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樫ノ浦のアコウ

2020-03-31 13:06:41 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 堂崎で樫ノ浦のアコウのアドレスをナビへ入力しました。


 県道162号線を数分はしり左折すると、追い越し困難な目の前の細い道を定期バスがのんびりと走っていました。


 こんな時は、時間など気にせず、田舎時間に身を委ねるしかありません。


 どうせ数分も違わないのですから。


 樫ノ浦のアコウは民家の裏側の、少し奥まった場所に聳えていました

 

 

 

 掲示されていた解説には日本語の他に、英語、韓国語、中国語が併記されていました。


 解説文を紹介しますと、


 「アコウはクワ科の常緑高木で、イチジクのような果実をつけ、中国南部、台湾、南西諸島を経て九州・四国・本州の暖地に分布する。

 

 このアコウは、根回り15mを越え、樹高は10m以上、四方へ30m以上枝を張っている。

 

 錯綜した枝から大小の気根が垂れ下がり、大きい気根だけでも約100本、そのうち地面に達し支柱根となっているものが40本を超える。


 アコウは亜熱帯植物で寄生木であることから奇観を呈することが多く、五島には変わった樹形の大木が多く見られ、中でもこのアコウは県下のみならず九州でも最大級の部類に入る。」

 

 と記されていました。

 


 ついでにネット検索で「ウィキペディア」を開くと、


 「アコウ(榕、赤榕、赤秀、雀榕)はクワ科の半常緑高木。F. superba の変種 var. japonica とされているが、Ficus subpisocarpa Gagnep.とする説もある。


 枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付く。


 5月頃、イチジクに似た形状の小型の実(隠頭花序)を、幹や枝から直接出た短い柄に付ける(幹生花)。果実は熟すと食用になる。」とあります。

 

 どうやらアコウは実を食べることができるようです。


 更に「黒島(長崎県佐世保市)で、アコウを利用した防風林が文化財保護法の重要文化的景観に選定されており、その景観を築いたのが潜伏キリシタンであることから、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「黒島の集落」として世界遺産に登録されている、と記されていました。

 

 こんなことを知ってしまったらもう、五島潜伏キリシタンの故郷である、長崎の旧大村藩外海地区も含め、再訪を考えない訳にはいきません。


 
 樫ノ浦のアコウの次に、浦頭教会をチラ見しました。

 


 浦頭教会は明治21(1888)年に最初の教会が建立され、現在の教会は昭和43(1968)年に建設され、旧約聖書のノアの方舟をイメージしたデザインだそうです。

 


 
 そして私はこの後、福江市街に戻り、城山神社、

 


 県立五島高校の校舎があって、観光客は中に入れない石田城跡の石垣、

 

 
 武家屋敷通りで、石垣塀の上に「こぼれ石」と称する丸い小石を積み重ねた独特の景観、

 


 などを眺めた後、18時半頃、ゲストハウスに辿り着きました。


 さて・・・ 今夜もどこかで魚でもつまみながら一献、と思ったのですが、何と今日は日曜日でした。

 

 殆どの店が閉まっていたのです。

 

 ということで、今夜の晩御飯はスーパーで買い求めた焼肉弁当と缶酎ハイでお終い。


 流石にもう、街を歩きまわって、開いてる店を探す元気はありませんでした。

 

 

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半泊教会と堂崎教会

2020-03-30 20:40:02 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 ナビのアナウンスのままに、尾根筋から急な道を海岸に下ると小さな入り江が待っていました。

 

 周囲に人家が全く見えません。

 

 
 そんな入り江の一隅に、石積みの壁に囲まれた半泊教会を見出しました。

 


  白い門柱の上に十字架が掲げられています。

 


  半泊教会に掲げられてた解説文を要約しますと、


 「江戸時代末期にキリシタン弾圧から逃れ来た数家族が福江島北東部の小さな浜に上陸しました。

 

 しかし、それだけの人数が住み着くには土地が狭く、その半数だけが留まり、残りの半数は三井楽方面へ向かったことから、この土地は半泊と呼ばれるようになりました。


 1920(大正9)年から教会の建築計画が具体化し、アイルランドからの浄財が建築資金に充てられ、鉄川与助の手によって1922(大正11)年に完成しました。

 

 新築から5年、信徒たちは教会を台風被害から守るため、海岸の石を集め、教会正面に暴風石垣を築きました。

 

 1970(昭和45)年には敷地の境にブロック壁が設置されるなど、現在も大切に維持管理されています。」

 

  と記されていました。

 


  入り江の左側には鬱蒼とした森に包まれた小山が迫り、

 

 
 教会の裏手は、建物の横から木々の茂る山の斜面が立ち上がります。

 

 
 そして、入り江の右側は、猪でも出そうな山が壁を作っていました。

 


  弾圧を逃れ来た人々は、この地でどんな暮らしを営んでいたのでしょうか。


 そして、半泊教会を後にする時、以外なものを目にしました。


 門柱に、かなり錆びついた銘板を残して廃校となった、福江市立戸岐半泊分校です。

 

 

 更にネットで「福江市立戸岐半泊分校」を検索すると、

 
 興味あるページにヒットしました。


 五島市が廃校となった小学校を活用する事業者を公募していました。


 面白そうですが、募集期間は2020年4月30日までです。


 陶芸や木彫、水彩画などの工房兼ギャラリーに活用すれば、創作に没頭できること請け合いです。

 

 

 車に戻り、尾根に通じる細い道をはしり、次の堂崎教会を目指しました。

 

 
 尾根に上ると、福江島の北東に突き出た、糸串鼻に通じるであろう道が、民家の脇を通って北へ伸びていました。


 何時もであれば、私は躊躇なく車をそちらへ進めるのですが、ナビに現在時16時45分が表示されているのを確認し、寄り道を諦め、堂崎教会へ向かうことにしました。

 


  1時間程前にUターンした辺りを過ぎると、対岸の久賀島に、白い浜脇教会が見えてきました。
 

 

 昨日、福江港から久賀島へ渡る渡船から見えていた赤い戸岐大橋を渡って、

 


  17時を過ぎた頃堂崎に着き、パーキングに車を停め、砂に埋もれた堂崎湾の縁を歩いていると、

 


  干潮の海岸の中に、誰かが造り置いたかのような、不自然な程に丸い石に目が留まりました。


 調べてみると、1500万年ほど前に、堂崎湾にできた花崗岩類の岩床が、多分、波や潮流などの風化を受けて球形に変化したもので、リンゴ石と呼ばれているそうです。

 


  教会に近づくと、散策路にテーブルを置いたコーヒーショップがありますが、人影がありません。

 


  堂崎教会受付の窓も、白い扉が半分閉じられていました。

 


  正面に回ると、ネットで見ていた堂崎教会そのものを見ることができました。

 


  堂崎教会は、禁教令が解かれたあと、1879年に五島で最初の天主堂(木造)が建てられ、1908年に現在のレンガ造りの教会堂が完成し、1974年に、県の有形文化財(建造物)の指定を受けています。現在は、弾圧の歴史や資料を展示する資料館として、一般公開されています。

 

 駐車場戻ると、私が借りたレンタカー以外に車はなく、人の姿も全く見当たりません。

 

 雲に覆われた空に、明るさを感じさせるものはなく、周囲に夕暮れが迫り始めていました。

 

 

 福江島に、もう少し見ておきたいものが残されています。

 

 先を急ぐことにしました。

 

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五島の山 権現岳360m 他

2020-03-29 22:19:56 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 水ノ浦教会の次に、堂崎教会を入力しましたが、この地区では、半泊教会も訪問する予定でした。


 事前の調査で道路状況に不安を感じたので、現場に行ってルートを判断することにしていました。


 水ノ浦教会を出て国道348を走り、前小島を左手に見ながら進んでゆくと、ナビは岐宿町河務で左へ入る道を案内しました。


 左折後1km程も走ると、「ドンドン渕滝」という標識が見え気持ちが動き、ナビのガイドを止めて、沢沿いの舗装された道に入ってゆきました。


 小さな橋の手前で「ドンドン渕滝」の表示が、橋の左手の踏み分け道を、林の中へ進むように指示しています。

 踏み分け道をを進んで行くと、青緑に水を湛えた渕に、豊か水を落とす、五島列島最大のドンドン渕滝の姿を見ることができました。


 標高僅か360mの権現岳から流れ落ちる沢とは思えぬ水量に驚きました。

 


 ドンドン渕で15分程の時間を費やし、再びナビ任せに車を走らせました。


 レンタカーを操って一人で島を巡っていると、目的地をナビに入力したら、後は全てがナビ任せです。


 右へカーブを曲がると、目の前に久賀島が見え、道はそのまま南東方向へと進んで行きます。

 


  このまま進めば、半泊教会と離れるのは間違いありません。


 そこで、Uターンして、半泊教会のアドレスに入れ直しました。


 戻る途中、道傍に降り積もる赤い椿の花にレンズを向けましたが、この記事を書くに当たり、この辺りは宮原椿林と呼ばれる椿の群生地であることが分りました。


 我ながら、観察眼に衰えはないなと、僅かに誇らしい気分です。
 


 そして道を戻りながら暫く進むと、宮原教会の案内表示を目にして、車を教会付近の空地へと進めました。


 ツバキは見落とさないのですが、教会の案内表示は見逃したようです。
 


 1797(寛政9)年以降、大村藩から五島へ移住した潜伏キリシタン達は宮原で地元の寺の檀徒となって潜伏したと言われます。

 

 最初の教会は祭壇の手前に障子があって、ミサの時になると開けられました。

 現教会は1971(昭和46)年に改築されたそうです。


 それにしても、なんと素朴で質素な教会でしょうか。


 誰かに見せるためではなく、自らの祈りのために、ただそのためにだけ建てられた教会であることが分ります。

 

 今回の旅の中でも、強く印象に残る教会の一つとなりました。

 


  宮原教会を出て、久賀島との間に伸びる田浦瀬戸を右手に見ながら、北へ伸びる名もない岬を進みました。


 目的地の半泊教会は、岬の途中の半泊湾の畔に位置するはずです。

 


  そして途中の道が、私好みの、「いったい何処へ通じているの?」的な代物だったのです。


 こんな道をはしると、好奇心が刺激されて、口元がほころんできます。

 

 

 ところで、全くの余談ですが、ドンドン渕滝の源流である権現岳がどんな山か気になったので、五島に権現山以外にどんな山があるか調べてみました。

 

 私は、もともと山登りが趣味でしたから、調べ始めると熱中し、ブログを書いていることを忘れそうになりました。

 

 そして、面白いページを見つけ、大いに楽しませて頂きました。

 

 五島の山岳

 

 五島アウトドアネットワーク 2013年 Last update のようです

 

 

 離島の山登りは面白そうですね。

 

 でもでも、僅か人生100年、あまりにも時間が足りません。

 

 

 五島市 標高300m以上の山 

 

 父ヶ岳(ててがたけ) 461m 岐宿町松山
 七ッ岳432m 岐宿町中嶽
 翁頭山(おうとうさん) 429m 増田町
 行者山 398m 岐宿町
 岩谷岳 397m 玉之浦町幾久山
 笹嶽 390m 奥浦町
 高岳 379m 増田町
 無名峰 377m 玉之浦町丹奈
 無名峰(長峰) 374m 富江町繁敷
 唐岳 370m 岐宿町河務
 権現岳 360m 岐宿町戸岐ノ首
 無名峰 347m 岐宿町河務
 番屋岳 341m 久賀島 猪之木町
 行者山 338m 岐宿町中嶽
 桐ノ木山 321m 五島市三井楽町濱ノ畔
 致彦山 321m 椛島:五島市本窯町
 鬼岳 317m 堤町
 火ノ岳 315m 長手町

 

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五島は新しい文明との接点だった

2020-03-28 12:44:05 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 三井楽半島に別れを告げ、県道233から国道384号に入って走り始めるとすぐ、右手のこんもりした丘の上に朱色の遣唐使船が置かれているのが見えました。
 

 

車を降りて、丘に登り遣唐使船に近づくと、

 


 
 「遣唐船と三井楽」の表題で、次のような解説が掲げられていました。


 「優れた中国文化を学ぶため、唐に遣わす遣唐船は五島列島で日本最後の風待ちとしました。当時我が国の造船・渡航技術は未熟で遭難も多く、中国渡航は決死の覚悟が必要でした。


 順風が吹き、出航し、三井楽の柏の岬を過ぎると縹渺たる大海原が広がります。

 

 四隻に分乗した、大使や学問僧ら5百人を超す乗組員は今生の見納めになるかかもしれない日本最後の地、三井楽の浜と緑の島影を瞼の裏に焼き付け、万感の思いをこめて東シナ海に乗り出して行ったに違いありません。」

 


 
 園内に、文学博士で文化功労者の故犬養孝が揮毫した万葉歌碑を見かけました。


 そのまま読んでも、すぐには理解できませんが、


 「王の遣(つか)はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る」


 という万葉集の一首が刻まれていました。


 万葉集に、この歌の背景の説明が記されています。

 わかり易く意訳しますと、


 荒雄という力持ちで心優しい船乗りが、仲間から、王が命した、船で対馬を往復する仕事の代わりを頼まれます。

 

 命がけの仕事ですが、仲間の懇願に負けて仕事を引き受けることにしました。

 

 ところが船は港を出た後、突然の嵐で転覆し、荒雄は舟ごと海に沈み帰らぬ人となったのです。

 

 自分が命じられた仕事でもないのに、仕事を引き受け、命を落とす不運に見舞われたのです。

 

 その悲しみを、荒雄の妻子が、あるいは山上憶良が代わって詠んだと、万葉集の中に説明が記されています」

 

 そして、万葉集に記された「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」の最初の歌が歌碑の一首で、


 「王に命じられたわけでもないのに、無理して行ったばかりにこのような目にあい、沈みゆく船の上で、妻子に別れの袖を振っているぞ」というのが、その歌の趣旨です。


 興味のある方は「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」でネット検索してみて下さい。


 当時は、対馬に船でゆくことさえ命がけだったようです。

 


