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自転車でコスモスの島へ index

2015-10-21 22:47:48 | 自転車でコスモスの島へ

「花の旅」 総合目次 


自転車でコスモスの島へ index

 

 60歳を過ぎて、40数年振りのサイクリングにチャレンジしました。

 

 東京~大洗

 

1  人生100年の自転車旅 北海道への花旅  (自転車で初秋の北海道へ)

2  痛むお尻を庇いながらの自転車旅 (学生時代以来40数年振りのサイクリングです)

3  今日のフェリーは欠航です (フェリー火災の影響で9月6日の便は欠航でした)

4  商船三井フェリー エコノミールーム (9月7日月曜夕方、大洗発の便で苫小牧へ)

 

 苫小牧~襟裳岬

 

5  北海道大学苫小牧研究林  (9月8日 北大苫小牧演習林を訪ねました)

6  秋の気配の国道235号 人生100年の自転車旅  (9月9日 苫小牧から静内へ)

7  自転車で訪ねた二十軒道路桜並木のコスモス  (9月10日 二十軒道路の秋桜)

8  コスモスは北海道に良く似合う  (静内のコスモスとアカマツの話題です)

9  静内から のどかな自転車旅  (全てのことから解放された自転車旅です)

10 潮風の日高三石海岸 人生100年の自転車旅  (家々の庭にコスモスが揺れます)

11 アポイ岳 人生100年の自転車旅  (花の百名山のアポイ岳が見えてきました)

12 えりもの街は 人生100年の自転車旅  (えりも町を抜けて襟裳岬へと向かいます)

13 風極の地 襟裳岬へ 人生100年の自転車旅 (岬は雨と風が吹き荒れていました)

 

 襟裳岬~帯広

 

14 襟裳岬のクロマツ  (襟裳岬魚付き林にクロマツが育ちます)

15 親切な庶野の佐藤商店さん  (夜の雨の中、軽トラックで広尾まで送って頂きました)

16 帯広のNさんとインデアン  (9月11日 台風襲来の予報の中、帯広へ向かいます)

 

 帯広~層雲峡

 

17 人生100年の自転車旅 上士幌で食糧を調達  (9月12日 帯広から北上します)

18 上士幌から糠平 十勝平野を自転車で  (平野部を抜けて坂道が始まりました)

19 十勝三股 三股山荘の記憶  (十勝三股の周囲に懐かしい山々を望みます)

20 三国峠を自転車で 唯我独尊、自画自賛  (40年振りのサイクリングで三国峠制覇)

21 三国峠を下る 旅と人生ごっちゃごちゃ  (帯広から10時間半で層雲峡に抜けた!)

 

 層雲峡~宗谷岬

 

22 人生100年の自転車旅 夢の中で  (9月13日 雨が降ったので停滞です)

23 コスモスの島にフジバカマ香る  (9月14日 コスモスの国道40号線を北上します)

24 人生100年の自転車旅 名寄から美深  (名寄の先の智恵文で豪雨に遭います)

25 人生100年の自転車旅  天塩川に沿って  (天塩川沿いを自転車で天塩中川へ)

26 人生100年の自転車旅 利尻富士が見える道  (9月15日 利尻岳が見えてきた)

27 人生100年の自転車旅 利尻富士笑う  (64歳のサイクリングで稚内到着です)

28 稚内海岸に続くカシワ林  (ハマナスやカシワに思いが膨らみます)

29 日本最北端のコンビニで  (若者達は元気でした。おじさんだって元気です。)

30 人生100年の自転車旅 宗谷岬にて (65歳になる前に、自転車で宗谷岬に到達)

 

 宗谷岬~音威子府

 

31 日本最北端 宗谷港の「てっぺんドーム」  (9月16日 宗谷岬からオホーツクを南へ)

32 オホーツク海に沿って  (穏やかな秋日和、海を見ながらの自転車旅です)

33 日本離れした猿払村の光景 (北海道らしい、大きなスケールの景色が広がります)

34 人生100年の自転車旅 浜頓別から下頓別へ (浜頓別から国道275号線へ)

35 人生100年の自転車旅 敏音知岳 (ピンネシリ岳をスキーで滑った想い出など)

36 小頓別の丹波屋と天北峠 (天北峠を越えて音威子府へと向かいます)

 

 音威子府~苫小牧

 

37 旭川 見本林 (9月17日 旭川の見本林で針葉樹を観察しました)  

38 神居古潭と日本一の直線道路 (国道12号線沿いもコスモスが咲き揃います)

39 コスモスの島自転車旅 エピローグ (60歳過ぎてもチャレンジ精神は失いません)

 

 

その他の「花の旅」はこちら →   「花の旅」 総合目次

 筆者のホームページ 「PAPYRUS

 

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コスモスの島自転車旅 エピローグ

2015-10-14 12:54:02 | 自転車でコスモスの島へ

 

 9月19日

 

 テレビの天気予報が降水確率70%の雨天を告げていました。

 

 午後から天気が崩れる予報でしたから、苫小牧まで60㎞程でしたが、朝6時半に栗山の旅館を出発しました。

 

 

 苫小牧方面の空に雨雲が広がっていました。

 

 

 自転車を進めるとすぐに夕張川を渡ります。

 

 平野を流れる川は、水の動きを全く感じさせません。

 

 今日のルート上に、脚の負担となるアップダウンはなかった筈です。

 

 

 自転車が進む国道234号にキバナコスモスが優しい花を並べていました。

 

 

 自転車は順調に距離を伸ばし、かつてヒマワリの旅のブログでご紹介した東千歳のバーベキュー屋さんの前を通過します。

 

 

 道の脇にユウゼンギクやネバリノギクが美しい花邑を見せてくれました。

 

 

 

 追分辺りで、コスモスの花の連なりに心染まります。

 

 

 そして自転車は、勇払原野を直線状に流れる勇払川を渡りました。

 

 

 その先で国道234号は国道235との沼ノ端分岐点に差し掛かります。

 

 北海道サイクリングの初日、私はこの場所で襟裳岬へと進路を定め、自転車をこぎ進めて行ったのです。

 

 その日から丁度10日目、私はコスモスの島北海道を南北に縦断して、今無事に振り出しの場所へと戻ってくることができました。

 

 

 

 植物園通いと、パソコンの前に座り続ける日々の中で、アドレナリンが末梢細胞をピリピリ刺激する時間に浸りたくなっていました。

 

 北海道へ自転車で行くならこの季節以外はないと考え、即断即決ではしり始めた旅でした。

 

 64歳の私にとって、来年を待つという選択肢は、自分への空手形になる可能性があると思うのです。

 

 新しい安倍内閣の閣僚紹介で、幹事長の谷垣さんは趣味の自転車で週末に100km超も走るそうです。

 

 あのような激務の方が自転車で100km超走ることを知って、今回の自転車旅程度であれば、まだまだやれる自信も付きました。

 

 今回の旅で得た新しいスキルを、次につなげたいと思います。

 

 

 そして、今回のブログが、私のように還暦を過ぎた方々へのエールとなれば幸いです。

 

 などと強がっていますが、油断すると、ある日突然閻魔様からお呼び出しが掛かるかもしれません。

   

 これからも、一日一日を大切に、心の欲するところに従い、悔いのない日々を過ごしてゆきたいものです。

 

 ほぼ二週間に亘る旅にお付き合いを頂きまして、本当にありがとうございました。

 

 

 

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神居古潭と日本一の直線道路

2015-10-14 12:46:02 | 自転車でコスモスの島へ

 

 旭川を出て国道12号線を進んで行くと、石狩川が上川盆地から石狩平野へと流れ抜ける渓谷の神居古潭に出ました。

 

 旭川市内から車だと30分もかからない距離にあります。

 

 

 石狩川右岸の尾根の上に神居岩が見えていました。

 

 就職した翌年から旭川に住み、社会人山岳会に所属した私は、週に二日程、仕事が始まる前、朝5時頃から7時半頃にかけて、この神居岩でロッククライミングのトレーニングを行い、8時半からの仕事に出て行くような日々を過ごしていました。

 

 休日の土日や祝日は殆ど山に登っていましたから、一年間で山登りに費やした日数は100日を越えた記録が残っています。

 

 全てにがむしゃらだった日々を、神居岩が思い出させてくれます。

 

 

 

 神居古潭を抜けて、深川市に入った国道の脇に、川幅を広げた石狩川がゆったりとした流を見せていました。

 

 

 

 周囲の田には収穫を控えた稲穂が黄色く輝いていました。

 

 

 滝川市街へ入りますと、国道の横で、白とピンクに咲き分けたコスモスが風に揺れていました。

 

 

 滝川市街を抜けると間もなく、国道12号線は、日本で一番長い、直線距離29.2km の場所に入ってきました。この時が10時23分でした。

 

 

 多少のアップダウンを見せながら、ひたすらの直線が続いています。

 

 

 そんな直線道路の脇にもコスモスが揺れ、ヒマワリが満面の笑顔を投げかけていました。

 

 

 そして、美唄市光珠内で国道は右へカーブし、直線区間は終わりを告げます。

 

 この画像の撮影時間を確認すると12時09分でした。

 

 距離が分かっているので、この直線道路の平均速度を計算すると、時速は約16.5㎞となりました。

 

 普通のペースで、ほとんど平坦な道を走行した時のスピードはその程度のようです。

 

 休憩や食事の時間をどれ程取るかによって、一日の走行距離が決まってくるように思えます。

 

 

 国道12号を岩見沢まではしり、岩見沢で自転車を国道234号へと進めました。

 

 そして14時半頃、栗山町のくりやま旅館にチェックインすることができました。

 

 料金は素泊まり一泊3500円と、とてもリーズナブルです。

 

 旅館の玄関先に自転車を停める5分程前から雨が降り始めていました。

 

 

 

 

 

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旭川 見本林

2015-10-14 11:50:41 | 自転車でコスモスの島へ

 

 9月17日

 

 6時前に音威子府を出発しました。

 

 音威子府から旭川を目指します。

 

 今日は三日前の9月14日に、比布から北上したルートと90%以上重なります。

 

 出発して直ぐに、デジカメのバッテリーが切れましたが、面倒なのでそのまま自転車をこぎ続けました。

 

 今日は旭川で、ネットカフェーに入り、インターネットでフェリーの運航状況や、明日以降の天候などを確認し、コインランドリーで洗濯、そして久しぶりの入浴を予定していました。

 

 早い時間に旭川に着くことができれば、三浦綾子の「氷点」の舞台となった見本林に行って、様々な針葉樹を観察しようと考えていました。

 

 そして私は15時過ぎ、旭川見本林の爽やかな緑に包まれていました。

 

 

 静かな見本林の中に、国道40号の幌延辺りで見かけたドイツトウヒ(ヨーロッパトウヒ)などが植栽されていました。

 

 ここのヨーロッパトウヒは1902(明治35)年に植栽されたと記されています。

 

 木を育てることの大変さが良く分かります。

 

 そして失う時は、どんな木も一瞬です。 

 

 

 

 

 ここの見本林は、1898年に外国の樹種が日本の寒冷地で育つかどうかを観察する為に造られたのだそうです。

 

 そして1998年、見本林の入口に三浦綾子記念文学館が建設されました。

 

 記念館では読書会が行なわれ、時折森を散策する人の姿を見かけました。

 

 

 見本林の横には美瑛川が流れ、川の堤防の中に芝生の公園を見付けたので、そこにテントを張ると、自転車でコインランドリーとスーパー銭湯へ向かいました。

 

 

 

 

 9月18日

 

 旭川の街を出て国道12号線を岩見沢方面へ向かいます。

 

 

 今日は夕方前から雨が降る予報だったので、岩見沢の先の栗山にインターネットで宿を予約しました。

 

 明後日の苫小牧~大洗間のフェリーも運航を確認し予約を入れました。

 

 フェリーは大洗に明後日の14時に着くので、自転車で、その日のうちに東京へ帰るのは無理です。

 

 そこで茨城県土浦市にも宿を予約しました。

 

 年金生活者の節約旅ですが、旅に出てから10日以上が過ぎましたので、帰路は無理をせずに安全策をとることにしました。

 

 石狩川に沿って、国道12号線を進んで行きます。

 

 昨日までの道と違って、交通量も多目でした。

 

 

 

 

 

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小頓別の丹波屋と天北峠

2015-10-14 00:01:30 | 自転車でコスモスの島へ

 

 

 敏音知(ピンネシリ)岳を見ながら自転車を進めました。

 

 

 しかしやがて、国道275は道の駅ピンネシリを過ぎた頃から、山に背を向けるようになってきました。

 

 

 平坦な道が山間部に続いていました。

 

 

 

 そして、小頓別を通過する時に、見覚えのある建物を目にしました。

 

 今から40年程前に仕事でこの辺りを走り廻っていたことを、以前のページに記しましたが、その頃から印象に残る、特徴ある建物でした。

 

 「小頓別 丹波屋」で検索してみますと、「旧丹波屋旅館 保存会」のホームページが見つかりました。

 

 和洋折衷様式の旧丹波屋旅館は大正から昭和にかけて建てられ、平成元年(1989)にJR天北線が廃止されるまで、旅館として経営されていたそうです。

 

 このホームページを見て私は、音威子府から浜頓別、更にはその先へと線路が伸びていたことを改めて認識し直しています。

 

 

 小頓別を過ぎると、上り坂が待っていました。

 

 今思えば標高差は100m前後、坂の長さは7~800m程だと思うのですが、敏音知岳の横を過ぎると後は下りだけだと思い込んでいたので、不意打ちを食らったような思いで坂を登りました。

 

 

 この坂の頂上が天北峠で、標高は187m程のようです。

 

 車で通れば峠を意識しないかもしれません。

 

 

 天北峠を登りきると、そこから快適なダウンロードが森の中に続いていました。

 

 

 やがて、目の前に国道40号との合流点が見えてきました。

 

 

 そして、音威子府の道の駅に到着しました。

 

 道の駅で時計を確認すると、デジタル時計が16時20分を表示していました。

 

 

 宗谷岬を出発してから約120㎞を10時間程の行程でした。

 

 

 

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人生100年の自転車旅 敏音知岳

2015-10-13 22:18:02 | 自転車でコスモスの島へ

 

 昨日幌延町で跨いだ、北緯45度線を再び通過しました。

 

 昨日の北緯45度線は音威子府よりも、かなり北に進んだ場所だった記憶があります。

 

 早いペースで進んできたように思いましたが、まだそんなものか、やっぱり北海道は広いなと、一人呟きます。

 

 

 しかし程無く、目の前に見覚えのある山が見えてきました。

 

 お椀を伏せたような山容は敏音知(ピンネシリ)岳に間違いありません。

 

 数時間前に猿払村から見たときは粟粒のようだったのに、いつの間に、それ程の距離を走り来たのでしょうか。

 

 

 そして、中頓別の街に到着しました。

 

 コンビニに入って、100円コーヒーを飲み、一息入れます。

 

 コンビニの時計は13時を少し過ぎた辺りを示していました。

 

 

 今の時間に中頓別であれば、今夜の野営地は音威子府しか考えられません。

 

 しかし、この先には幾つかの峠が待っているはずです。

 

 気持ちを新たにして、国道275線へと自転車を進めました。

 

 

 道の両脇に、美しい緑の牧草地が連なります。

 

 

 敏音知(ピンネシリ)岳が益々大きくなってきました。

 

 この山は標高704mの低山ですが、アイヌ語のピン・ネ・シリ「男の山」を名の由来とするように、独立峰としての雄々しい姿は、山登りを趣味とする者の心を動かす何かがあります。

 

 

 国道は敏音知(ピンネシリ)岳に北から近づき、高度を高めながら山裾を廻り込むように南下します。

 

 多分、この辺りから見る敏音知岳が、最も雄々しい姿でしょう。

 

 営業の仕事でこの辺りを車ではしり巡っていた頃、雪崩の心配がない日を狙って、旭川から出かけて来て、頂上からスキーで滑り降りたことがあります。

 

 1980年前後のことだったと思いますが、多分、今見えている斜面を降りて来たように記憶しています。

 

 

 国道275は峠への道を進んで行きますが、この時私は、ここを登りきってしまえば、音威子府までは下り道が続くとばかり思い込んでいました。

 

 何度も車で走った道でも、高低差の記憶はかなり曖昧だったことを後で知ることになりました。

 

 

 

 

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人生100年の自転車旅 浜頓別から下頓別へ

2015-10-13 17:30:53 | 自転車でコスモスの島へ

 

 青い空の下で、ほんわか回る風車にペダルをこぐタイミングがシンクロしました。

 

 風車はこちらを向いてますので、追い風のはずです。

 

 襟裳岬で吹かれたような、向かい風は強く意識しますが、追い風は気付かないもののようです。

 

 逆風の時間は永く感じ、追い風の間は早く過ぎ去るのと同じ心境でしょうか。

 

 誰かに泣かされたのは忘れ難く、誰かを泣かせたことに気付かないのも同じ心理かもしれません。

 

 惚れたのと、惚れられたのはどっちかな、などと、単調な景色の中で、普段の生活では考えない、連想の翼が広がります。

 

 

 まもなく渡った猿払川は、何度目の川になるのでしょう。

 

 

 少し登りぎみの道を、浅茅野台地へと進んで行きます。

 

 農場では冬を迎える準備が始まったようです。

 

 牧草を乾燥させる作業があちらこちらに見られました。

 

 

 知来別を過ぎた辺りでは、地平にへばり付くように見えた山影が、今はっきりとした形になってきました。

 

 

 そして、いよいよ浜頓別市街に入ってきました。

 

 

 浜頓別市街は昔と変わらぬ姿のように見えますが、記憶そのものが定かではありません。

 

 

 浜頓別町で正午を迎えました。

 

 コンビニで昼食を求め、役場前の公園でお弁当を広げました。

 

 爽やかな秋の日の公園で、1時間程ののんびりした昼休みを過ごしました。

 

 自転車旅も後半に入り、メインの目的だった襟裳岬、三国峠、宗谷岬をクリアし、気持ちに余裕が生まれていました。

 

 昼食を済ませ、今度は音威子府へと向かう国道275に入りました。

 

 

 午後になって、空に雲が広がってきましたが、天候が崩れるような気配はありません。

 

 

 街を出ると程無く、頓別川を渡りました。

 

 この川は護岸工事などの形跡も見られず、魚影が濃さそうです。

 

 

 下頓別では、通路の両脇に萩を咲かせ、松を育てる農家を見かけました。

 

 数日前に松を見かけた美深よりも更に北に位置する場所で、松に萩という日本古来の植物を育てる人々の存在に、感銘を受けました。

 

 この地で見る、人々の松や萩に対する思い入れは多分、故郷を離れた入植者達が、想像を絶する酷寒の地で、過酷な生活を強いられたことが背景にあるのでしょう。

 

 北海道で20年以上もの歳月を過ごしましたが、今になって初めて、チリチリするような感覚を伴って理解できることもあります。

 

 

 

 

 

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日本離れした猿払(さるふつ)村の光景

2015-10-13 13:24:44 | 自転車でコスモスの島へ

 

 空にぽっかり白い雲。

 

 今日も一日良い天気が続きそうです。

 

 

 知来別(ちらいべつ)を過ぎて暫く進むと、海岸に沿って釣竿が並ぶ光景が現れました。

 

 こんな光景は初めて目にしました。

 

 

 道路脇で作業する人から、頑張って! と声を掛けられたので、自転車を停めて、何が釣れるんですか?と聞いてみました。

 

 

 すると、「シャケ(鮭)です。見ますか?」と言われたので、ガードレールを跨いで近寄り、クーラーボックスの中を見せてもらいました。

 

 2リットルのペットボトルが横に入るほどの大きさのクーラーボックスに鮭が10本以上入っていました。

 

 この方は札幌から来ているそうで、今日この場所で三日目を迎えるそうです。

 

 クーラーボックスがいっぱいになってきたので、そろそろ帰るつもりだとのお話でした。

 

 

 周囲にテントを張って竿を並べる人達の姿もありました。

 

 北海道で見て聞く話はやっぱり一味違います。

 

 

 やがて、さるふつ公園前を通過しました。

 

 道の駅でしょうか、昔はこんな施設はなくて、海岸沿いの民家も昔と違って、サッシ窓を並べた立派な近代住宅に変わっていました。

 

 

 知来別を過ぎてからは道も平坦となって、遥か遠くに山影が見えて、周囲に草原が広がっています。

 

 

 ご覧頂く写真でははっきりしませんが、草原の奥に敏音知(ピンネシリ)岳の姿が垣間見えました。

 できることなら今日中に、あの山の麓まで着ければ嬉しいのですが。

 

 

 それにしても、何とも日本離れした光景です。

 

 まるでアメリカのデンバーから、インターステート70を東へ走った時の景色を見るようです。

 

 

 そして、ここにもパーキングシェルターが設けられ、冬は過酷なブリザードが吹きすさぶ光景に変わることを伝えていました。

 

 

 もう40年ほども昔のことになりますが、今より道が細く、道の駅や商店などもなかったあの頃、四季を通して、月に二回はこの道を車で走ったことが、幻覚だったかのように思えます。

 

 それでも、春が来れば、シェルターの上に広がるような空を、白鳥達が雁行し、北の空へ飛び去る光景は、眼の奥にはっきりと焼き付いています。

 

 

 

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オホーツク海に沿って

2015-10-12 17:08:19 | 自転車でコスモスの島へ

 

 オホーツク海に沿って自転車を進めて行くと、朝陽が明るく照らす海に、小さな漁船の姿が見えていました。

 

 

 オホーツクの海は静かに広がり、細紐のような波が磯部を縁どっていました。

 

 風のそよぎさえも聞えない朝の道に、小鳥達の声が響いていました。

 

 

 沖の小島にウミウが8羽、朝餉の後の寛ぎにひたっています。

 

 

 しかしやがて、道の先に丘が現れ、その後ろに丘陵地帯を控える場所に差し掛かって、登り坂が始まりました。

 

 

 昨日、稚内方面から眺めた、白い風車が並ぶ宗谷丘陵の中に入って来たようです。

 

 

 地中の水分が凍結融解を繰り返すことで形成された、周氷河地形と呼ばれる、独特の稜線と谷が海の際まで続いていました。

 

 

 標高が100mあるかなしかの丘陵地帯を越えて、道は続きます。

 

 

 道路の横に、電信柱ほどの高さで、下を向いた矢印のようなものが見えています。

 

 これは、冬になって、一面の雪野原となったとき、道路端を車に教える為の標示物です。

 

 この道も40年程昔、何度も仕事の車で通りましたが、流氷がオホーツクに広がる季節は、丘も海も、全てが白一色の世界でした。

 

 

 緩い丘を登り、緩い丘を下って道は南下します。

 

 

 

 宗谷岬を出発してから休みなく自転車を進め、知来別(ちらいべつ)で初めて小休止を取りました。

 

 バス停前の縁石に座り、荷物に潰れてぺしゃんこになった大福餅を頬張りました。

 

 

 それにしても、見事な青空です。

 

 

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日本最北端 宗谷港の「てっぺんドーム」

2015-10-12 10:36:10 | 自転車でコスモスの島へ

 

 9月16日

 

 宗谷岬先端の、漁港の芝生に張ったテントの中で朝を迎えました。

 

 

 テントを張った宗谷港には、平成16年度に完成したユニークな親水護岸「てっぺんドーム」があります。

 しかし、その存在はあまり知られてはいないようです。

 

 上写真の左手に、二層構造の「てっぺんドーム」が写っています。

 但し、逆光なので少々判り難いかもしれません。

 

 「てっぺんドーム」は日本最北端の港のドームなので、てっぺんの名を付けたのだと思います。

 二階が展望台で、一階部分は漁業活動を想定した岸壁となっていました。

 

 

 展望台に登りますと、海から登る朝陽に照らされ、全身に血が巡り始るような感動を覚えました。

 

 

 振り返れば、展望台へと通じるスロープ越しに、宗谷岬の民家や灯台などが朝陽に照らされていました。

 

 

 殆どの船が漁に出払ってしまった後の朝の漁港は、すっからかんとした光景を見せています。

 

 

 展望台からの階段を下りて行くと、港の北側が壁となったドーム状の護岸が続いていました。

 

 朝の漁を終えた漁船はここで、水揚げ量日本一を誇るミズダコを陸揚げするのでしょうか。

 

 

 一匹の瘦せこけたキタキツネが、昨晩からテントの周囲を徘徊します。

 

 しかし決して、餌は与えませんでした。

 

 漁船が帰えればきっと、新鮮な雑魚に恵まれると思います。

 

 

 朝日に包まれた宗谷港に別れを告げ、国道238号線へとべダルを踏み出しました。

 

 

 

 昨日出会った若者達に教えてもらった日本最北端のコンビニ以降、全てのものに「日本最北端」の形容詞が付されています。

 

 日本最北端のガソリンスタンドが朝陽に輝きます。

 

 

 日本最北端の宗谷郵便局前を通過します。

 

 

 そしてこれが「日本最北端の学校」の栄光に輝く、稚内市立大岬小学校です

 

 

 そして少しずつ、日本最北端に別れを告げて、南へと走り進みました。

 

 

 

 

 

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人生100年の自転車旅 宗谷岬にて

2015-10-12 00:22:11 | 自転車でコスモスの島へ

 

 岬への途中で、「間宮林蔵渡樺出港の地」の石碑を目にしました。

 

 過去に何度もここを通りましたが、今まで気づきませんでした。

 

 間宮林蔵は文化5年(1808)4月、郷里から持ってきた墓石をこの海岸に建て、樺太探検に出発して行ったそうです。

 

 同年7月に再度樺太に赴き、樺太が島であることを確認し、その時作成した地図がシーボルトによって紹介され、樺太と大陸の間が「間宮海峡」と命名されました。

 

 

 そして私は愛車「ロシナンテ」にまたがり、16時24分、宗谷岬に無事辿り着くことができました。

 

 

 何とかなるとは思いましたが、本当に何とかなるものです。

 

 学生の頃に比べ、今の体力は6~7割程でしょう。

 

 しかし当時に比べ、気力、精神力、経験値、判断力で格段の差を実感しました。(しょせん当社比ですが。)

 

 人生100年の自転車旅は、サミュエル・ウルマンの「青春とは」の言葉

 

  青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を云う。
  ・・・
  たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
  青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

  青春とは臆病さを退ける勇気、
  安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
  ・・・
  年を重ねただけで人は老いない、理想を失うとき初めて老いる。
 

  60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に惹かれる心、
  おさなごのような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。
  ・・・
  人から神から美・希望・喜び・勇気・力の霊感をうける限り君は若い。

  ・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、

  80歳であろうと人は青春にして已む。 

 

 を噛みしめる旅となりました。

  

 

 宗谷海峡を挟んだ海の向こうに、樺太が見えていました。

 

 間宮林蔵があの島に渡った頃、伊能忠敬は人生50年と言われた歳で隠居し、そこから天文学を学び、74歳で没するまで、日本中を歩き巡り、地図を作り続けました。

 

 宗谷岬で私は、今から200年以上も前に、第二の人生を50歳でスタートさせ、「心の欲するところに従って」余生を全うした偉人を思いました。

 

 

 

 伊能忠敬と同様に、私には忘れられない方がおられます。

 

 その方は脇坂順一さん。

 

 脇坂さんは久留米大学の教授で、アフリカのシュバイツァー博士のもとで医療活動などに尽力さました。

 

 脇坂さんは登山家としても有名で、久留米大学の名誉教授になられてから、世界の峰々に挑戦し、満70歳の古希の日にマッターホルン10登を果されています。

 

 その登頂を契機として出版されたのが、以下の「七十歳はまだ青春」です。

 

 私は脇坂さんの日本百名山走破のお手伝いを頼まれ、大雪トムラウシ山のガイド役として、昭和59年にご一緒させて頂きました。

 

 その後脇坂さんは75歳でもマッターホルンに登り、海外100登頂達成。80歳でモンブランに登頂、85歳で200回目の海外登頂に成功し、2003年に89歳でお亡くなりになるまで、山に登る人々に勇気を与え続けてくれました。

 

 

 私は伊能忠敬や脇坂順一さんのような訳にはいきません。

 

 しかし、人生100年を平々凡々に終えたとしても、十分に感謝すべきことを教えて頂きました。

 

 還暦を過ぎ、何かを為せれば幸いですが、例え結果を残せなくとも、「心の欲する所に従って矩(のり)を越えず」活き活きと愉しく、意のままに、自然体で過ごすことが人生と、先人達に教えて頂きました。

 

 人生100年、今の日本人は人類未経験の、未踏峰からの景色を望められるようになりました。

 

 その頂きまで、100歳までの道をどう進むべきかの問いに、人の目や評価に惑わされず、心の欲する所に従って、青春という時期に求められる、自らの力で道を拓く勇気と気力が・・・、

 

 つまり結局、100歳まで生きたとしても、人それぞれの生き様は、年齢とは関係ない話なのです。

 

 

 

 宗谷岬に夜の帳が降りようとしています。

 

 地球が生まれてから46憶年。人類が誕生してから14万年。

 私が生をうけてから、たった64年。

 

 今日も平穏に日が暮れてゆきます。

 

 

 

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日本最北端のコンビニで

2015-10-11 12:22:31 | 自転車でコスモスの島へ

 

 稚内空港に飛行機が着陸しようとしています。

 

 機体にANAの文字が見えます。

 

 

 飛行機がこれほどまでに利用されるようになるとは誰が予想したでしょうか。

 

 30年後には、もしかすると水素で飛行機が飛ぶようになるかもしれません。

 

 工業的な光合成が可能になれば、化石燃料に頼らない時代が来るかもしれません。

 

 しかし、そうなればなるほど、豊かな緑と水清き川や海が掛け替えのないものとなるはずです。

 

 宗谷湾に流れ込む小川の河口で、多くの人達が釣りを楽しんでいました。

 

 東京湾に流れ込む多摩川にも、最近は鮎が遡上しますが、そうなるまでに永い年月が必要でした。

 

 襟裳岬の緑化事業は昭和28年に始まり、成果を得るまでに、半世紀近い年月が必要でした。

 

 若者や未来の子供達に残すべきは何かを考え、常識を疑い、トンボの目で世界を見ながら、多くの人々の意見を聞き続ける努力をと、自分に言い聞かせます。

 

 

 利尻富士を遥かに望む宗谷湾に、午後の陽射しが、明日へと続く道筋を示してくれているかのようです。

 

 

 風のない丘に立ち尽くす風車が、平穏に過ぎゆく一日に安堵の表情を浮かべていました。

 

 

 こぎ進む自転車の横を、二台のオートバイが通り過ぎて行きます。

 

 追い越して行くライダーの左手が伸びて、握った拳の親指が空に向けられていました。

 

 私はライダーの背に向かって、大きく右手を差し上げ、

 

 頑張れよ! ありがとう! の挨拶を交わしました。

 

 その場所から500m程も進んだ先に、一軒のコンビニが見えました。

 

 その店に、さっき追い越して行った二台のオートバイが停まっていました。

 

