集落があります。今は車道があるので、そんなに隠れ集落感はありませんが、どう考えてもこんなところに人が住んでいたとは思えないところです。そこに巴館という城郭跡があります。屋敷番学はこの地方の本海番学とは違い一種独特に文化が引き継がれています。
ちなみにとても優秀な方が多い地区です。



 巴館は、旧由利町屋敷地区の鮎川と天拝川に挟まれた南北に細長い微高地(比高5-10m)に築かれた丘城です。主郭は佐藤住建の上部です。

鮎川と天拝川を自然の濠としています。

城の規模は推定 東西60m×南北300mほど、内部は大きくは堀で仕切られた南・北の2郭群からなり、北側の郭群が本郭と言われています。


本郭も5mの段差で区画された南・北の2郭構造になっていて、規模は南側の上段郭が東西10m×南北25mほど、北側の下段郭が推定 東西50m×南北100mほど、北側の郭が居住空間、南側の郭が物見郭と思われます。
現在の由利原高原につながる道路はなかったので、農民を守る為にはとても堅牢な要塞であったと思われます。

また堀を挟んだ南側稜線に3-4段の段郭群が構築され、本郭を防御する構造になっています。


現在は、本郭部分が車道建設により大きく削り取られ、また南側の段郭部分は家屋が建てられ遺構の大部分が消滅しています。

 巴館は、伝承によるば仁治年間(1240-42年)、木曽義仲の奥方(家人) 巴御前の一族の巴太郎頼勝がこの地に来て居住した館と言われています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悲しき最後!丁刃丸

2022年11月06日 02時55分00秒 | 霊場
にかほ市平沢の小学校の真向かい、県道をへだてて小高い丘がある。そこを丁刃森と言います。




十四世紀、由利仲八郎政春がこのあたりで勢力を誇っていましたが、鳥海弥三郎盛光に破れ、西滝沢の城も落城しました。






由利仲八郎には丁刃丸という十三歳の息子がおり、密かに乳母お沢の家にかくまわれました。しかしお沢の父親の権七は盛光に従っており、丁刃丸を盛光に差しだそうとしたのです。お沢は丁刃丸を逃がしますが、権七に捕まり、川に落ちて死んでしまいました。丁刃丸も権七と戦い、互いに死んだのです。そこが平沢小学校近くです。
丁刃丸を埋葬した場所を丁刃森というのです。
TDKミュージアムの南側の丘のその頂に建武碑があります。
建武碑は丁刃丸の供養塔とされています。





鳥海弥三郎は、前9年の役で敗れた安倍一族の残党とされていて、どのように由利に流れてきたのか調査中です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする