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五島列島の世界遺産と椿 index

2020-06-04 12:38:54 | 五島列島の世界遺産と椿

 

五島列島の世界遺産と椿 index

 

 1 五島列島へ (長崎港→福江島→久賀島)

 

 2 五輪教会への道 (久賀島でレンタカー)

 

 3 旧五輪教会 (久賀島の旧五輪教会)

 

 4 牢屋の窄殉教地 (悲惨な歴史)

 

 5 亀河原の椿原生林 (厳しい自然条件下に育つツバキ)

 

 6 福江島 鬼岳(おにだけ) (福江島を象徴する山)

 

 7 五島椿森林公園 (見事な椿公園)

 

 8 福江の大ツバキと細御寮大ツバキ (椿の古木を訪ねる)

 

 9 玉之浦の教会と神社 (玉之浦湾の教会とアコウ樹)

 

10 玉之浦椿が生まれた山 (福江島の豊かな自然)

 

11 福江島 三井楽半島へ (島の西海岸を北上する)

 

12 数々の歴史ドラマの舞台となった場所 (遣唐使船の最終寄港地)

 

13 世界最大級のツバキ防風林発見 (最大級であるとの認識)

 

14 五島は新しい文明との接点だった (多彩なドラマの地)  

 

15 五島の山 権現岳360m 他 (山に隔てられた集落の教会)

 

16 半泊教会と堂崎教会 (信者が隠れ住んだ地)

 

17 樫ノ浦のアコウ (アコウを眺め、宿へ戻る)

 

18 奈良尾のアコウ (福江島から中通り島へ、見事なアコウ)

 

19 中通島 穏やかな海の景色と教会 (入り江の奥に佇む教会)

 

20 奈摩湾を見下ろす丘の教会 (穏やかな志摩湾を見下ろす教会)

 

21 中通島の自然と人々の暮らし (平地の少ない島の暮らし)

 

22 ヤブツバキの段々畑 (津和崎灯台椿園、椿畑)

 

23 潜伏キリシタンの暮らしを垣間見る (米山教会赤波江教会

 

24 旅の最後は屋台のコップ酒 (博多の屋台で寝酒)

 

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旅の最後は屋台のコップ酒

2020-04-18 10:59:29 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 長崎港行きのフェリーが出る有川港に着いたのは15時を少し過ぎた頃でした。


 フェリーの出航時間は16時40分なので、この時はまだ、もう少し、有川周辺をドライブしようと考えていました。


 取り敢えず、有川港にある鯨見山に登ることにしました。


 私をその気にさせたのは、「鯨見山→」の表示の下に「資生堂 椿の森」を見たからです。


 そもそもの話、今回五島に来たのは、日本ツバキ協会主催のサミットが五島市の福江で開催される予定だったことが旅の動機でした。


「椿の森」を目にしたからには、素通りするわけにはいきません。

 


 有川の鯨見山は、高さが百メートルにも満たない小山です。

 


 解説板に、


 「有川湾では、江戸時代から明治時代まで捕鯨が行われ、元禄11(1698)年には83頭が獲れ、「鯨一頭で七浦が潤う」と言われた頃の繁栄を物語る。

 鯨山の頂などに「山見小屋」が置かれ、そこから鯨が来たことを知らせ、出漁の合図などを行っていた」と記されていました。


 鯨見山に登ると、遊歩道の周囲に、ツバキの苗が植えられた幾つかのスペースを見かけました。


「椿の森」の企画は始まったばかりのようです。

 


 頂上に登り、北の方角を望むと、数時間前に訪ねた津和崎辺りの島影が五島灘に浮かんでいました。

 


 鯨見山を下ると、駐車スペースに接した、角を生やしたような、奇妙な鳥居に足を向けました。


 鳥居近くに掲げられた説明文に、


 「この怪童神社の鳥居は、昭和48(1973)年に捕獲されたナガスクジラの顎の骨で作られ、捕鯨で栄えた有川地域を象徴する」の旨が記されていました。

 


  鯨見山に登って神社を見学するうちに時間がだんだんと迫ってきました。

 

 もうこれ以上の見学は諦め、レンタカー会社に車を返し、土産物などを物色しながら出航時間を待つことにしました。

 

 


 定刻の16時40分に有川港を出航した船は高速艇でした。

 

 

 今回は福江に二泊しただけの短い旅でしたが、それにしては、あまりにも密度の濃い旅でした。

 

 明治元年の「五島崩れ」と称されるキリスト教徒弾圧や、それ以前の江戸時代、約250年間を潜伏キリシタンとして過ごしてきた人々の足跡をたどり、福江島岳地区のツバキ防風林が他に例を見ない規模であること、中通島北部では段々畑でヤブツバキを育成する様子などを見てきました。


 エンジン音がごうごうと響く船内で、全ての見聞を、ブログにまとめきれるだろうか? 


 私はそんなことをぼんやり考えていました。


 そしてフェリーは18時20分頃に長崎港に入り、

 


 下船後に、港の駐車場に停め置いた、東京から運転してきた自車に戻ると、波止場の周囲は夜の装いに姿を変えていました。

 


 そしてその数時間後・・・

 

 私は長崎から車を走らせ、博多のビルの狭間の、コインパーキングに車を停め、寝床を整え、近所の路上に灯りを灯す屋台の暖簾を潜りました。

 


 今夜の寝酒は、辛子を利かせた、おでん大根と、ぬる燗のコップ酒です。

 

 さすがに今夜はもう、腹いっぱい、胸いっぱいでした。

 

 


 ------- + + + -------

 

 「五島の世界遺産と椿」を訪ねる旅は、これにて終了とさせて頂きます。

 

 五島の旅の前後に、車に寝泊まりしながら、奈良と中国地方の梅を訪ねました。

 

 いつの日か、その旅もブログでご紹介したいと思います。

 

 旅から帰ると、世界中がコロナウイルスに侵され始め、今は外出もままならない状況です。

 

 皆様もどうぞご自愛のうえ、再び旅を楽しめる日が来るまで、今は可能な限りお籠り下さい。

 

 外は今雨が降っていますが、明日はきっと晴れるはずです。 

 

 ほどよい用心深さで、皆様どうぞお元気にお過ごし下さい。

 

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潜伏キリシタンの暮らしを垣間見る

2020-04-17 19:09:09 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 津和崎灯台から戻るとき、車窓に見えた米山教会に寄ってみました。

 


 米山教会は上五島にある29の教会の最北端に位置しています。


 最初の聖堂は1903(明治22)年に建立されましたが、信徒の多くが海岸付近に居を構えるようになったことから、1977(昭和52)年、集落のほぼ中央の場所に新しい教会が建立されたそうです。

 


 津和崎集落に「国選定 重要文化的景観 北魚目の文化的景観」を解説する掲示が掲げられていました。

 

 

その概要は、

 

「津和崎は、海岸沿いから山の斜面のふもと付近にかけて家屋が集中する北魚目の典型的な漁業集落です。

 

 米山は寛政期以降に大村藩外海地方からの農民移住によって開かれた集落で、山の東、北東斜面に形成され、平地はほとんどなく、家屋は点在し、その周囲に耕作地が展開します。