 私はその横に自分の自転車を並べました。

 

 

 稚内の街を出てから小一時間ほども過ぎていたと思います。

 

 店の中で、ライダーの若者達と微笑を交わし、店外でガリガリくんを頬張りながら脚を休めました。

 

 すると、若者達は私に、一緒に写真を撮りましょうと誘ってくれたのです。

 

 それではと私も、旅で出会った記念に若者達をパチリ。

 

 ブログに載せていいかと問うと、すぐに「ええ、どうぞ、どうぞ」の返事をもらいました。

 

 写真を撮り終えると、屈託のない表情で、明るく爽やかな風をまき散らし、若者達は走り去って行きました。

 

 彼らに教えてもらったのですが、この店は日本最北端のコンビニのようです。

 

 

 

 少しずつ、太陽が水平線に近づいてきました。

 

 

 遠浅の磯に突き出た岩の上で、一羽のウミウが時の流れに羽を休めていました。

 

 

 どこから流れ来たのか、根こそぎ倒れたままの姿で、一本の木が空を映す海のオブジェとなっていました。

 

 

 海岸をなぞる道は、少しずつ右に廻り込みながら岬の先端へと近づいてゆきます。

 

 

 

 

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稚内海岸に続くミズナラ (誤カシワ林)

2015-10-11 00:17:45 | 自転車でコスモスの島へ

 

 国道40号線が稚内市街に入った辺りの大きなスーパーマーケットで食糧を買い求めました。

 

 お弁当と缶チューハイ、大福餅と一口羊羹などです。

 

 今夜は、日本最北端の地である宗谷岬にテントを張るつもりです。

 

 今の場所から宗谷岬まで25㎞強、2時間程の行程が残っています。

 

 稚内市街の中心地や野寒布岬、稚内公園などへ行くことは止め、買い物を済ませた後、国道238号に入り、一路宗谷岬を目指しました。

 

 

 岬への道の路側帯にハマナスが咲き、赤い実を付けていました。

 

 植物は花を咲かせ、花の後に実が稔ります。

 

 四季の区別がはっきりしない熱帯植物のカカオやパパイアなどは花と実が同時に見られますが、四季の差が明らかな日本では、ハマナスのような植物は珍しい部類かもしれません。

 

 

 

 ローズピンクに咲くハマナスの横で、白い花を見付けました。

 

 最近読んだ本の中に「花に来る虫は赤い色が見えないので、ツバキのような真赤な花は自然の中には殆ど存在しない。一方、鳥には赤が良く見える。ツバキは鳥用の花だ」ということが記載されていました。

 

 ハマナスの赤い実は、どんな鳥が啄ばむのでしょうか。

 

 ハマナスの白花にはどんな虫が訪れるのでしょうか。

 

 ハマナスが咲く浜に寝転びながら、日がな一日、ハマナスの花に訪ね来る虫や鳥を眺めていたいものです。

 

 そうか!ハマナスは春と秋の鳥達の渡りの季節に合わせて実を付けているのかもしれません。

 

 北国の海岸に沿って、鳥達が訪ね来る季節に合わせて、実を付ける必要があるのでしょう。

 

 自然界に無駄はない筈です。

 

 厳しい自然の中で無駄なことをすれば、生存が許されない筈ですから。

 

 

 網走319㎞、枝幸114㎞、宗谷岬24㎞の標示が見えてきました。

 

 夕暮れ前に宗谷岬に着けるとは思いますが、もう一度気を引き締め直しました。

 

 

 目の前の遥か先で、岬に向かって海岸線が伸びていました。

 

 

 岬へ伸びる海岸線の後で、白い風車が並ぶ丘が独特の景観を見せていました。

 

 明治の中頃まで、丘陵全域にうっそうとした森林が生い茂っていたそうですが、相次ぐ山火事などの為に、今では一面が笹に覆われています。

 

 スコットランドの景色を想い出していました。

 

 そして、この場所もスコットランドも、森林を草原に変えたのは人間のはずです。

 

 もしかすると、数日前に訪ねた襟裳岬のように、この丘に木々が茂れば、この海は今にもまして、豊穣の海となるかもしれません。

 

 イギリス一周のブログを見直したことで、当初はイギリスも自転車で巡るつもりだったことを想い出します。

 

 そう、今回の旅は唐突のように見えますが、結構、ビンテージな企画なのです。

 

 

 稚内市内を振り返ると、荒涼とした海岸線の先で、稚内の街が、草原の丘を背に、渚にへばり付いていました。

 

 

 自転車を進める道の横では、浜辺との間に、樹高が2mもないミズナラ(誤カシワ林)が列をなしていました。

 

 2020年8月27日 追記

  カシワ林と記していましたが、ミズナラであることが分りました。

  「国道238号線沿いのメグマ海岸には、昭和43年稚内市の文化財指定

  を受けたブナ科ミズナラの大群落が繁殖します。厳しい条件下で大群

  落をなすのはても珍しい」そうです。

  お詫びして、訂正いたします。

 

 えりも岬の魚付き林でも、クロマツと一緒にカシワが植栽(要確認)されていました。

 

 この海岸線のカシワはもしかすると人口林なのかもしれません。(間違いです

 

 

 対向車線の横に、更に高く茂ったミズナラ(誤カシワ林)が続いています。

 