 
 五島列島を潜伏キリシタン関連遺産の視点から見た場合と、遣唐使船の最終寄港地の視点から見たときとで、周囲の景色の彩が異なって見えます。


 どちらも事実に基づきますが、物を見る時の印象が、どれほど先入知識に影響され易いかを改めて認識させられました。


 「みみらく=死者が姿を現す」などという言葉のフィルターを外し、自らの目で事実と真実を見定める意識を忘れたくないものです。


 10分程も走ると、水ノ浦教会に到着しました。

 
 水ノ浦では江戸末期に移住した潜伏キリシタンが仏教徒を装いながらキリスト教信仰を続けてきました。

 

 そして明治元年12月25日、信者の家での祈りの場に役人が踏み込み、30余名の男性が捕らえられ、信者の家を牢屋敷としてつながれました。主だった8人は4年の長きにわたって拘束されたそうです。

 

 その後、禁教が解けた7年後の明治13(1880)年に最初の水ノ浦教会が建てられ、昭和13(1938)年に現教会に建て替えられたそうです。


 現水ノ浦教会は、名工鉄川与助の設計、施工による、白亜の美しい教会でした。
 


 国道384を走り続けていると、小さな入り江に浮かぶ島に小さな鳥居を見つけました。


 玉之浦で玉之浦教会と神社が共存する様子を見てきましたが、明治6年にキリスト教禁制の高札が撤去されて、五島に教会が建てられ、仏教や神道との共存が進んでいったのだろうと思います。

 

 

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世界最大級のツバキ防風林発見

2020-03-27 02:59:40 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 三井楽教会は、1880年(明治13年)に最初のゴシック様式の木造聖堂が建てられ、1971年に老朽化とシロアリ被害の為現教会に建て替えられました。
 

 

 三井楽教会のシンボルである、貝殻や陶器などを用いた壁画が色鮮やかです。

 


 教会内部のステンドグラスも見事だそうですが、私は中に入ることはしませんでした。


 
 次いで、道路の案内表示を頼りに、嶽家牢屋敷跡を訪ねました。


 嶽家牢屋敷跡は明治元年の五島崩れの時に、ひとりの信者の宅地に投獄した場所で、その跡地には解説文が掲げられていました。


「1868年11月14日、代官所の役人が嶽地区の18名を捕え、善三郎の住宅を牢獄として閉じ込めた。


 後日代官所に引き立てられ、拷問を受けたが、一人の棄教者も出ないため、再度一ヶ月間投獄された。


 その後、追及の手が町内塩水・嵯峨島・大川・淵の元・貝津の各集落にまでのび1871(明治4)年までの37世帯、162名が迫害を受けたとされる。

 

 
 家の敷地跡は広場となっていて、石碑や解説文がなければ、誰もここが牢屋敷跡とは分からないかもしれません。

 


 次に、聖母の大椿を目指しましたが、事前に調べた住所は「五島市三井楽町岳」という大雑把なものだったので、ナビは全く役にたちません。


 しかし、長崎鼻灯台の九州自然歩道案内板に表示された位置を記憶していたので、勘を頼りに車を走らせると、

 


  聖母の大椿を示す標識を見つけることができました。

 


 路肩に車を停めて、椿に覆われた道を進んで行きます。

 


 歩を進める道は、赤い椿の花で埋め尽くされていました。

 


 そして、椿のトンネルを数百メートルも進むと、「聖母大椿」の表示を伴う古木が枝々に花を飾っていました。

 

 
 「聖母大椿」には先客がおられ、お話を聞くと、静岡県の御殿場から来られた方達で、私と同じで、椿サミットに参加する予定だったそうです。


 三井楽で予定した全ての訪問を終えて、次の目的地を目指していると、「岳地区椿防風林入り口」と記された白い標識が目に留まりました。

 


 そして近くに「岳・渕ノ元地区の椿林」の解説する掲示を見つけました。


「三井楽は古来畑作中心の農業によって発展してきました。干藷生産が九州一を記録したこともあり、昭和45年に生産額は1憶4千万円に達しました。岳地区は北低南高の地形で、夏は台風、冬はシベリアおろしの北風が激しく、防風林は畑作に不可欠です。この地区は多くが200年前に旧大村領から移住したキリシタン信者で、当初から椿は防風林を目的に育成され、信仰の証として大事に守られています。」 と記されていました。

 


  そうだったのですか。


 柏崎から三井楽教会への道で、椿が沢山の赤い花を散らせていた訳が分かりました。


 畑へ通じると思える道へ車を進めてみると、全ての道がヤブツバキの防風林に包まれていました。

 


 かなり広めの耕作地の周囲を囲む背の高いヤブツバキが防風林としての歴史を語っています。

 

 
 私は全国に椿を訪ねる旅を続けてきましたが、これほどの規模のヤブツバキ防風林を見たことがありません。


 伊豆大島にツバキ防風林が、宮古島のサトウキビ畑にツバキ防風林が、房総半島の大原町で、住宅の生垣としてツバキが活用されますが、三井楽半島の岳・渕ノ元地区のヤブツバキ防風林は国内最大級規模かもしれません。


 ヤブツバキは日本固有の樹木ですから、国内最大級であれば世界最大級ということになります。

 

 このヤブツバキ防風林は、潜伏キリシタン達が、死者が現れると地と伝わる、サツマイモしか作れない風吹き荒れる荒野を開墾し、畑の周囲にヤブツバキを植えながら、平和な暮らしを築き上げた証であり、まさに「潜伏キリシタン関連世界遺産」の一部をなす、と言っても過言ではありません。 

 

 岳・渕ノ元地区のヤブツバキ防風林、文化財としての保護を提案したいと思います。

 

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数々の歴史ドラマの舞台となった場所

2020-03-26 18:39:08 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 海岸線に沿って車を進めました。


 この道は「遣唐使旅立ちの路」と名付けられているようです。

 
 目の前に姫島が見えています。

 
 姫島は平地がほとんど無い島で、島に人が住むようになったのは、寛永9年(1797年)に大村藩からキリシタンが五島各地へ移住した際とされ、明治には人口も300人を越えていたそうです。

 

 しかし、島に波止場が無く船も出せなくなり、昭和40年に最後の7世帯が島を去って無人島化したそうです。


 そして最近は、イシダイ釣りの名所として知名度が高いようです。

 

 

 三井楽半島先端の柏崎に到着しました。

 

 
 「柏崎」の解説板に


 「柏崎は【備前風土記】に【美弥良久の崎】と記され、遣唐使船の最後の寄港地であるといわれる。

 

 この地区には、船の乗組員たちの飲料水として利用した井戸【ぶぜん河】や遣唐使守護の任にあたった者の霊を祀った【岩嶽神社】など、遣唐使ゆかりの史跡が多く残っている。


 また、江戸時代に五島の捕鯨は生成期を迎え、柏崎にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを漁期として活躍していたといわれている。しかし乱獲により鯨はいなくなり、幕末にはほとんどの鯨組は解散したと記録にある」

 

 と記されていました。

 


  「辞本涯」と表された碑がありました。


 「辞本涯」とは、日本のさいはてを去るという意味で、第16次遣唐使船(804年)で唐に渡った空海の偉徳を顕彰するために建立されたそうです。

 


 そしてその傍らに、空海の像が中国へと続く海を見つめていました。

 


 私の五島の旅はツバキと潜伏キリシタン関連世界遺産が目的でしたが、五島は古く、当時最先端文明を誇る唐に通じる遣唐使船の最終寄港地という役割を担っていたようです。

 

 私はそれを今回の旅で始めて認識することになりました。


 そして、
 「旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群」万葉集

 の歌碑が建てられていました。


 意味は「旅人が野宿する野に霜がおりたら、私の息子をその羽で守ってあげて、空を飛ぶ鶴たちよ」だそうで、天平5年(733年)に第9次遣唐使船が大阪の難波を出航するとき、ひとりの遣唐使の母が、我が子の無事を祈って読んだ歌だそうです。

 

 
 近世まで、日本人の「西」の概念が中国であったことを、実感を伴って認識することができました。


 三井楽半島の先端の地柏崎は、近年迫害を逃れたクリスチャンが平安を求めた地であると同時に、煌びやかな文明に憧れ、命を懸けて危険な海を渡った勇者達の志を伺い知ることのできる地でもあります。


 そして、私はこの場所にくるまで「みいらく」と読む「三井楽」を変わった地名だな程度にしか考えていませんでした。


 しかし、下の掲示を見て、三井楽は「みみらく」の意であると知ったのです。

 


 
 更にネット検索で、「みみらく 【美弥良久】は、日本古代に、西の果てにあって死者が姿を現すと信じられていた島。五島列島南端の福江島三井楽の地にあてたりする。」 の記載を見つけ、


 三井楽はみいらくと読むが、本来の意味は「みみらく」であることを知ったのです。


 そうですよね「みみらく=死者が姿を現す」をそのまま名地とすれば、住もう思う人はいないでしょうが、そんな場所であればこそ、潜伏キリシタンが暮らし始めたのかもしれません。

 

 柏崎を離れ、三井楽教会を目指し走っていると、農道のようにも思える道のあちらこちらで、椿が赤い花を落としている光景を目にしました。


 そしてこれが、単なる偶然ではないことに後で気付かされます。
 

 

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福江島 三井楽半島へ

2020-03-25 10:36:56 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 道路がトンネルに入る手前で旧道と思われる道が左へ、海岸線に沿って尾根の上に通じていました。


 その道へハンドルを切ると眼下に、遠浅のビーチが海底まで白砂を敷き詰めていました。


 このビーチが日本の海水浴場88選の「高浜海水浴場」のようです。


 天気の良い日であれば、コバルトブルーに染まる海が見られたかもしれません。

 

 

 海に突き出た尾根の先が展望所となっていて、魚籃観音が海を眺めていました。


 東シナ海の大漁と航海安全を祈願して建立された観音像は、よく見ると、鯛の入った篭を手にしておられます。

 


 
 目の前の海に嵯峨ノ島が見えていました。


 嵯峨ノ島はJTBの『日本の秘境100選』に選ばれた島で、古くは遠島とよばれた流人の島で、平家の落人も住み、名は京都の嵯峨野に由来すると言われます。


 この島には国指定無形文化財の「オーモンデー」という念仏踊があるそうですが、平成30年の人口は124人とのことで、人口は減り続けているようです。 

 


  右手に貝津港が望めました。この港から嵯峨ノ島へ一日4往復の定期船が出ており、15分で島に着くそうです。


 右手奥に見えるのは京ノ岳(標高183m)で、山頂部に航空自衛隊の基地があって、長さ900mの滑走路が備わっているそうです、

 

 

 貝津を過ぎた辺りで車は三井楽半島に入りました。

 

 

 三井楽の渕ノ元カトリック墓碑群を目指し走っていると、民家の庭にハクモクレンが満開の花を咲かせていました。


 サクラが楽しめる季節は、もう目の前です。

 


  ハクモクレンを咲かせた民家の少し先で、スケアン (石干見漁法遺跡)を説明する掲示板を目にしました。


 スケアンという言葉を初めて目にしました。


 解説には、

 

 「スケアン、スケ網(九州一円ではスキ)は、起源が数万年前と言われる原始的漁法の一つで、遠浅の海岸に石積を築き、潮の干満を利用して魚を獲る方法で石干見(いしひび)漁業とも言われる」と記されていました。

 


  今は潮が満ちているので、目の前の海は石積がはっきりしませんが、この場所のスケアンは、高さ1~1.5mに積み上げた石塁が約80mにわたって入江を中断し、今でもミズイカ、スズキ、チヌ、イワシなどが撮れるそうです。

 


  スケアンが設けられた入り江を回り込むと、白塔型の灯台が現れました。


 高さ15mの三井楽長崎鼻灯台で、昭和52年3月に初点灯されたそうです。

 


  九州自然歩道案内板の地図を借りて示すと、赤い矢印が現在地で、この先の海岸線は国の名勝に指定されています。

 


 
 そして、海岸沿いに「夕映えの路」と名付けられた九州自然歩道が伸び、

 


  その先の荒涼とした景色の中に「渕ノ元カトリック墓碑群」が佇んでいました。


 振り返る景色の中に、嵯峨ノ島が見えますが、周囲に人の気配を感じさせるものは何もありません。


 迫害を逃れきたキリシタン達は、花咲く郷と異なる茫々たるこの場所を、生涯の最後の最後に、誰にも煩わされぬ平安の地とすることを定めたのだろうと思えるのです。

 


 周囲には、海風に痛め付けられながら地を這う樹と枯れ草に覆われた荒野が広がっていました。

 

 

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玉之浦椿が生まれた山

2020-03-23 19:16:36 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 東シナ海と玉之浦湾を隔てる半島の一部とも言える、福江島の南西部に突き出た大瀬﨑を訪ねました。


 井持地区から大瀬山(標高250m)へ上る道を進んで行くと、大瀬﨑灯台展望台に出ました。

 
 駐車場の脇に「ハチクマの渡り」と題する掲示がありました。


 「ハチクマは、両翼を広げた長さが130cmになる大型のタカです。夏に本州などで繁殖し、秋になると越冬のため東南アジア方面に向かいます。

 (中略)日本に飛来したほとんどのハチクマが五島列島を経て東シナ海を2~3日かけて大陸に渡りますが、大瀬山で見られる渡りの規模は日本最大で、毎年ジーンズ中に7000~20000羽あまりが記録されております。

 

 日の出前から始まるたくさんのハチクマの飛び立ちは見ものです。

 見頃:9月中旬から10月初旬」


と記されていました。


 この時私はまだ、五島列島の地理を十分に認識していなかったのですが、「ハチクマの渡り」が象徴する、五島列島が果たした歴史上の役割に、後で気付かされることになります。

 

 

 展望台から、大瀬﨑の白亜の灯台が望めました。

 

 明治9年に着工し12年に初点灯した灯台は、根室の納沙布灯台や御前崎灯台などを設計した、英国人R・ブラトンの設計と言われます。

 


 大瀬﨑灯台展望台の近くに、人間国宝の故北村西望の手による「祈りの女神像」が設置されていました。


 この像は、太平洋戦争のとき、多くの兵士が大瀬﨑を日本の見納めとして南方戦線に旅立ち、帰らぬ人となった霊を慰めるために、昭和53年(1978年)に建立されたそうです。

 

 

   
 その場所から、複雑に入り組む玉之浦湾を眺めることができました。


 そして、足元に茂る木はほとんどがヤブツバキです。

 


 展望台を下り、玉之浦湾沿いの国道384をはしると、車窓に、これが海だろうかと思うような景色が広がりました。


 湾を挟んで対岸に見えているのはたしか、さっき訪ねた大瀬山のはずです。

 