 この地区では、上五島にもともと住んでいた人々と外海地方から移住してきた人々の両方によってもたらされた歴史が夫々の集落形態を示す、特徴ある景観です。」


と記されていました。


 そういえば、米山に教会がある一方、津和崎には教会がなく、現在も住職を隣島の明覚寺から招き、更に津和崎漁港に恵比須神社を祀っていることが夫々の集落の歴史的背景を物語ります。

 

津和崎漁港の恵比須神社

 

 米山教会の次に赤波江教会に向かいました。


 前々回のページに記したように、赤波江教会は山裾の斜面が海に落ち込む急傾斜の地にあります。

 

 
 県道32号を南下すると、仲知教会を過ぎた辺りで、赤波江教会へ導く標識を確認しました。

 


 標識に従って県道を左折するとすぐに、道は斜面を下り始めました。


 
 傾斜を緩める為、斜面を横切りながら進む道の空は、木々の枝葉で覆われていました。

 


  道路下に民家が覗く場所に出ると少し視界が開け、その場所から、海の向こうの山腹を横切る道路が見えていました。


 3枚上の赤波江教会の写真は、あの道路から現在地辺りを見た光景のはずです。

 

 

 その場所から数十メートルも進むと、赤波江教会が午後の陽射しの中で朱色の屋根を輝かせていました。

 


 周囲は不思議な静寂に包まれていました。


 風にそよぐ木立の葉音もなく、波の音すら聞こえてきません。


 教会に隣接する民家に人の気配はなく、瓦を乗せた庇が傾いていました。

 


 坂の下に見える家には、かすかに人の息吹が感じられます。

 

 

 赤波江教会の出入り口に掲げられた解説に、


 「赤波江教会は1884(明治17)年に初代教会が献堂され、現教会は1971(昭和46)年に献堂されたものである。


 この教会には、明治10年にフランス人の宣教師が初めて巡回したときの洗礼簿があって、それによると、当時の信者達が比較的自然条件に恵まれた平地と湧き水のある場所を見つけて移住したことが伺える。

 

 この地は急斜面で人を寄せ付けないほどに険しい山の中ではあるが、信仰を守るために移住してきたのであろう」

 

 と記されていました。

 


 県道からこの場所に至る道は簡易舗装されていましたが、そう遠くない昔は、車が入れない未舗装の道であったろうことが容易に想像できます。


 ネットで、県道32号を通う定期バスを調べると、津和崎から青方まで75分程かけて、一日4本のバスが片道運賃1320円で運行されています。

 通学定期は一ヶ月2万5千円でした。


 この地から高校へ通うのは、かなり大変なことでしょう。

 


 赤波江教会を訪ね、信者が暮らす様子を肌身で感じることができました。

 

 そして私は、潜伏キリシタンの人々が人目を避け、信仰とともに、修行僧のように暮らしただろうことを理解しました。

 

 一方私は、五島を離れるフェリーの時間が気になり始めていました。


 そろそろ、フェリーが出る有川港へ向かうべきかもしれません。


 そんなつもりで走り始めると、県道脇の、


 「五島・平戸領境界(仲知)」と題する掲示物に目が留まりました。
 

 

 

 その記載概要は、

 

 「貞和2(1346)年の記録によれば、松浦氏、青方氏による領地分にて、ここより北が平戸領となる。

 

 また、正和2(1645)年に、平戸藩、五島藩の間で中通島の境界の確認、制定がなされた。豊かな漁場と塩窯を持ち、古くから領地紛争が絶えなかったことが至徳2(1385)年、青方文書にも記されている」


 とありました。


 赤江波教会の信徒達は、厳しい地形に居を構えながらも、豊かな海に恵まれ、心豊かな暮らしを得ていたのかもしれません。

 

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ヤブツバキの段々畑

2020-04-16 10:06:57 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 13時半ごろ私は、津和崎灯台と表示された駐車場に車を置いて、赤いヤブツバキの散る散策路を歩き始めていました。

 


 100m程も歩くと、葉を落としたサクラの木の間に白い津和崎灯台が見えてきました。

 


 中通島の最北端を目指したのは、この場所にツバキ園がある情報を得ていたからです。

 

 灯台に近づくと、「現在地 」(赤矢印)が表示された地図が掲げられていました。

 


 海が見える右手の斜面を少し下ってみました。

 


 目の前の野崎島との間に、白い軌跡を残す船を浮かべる青い海峡が横たわっていました。

 


 白い灯台の周囲に、枝に赤い花を飾るヤブツバキが森を成していました。

 

 

 ところで、ツバキ園は何処にあるだろうかと、訝りながらツバキの中を散策すると、

 


 ツバキの茂みの中に「椿園 7ha」と記された表示板を目にしました。

 

 そうでしたか。


 津和崎灯台の周囲を囲むツバキの森こそが、椿園(椿公園)だったのです。


 椿園とは言っても、自生するヤブツバキの森を公園化したようです。

 

 自然公園と同じ主旨ですね。

 


  ところで、前ページに記した、石垣を積んだヤブツバキ畑らしきもの観察結果をまとめておこうと思います。


 津和崎灯台からの帰路、石を積んだ段々畑にヤブツバキが育つ様子に着目した観察を行いました。


 最初に紹介するのは立串郷の小瀬良教会下の斜面の様子で、石を積み上げた斜面にヤブツバキが葉を広げていました。

 


 少し近づいて写した写真では、段々畑のように石垣を積んだ場所にヤブツバキが一列に並ぶ様子が分かります。

 

 この場所をグーグルマップの写真で確認すると、長方形に区切られた場所に、木が一列に並ぶ状況が確認できます。

 


 その少し先の、立串郷の北東向きの斜面の様子です。


 この場所も、横一列にヤブツバキが並ぶ場所は、明らかに人の手によって自然石が積まれた様子を認めました。

 


 そして白草峠を越え、奈摩湾に下る途中で目にした、石垣で整地された畑にヤブツバキが育つ様子です。

 

 

 この光景は、東海道線の窓から見える、熱海辺りのミカン畑の風景そのものです。

 
 上に示した場所以外にも仲知(チュウチ)地区で見た畑は、一番下は道路工事で積んだ石垣ですが、その上は自然石が積まれた階段状になっていました。

 


 以上のように状況証拠だけからの推測ですが、自然石を積んだ、段々畑状のものは、ヤブツバキを育てる為の「畑」の可能性が極めて高いと考えます。


 ミカン畑が転用された可能性を考えた場合、ミカンの主要なマーケットである大阪や東京からの距離は、和歌山や静岡の産地とは競争にならない程の運送費が必要になります。

 

 また、この地区から博多や長崎へ搬出する港にミカンを運ぶことの労力も大きく、そのことを考えれば、ミカンや他の果樹畑を転用した可能性はかなり薄いように思われます。


 他の可能性として、野菜などを育てる為の石積みの段々畑が、人口の減少に伴ってヤブツバキ畑に変化したことが考えられます。


 そのいづれにしても、ヤブツバキを育て得られるツバキ油は、販売価格に占める運送費が軽微ですから、他に有用な換金作物がなければ、実の採集と搾油以外に殆ど人手を必要としないヤブツバキの育成は、多くの労力を掛けて石を積んだ段々畑を活用するに値するはずです。


 以上のことから、ヤブツバキを育てる為に石を積んだ、あるいは転用したかに関し、地区住人の聞き取り調査は必要ですが、殆ど平地がない当該地域の段々畑に育つヤブツバキは、この地域ならではの地理地形に適応した人々の、社会生活の特徴を示す貴重な文化的景観であると考えます。

 

 そして勿論、そのような背景に、潜伏キリシタンが弾圧を逃れ、あえて人里離れた場所に居を構えた、この地域ならではの歴史的経緯が影響しているであろうことは言うまでもありません。

 

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中通島の自然と人々の暮らし

2020-04-14 16:11:42 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 白草峠を越えた辺りで興味深い光景に気付きました。


 峠道を蛇行しながら下っていると、段々畑のように石を組んだ場所にヤブツバキが植えられているように見えるのです。

 


 路肩に車を停め、状況を確認しました。


 ヤブツバキは、まるで和歌山や静岡県のミカン畑のように、階段状に石を積み上げた斜面に葉を茂らせていました。


 ヤブツバキがこのように育つ状況を私は見たことがありません。


 この場所はヤブツバキの為の畑か、あるいはミカン畑などの跡地にヤブツバキを植えたかのように見えます。 

 


  これは面白い! 

 

 今まで数多くのヤブツバキ林を見てきましたが、ヤブツバキは岩や礫が露出するような斜面にも平気で育ちますので、これ程までに人の手を掛けた場所にヤブツバキが育つ様子は見たことがありません。
  

 勿論、他の作物畑にヤブツバキを植えた可能性もゼロではありませんが。

 

 そんな景色の中を走っていると、目の前に番岳のピークが見えてきました。

 


  番岳は標高442mで、中通島で最も標高の高い山です。

 

 以前、福江島の権現山の記事を書いたとき、中通島を主とする山も調べましたので、標高300m以上の山々を以下に列記しておきます。


 これらの山を訪ね歩く人が増えれば、あの「玉之浦椿」のような名椿が再び見つかるかもしれないと、そんなことを考えます。

 

 ヤブツバキが繁茂する自然林は日本以外に存在しませんから、日々の暮らしの中でツバキを見る楽しさを、多くの人に知ってもらいたい思いがあります。

 

 生まれてきた場所、その時々を精一杯に楽しむことが、人生そのものと思うのです。

 

 生まれてきた日本でしか出来ないことを精一杯に楽しもうではありませんか。 でなければ勿体ない。

 

 番岳 442m 中通島:新魚目町
 三王山雄岳 440m 中通島:上五島町荒川郷三王山133
 高熨斗山(たかのしやま) 430m 中通島:上五島町奈摩郷
 三王山雌岳 403m 中通島:奈良尾町
 矢倉岳 384m 中通島:有川町
 丹那山 369m 中通島:新上五島町江ノ浜郷
 魚目番岳 368m 中通島:新魚目町
 多石山 362m 中通島:新魚目町
 三峰山 343m 中通島:有川町
 飯盛山 337m  中通島:有川町
 黒木山 335m 中通島:有川町
 桜ケ岳 330m 中通島:有川町
 藤嶽 330m 中通島:有川町
 扇山 330m 中通島:奈良尾町
 小番岳 313m 中通島:新魚目町
 遠見番岳 308m 中通島:奈良尾町
 天神山 307m 若松島:若松町

 

 振り返ると、セルリアンブルーの海を抱え込んだ小串鼻の岬が見えていました。


手前の斜面には、ヤブツバキを主とする照葉樹林が、のびやかな陽の光の中で、二酸化炭素を取り込みながら緑の葉を茂らせています。

 


 私は対馬暖流の恵みに満ちた五島灘を眺めながら、午後の柔らかな陽射しに包まれる中通島の北端に向かって走り続けました。

 


 山の斜面にポツンと一軒家が、柔らかな陽射しを受けて、ナノハナを滴らせていました。

 

 
 そんな県道32号が、海に崖を落とし込む道に導かれて進んでいると、丁度南斜面に差し掛かった時、車窓に一瞬、通り過ぎてきた辺りの光景が視野に入りました。


 そして私は、急峻な斜面に、赤い何かが見えたのを見逃しませんでした。

 

 
 ブレーキを踏み、ギアをバックに入れ、車を10m程も後退させて、カメラをズームすると、信じられない場所に、赤い屋根の教会らしき建物を見出したのです。

 


 帰路に立ち寄り、これが赤波江教会であることを確認しましたが、今グーグルマップで見ると、この下の海岸に数10mほどの小さな護岸に守られた船寄せ場があって、漁船らしき3~4隻の船影を認めます。


 しかし、車が海岸まで進めそうな道はなく、人が歩いて通れそうな小道を認めるだけです。


 獲った魚は人が背に担いで登るのでしょうか


 山の斜面は全て木が茂る森に包まれ、漁業以外に生計を立てることはできそうもなく、この小道が命を支えることになります。


 私は2014年にネパールを訪ね、信じがたい急斜面にへばり付く山村に驚きましたが、赤波江教会の周囲に点在する民家はそれに匹敵するものでした。


 それにしても、人間の持つ潜在能力や可能性にはただただ驚かされるばかりです。

 

 

 ちょっと蛇足ですが、グーグルマップの写真で、赤波江教会を表示し、海岸に下りる場所をズームしてゆくと、斜面の中に、十字架を掲げたような墓地が見えてきました。


 興味のある方は是非確認してみて下さい。

 

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奈摩湾を見下ろす丘の教会

2020-04-12 20:49:39 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 

 

 奈摩湾を見下ろす斜面に建つ冷水教会は、前回の大曽教会を手掛けた鉄川与助が27歳の時、 1907(明治40)年に、棟梁として初めて設計施工した教会として知られています。


 この教会が冷水にできる前は、信者達は対岸の青砂ヶ浦天主堂へ伝馬船を漕いでミサに通っていたそうです。


 冷水教会の敷地から奈摩湾を見下ろすと、対岸の青砂ヶ浦までは結構な距離です。


 この海を手漕ぎの伝馬船で往復していた信者たちの信仰心が見えてくるような景色でした。

 


 冷水から対岸の青砂ヶ浦までは、通常であれば陸路は4~5㎞程ですから、次の目的地の青砂ヶ浦教会まで車で10分程ですが、途中の県道が土砂崩れで通行止めだったので、一度青方まで下り、県道32号経由で青砂ヶ浦を目指しました。


 ナビのガイドのままに走っていると、丸尾教会を案内する標識が見えたので、寄っていくことにしました。


 丸尾地区を見下ろす丘の斜面に、青空を背にした白い教会が、尖塔に十字架を掲げていました。


 丸尾教会を説明する掲示には「この地区は島内の他地区同様、迫害の嵐を避けて外海地方から移住してきたキリシタンの子孫で1899(明治32)年まで通称「家聖堂」と呼ばれる信徒集会所があり、20戸ほどの信徒の礼拝堂を兼ねていた」と記されていました。


 現在の教会は1928年に創建され、1972(昭和47)年に改修されたものだそうです。

 

 

 周囲に、どこにでも見られるような、ごく普通の住宅街が軒を並べていました。

 

 
 丸尾教会から数分で青砂ヶ浦(あおさがうら)教会に到着しました。


 この教会は、長崎県下で多くの教会建築を手がけた鉄川与助が、1910(明治43)年に設計施工した煉瓦造りの聖堂で、2001(平成13)年に国の重要文化財に指定されています。

 

 
 1879(明治12)年ごろにあった小さな集会場から、3代目に当たる現教会は、外壁がイギリス煉瓦積(長手と小口を一段置きに積む様式)で、ステンドグラスに飾られた円形のバラ窓や縦長のアーチ窓、そして正面入口左右に、柱頭に葉形装飾を施した円柱などが設けられていました。

 

 

   
 私は、旅を終えた後に知ったのですが、何とこの教会が、あの「男はつらいよ」第35作のロケ地となっていたそうです。


 第35作では、寅さんが五島に渡り、島で知り合ったクリスチャンのお婆ちゃんが突然亡くなります。

 そしてその葬儀に参列した、東京で働く孫娘(樋口可南子)と、彼女に恋焦がれる、司法試験に挑戦する民夫やその周囲の人々が織りなす涙と笑いの寅さんワールドが展開したそうです。


 教会の前庭から青砂ヶ浦漁港を見下ろすと、鏡のような奈摩湾の奥に、派生尾根を従えた高熨斗山の寛ぐ姿が見えていました。

 

 
 青砂ヶ浦教会を出た後、奈摩湾に沿って県道32号を北へ向かいました。


 車は、海岸からの高さが100m程もあろうかと思う道を進んで行きます。

 


 その辺りから、奈摩湾の湾口を挟み、さっき通ってきた矢樫崎とその先端のトトロ岩が見えていました。

 


  カメラをズームさせると、岬の中に冷水漁港と冷水教会らしき建物を確認することができました。


 ご覧のように、旅人の目から見れば、この辺りは長閑で心休まる景色そのものです。

 


 車は、中通島で標高が最も高い番岳(442m)と小番岳の鞍部を越える白草峠を走り、奈摩湾から、五島灘に面する島の東側に抜けました。


 とは言っても、この辺りの島の幅は2㎞にも満たないので、首を数回傾げる程の時間だったのですが。

 

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中通島 穏やかな海の景色と教会

2020-04-11 18:03:25 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 通島南端の奈良尾から国道384を北上し、中ノ浦教会を訪ねました。


 五島の中通島と若松島の間に複雑に入り組んだ若松瀬戸。


 その若松瀬戸の笛吹浦から更に入り込んだ中ノ浦の海辺に白い教会が建てられていました。


 冬に西風が吹き荒れる季節であっても、教会が波に洗われることはないのかもしれません。


 海岸に接しながらも、汚れの目立たない白壁がそう思わせます。


 明治初年に潜伏キリシタンが信者であることが明らかになるまで、信徒に波が及ぶことはなかったかもしれないと、そんな風に思えるほど長閑な景色の中に教会は佇んでいました。

 


 笛吹浦は峰々に周囲を囲まれ、高原の湖のような穏やかな表情を見せています。
 

 

 青い空に白い雲が浮かび、私は海岸沿いの道をのんびりと走り続けました。

 


 若松瀬戸の北端に位置する道土井湾に面する丘に向かい、国道384から、民家の間の細い道を数100mほども入った場所に、真手の浦教会がありました。


 静かな漁村に溶け込む教会に、潜伏キリシタンの不安感を想わせるものは見い出せません。


 人々の日々の祈りの場であれば、これが教会としての、本来の姿なのでしょう。

 


 更に国道384を北へ走り、中通島西海岸の中央部に位置する青方港を見下ろす丘で、大曽教会が陽を浴びていました。

 


 現在の建物は、中通島の青方村に生まれ、長崎県下に多くの教会を建設した鉄川与助が1916(大正5)年に設計施工し、平成19(2007)年に県の有形文化財に指定されています。


 教会の外壁には、レンガの凹凸や色の違いを装飾に用いる工夫が見られると、掲げられた解説に記されていました。
   

 

 

 大曽教会を見学した後、そのまま中通島の西海岸を北へ向かいました。

 

 それにしても、車の窓から見える海の青さが秀逸です。

 


 ですが、道が次第に心細い状況となり始めていました。

 


 ナビの画面右側に、高熨斗山(たかのしやま)の▲印が示されました。


 高熨斗山(標高430m)は、番岳(442m)三王山雄岳(440m)に次いで、中通島では三番目に高い山で、高熨斗とは高いのろしを意味するそうです。


 山名は、上五島が遣唐使船の寄港地であったことから、この付近で狼煙(のろし)を上げたことに因ると説明されています。

 
 高熨斗山の山麓をのんびりと走り進みました。

 

 

 もうかれこれ40年程前の記憶ですが、北海道の暑寒別岳の麓を増毛から石狩へ抜けたことがあります。

 

 あの頃、暑寒別岳が日本海に迫る場所の国道231号はこんな景色だったことを想い出していました。

 

 今は日本中どこへ行っても、山が海岸に落ちる場所では、崖の中にトンネルが穿たれ、安全に早く通れますが、味気なさは隠しようもありません。


 私はやっぱり、新幹線で移動するより、のんびりとした鈍行列車の旅が性に合っているようです。

 

 高熨斗山の北に伸びる半島を進んで行くと、やがて眼下に矢樫崎のトトロ岩が見えてきました。

 

 

 次の目的地の冷水教会は、もうすぐのようです。

 

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奈良尾のアコウ

2020-04-10 18:35:58 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 中通島の奈良尾へ渡る、朝8時のフェリーに乗るため、7時頃にゲストハウスを出ました。


 ゲストハウスから福江港までは1km程なので、時間は十分にあります。


 東へと歩み行く空に、顔を出したばかりの太陽が、今日の天気を約束していました。

 

 
 市内を流れる福江川の橋から大きな寺が見えました。


 確認すると、市の中心部に位置する観音寺です。


 潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産に登録されたので、キリスト教会に目を向けがちですが、目の前に聳える寺の大きさを認識すれば、人里離れた地に建つ教会の意味を、正確に理解できます。

 


 人通りの少ない市街を歩くと、アーケードに植えられたツバキの一株が「玉之浦椿」であることに気付きました。


 散り落ちた花の美しさに足を止めてレンズを向け、シャッターを押しました。

 

 


 中通島へ渡るフェリーは、福江港を定刻通りに出発しました。

 


 船は港を出て、穏やかな海へ進んで行きます。

 


 昨日登った鬼岳が視界から次第に遠ざかります。

 


 蠑螺島(サザエシマ)らしき島を照らして昇る太陽が、印象派の絵のような光景を見せくれました。

 


 ツブラ島や椛島(カバシマ)などが次々と現れ去ってゆきます。

 

 
 そして約1時間後、航路の先に中通島の奈良尾港が見えてきました。

 


 港に降りると、タラップの先でレンタカー会社の人が出迎えてくれました。


 事務所で、ネット予約した通りの手続を終え、ナビに目的地を入力し、車をスタートさせました。


 それにしても便利な世の中になったものです。


 数千㎞離れた自宅からネット予約すれば、一日4~5千円で自由に車を使えるのです。


 私が中学生だった1964年の東京オリンピックの頃、庶民が車を乗り回すことなど、夢のまた夢の話でした。


 それを思うと、この先50年、どんな世界が待っているかは想像もできません。


 その頃私は、この世には居ない筈ですが、このまま平和が続くことを、ただただ祈るばかりです。


 思いもよらぬ新型コロナの蔓延を目の当たりにして、世の中、何が起こるか分からないことを再認識させられました。

 

 車はナビで、奈良尾港裏手のトンネルを抜け、民家が建ち並ぶ細い路地に導かれました。
 

 

 そして、その路地奥に、奈良尾のアコウが待っていました。


 1961年に国の天然記念物に指定された奈良尾のアコウは、樹高25m、幹回り12mの巨木で、西暦2000年時点で、樹齢が650年と推定されます。


 昨日、福江島で玉之浦のアコウと樫ノ浦のアコウを見ましたが、奈良尾のアコウも見る者を圧倒するパワーを秘めていました。

 

 この木が生まれたのは室町時代で、ヨーロッパではペストが猛威を振るい、人口が減少した頃のことです。

 

 

   
 奈良尾神社の参道をまたぐように聳えるアコウ樹は、今にも動き出しそうな気配を見せていました。

 

 


 明日をも見通せない人の世と、650年の歳月を経てもなお、旺盛な生命力で生きるアコウ樹。

 

 人の力が及ばないものがあることを想います。

 

 だからこそ、カゲロウのような人生でも、屋久杉のような人生でも、その時々に与えられた場所で精一杯に生きて泣き笑い、謳歌する。

 

 人生とは、ただそれだけのことと思い定めることにしています。

 

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樫ノ浦のアコウ

2020-03-31 13:06:41 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 堂崎で樫ノ浦のアコウのアドレスをナビへ入力しました。


 県道162号線を数分はしり左折すると、追い越し困難な目の前の細い道を定期バスがのんびりと走っていました。


 こんな時は、時間など気にせず、田舎時間に身を委ねるしかありません。


 どうせ数分も違わないのですから。


 樫ノ浦のアコウは民家の裏側の、少し奥まった場所に聳えていました

 

 

 

 掲示されていた解説には日本語の他に、英語、韓国語、中国語が併記されていました。


 解説文を紹介しますと、


 「アコウはクワ科の常緑高木で、イチジクのような果実をつけ、中国南部、台湾、南西諸島を経て九州・四国・本州の暖地に分布する。

 

 このアコウは、根回り15mを越え、樹高は10m以上、四方へ30m以上枝を張っている。

 

 錯綜した枝から大小の気根が垂れ下がり、大きい気根だけでも約100本、そのうち地面に達し支柱根となっているものが40本を超える。


 アコウは亜熱帯植物で寄生木であることから奇観を呈することが多く、五島には変わった樹形の大木が多く見られ、中でもこのアコウは県下のみならず九州でも最大級の部類に入る。」

 

 と記されていました。

 


 ついでにネット検索で「ウィキペディア」を開くと、


 「アコウ(榕、赤榕、赤秀、雀榕)はクワ科の半常緑高木。F. superba の変種 var. japonica とされているが、Ficus subpisocarpa Gagnep.とする説もある。


 枝や幹から多数の気根を垂らし、岩や露頭などに張り付く。


 5月頃、イチジクに似た形状の小型の実(隠頭花序)を、幹や枝から直接出た短い柄に付ける(幹生花)。果実は熟すと食用になる。」とあります。

 

 どうやらアコウは実を食べることができるようです。


 更に「黒島(長崎県佐世保市)で、アコウを利用した防風林が文化財保護法の重要文化的景観に選定されており、その景観を築いたのが潜伏キリシタンであることから、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「黒島の集落」として世界遺産に登録されている、と記されていました。

 

 こんなことを知ってしまったらもう、五島潜伏キリシタンの故郷である、長崎の旧大村藩外海地区も含め、再訪を考えない訳にはいきません。


 
 樫ノ浦のアコウの次に、浦頭教会をチラ見しました。

 


 浦頭教会は明治21(1888)年に最初の教会が建立され、現在の教会は昭和43(1968)年に建設され、旧約聖書のノアの方舟をイメージしたデザインだそうです。

 


 
 そして私はこの後、福江市街に戻り、城山神社、

 


 県立五島高校の校舎があって、観光客は中に入れない石田城跡の石垣、

 

 
 武家屋敷通りで、石垣塀の上に「こぼれ石」と称する丸い小石を積み重ねた独特の景観、

 


 などを眺めた後、18時半頃、ゲストハウスに辿り着きました。


 さて・・・ 今夜もどこかで魚でもつまみながら一献、と思ったのですが、何と今日は日曜日でした。

 

 殆どの店が閉まっていたのです。

 

 ということで、今夜の晩御飯はスーパーで買い求めた焼肉弁当と缶酎ハイでお終い。


 流石にもう、街を歩きまわって、開いてる店を探す元気はありませんでした。

 

 

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半泊教会と堂崎教会

2020-03-30 20:40:02 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 ナビのアナウンスのままに、尾根筋から急な道を海岸に下ると小さな入り江が待っていました。

 

 周囲に人家が全く見えません。

 

 
 そんな入り江の一隅に、石積みの壁に囲まれた半泊教会を見出しました。

 


  白い門柱の上に十字架が掲げられています。

 


  半泊教会に掲げられてた解説文を要約しますと、


 「江戸時代末期にキリシタン弾圧から逃れ来た数家族が福江島北東部の小さな浜に上陸しました。

 

 しかし、それだけの人数が住み着くには土地が狭く、その半数だけが留まり、残りの半数は三井楽方面へ向かったことから、この土地は半泊と呼ばれるようになりました。


 1920(大正9)年から教会の建築計画が具体化し、アイルランドからの浄財が建築資金に充てられ、鉄川与助の手によって1922(大正11)年に完成しました。

 

 新築から5年、信徒たちは教会を台風被害から守るため、海岸の石を集め、教会正面に暴風石垣を築きました。

 

 1970(昭和45)年には敷地の境にブロック壁が設置されるなど、現在も大切に維持管理されています。」

 

  と記されていました。

 


  入り江の左側には鬱蒼とした森に包まれた小山が迫り、

 

 
 教会の裏手は、建物の横から木々の茂る山の斜面が立ち上がります。

 

 
 そして、入り江の右側は、猪でも出そうな山が壁を作っていました。

 


  弾圧を逃れ来た人々は、この地でどんな暮らしを営んでいたのでしょうか。


 そして、半泊教会を後にする時、以外なものを目にしました。


 門柱に、かなり錆びついた銘板を残して廃校となった、福江市立戸岐半泊分校です。

 

 

 更にネットで「福江市立戸岐半泊分校」を検索すると、

 
 興味あるページにヒットしました。


 五島市が廃校となった小学校を活用する事業者を公募していました。


 面白そうですが、募集期間は2020年4月30日までです。


 陶芸や木彫、水彩画などの工房兼ギャラリーに活用すれば、創作に没頭できること請け合いです。

 

 

 車に戻り、尾根に通じる細い道をはしり、次の堂崎教会を目指しました。

 

 
 尾根に上ると、福江島の北東に突き出た、糸串鼻に通じるであろう道が、民家の脇を通って北へ伸びていました。


 何時もであれば、私は躊躇なく車をそちらへ進めるのですが、ナビに現在時16時45分が表示されているのを確認し、寄り道を諦め、堂崎教会へ向かうことにしました。

 


  1時間程前にUターンした辺りを過ぎると、対岸の久賀島に、白い浜脇教会が見えてきました。
 

 

 昨日、福江港から久賀島へ渡る渡船から見えていた赤い戸岐大橋を渡って、

 


  17時を過ぎた頃堂崎に着き、パーキングに車を停め、砂に埋もれた堂崎湾の縁を歩いていると、

 


  干潮の海岸の中に、誰かが造り置いたかのような、不自然な程に丸い石に目が留まりました。


 調べてみると、1500万年ほど前に、堂崎湾にできた花崗岩類の岩床が、多分、波や潮流などの風化を受けて球形に変化したもので、リンゴ石と呼ばれているそうです。

 


  教会に近づくと、散策路にテーブルを置いたコーヒーショップがありますが、人影がありません。

 


  堂崎教会受付の窓も、白い扉が半分閉じられていました。

 


  正面に回ると、ネットで見ていた堂崎教会そのものを見ることができました。

 


  堂崎教会は、禁教令が解かれたあと、1879年に五島で最初の天主堂(木造)が建てられ、1908年に現在のレンガ造りの教会堂が完成し、1974年に、県の有形文化財(建造物)の指定を受けています。現在は、弾圧の歴史や資料を展示する資料館として、一般公開されています。

 

 駐車場戻ると、私が借りたレンタカー以外に車はなく、人の姿も全く見当たりません。

 

 雲に覆われた空に、明るさを感じさせるものはなく、周囲に夕暮れが迫り始めていました。

 

 

 福江島に、もう少し見ておきたいものが残されています。

 

 先を急ぐことにしました。

 

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五島の山 権現岳360m 他

2020-03-29 22:19:56 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 水ノ浦教会の次に、堂崎教会を入力しましたが、この地区では、半泊教会も訪問する予定でした。


 事前の調査で道路状況に不安を感じたので、現場に行ってルートを判断することにしていました。


 水ノ浦教会を出て国道348を走り、前小島を左手に見ながら進んでゆくと、ナビは岐宿町河務で左へ入る道を案内しました。


 左折後1km程も走ると、「ドンドン渕滝」という標識が見え気持ちが動き、ナビのガイドを止めて、沢沿いの舗装された道に入ってゆきました。


 小さな橋の手前で「ドンドン渕滝」の表示が、橋の左手の踏み分け道を、林の中へ進むように指示しています。

 踏み分け道をを進んで行くと、青緑に水を湛えた渕に、豊か水を落とす、五島列島最大のドンドン渕滝の姿を見ることができました。


 標高僅か360mの権現岳から流れ落ちる沢とは思えぬ水量に驚きました。

 


 ドンドン渕で15分程の時間を費やし、再びナビ任せに車を走らせました。


 レンタカーを操って一人で島を巡っていると、目的地をナビに入力したら、後は全てがナビ任せです。


 右へカーブを曲がると、目の前に久賀島が見え、道はそのまま南東方向へと進んで行きます。

 


  このまま進めば、半泊教会と離れるのは間違いありません。


 そこで、Uターンして、半泊教会のアドレスに入れ直しました。


 戻る途中、道傍に降り積もる赤い椿の花にレンズを向けましたが、この記事を書くに当たり、この辺りは宮原椿林と呼ばれる椿の群生地であることが分りました。


 我ながら、観察眼に衰えはないなと、僅かに誇らしい気分です。
 


 そして道を戻りながら暫く進むと、宮原教会の案内表示を目にして、車を教会付近の空地へと進めました。


 ツバキは見落とさないのですが、教会の案内表示は見逃したようです。
 


 1797(寛政9)年以降、大村藩から五島へ移住した潜伏キリシタン達は宮原で地元の寺の檀徒となって潜伏したと言われます。

 

 最初の教会は祭壇の手前に障子があって、ミサの時になると開けられました。

 現教会は1971(昭和46)年に改築されたそうです。


 それにしても、なんと素朴で質素な教会でしょうか。


 誰かに見せるためではなく、自らの祈りのために、ただそのためにだけ建てられた教会であることが分ります。

 

 今回の旅の中でも、強く印象に残る教会の一つとなりました。

 


  宮原教会を出て、久賀島との間に伸びる田浦瀬戸を右手に見ながら、北へ伸びる名もない岬を進みました。


 目的地の半泊教会は、岬の途中の半泊湾の畔に位置するはずです。

 


  そして途中の道が、私好みの、「いったい何処へ通じているの?」的な代物だったのです。


 こんな道をはしると、好奇心が刺激されて、口元がほころんできます。

 

 

 ところで、全くの余談ですが、ドンドン渕滝の源流である権現岳がどんな山か気になったので、五島に権現山以外にどんな山があるか調べてみました。

 

 私は、もともと山登りが趣味でしたから、調べ始めると熱中し、ブログを書いていることを忘れそうになりました。

 

 そして、面白いページを見つけ、大いに楽しませて頂きました。

 

 五島の山岳

 

 五島アウトドアネットワーク 2013年 Last update のようです

 

 

 離島の山登りは面白そうですね。

 

 でもでも、僅か人生100年、あまりにも時間が足りません。

 

 

 五島市 標高300m以上の山 

 

 父ヶ岳(ててがたけ) 461m 岐宿町松山
 七ッ岳432m 岐宿町中嶽
 翁頭山(おうとうさん) 429m 増田町
 行者山 398m 岐宿町
 岩谷岳 397m 玉之浦町幾久山
 笹嶽 390m 奥浦町
 高岳 379m 増田町
 無名峰 377m 玉之浦町丹奈
 無名峰(長峰) 374m 富江町繁敷
 唐岳 370m 岐宿町河務
 権現岳 360m 岐宿町戸岐ノ首
 無名峰 347m 岐宿町河務
 番屋岳 341m 久賀島 猪之木町
 行者山 338m 岐宿町中嶽
 桐ノ木山 321m 五島市三井楽町濱ノ畔
 致彦山 321m 椛島:五島市本窯町
 鬼岳 317m 堤町
 火ノ岳 315m 長手町

 

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五島は新しい文明との接点だった

2020-03-28 12:44:05 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 三井楽半島に別れを告げ、県道233から国道384号に入って走り始めるとすぐ、右手のこんもりした丘の上に朱色の遣唐使船が置かれているのが見えました。
 

 

車を降りて、丘に登り遣唐使船に近づくと、

 


 
 「遣唐船と三井楽」の表題で、次のような解説が掲げられていました。


 「優れた中国文化を学ぶため、唐に遣わす遣唐船は五島列島で日本最後の風待ちとしました。当時我が国の造船・渡航技術は未熟で遭難も多く、中国渡航は決死の覚悟が必要でした。


 順風が吹き、出航し、三井楽の柏の岬を過ぎると縹渺たる大海原が広がります。

 

