十勝の活性化を考える会

     
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再連載:ピアソン夫妻 その7 「六月の北見路」十勝監獄リバイバル

2022-03-13 05:00:00 | 投稿

第二章 十勝監獄リバイバル

 

 これまで私の健康がすぐれなかったため。招待を断っていたのですが、黒木典獄やクリスチャン職員の度重なる心からの招待にこたえ、坂本牧師と共に、(1907年)十月五日午前六時三〇分、帯広行きの汽車に乗りました。
 旭川から帯広に向かって東南におよそ100マイルの乗車は、北海道の心臓部をたちまち通り越し、十月の目も覚めるような紅葉の森や山を通り抜ける、それはそれは筆に尽せない美しさでした。ほっそりと愛らしい楓の葉は、堂々とした北海道もみの木(えぞ松)の濃緑色に映えて、やわらかい炎のようにふるえ、菩提樹〔したの木〕のうっすらとしたほどよい黄色、金色に輝く大きな桂の木、高くそびえる楡のおちついた緑葉などが入り交じっているのでした。それこそ、まぎれもない色彩のシンフォニーでした。やおらかなホルン、芦笛、かなしくふるえるオーボエ、そしてものうげなファゴッ卜などの幻想にふける木管楽器のシンフォニー。そして、時々、ラッパの高い澄んだ音色や、陽気な狩人の歌にはっとわれに返るのでした。
 ほどなく汽車は、絵画のような流れに沿って点在している大きな製材場へとつき進んで行きます。ごうごうと流れる水は、松や日本楡の大きな丸太でせきとめられていました。


 今、私たちは黄金色のわらび、深紅の漆の木の端すれすれに進み、ヴァージニアやフロリダのライブオーク〔柏の一種〕に付いているものと同じようにまとい付く、銀色の苔を付けて堂々とした枝を張り出している立派な常緑樹「えぞ松」の雑木林をぬけ、うねりながら進んでいるのです。
 今度は、石狩と十勝地方を分けている「分水嶺」を昇っているところです。
 海抜二〇〇〇フイートの地点で、ちょうど落合を越えた頂上〔狩勝峠〕にある長いトンネルから出て来ると、広大に広がる土地と圧倒するばかりの絶景が私たちを歓迎するのです。
 その地帯ははるか下の方へ、陽の光をいっぱい浴びる大草原へと延び、つやのある柏の森があちこちに照り映え、肥沃な農場の金色に輝く畑がほほえんでいるのです。これは私が、今まで世界のさまざまな場所で見た最もすばらしい景色の一つなのです。
 私たちは今、澄んだ、陽のあたる広大な土地の只中にいるのです。樹木のない大きな広がりと、高く広い空の景観は、聖地パレスチナやシリア、また韓国のあるところの景観を、ふしぎと思い出させるのです。
 汽駆は十勝連峯の大きな褐色の山腹を、8の字のような巨大な輪を形どってうねって下りて行くのです。
 山腹に立つ、一部分は地下になっている巨大な雪よけトンネルは、ここでは大量の木材を使って、北海道の他の地方にある。普通のもろい雪崩よけの代わりをしています。
 今汽車は、丘のくぽみに見えかくれし、あるいは赤や金色の林のふちに建っている日本人のつましい小さな農家やアイヌ人の小屋などのある、美しい公園のような地方を通っているのです。ベケレペツ、サネンコロ、イクトラ、ヤムナッカなどという土地の名前は全部アイヌ語で、私たちは今やアイヌ領の中心にきたのです。
 汽車は、ロザリンド〔シェークスピア「お気に召すまま」のヒロイン〕でさえ迷ってしまいそうな美しい小さな林の近くにある、漫みきった急流のちょっとしたところこ止まります。目的地帯広に近づくにつれて、下生えがなくて、きれいになったイギリス風な、一面柏の雑木林が見えてきます。

 私たちの客車は、イギリス人主教が、なぜ三等に乗ったのかと聞かれて、「四等がないからです」と答えたと同じようではありますが、旭川から八時間の長い汽車の旅は、いつの間にか終わったのでした。帯広駅のプラットホーームでは、監獄のクリスチャン職員の中で最も信仰深いひとりである臼井氏に連れられて歓迎に来てくれた友人たちの一群に会いました。