 何とも不思議な時が流れていました。

 

 周囲に細波の音一つ聞こえません。

 
 今回の旅では、実に様々な光景に出会いましたが、私にとって、この「玉之浦の凪」が、最も心に残る風景の一つとなりました。

 

 「玉之浦の凪」が常時現れるのか、それとも今回が千載一遇の幸運だったのかはわかりません。

 しかし、こんな海が何処にでも見られるものでないことだけは確かです。

 


 小雨降る国道384号を北へはしりました。

 


 そして私が是非とも見たかったのが父ヶ岳(461m)です。

 
 というのも、あの有名な玉之浦椿は、昭和22年に父岳の中腹で炭焼き業者によって発見され、それが昭和48年(1973年)に長崎の全国ツバキ展に出品されると、瞬く間に、その名が世界に知れ渡ったのです。


 しかし残念なことに、原木は心ない人の濫獲によって枯死し、現在はその姿を見ることができません。

 
 ですがせめて、玉之浦椿が生まれた場所を見てみたいというのが私の願いでした。

 
 それにしても、昨日見てきた久賀島や今日の福江島を含め、五島列島に自生するヤブツバキの数は想像もつきません。


 その一株毎に数千の花が咲いて実を付けますが、その中の一つが、万に一つの突然変異を起こし、その実生から玉之浦椿のような名花が生まれます。


 その意味でも正に、玉之浦椿は「ツバキの島 五島」に生まれるべくして生まれた銘椿なのです。

 

  
 追伸 2020.03.28
  世界遺産推薦決定という資料に「玉之浦椿発祥地碑」という記述を見
 つけました。もう一度福江島を訪ねたいと思います。
 
 
 
 

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玉之浦の教会と神社

2020-03-22 22:22:51 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 「五島椿物産館」から40分ほどはしると、進行方向右手に玉之浦湾が見えてきました。


 見えているのは玉之浦湾で最も奥の、笹海と呼ばれる場所のようです。


 鏡のような水面に、まるで秘境の湖にでも来ているかような錯覚を覚えました。


 4、5年前に九州の梅を巡ったときに訪ねた、天草下島の早浦もこんなだったことを思い出しました。



 天草も五島も「伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されましたが、地形的に共通するものがあるように思います。

 

 
 笹海から10分ほどで井持浦協会に到着しました。


 この辺りは、長崎の大村藩からのキリシタンが潜伏し、五島藩が塩造りの竈場で働せていた地区だそうです。


 井持浦教会は1897年(明治)30年に創建されましたが、1899年に、五島列島司牧のペルー神父が信徒に呼びかけ、この教会に島内の奇岩・珍石を集め日本初のルルドを作り、その傍らに井戸を掘って、聖地ルルドの聖泉の水を混入したそうです。

 

 この霊水は病を治すとされ、全国のクリスチャンの聖地となっているそうです。

 

 

   
 ルルドとは、フランスのピレーネ山脈の麓にある村の名です。


 1858年、ルルド村の14歳の少女が近くの洞窟で聖母マリアと出会い、聖母から示された泉を人々が飲むと、不治の病が治る奇跡が次々と起こり、ルルドはカトリック最大の聖地となったそうです。

 


  井持浦協会の裏手へまわると、石を積み上げた場所にマリア像が飾られ、石を積んだ場所の横に水道の蛇口があって、それをひねると聖水が出てきました。
 


 その横の説明文の末尾に、「このルルドにも本物のルルドの水を混入してあるので、マリア様への信仰をもってお飲みくださいと」記されていました。
 

 

 井持浦協会を出て玉之浦のアコウに向かいました。

 

 玉之浦のアコウは長崎県五島市 玉之浦町玉之浦小浦の大山祇神社の境内にあります。


 アコウは中国南部から台湾、南西諸島、九州、四国、本州の団地に分布するクワ科の常緑高木で、このアコウは昭和27年に県の天然記念物に指定されています。

 

 
 主根は目通し10.3m、その樹上の3.3mのところから周囲6mもある支柱根が地中に降ります。そして、その支柱根と主幹の股下を参道が通っています。

 

 


 玉之浦のアコウは、見る者を驚かせる、複雑怪奇な樹形を見せていました。

 

 ほぼ予定通りにスケジュールをこなし、のんびりと玉之浦湾沿いの道をはしっていると、小さな入り江の集落に、白い尖塔に十字架をかざした小さな教会に気付きました。


 近づいて行くと、玉之浦教会の看板を掲げていました。


 いつかテレビで、北欧の小さな漁村の光景を見た記憶がありますが、その時の光景に重なる、こんなにメルヘンチックな風景に日本で巡り合えるのは五島列島だけのことかもしれません。

 

 
 そしてもう一つ、同じ集落の背後に小さな神社を見つけました。

 
 昨日訪ねた久賀島では、島の人々の20%程度がクリスチャンだそうです。

 
 多分この辺りも、全ての人がクリスチャンという訳ではないでしょう


 そんな小さな集落で、夫々の人々が肩寄せ合うように営む平和な暮らしを、玉之浦教会と玉之浦神社が静かに語っているような気がしました。

 

 
 
 

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福江の大ツバキと細御寮大ツバキ

2020-03-21 22:48:16 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 椿園を出て、ナビに任せて「福江の大ツバキ」を目指しました。


 車のフロントガラスの先に小さな島が見えていました。

 

 黒島かもしれません。日本で人口が最も少ない島で、平成30年の人口は2人だそうです。

 

 佐渡などへ行くと、島の西海岸では水平線しか見えませんが、福江島は、何処へ行っても、海面のどこかに小島や岬が見えていた気がします。


 五島列島の景色が優しく感じられるのは、そんな特徴がそう思わせるのかもしれません。

 


  多くの矢印を伴う案内表示に導かれ、迷うことなく「福江の大ツバキ」に到着しました。

 

 


 添えられた解説の概要は


「県天然記念物 福江の大ツバキ


 ツバキは常緑で潮風等にも強いことから防風林として植えられてきた。 


 ここ大窄地区でも、開墾の際に、防風林やツバキ油を採る為によく植えられており、現在も民家脇に数多くみられる。


 なかでもこの大ツバキは樹齢が数百年を超えるといわれる。


 昭和42年の指定当時は4本並列していたが、現在は2本となってしまった。


 東側のツバキが、幹回り1.95m、樹高10.50m 西側のツバキは、幹回り1.80m、樹高8.60mである。」 と記されていました。


 数年前に訪ねた富山県の氷見市の「長坂の大椿(2014年枯死)」の幹回りは2mで、年輪から樹齢370年が確認されていますから、このツバキの樹齢が300年を超えているのは間違いないはずです。


 1797年(寛政9年)、現在の長崎県長崎市北部の外海地区(当時は大村藩)から108名が五島に移住し、土地が与えられたのを切っ掛けに、外海地方の潜伏キリシタンが五島へ移住を始めますが、このツバキはその頃から既に、この場所で花を咲かせていたようです。

 