 四隻に分乗した、大使や学問僧ら5百人を超す乗組員は今生の見納めになるかかもしれない日本最後の地、三井楽の浜と緑の島影を瞼の裏に焼き付け、万感の思いをこめて東シナ海に乗り出して行ったに違いありません。」

 


 
 園内に、文学博士で文化功労者の故犬養孝が揮毫した万葉歌碑を見かけました。


 そのまま読んでも、すぐには理解できませんが、


 「王の遣(つか)はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る」


 という万葉集の一首が刻まれていました。


 万葉集に、この歌の背景の説明が記されています。

 わかり易く意訳しますと、


 荒雄という力持ちで心優しい船乗りが、仲間から、王が命した、船で対馬を往復する仕事の代わりを頼まれます。

 

 命がけの仕事ですが、仲間の懇願に負けて仕事を引き受けることにしました。

 

 ところが船は港を出た後、突然の嵐で転覆し、荒雄は舟ごと海に沈み帰らぬ人となったのです。

 

 自分が命じられた仕事でもないのに、仕事を引き受け、命を落とす不運に見舞われたのです。

 

 その悲しみを、荒雄の妻子が、あるいは山上憶良が代わって詠んだと、万葉集の中に説明が記されています」

 

 そして、万葉集に記された「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」の最初の歌が歌碑の一首で、


 「王に命じられたわけでもないのに、無理して行ったばかりにこのような目にあい、沈みゆく船の上で、妻子に別れの袖を振っているぞ」というのが、その歌の趣旨です。


 興味のある方は「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」でネット検索してみて下さい。


 当時は、対馬に船でゆくことさえ命がけだったようです。

 


 
 五島列島を潜伏キリシタン関連遺産の視点から見た場合と、遣唐使船の最終寄港地の視点から見たときとで、周囲の景色の彩が異なって見えます。


 どちらも事実に基づきますが、物を見る時の印象が、どれほど先入知識に影響され易いかを改めて認識させられました。


 「みみらく=死者が姿を現す」などという言葉のフィルターを外し、自らの目で事実と真実を見定める意識を忘れたくないものです。


 10分程も走ると、水ノ浦教会に到着しました。

 
 水ノ浦では江戸末期に移住した潜伏キリシタンが仏教徒を装いながらキリスト教信仰を続けてきました。

 

 そして明治元年12月25日、信者の家での祈りの場に役人が踏み込み、30余名の男性が捕らえられ、信者の家を牢屋敷としてつながれました。主だった8人は4年の長きにわたって拘束されたそうです。

 

 その後、禁教が解けた7年後の明治13(1880)年に最初の水ノ浦教会が建てられ、昭和13(1938)年に現教会に建て替えられたそうです。


 現水ノ浦教会は、名工鉄川与助の設計、施工による、白亜の美しい教会でした。
 


 国道384を走り続けていると、小さな入り江に浮かぶ島に小さな鳥居を見つけました。


 玉之浦で玉之浦教会と神社が共存する様子を見てきましたが、明治6年にキリスト教禁制の高札が撤去されて、五島に教会が建てられ、仏教や神道との共存が進んでいったのだろうと思います。

 

 

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世界最大級のツバキ防風林発見

2020-03-27 02:59:40 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 三井楽教会は、1880年(明治13年)に最初のゴシック様式の木造聖堂が建てられ、1971年に老朽化とシロアリ被害の為現教会に建て替えられました。
 

 

 三井楽教会のシンボルである、貝殻や陶器などを用いた壁画が色鮮やかです。

 


 教会内部のステンドグラスも見事だそうですが、私は中に入ることはしませんでした。


 
 次いで、道路の案内表示を頼りに、嶽家牢屋敷跡を訪ねました。


 嶽家牢屋敷跡は明治元年の五島崩れの時に、ひとりの信者の宅地に投獄した場所で、その跡地には解説文が掲げられていました。


「1868年11月14日、代官所の役人が嶽地区の18名を捕え、善三郎の住宅を牢獄として閉じ込めた。


 後日代官所に引き立てられ、拷問を受けたが、一人の棄教者も出ないため、再度一ヶ月間投獄された。


 その後、追及の手が町内塩水・嵯峨島・大川・淵の元・貝津の各集落にまでのび1871(明治4)年までの37世帯、162名が迫害を受けたとされる。

 

 
 家の敷地跡は広場となっていて、石碑や解説文がなければ、誰もここが牢屋敷跡とは分からないかもしれません。

 


 次に、聖母の大椿を目指しましたが、事前に調べた住所は「五島市三井楽町岳」という大雑把なものだったので、ナビは全く役にたちません。


 しかし、長崎鼻灯台の九州自然歩道案内板に表示された位置を記憶していたので、勘を頼りに車を走らせると、

 


  聖母の大椿を示す標識を見つけることができました。

 


 路肩に車を停めて、椿に覆われた道を進んで行きます。

 


 歩を進める道は、赤い椿の花で埋め尽くされていました。

 


 そして、椿のトンネルを数百メートルも進むと、「聖母大椿」の表示を伴う古木が枝々に花を飾っていました。

 

 
 「聖母大椿」には先客がおられ、お話を聞くと、静岡県の御殿場から来られた方達で、私と同じで、椿サミットに参加する予定だったそうです。


 三井楽で予定した全ての訪問を終えて、次の目的地を目指していると、「岳地区椿防風林入り口」と記された白い標識が目に留まりました。

 


 そして近くに「岳・渕ノ元地区の椿林」の解説する掲示を見つけました。


「三井楽は古来畑作中心の農業によって発展してきました。干藷生産が九州一を記録したこともあり、昭和45年に生産額は1憶4千万円に達しました。岳地区は北低南高の地形で、夏は台風、冬はシベリアおろしの北風が激しく、防風林は畑作に不可欠です。この地区は多くが200年前に旧大村領から移住したキリシタン信者で、当初から椿は防風林を目的に育成され、信仰の証として大事に守られています。」 と記されていました。

 


  そうだったのですか。


 柏崎から三井楽教会への道で、椿が沢山の赤い花を散らせていた訳が分かりました。


 畑へ通じると思える道へ車を進めてみると、全ての道がヤブツバキの防風林に包まれていました。

 


 かなり広めの耕作地の周囲を囲む背の高いヤブツバキが防風林としての歴史を語っています。

 

 
 私は全国に椿を訪ねる旅を続けてきましたが、これほどの規模のヤブツバキ防風林を見たことがありません。


 伊豆大島にツバキ防風林が、宮古島のサトウキビ畑にツバキ防風林が、房総半島の大原町で、住宅の生垣としてツバキが活用されますが、三井楽半島の岳・渕ノ元地区のヤブツバキ防風林は国内最大級規模かもしれません。


 ヤブツバキは日本固有の樹木ですから、国内最大級であれば世界最大級ということになります。

 

 このヤブツバキ防風林は、潜伏キリシタン達が、死者が現れると地と伝わる、サツマイモしか作れない風吹き荒れる荒野を開墾し、畑の周囲にヤブツバキを植えながら、平和な暮らしを築き上げた証であり、まさに「潜伏キリシタン関連世界遺産」の一部をなす、と言っても過言ではありません。 

 

 岳・渕ノ元地区のヤブツバキ防風林、文化財としての保護を提案したいと思います。

 