 §

 『十勝監獄はそれ自体ひとつの小さな世界です。人口2000人、そのうち約1000人は囚人で、彼らは大きな門の後にある、木造りの巨大なバラック風の建物の中で生活しているのです。この建物は、広い大きな空地を中心にそのまわりにめぐらされ、全体が高い黒い塀で囲まれています。そのほかは一三〇人の看守たちと監獄職員たちで、とてもかわいらしい村の小ぎれいな小職員住宅に家族と住んでいます。そして獄舎からは、事務所の高い監視塔で仕切られているのです。監獄門の一番近くにあるのか典獄官舎です。外国産のスイートピー、ダリア、コスモスが、日本の菊や野生のヒアシソスと美しさを競っている小さな庭つきの質素な日本風の邸宅です。


 そこから、三人の主任看守の一戸建の住宅が続き、さらに日本のどこの監獄にも付属している仏教教講師の家があります。ところがそれに並んで、黒木典獄がうら若い日本人の聖書教師、三沢某夫人が使うようにと取っておいた家が建っています。彼女は、監獄職員の家族の中にあってよい働きをしているのです。
 帯広というのは、「広い帯」と訳して良いと思いますが、注1)町も受刑者収容所も、柏の小さな雑木林と、豊かな農場が交互にある美しい広々とした土地の、広い帯の上にあり、今この大地は十月の太陽に照らされ、黄金色に燃えています。監獄をとり囲む何百エーカーもの広い畑は、囚人にとって健康によい労働の無限の機会を与えてくれます。私は、彼らが体にぴったりした鮭肉〔赤〕色の着物と帽子をかぶって、じゃがいも、カボチャ、キャベツ、大根(日本風の漬物にする長くて自いカブ)等の巨大な作物を、楽しみながらまた威勢よく収穫しているのを見ましたが、彼らが労働する時は、二人ずつ鎖でっながれ、ガチャガチャと音を立てるのです。それを見ると、多くの自由労働者は赤面せざるを得ないでしょう。この人たちは長期刑に服し、多くは終身刑で、最も重い罪として知られている強盗罪、放火罪、故殺人罪、謀殺人罪等です。彼らは、帝国のあらゆる地域の監獄からこに送られて来た、日本のすべての囚人のうちで最も凶悪で、そのため、日本社会の最低のくず(原文のまま)とも言うべき人たちです。しかし、あの太陽の照る畑で、彼らの軽快な喜びにみちた活動を見たり、とり分け私か見たように、彼らの顔が愛すべき師であり、友である坂本牧師を見かけた時には、まるで夏の稲妻が黒い雲の上できらめくように喜びで変わるのを見ると。そのようなことはとうてい信じ難いのです。


 『私は、かつてカールーシ・シュルツ〔1829-1906、アメリカ(ドイツ系)の政治家、雄弁をもってリソカーソの大統領当選に貢献〕の監獄改革について講演を聞いたことがありますが、それは、囚人を太陽の下で遊ぶ幸せな子どもたちのように変えるユートピア、つまり空想的社会改良家のヴィジョンと結びついていました。ここ、日本の北海道、十勝の黄金の原野ではその理想像が現実のものとなったのです。I・G・ピアソン』

 

 私は旭川に帰ってから、典獄黒木氏より十勝監獄のリバイバルの結果を報告する手紙を受けた。その手紙から、多くの受刑者たちが、本当に生まれ変わったことが読みとれるのである。手紙には次のように書いてある。


 「十勝監獄、一九〇七年二月、獄舎のかわいそうなわが兄弟たちの多くの者が、聖書を買いに私のところにやって来ました。そして、彼らは今熟心に学んでいます。先日。寒暖計が零下二〇度まで下がった日、彼らは雪の中で汗が眉から流れ落ちるほど、実にいっしょうけんめい、また良く働いたのです。なぜそんなに働くのかと間きますと、即座に答え、「主のためです」と言うのです。それを聞いた時、私は言葉で言い表わす以上に、これらのかわいそうな兄弟たちを自分が愛していることに気がついたのであります。……黒木鯤太郎」

 『ひょっとすると、多分、似たような改革が次第に日本の全監獄でもなされるかもしれません。そして、もしそうなればたしかに神の不思議な恩寵が、このように受刑者や看守たちにも同様に受けとられた時には、この改革運動の淵源は、十勝監獄リバイバルにさかのぼることでありましょう。I・G・ピアソソ」

 