 
 「福江の大ツバキ」を見終え、次に玉之浦の井持浦協会の住所をナビにインプットしました。


 そして大浜集落の細い道をはしっていますと、道路脇にとっても素敵な光景を目にしたのです。


 多分、湧き水を利用した集落の水場だと思うのですが、水が湧き出る近くに枝を伸ばした、風情ある姿のツバキが、水場に赤い花を滴らせていました。

 ツバキの赤い花は、清らかな水の中にも滴り落ちています。

鬼岳に降った雨が伏流水となって湧き出た水を恵みとして、日々の暮らしのなかで利用してきた島の人々、そしてその水場を赤いツバキが飾っています。 

 五島の人々とツバキの関わりを象徴するかのような光景を目にして、私は何度もカメラのシャッターを切っていました。

 

 
 大浜の集落を過ぎてほどなく、「五島椿物産館」の表示が見えたので、寄り道をすることにしました。


 県道から逸れて数分で物産館の駐車場に着いたのですが、建物の中の竈に火が燃え盛っていました。


 近づいてゆくと、作業をしていた方が、塩を作っていると説明してくれました。


 塩田は何度か見たことがありますが、海水を初めから煮詰めて塩を作るのは初めて見ました


 丁寧に説明してくれたので、お土産にと思ったのですが、塩=高血圧という意識があって、御免なさいをしました。 

 

 

 物産館の陳列を見終えて、車に戻ろうとすると、建物の裏で大きなツバキが枝を広げていることに気付きました。

 

 


 幹の傍に掲げられた解説文に


 「細御寮 福江島最大級の大ヤブツバキ (推定樹齢約400年)

 

 細御寮は熱心なキリシタン大名第19代宇久純尭の娘で、兄に第20代五島(旧姓宇久)純玄公をもつ絶世の美女でした。

 

 朝鮮出兵に出陣した豊臣秀吉は、この評判を聞き、文禄3年(1594年)使者を送って名古屋に迎えさせました。

 

 細御寮は夫宇久盛長へ貞節の心を示すため、自ら小指と髪を切って出発し、名古屋に至る途中に自害、五島家菩提寺大円寺に葬られました」


 と記されていました。 

 

 

 解説にある推定樹齢は細御寮が命を絶った1594年から類推したのでしょうが、残念ながら、幹回りから推測して400年はちょっとオーバーです。

 

 しかし、それはそれとして、ツバキ愛好家であれば一度は見ておきたい一株であることはに間違いはありません。

 

「五島椿物産館」を出て、県道49号に戻ると、車は少し小高い場所に差し掛かりました。


 海に向かって谷が切れ込んでいます。

 


 谷の中を覗くと、急斜面に数多くのヤブツバキが緑の葉を茂らせていました。


 そして私はこの光景に、「やっぱり五島はツバキの島だ」の確信を更に深めたのでした。

 


 追記2020.03.28
  上に示した画像周辺は「琴石椿群生地」と名付けられていることが分りました。

 

 その資料(世界遺産推薦決定)には、五島市の椿群生地として、次の15か所が紹介されていました。

 

 南越椿群生地 奈留島
 長浜椿原始林(県指定) 久賀島
 亀河原椿原生林 久賀島
 堂崎椿林
 宮原椿林
 観音平椿林
 樽角坂椿林
 岳・渕ノ元椿群生地
 浜窄椿林
 木戸下椿林
 平松椿林
 琴石椿群生地
 香珠子椿自生林
 鎧瀬椿林
 五島椿森林公園

  

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五島椿森林公園

2020-03-20 22:11:15 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 鬼岳から椿園を目指しました。


 先ほど鬼岳へ来る途中、「五島市椿園」の案内標示を目にしていたので、道路を少し戻って案内表示の場所を右折するとほどなく、「五島鬼岳樹木園」の掲示板が見えました。

 


 
 当初の予定には無かったのですが、樹木園の中へ歩を進めてみると、多くの椿品種が植栽され、落椿が散策路の周囲に紅を散らしていました。

 

 

 え! もしかしてここが椿園? 規模から考えて、そんな筈はないだろうと思い、半信半疑で車に戻り、更にその先に車を進めました。
 

 そして数百メートルもはしると、五島市椿園の表示が現れたのです。

 


 パーキングに車を停めて、五島市椿園の説明を読むと、

 

 「五島市椿園は、福江島のシンボルの一つである鬼岳の中腹に位置し、6ヘクタールの園内に260種2800本の椿を植栽しています。

 

 鬼岳には展望台、産品センター、天文台、インフォメーションセンターのほか、桜公園や鬼岳樹木園などがあり、鬼岳周辺で観る、食べる、体験する観光が楽しめます。」と記されていました。

 

 そうですか、五島市椿園は鬼岳を核とした、観光施設の一環として位置づけられているようです。


 そして、ブログを書くに当たって調べ直すと、五島市椿園と鬼岳樹木園を一つの公園として、五島椿森林公園と呼んでいることも分りました。


 広々とした園内へと歩を進めました。

 


  芝の斜面を登りながら振り返ると、木立の先に小さな島が見えていました。


 後から地図で照合すると、赤島、黄島、黒島と呼ばれる島々かもしれません。


 椿園の中に、五島椿森林公園が2010年3月に国際ツバキ協会から国際優秀椿園に認定されたことを記念する石碑が建てられていました。

 


  実は今回、五島市の福江で2020年2月29日から「全国椿サミット」と「国際ツバキ会議」の開催が予定されていましたが、コロナウイルスの感染拡大で、直前になって中止となっていました。


 私もツバキサミットに参加する予定でしたが、サミットが中止になっても、それ以上に五島のツバキと世界遺産を見ておきたい思いが強く、車で東京から長崎へ、そして長崎港に車を置いて、五島へ渡って来たという次第です。

 
 長崎までは、主にウメの名所を巡り、帰路も中国地方の梅園などを訪ねながらの旅でしたから、何れかの時期にその内容もブログにまとめたいと考えています。


 余談が少し長くなりましたが、イベントが中止となって、人気のない椿園を散策していると、枯色に染まった鬼岳が曇天の下に寛ぐ姿を見せていました。
 


 私は昨日久賀島を訪ね、五島がツバキの島であることを実感しましたが、世界に五島がツバキの島であることを知らしめたのが、昭和22年に福江島で発見された、紅色の花弁に白い覆輪が入る「玉之浦椿」というツバキの品種です。


 五島市椿園の中に、その名花「玉之浦椿」だけからなる林がありました。

 


 どれほどの「玉之浦椿」が植栽されているか、確とは分かりませんが、優に100株は超えているようにも思えます。


 「玉之浦椿」の林の中へ入ると、枝毎に「玉之浦椿」が微笑み、雅な「玉之浦椿」の落椿が林床を飾っていました。


 この光景を見るためだけに、五島を訪ね来る人も少なくはない筈です。

 

 


 園内ではその他にも、ツバキ品種「筑紫の春」などが花を咲かせ、ヤブツバキの下には、落椿が紅を地に注ぐ光景が広がっていました。

 

 

   
 帰り際に、園内の出入り口に近い場所で、根本の直径が50~60㎝を越えそうなツバキの巨木に気付きました。多分樹齢200年は越えている筈です。


 ここに椿園が設けられる前から、この地に根を張ってきた木に違いありません。


 五島列島福江島の旅は始まったばかりですが、


 今日はどんなツバキの銘木に出会えるかと、期待が大きく高まってきました。

 

 

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福江島 鬼岳(おにだけ)