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数々の歴史ドラマの舞台となった場所

2020-03-26 18:39:08 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 海岸線に沿って車を進めました。


 この道は「遣唐使旅立ちの路」と名付けられているようです。

 
 目の前に姫島が見えています。

 
 姫島は平地がほとんど無い島で、島に人が住むようになったのは、寛永9年(1797年)に大村藩からキリシタンが五島各地へ移住した際とされ、明治には人口も300人を越えていたそうです。

 

 しかし、島に波止場が無く船も出せなくなり、昭和40年に最後の7世帯が島を去って無人島化したそうです。


 そして最近は、イシダイ釣りの名所として知名度が高いようです。

 

 

 三井楽半島先端の柏崎に到着しました。

 

 
 「柏崎」の解説板に


 「柏崎は【備前風土記】に【美弥良久の崎】と記され、遣唐使船の最後の寄港地であるといわれる。

 

 この地区には、船の乗組員たちの飲料水として利用した井戸【ぶぜん河】や遣唐使守護の任にあたった者の霊を祀った【岩嶽神社】など、遣唐使ゆかりの史跡が多く残っている。


 また、江戸時代に五島の捕鯨は生成期を迎え、柏崎にも捕鯨の一団が移住してきて、冬場だけを漁期として活躍していたといわれている。しかし乱獲により鯨はいなくなり、幕末にはほとんどの鯨組は解散したと記録にある」

 

 と記されていました。

 


  「辞本涯」と表された碑がありました。


 「辞本涯」とは、日本のさいはてを去るという意味で、第16次遣唐使船(804年)で唐に渡った空海の偉徳を顕彰するために建立されたそうです。

 


 そしてその傍らに、空海の像が中国へと続く海を見つめていました。

 


 私の五島の旅はツバキと潜伏キリシタン関連世界遺産が目的でしたが、五島は古く、当時最先端文明を誇る唐に通じる遣唐使船の最終寄港地という役割を担っていたようです。

 

 私はそれを今回の旅で始めて認識することになりました。


 そして、
 「旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群」万葉集

 の歌碑が建てられていました。


 意味は「旅人が野宿する野に霜がおりたら、私の息子をその羽で守ってあげて、空を飛ぶ鶴たちよ」だそうで、天平5年(733年)に第9次遣唐使船が大阪の難波を出航するとき、ひとりの遣唐使の母が、我が子の無事を祈って読んだ歌だそうです。

 

 
 近世まで、日本人の「西」の概念が中国であったことを、実感を伴って認識することができました。


 三井楽半島の先端の地柏崎は、近年迫害を逃れたクリスチャンが平安を求めた地であると同時に、煌びやかな文明に憧れ、命を懸けて危険な海を渡った勇者達の志を伺い知ることのできる地でもあります。


 そして、私はこの場所にくるまで「みいらく」と読む「三井楽」を変わった地名だな程度にしか考えていませんでした。


 しかし、下の掲示を見て、三井楽は「みみらく」の意であると知ったのです。

 


 
 更にネット検索で、「みみらく 【美弥良久】は、日本古代に、西の果てにあって死者が姿を現すと信じられていた島。五島列島南端の福江島三井楽の地にあてたりする。」 の記載を見つけ、


 三井楽はみいらくと読むが、本来の意味は「みみらく」であることを知ったのです。


 そうですよね「みみらく=死者が姿を現す」をそのまま名地とすれば、住もう思う人はいないでしょうが、そんな場所であればこそ、潜伏キリシタンが暮らし始めたのかもしれません。

 

 柏崎を離れ、三井楽教会を目指し走っていると、農道のようにも思える道のあちらこちらで、椿が赤い花を落としている光景を目にしました。


 そしてこれが、単なる偶然ではないことに後で気付かされます。
 

 

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福江島 三井楽半島へ

2020-03-25 10:36:56 | 五島列島の世界遺産と椿

 

 道路がトンネルに入る手前で旧道と思われる道が左へ、海岸線に沿って尾根の上に通じていました。


 その道へハンドルを切ると眼下に、遠浅のビーチが海底まで白砂を敷き詰めていました。


 このビーチが日本の海水浴場88選の「高浜海水浴場」のようです。


 天気の良い日であれば、コバルトブルーに染まる海が見られたかもしれません。

 

 

 海に突き出た尾根の先が展望所となっていて、魚籃観音が海を眺めていました。


 東シナ海の大漁と航海安全を祈願して建立された観音像は、よく見ると、鯛の入った篭を手にしておられます。

 


 
 目の前の海に嵯峨ノ島が見えていました。


 嵯峨ノ島はJTBの『日本の秘境100選』に選ばれた島で、古くは遠島とよばれた流人の島で、平家の落人も住み、名は京都の嵯峨野に由来すると言われます。


 この島には国指定無形文化財の「オーモンデー」という念仏踊があるそうですが、平成30年の人口は124人とのことで、人口は減り続けているようです。 

 


  右手に貝津港が望めました。この港から嵯峨ノ島へ一日4往復の定期船が出ており、15分で島に着くそうです。


 右手奥に見えるのは京ノ岳(標高183m)で、山頂部に航空自衛隊の基地があって、長さ900mの滑走路が備わっているそうです、

 

 

 貝津を過ぎた辺りで車は三井楽半島に入りました。

 

 

 三井楽の渕ノ元カトリック墓碑群を目指し走っていると、民家の庭にハクモクレンが満開の花を咲かせていました。


 サクラが楽しめる季節は、もう目の前です。

 


  ハクモクレンを咲かせた民家の少し先で、スケアン (石干見漁法遺跡)を説明する掲示板を目にしました。


 スケアンという言葉を初めて目にしました。


 解説には、

 

 「スケアン、スケ網(九州一円ではスキ)は、起源が数万年前と言われる原始的漁法の一つで、遠浅の海岸に石積を築き、潮の干満を利用して魚を獲る方法で石干見(いしひび)漁業とも言われる」と記されていました。

 


  今は潮が満ちているので、目の前の海は石積がはっきりしませんが、この場所のスケアンは、高さ1~1.5mに積み上げた石塁が約80mにわたって入江を中断し、今でもミズイカ、スズキ、チヌ、イワシなどが撮れるそうです。

 


  スケアンが設けられた入り江を回り込むと、白塔型の灯台が現れました。


 高さ15mの三井楽長崎鼻灯台で、昭和52年3月に初点灯されたそうです。

 


  九州自然歩道案内板の地図を借りて示すと、赤い矢印が現在地で、この先の海岸線は国の名勝に指定されています。

 


 
 そして、海岸沿いに「夕映えの路」と名付けられた九州自然歩道が伸び、

 


  その先の荒涼とした景色の中に「渕ノ元カトリック墓碑群」が佇んでいました。


 振り返る景色の中に、嵯峨ノ島が見えますが、周囲に人の気配を感じさせるものは何もありません。


 迫害を逃れきたキリシタン達は、花咲く郷と異なる茫々たるこの場所を、生涯の最後の最後に、誰にも煩わされぬ平安の地とすることを定めたのだろうと思えるのです。

 


 周囲には、海風に痛め付けられながら地を這う樹と枯れ草に覆われた荒野が広がっていました。

 

 

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