十勝の活性化を考える会

     
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再連載:ピアソン夫妻 その10 「タコ部屋労働」を知らなかった?

2022-03-16 05:00:00 | 投稿

The Japan Evangelist

ピアソン夫妻の報告
■ 1909.6.7-6.30(明治42年)
□ JOTTINGS FROM HOKKAIDO. From Letters from George P.Pierson.

ポンベツ、6月24日
 私は、6月の暑い日に、北光社から一人で出発した。広々とした土地を通る小道をなんとなく想像していた。
だが、それは、松や朽ちた木、スズランなどの香りが漂う美しく心地よい森林を通る、曲がりくねった〔馬車・荷馬車が通れないような細い〕乗馬用散歩道であった。
湿地帯もあり、地表に出ている植物の根もあり、倒木の上を渡る小川もあつた。
(北見・十勝)の国境まで来ると、多くの人を見かけるようになった。鉄道建設に関係する様々な仕事をする何百人もの労働者がいて、原生林の中を広い幅で帯状に木々を伐採していたり、伐採した木々や切り株を運び出していたり、盛り土をしていた。
夕暮れごろに、長い小屋に立ち寄った。そこでは、筋骨たくましい若者たちが、巨大な鍋がかけてある囲炉裏の周りに集まっていた。
大きなかたまりの馬肉が、その鍋の中に入れてあった。私が彼らに話しかけると、彼らはきちんと聴いてくれた。
現場監督の人が、私に、こんな道を通ることに対して「労働者たちは荒くれ者ばかりだぞ」などと警告してくれた。
だが、私は親切だけしか出会わなかった。できれば再び、こういう人たちと会いたいと思った。
この人たちには、本と新聞を送ることを約束した。
その他の場所で私が出会つた労働者たちは、酒を飲んだり、小銭をかける賭け事をしていた。
夜になって、私は道を見失ってしまい、背の高い草木の中を手探りで先に進んだ。
幸運なことに、掘り出された切り株を燃やすたき火が、あちこちでくすぶっていた(この季節は、北海道では、熊が出没する時期なのです)。
なんとか粗末な小屋にたどり着いた。ここでも、かなり安全に夜を越せると思ったが、私が狙つたのは現場監督責任者の新井さんの小屋で、おそらくはすぐそばにあるはずだ。
それで私は神に祈ると、まもなく、木々の向こうに輝く灯りが見えたてきた。
新井さんのお宅では、私を迎え入れてくれ、おいしい夕食ととても決適なベッドを提供していただき、この家の方々と”道〔生き方〕”について長々とお話をして楽しい時を過ごした。
翌朝は夜明け前に起床して出発した。この日は、このような鉄道建設の作業場をいくつも通り、あらゆる種類の人たちが集まつていることを目にした。

 §

 『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』

1977年5月 小池喜孝著 

 

網走線は十勝国池田から網走に至る約188キロの鉄道で、一九〇七(明治四〇)年に池田から着工し、北見との国境までを利別川沿いに、国境をこえた置戸から野付牛までを常呂川沿いに進め、一九ニー(大正元)年に網走までの全線を開通させた。

この工事には、当時の鉄道指定請負人8人が全員参加した。
すなわち堀内組(廉一、札幌)、荒井組(初太郎、旭川)、久米組(民之勁、内地)、関組(政五郎、小樽)、大倉組(粂馬、東京)、関組(政五郎の伜広吉、小樽)、沢井組(市造、内地)、落合(亀男太、四国)の八組である。

置戸をはさんで十勝側を関組が、北見側を荒井組が請け負った。
荒井組が分担した、置戸から常呂川が流れ出す地峡の断崖削りと護岸工事が難工事だったと、『業史』に記されている。

 「難所の開削工事と両々相侯って、多数の職工人夫を必要とする時に当り、悪疫流行し、罹病者相次ぎぎ死去また続出せしを以て、荒井組は、これが補充に一方ならず困難したのである」
 一九〇九(明治四二)年、十一歳のときに置戸の中里に広島団体として集団入植した阿部チシヲさん(一八九八・明三一年生まれ、在置戸町)は、さきに道路が通じ、ひきつづいて鉄道が開通するのを、十五歳のときに見ていた。
チシヲさんによれば、

「タコ部屋の細長い飯場(関組の下請けけ飯場)が常呂川の合流点にでき、赤いフンドシ(タコは上半身裸で赤腰巻やフンドシ姿が多かった)姿のタコが、肩をこんなにはらして、棒で叩かれて働かされていた。死ぬと焼いたり埋めたりしたが、埋めた場所は一箇所だけではない。
タコは山へ向かってよく逃げたが蕗の中で死んでたり、山の中でも死んでいた。
あるとき私の家へ逃げこんできた夕コがいました。
足をはらした脚気、だったので、水を飲ませないようにしてたら、こっそり飲んだらしくて死んでしまいました。
母親から来た葉書を一枚持ってたので、親もとがわかって、父が葬式を出してやったと知らせると、礼状が来て八円はいっていた。勝山の墓地に埋めたが、十八歳の若い人だった」

母親の手紙をタコ部屋でなんども読み返していたにちがいない若者の悲しみが伝わってきた。

当時、関祖の帳場をつとめた河西貴一氏(のち道議)は、次のように語っている。

「この工事に募集された土工(タコ)は、(中略)募集者の口車に乗せられて土工になったもので、上は大学卒業生から浪曲家、はては祭文語りもおるという雑多さであった。
中には内地で村長以上の職にあったろうと思われる人もおり、前歴は明かさなかったが、故郷の奥さんの手紙は実に能筆で、最後の”旦那様へ”と結ぶあたりから想像するに、かなりの身分と思われた」(『置戸町史』)

 

 §

 

1909年米国人宣教師が見た光景と、68年後その当時の実態を掘り起こした記録。
私はこの二つの文章を読んで、素朴な疑問を抱きました。
奴隷解放、廃娼、禁酒といったピューリタン的熱情に支えられたリベラリストのキリスト教伝道者が、過酷な奴隷労働の現場に何の予備知識も持たず無防備に近づいて行ったという事です。 

当時、明治政府が各地の内乱で発生した大量の囚人を道路建設などの報復的な苦役に投入し、北海道開拓の礎を作りました。
しかし外国人が往来するようになり、このような囚人への非人道的扱いが国際世論の批判を浴びるようになり、外役労働の廃止に至りました。(1894 明治27年)
それは、苦役・奴隷的労働が廃止されたわけではなく、タコ部屋へと民営化されただけのことです。
本州で募集業者のだましに乗せられ、一度タコ部屋へ送り込まれると、そこでは暴力支配と過酷な労働が行われ、まともな姿で帰還することはできませんでした。
この構造はやがて朝鮮半島・中国の人々への強制連行・強制労働へと引き継がれてゆきます。
やがて日本の敗戦と、GHQの廃止命令によってようやく終息しました。

 ピアソン夫妻が活動していた当時は、まさにタコ労働の真っ最中であり、夫妻がそのことに気付かなかったというより、実は周りの日本人たちがあえて教えていなかったのではないかという推測が成り立ちます。

当時陸別で開業していた医師:関寛斎が「堀内組はひどい奴らだ」と口にしていました。
一方の荒井組はより「良心的」で、工事完成後鉄道工事人夫死亡者の慰霊碑を建てており、現在でも保存・顕彰されております。

 

これらの史実から見えることは、アイヌへの抑圧・収奪と並んで北海道開拓の負の歴史であり、いまだその実態が完全に解明されたとは言えない状況です。
あらためて、先人の苦難に合掌。

 

 「十勝の活性化を考える会」会員 K

 

 

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