2020-03-19 22:57:05 | 五島列島の世界遺産と椿

 翌朝、8時ごろにゲストハウスを出て、徒歩でレンタカー会社に向かいました。

 

 港の方角へ向かえば、多分見つかるだろうと、市内観光を兼ねて適当に歩を進めました。


 古民家が周囲に石垣を巡らせていました。

 

 石に関する知識はありませんが、石垣に使われている石が、表面が凸凹していて、沖縄などで見かけるものと同質に見えます

 


 一方、港の周囲に、車を予約したトヨタレンタが見当たらないので、公衆電話から連絡して、迎えに来てもらうことにしました。

 
 そうそう、余談ですが、私は今でもスマホや携帯を持たない、絶滅危惧種に分類されています。

 
 旅に出る時以外、自宅か植物園が生活の殆ど全てなので、スマホや携帯を持つ必要性が全くないのです。


 レンタカー会社で車を借りるとき、福江島は市街を外れるとコンビニすらないと教えられたので、スーパーマーケットの開店を待って、朝食用の弁当と昼食用の菓子パンやドリンクを買い求め、福江島の観光をスタートさせました。

 

 事前にネット情報を駆使して旅のルートを設定し、訪問予定先を時系列に揃えたプリントを用意してありますので、順にナビに入力してゆけば、訪問先を見逃すこともなく、旅が楽しめます。

 

 今日は福江島を時計回りに巡る予定ですが、それほど急がなくても、夕方までには、福江市街へ戻って来られる筈です。

 

 
 最初に向かったのは鬼岳です。


 市街を離れると、道路に面した民家が大きなヤシを茂らせていました。


 カナリーヤシだと思いますが、ヤシの種類を見分ける目に自信はありません。

 


  鬼岳の駐車場に9時半ごろ到着しました。

 


 駐車所の表示案内板に従って階段を上り、展望台に着くと、北の方角に福江の街が望めました。
 


 振り返ると、南の方角に鬼岳のピークが見えています。


 草地の中に踏み分け道が、頂上へと続いていました。

 

 
 少し躊躇しましたが、時間は十分あると思い、ピークへと向かうことにしました。

 
 鬼岳は約1万8千年まえに噴出した火山で、周辺に11の単成火山を擁する鬼岳火山群を成しています。

 

 鬼岳の標高は315mで、マグマが噴火するとき、マグマに溶けていた水などの揮発成分が抜け出て多孔質となった、スコリアと呼ばれる岩の堆積丘だそうです。

 

 揮発して抜け出る程度が軽石程でなく、揮発の程度の低い(孔の少ない)ものは火山弾や火山礫となるそうです。

 

 だとすれば、先ほど市街の民家で見た石垣の石は、沖縄本島で見かけるものと違うかもしれません。

 

 たしか、沖縄の石はサンゴ礁由来だったような記憶がありますから。

 

 旅先では、こんなことさえ興味深く思えるのが不思議です。

 


  それにしても、年をとっても知らないことばかりですね。

 鬼岳の解説を読んだ後、ピークへの道を辿っていると、火山弾と思える岩塊を見かけました。

 


 歩き始めて、15分弱で山頂に到着しました。

 


  北東の方角には、昨日訪ねた久賀島とは比較にならぬ程の平地があり、豊かな収穫を予測させる耕作地が広がっていました。
 

 

 ピークの南側に、火口壁の縁をなす尾根が見えています。

 

 
 鬼岳に登った満足感を味わいながら草原の道を下る途中、目の前に五島列島を構成する島々が見えました。

 


 今まで、様々な島を訪ねてきましたが、これほどまでに多くの島や岩礁を、同じ視野の中に見たのは初めての経験かもしれません。

 

 目にするものすべてに、興味津々です。

 

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亀河原の椿原生林

2020-03-18 11:26:28 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 久賀島には世界遺産の「久賀島の集落」以外に、椿原生林という見逃せないスポットがあります。


 久賀島の代表的な椿原生林は、島の東海岸の長浜にありますが、今はそこへ行く道が通行不能であることが分っていました。


 しかし、若い頃からの山登りで鍛えた経験と勘で、何とかなるだろうと、それらしい場所に向かいましたが、目の前に立ち塞がるヤブを見て即座に、これを分け進むと、帰りの船に間に合わないと判断しました。


 そこで次に、島の西海岸にある亀河原の椿原生林を目指すことにしました。


 亀河原の椿原生林は久賀島に上陸した田ノ浦港の少し先です。


 田ノ浦港を過ぎて暫く進むと、ガイド板が掲げられた場所を右手に曲がり、

 


 
 舗装された畦道のような、細い脇道に車を進めました。

 


 数十メートル程の尾根を登りきると、バレーボールコート程の駐車スペースの横で、「落椿 踏みつつ来れば 海近し 内海朝生」の句碑が、旅人を出迎えてくれました。

 


 車を降りて、句碑の前から海岸に向かって轍の幅の道を歩いてみました。

 

 
 落椿の降り積もる道を進んで振り返ると、ヤブツバキのトンネルの先にまあるい空が望めました。

 

 


 この場所は冬になればきっと、厳しい西風が吹きすさぶのでしょう。


 尾根の縁に育つ椿は、風にねじ伏せられた樹形となっていました。

 

 

 尾根に立てられた掲示板に、「この亀河原の椿原生林は、明治時代に植林したものも含めて40ha(12万本)に達し、殆どが市有地である椿原生林のツバキの手入れや実の採取は、地区ボランティアの活動に因る」と記されていました。

 

 

 そして私は16半頃レンタカー会社に車を返し、久賀島に別れを告げて、17時10分発の渡船で福江港に戻りました。

 


  福江港に着くと、ネットで予約しておいた「五島ゲストハウス雨通宿」を目指し歩き始めました。

 

 

 福江島の五島市街は予想以上に大きな街で、何度も道を尋ねながら、何とか宿に辿り着いた時は、すっかり日が暮れていました。

 


  チェックインを済ませるとすぐに、食事処を求め街中に出ました。


 ネットで何軒か店を調べておいたのですが、宿を探すことに苦労したこともあり、最初に目にした居酒屋の暖簾を潜って、カウンターに座るとすぐに、五島の芋焼酎をロックで飲み始めました。

 

 


   
 目の前のガラスケースに並ぶ見知らぬ魚の名を店主にあれこれ聞いた後、勧められるままに刺身の盛り合わせを注文しました。

 
 カウンター越しの店主に、夫々の魚の名を聞きながら、ゆっくりと箸を進めました。

 


 ゲストハウスに戻ってからも、カウンターバーに座り、地酒をロックで注文しましたが、カウンターのお兄さんが後ろの部屋に入ったまま、戻ってきません。

 

 
 それもそのはず。後ろの部屋は宿のリビングで、お兄さんは長崎大学の女子学生二人と、そこで楽しく会話を弾ませていたのです。


 であれば私も、ということで、ゲストハウスに宿泊した、期待通りのシチュエーションとなって、五島列島の夜が更けてゆきました。

 

 

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牢屋の窄殉教地

2020-03-17 16:57:57 | 五島列島の世界遺産と椿

 五輪教会から戻る途中、島の東側の尾根に設けられた折紙展望台に登ってみました。

 

 この展望台は、島民の皆様の手作りなのだそうです。

 