【受刑者Hからの手紙】
 一九〇七年十月一七日
     帯広十勝監獄
 私たち哀れむべき受刑者のために同情をお寄せ下さり、神の道を教えられるため、はるばる来て下さいましたこと感謝いたします。
 神のお恵みにより、私はあなたと臼井氏に七日、作業場でお会いしました。あなたにお話したかったのですか、ご存じのように無知な者でして、あの短かい時間に、ずい分大勢があなたに会いたがっていましたので、私は神を信じるようになったということをついお話することができませんでした。それで私は、臼井氏にそのことを全部打ち明けました。どうぞ、あなたに話すように頼んで下さい。
 私は、あなたにお会いしたあの夜、心が大変落ち着き、静かになりました。私は感動して涙を流し、重いたががゆるめられたように感じました。
 私は、あなたが無事に旭川に帰られるように。また私たちが監獄でもう一度、あなたから恵みにあふれる教えを聞けるようにと、すぐに神に祈りました。この次来られる時は、どうぞ神の道について、個人的に、あなたとお話させて下さい。
                                   H
旭川坂本直寛牧師殿


【受刑者Nからの手紙】
 一九〇七年十月一七日
     帯広十勝監獄

はるばるおいでになり、神についての多くのことを、再び教えて下さり有難うございます。
私は神の愛の深さを感じ、あなたの教えて下さる熱心さに感謝いたします。私は、夢からさめ、心の中に新しい生命を感じます。
 先日お会いした時、あなたは私たちに対して、立派な態度で、たいへんやさしく、慰めるようにいたわって下さいました。これからもあなたが、私たちに続けて教えて下さいますように。
 感謝のことばもありません。私の喜びと感謝は表わせません。私が全生涯、決して忘れることなく覚えていられるような神のただ一つのみ言葉を下さい。
 あなたは、お体が弱いようにお見うけしました。どうぞ、お気をつけ下さい。再びお目にかかれるよう祈ります。
                                      N
 旭川 坂本直寛牧師殿

 (坂本牧師はすぐ彼に手紙を書き、ヤコブの手紙四章七節-八節、「この故に汝ら神に服へ、悪魔に立ち向へ、さらば彼なんぢらを逃げ去らん。神に近づけ、さらば神なんぢらに近づき給はん」の御言葉を送りました。I・G・ピアソン)

 

【受刑者Oからの手紙】
 一九〇七年十月一七日
 あなたははるばる、私たちを助けに来て下さいました。長い間、あなたにお会いしませんでした。あなたにお会いできて、どんなに嬉しかったことでしょう。私の筆ではその喜びを表わすことができません。私たち罪の奴隷に対するあなたのいたわりは、たいへんすばらしく尊いものです。
 あなたか話された神の御言葉は、私の心の奥底まで刺し通しました。あなたり尊いお顔は、私の魂の鏡に映っています。あなたのすべての教えを、私の行ないのための教訓として従ってゆく覚悟です。
                                     O
旭川 坂本直寛牧師殿

 注1)市名の由来

帯広川を表すアイヌ語の「オペㇾペㇾケㇷ゚(o-pere-perke-p)」(川尻・裂け・裂けている・もの=「川尻が幾重にも裂けているもの」)の上部の音を採って、十勝平野の広大さにちなんだ「広」をつけ「帯広」としたとされる。これは帯広川が札内川に合流する直前で、幾重にも分流することに由来する。

幕末から明治初期の記録には「オペリペリケプ」「オベレベレフ」「オベリベリ」などの記載も残る。『Wikipedia』

   §

 1907年(明治40年)アメリカ合衆国ニュージャージー州出身のピアソン氏と夫人が、外国人として見聞した十勝の風景を記録したものです。宣教師としての使命とそれにかかわる日本人クリスチャンがもたらす情報は、ある程度フイルタリングされていると考えられます。しかしピアソンさんは、実際に人々の生活の場に足を運び、対話して当時の庶民の置かれていた状況を克明に記録してゆきました。そしてそれを逐一本国へ手紙として報告しました。

1978年その書簡が発見され、熱心なピアソンの後継者小池創造牧師を中心に翻訳しなおしたのが、この「六月の北見路」です。当時の開拓地の気候風土や人々の暮らしを外国人の目で見て書き残している貴重な歴史資料です。

しかし日本人宗教者と彼らを取り巻く人々により、情報にバイアスが掛かっていることを考慮する必要があります。特に受刑者からの手紙は、すべて同一日に書かれておりますので、強制とは言わずとも一斉に指示されて作成したものと推測できます。(もちろん内容については、素直に心情を吐露したものと理解したいです。)

このようにピアソン夫妻の活動は、辺境の貧しき者・弱き者へと傾注されてゆきます。次回は「遊郭設置反対運動」についてご紹介します。

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