 これはきっと、多分、人口林なのだろうと思います。(間違いです

 

 もしかすると、30年後にこの道は、木立の中を進むようになっているかもしれません。

 

 そんな風に想像するだけで、辺りの景色が違って見えてきました。

 

 

 木を育て、森を育む。

 

 森に包まれた大地に花が咲き、実が稔る。

 

 遠回りにも思う、森を育てることが、関税などよりも強靭な緑の壁を築き、未来の子供達に豊かで平和な世界を約束してくれそうな気がしています。

 

 

 

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人生100年の自転車旅 利尻富士笑う

2015-10-10 00:26:00 | 自転車でコスモスの島へ

 

 天塩川を越え、幌延町に入ると、北緯45度の標示がありました。

 

 9月10日に、えりも町の南で北緯42度線を跨いだことを思いだしました。

 

 今日まで知らぬ間に、何本もの緯度線を自分の足で越えて来たのかと、感慨が深まります。

 

 

 

 11時前、豊富町で、スーパーの駐車場に自転車を乗り入れました。

 

 出発してから4時間半が経過し、空腹を覚えたので、アンパンと野菜ジュースでカロリーとビタミンを補給しました。

 

 今振り返れば、何とも質素な旅でした。

 

 とは言ってみても、この辺にまともな食堂などは見当たりません。

 

 

 サロベツ原野の向こうに雲を纏った利尻富士が見えています。

 

 何とも贅沢な風景です。

 

 周囲にはここでしか見られない、唯一無二の景色が広がっていました。

 

 

 それにしても、何とのどかで平和な光景でしょうか。

 

 ズームを利かせ、利尻富士の姿を堪能しました。

 

 山が風を呼び、風が雲を育てるのでしょう、周囲の空に雲はありませんが、利尻富士だけに雲が湧いていました。

 

 目に優しい緑の奥で、空に浮かんだ白い雲を被り、存在することだけに満ち足りて山が笑っていました。

 

 

 国道40号を進んで行くと、原野の中に突然、鉄骨で囲まれたトンネル状の構造物が現れました。

 

 これは、吹雪の時に車が避難するためのパーキングシェルターです。

 

 この辺りは、なだらかに広がる原野の中に道路が伸びるので、吹雪の夜などは、大げさではなく、1m先が見えない程の吹雪に見舞われることがあります。

 

 営業の仕事で、この辺りを車で走り回っていた頃は、吹雪の夜に路肩を外し、腹を見せて、道路脇の牧場にひっくりかえっているトラックの姿をよく見かけたものです。

 

 

 今は平穏に見えるこの辺りの光景も、冬になれば、厳しい風と雪に閉ざされた世界に変わります。

 

 そしてとうとう、進みゆく道の丘の上に、稚内の開基百年記念塔らしき姿が見えてきました。

 

 基部が盛り上がり、赤と白の配色が見えますので多分間違いはないはずです。

 

 何度も足を運んだ稚内の街ですが、自転車で辿り着く日がくるとは思っても居ませんでした。

 

 

 それから約1時間後、緩やかな丘陵地の坂を下ると、目の前に稚内市街が広がっていました。

 

 カメラの画像で時間を確認すると13時32分のことでした。

 

 

 

 

 

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人生100年の自転車旅 利尻富士が見える道

2015-10-09 00:27:21 | 自転車でコスモスの島へ

 

 9月15日

 

 天塩中川町森林公園のログハウスで朝を迎えました。

 

 周囲の木立を朝霧が包みこんでいました。

 

 

 何時ものように、菓子パンとジュースで朝食を済ますと、霧に包まれた街を離れ、川を渡り、国道40号に向かいました。

 

 

 

 国道を暫くはしると霧も晴れてきました。

 

 背に朝陽を浴びながら、北を目指し、ペダルをこぎ続けました。

 

 

 やがて、はるか前方に、利尻富士が見えてきました。

 

 このとき国道は西に向いていますから、後から地図で確認するとオヌブナイの辺りをはしっていたようです。

 

 

 やがて再び、進路を北に向けた国道は、両側を針葉樹の防風林に挟まれました。

 

 

 枝の形や球果から推測して、ドイツトウヒ(ヨーロッパトウヒ)と思われます。

 

 有名なドイツの黒森(シュヴァルツヴァルト)はこの木が主ですから、今私が進む道は、ドイツの景色に似ているはずです。

 

 15、6年前にドイツを旅したこともあるのですが、その頃は樹木に注意が向いていなかったので、「似ているはずだ」としか言えないのが残念です。

 

 

 防風林の切れ間から、カメラのズームを利かすと、利尻富士の姿をはっきり捉えられるようになってきました。

 

 

 空は青く晴れて、東の地平線上に白い雲が漂っていました。

 

 

 天塩中川を出発してから約2時間半、国道40号線が天塩川を渡る天塩大橋の姿が見えてきました。

 

 士別の街外れから天塩川に沿って北上してきた国道40号線ですが、天塩川とはここでお別れです。

 

 

 橋を渡りながら川下を望むと、利尻富士が白い雲を空に放っています。

 

 

 

 あの山の雪壁にザイルを伸ばしたこともあるのですが、それを想うと、あの頃も今も、やってることに変わり映えはなさそうです。

 

 好意的に見れば、アクティブ人生、批判的に見れば、懲りない人生、のようです。

 

 

 

 

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