 
 展望台から南東方向を見下ろすと、眼下に蕨の港が見えていました。

 

 
 尾根をまたいだ反対側には、久賀湾が島の中心部へ水面を伸ばしていました。

 

 画像が暗くて分かり難いのですが、展望台の周囲はヤブツバキに覆われ、葉の間から赤いツバキの花が顔を覗かせていました。

 

 
 展望台直下から、島の北の方角へ伸びる舗装された道が見えたので、電気自動車でその道を走ってみましたが、10分程先で突然道が途絶えました。


 島の東側尾根の先端の折紙鼻と呼ばれる場所に行きたいと思ったのですが、ちょっと残念でした。

 

 
 展望台で島の眺望を楽しんだ後、「牢屋の窄」に向かいました。

 

 
 路肩に車を止めて階段を上り、振り返ると、久賀湾が静かに水を湛えていました。
 

 

「牢屋の窄殉教記念聖堂」を説明する表示に


 「明治元年(1868年)長崎の浦上でキリシタン迫害が始まると、五島各地でも厳しい弾圧と迫害が始まった。


 久賀島では、6坪ほどの牢屋に八ヶ月間200名の信者が押し込まれ、悲惨な拷問が行われた。


 その結果、在牢中39名、出牢後3名の死者でるという悲惨な弾圧であった。


 その状況は外国使節団の知るところとなり、明治新政府の外交問題に発展し、明治6年ついにキリシタン禁制の高札が下ろされ、信者達は進行の自由を勝ち取った。・・云々」 と記されていました。
 

 

 世界遺産 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産


 久賀島の集落⑩ の解説には


「久賀島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、移住先として選んだ4集落のうちの一つである。

 

18世紀後半以降、外海(そとめ)地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は五島藩が久賀島に開拓民を受け入れていることを知り、既存の集落と漁業や農業で共存関係を築きながらひそかに共同体を維持した。


牢屋の窄殉教地 の解説には


 久賀島の潜伏キリシタンの指導者たちは密かに大浦天主堂の宣教師に接触し、帰島して公然と自らの信仰を表明するようになりました。

 

 その結果、1868年に五島列島一円で弾圧が行われ(五島崩れ)狭い牢屋に多数の信徒が監禁され多くの死者が出ました。

 

 牢屋の窄殉教地はキリスト教解禁直前に潜伏キリシタンへ弾圧が加えられた最後の場所です。


 と記されていました。

 

 


   
「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」に記されていた内容が悲惨でした。


 明治元年九月久賀島の信徒が捕えられ、激しい拷問を受け、十月には信徒の家をこの地に移し、牢として老若男女200余名が収容された。


 この牢屋は六坪の家牢で、さながら人間の密集地獄であった。

 

 食べ物は芋の小切れを朝夕一個ずつ、飢えと苦痛のため死者が続出した。

 

 死者は踏みつぶされて腐敗するが五日間も放置され、蛆がわいて人体に這い上がり、放尿排泄物の蓄積による不潔さと臭気は言語に絶する惨状であった。

 

 十三歳のドミニカたせは、蛆に下腹部を食い破られて死亡した。


 十歳のマリアたきは熱病に冒されて髪の毛は落ち、それでも『パライゾ、パライゾ、わたしはパライゾ(天国)に行きます』といって息を引き取った。


 その妹マリアさもは七歳の幼女であったが、『イエズス様の五つのおん傷に祈ります』と言い残して亡くなった。


 かくして、在牢八ヶ月殉教者39名、信徒の頭九名はそのまま牢に残され、全員の出牢が許可されるまでには三ヶ年を要した。


 明治政府は、絶対主義神道国家確立をはかり、祭政一致を唱え、その政策の犠牲となったのがカトリック信者である。


 と記されていました。

 

 
 牢屋の窄の地に、犠牲となった信者を弔う数多くの石碑が並んでいました。
 

 

 言葉もありませんでした。

 
 宗教とはいったい何なのでしょう。

 

 ちなみに、私は無神論者ですが、


 キリスト教もイスラム教も仏教も、人間の命以上の絶対的なものとして神を認識しているように思うのですが、この判断は正しいでしょうか。


 そして人間は、神教も含め、宗教であれ道徳律であれ、理屈が立てば他者の命を奪うことを厭わない事実を、多くの歴史が証明しています。

 

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旧五輪教会

2020-03-16 00:50:10 | 五島列島の世界遺産と椿

 教会に近づくと、手前の新五輪教会と、その後ろの旧五輪教会の建物の輪郭が明らかになってきました。

 

 
 新五輪教会は1985年に建てられた、正面に赤い煉瓦壁を設えたモダンな建物です。
 
 そしてその横に、木造建築の旧五輪教会が佇んでいました。


 ところで、旧五輪教会を訪問する時には事前連絡が求められます。

 

 長崎の教会群インフォメーションセンター

 

 
 私は事前にメールで、訪問の許可を得ていましたので、建物に近づくと、インフォメーションセンターの方が出迎えてくれました。

 

 

   
 そして丁寧に、潜伏キリシタン関連遺産である旧五輪教会の歴史と背景などの説明をしてくれました。


 この旧五輪教会堂は他と異なり、教会内部も写真撮影が可能とのことで、説明を聞きながら、私はカメラのシャッターを押し続けました。


 旧五輪教会は禁教が解けた1973年から僅か8年後の1881年に建てられ、初期の木造教会建築の代表例として、1999年に国の重要文化財に指定されたそうです。

 

 教会内部の天井は、木材がアーチ型に組み合わされた構造を示しています。


 センターの方の説明に因れば、この教会堂は船大工の手によって建てられたのだそうです。


 再び天井を見上げ、さもありなんと思いました。

 


 洋式の天井と異なり、窓は横へスライドさせる和式の引戸で、外側には雨戸が設けられていました。

 

 
 内部は三つの廊に区切られ、左側の廊の先に赤い布で囲われた懺悔室が設けられています。

 

 

   
 祭壇手前の柵に彫られた模様に気付いてレンズを向けていると、センターの方が、


 「ここに彫られているのは小麦とブドウです。」

 

 イエスが最後の晩餐の席でパンを取り、自分の体であると言って弟子たちに与え、杯を自分の血であると言って弟子たちに進めたことから、キリスト教ではパンとワインの原料である小麦とブドウが象徴的な意味を持つことを説明してくれました。

 

 
 彼はキリスト教信者ではないそうですが、私の細部に及ぶ質問に、丁寧に答える真摯な態度がとても好ましい青年でした。

 

 全ての説明が終わって、貴方の写真を撮らせてもらえないだろうか、と告げると、マスクを外し、カメラに顔を向けてくれました。


 そうそう、これだけ丁寧な説明を頂けたのですが、料金などは一切請求されなかったことを、最後に付け加えておきます。

 

 五島市にお金を落とすことが、彼の努力に報いることになるのかもしれません。


 教会の外に出ると、2018年に長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されたこと、久賀島の集落と旧五輪教会堂がその一部を成すことを説明するモニュメントが並んでいました。

 

 

   
 車を停めた場所まで戻る途中、赤い落ち椿が、旧五輪教会堂を訪ねた今日の思い出を象徴するかのように、控えめながら、印象に残る色彩で私のあゆみを見送ってくれていました。

 

 

 
 

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