十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

再連載:ピアソン夫妻 その8 「六月の北見路」遊郭阻止運動

2022-03-14 05:00:00 | 投稿

■遊郭阻止運動


 野付牛でも夫妻は教会を助け、また旭川と同様、遊郭設置反対運動をおこし、ここでは幸いにも、未然にその設置を阻止することに成功した。北海道開拓時代、遊郭のない市、町はなかった。ハッカと木材の好景気のため、札幌に次ぐ好況を呈したこの北見に、ついに遊郭設置運動が成功しなかった事実は、いかに世論の反対があったとはいいながら、彼らを中心とする反対運動の情熟の賜物がなければ成功しなかったであろう。だがこの成功の陰には、ピアソソ夫妻の大きな犠牲があったことを忘れてはならない。何十人もの農家の若い娘たちが、貧困のため料理屋に売られて、いかがわしい商売をさせられているのを聞き、その人たちを買い取って親元に送り帰す。すると今度は親と業者がぐるになって、娘を売買してピアソンから金をまきあげるという悪質な手口にはほとほとあきれ、(熊)はこわくないが、あくま(悪魔)はこわいと悲しんでいたという。
それにもかかわらず、何人もの娘さんを自宅にかくまったり、また仕事を教え、中には結婚の世話までした。ある夏の夜、庭の涼み台で買い受けた娘さんと話していると、夜陰に乗じてピアソンは背後からこん棒で殴打され、その痛みはいつまでも残っていたという。
 北見地方には北光社以外に、遠軽と佐呂間にもキリスト教徒が入植しており、定期的に巡回しては励まし、またよく面倒をみながら教え導いた。この三つの教会はさながらピアソンの三人の娘のようであった。

§

しかし、当時の野付牛の隣町網走では、たくさんの遊郭が繁盛し、内地から身売りされた娼妓たちが凄惨な日々を送っていた。郷里山形から遠い網走の苦界に身を沈めその泥沼から自力で這い上がり、やがて市会議員にまで上り詰めた「中川イセ」というたくましい女性が、その半生を赤裸々に語り世に告発したのが「オホーツク凄春記」です。
残念ながらピアソン夫妻の、神の手は網走までは届かなかったようです。


オホーツク凄春記
山谷一郎著

 その網走遊郭は、いまから一世紀も前の明治二十五年にはすでに紅い灯をともしていた。
 その二年前の明治二十三年に、北海道の奥地といわれ、地名を知る人も少なかったオホーツク沿岸の小漁港網走に、釧路の標茶から監獄が大移動してきた。その当時、網走村の戸数は約百戸、住民わずか六百五人で、その大半が先住民族のアイヌ人であった。それが二年後には戸数四百六十戸、人口は千七百五十六人にふえた。それでは、わずか二千人足らずの小さな町に、どうして遊廓ができたのだろうか。
 当時北海道で遊郭があったのは、函館、小樽、札幌、旭川、室蘭、釧路、根室と、人口も多く、景気もよい街であった。監獄という国家機関が移設されるということで、網走もこの先かならず発展するであろうというおもわくから、遊郭が進出してきたものと思われる。
 明治二十七年、政府から許可が降りて、網走遊郭が公娼街として発足したときに、人口は二千八百三十二人にふくれ上がった。
 その網走遊郭の変遷を知ろうとしても、公的な資料はなにひとつない。その当時の面影をとどめる建物がわずかに残っているのみで、当時妓楼を経営していた人たちも、その身内の人も、ほとんど姿を消してしまった。ただ、大正元年に網走で発刊された『北見繁栄要覧』(当時網走は北見町と呼ばれていた)に、明治末期の網走遊郭について書かれている。

 北見町北通り三、四丁目の一画を占むるも仲通り八丁目の裏に当るを以って人呼んで八丁目という。
 廓内五軒の清楼、四十二人の娼妓あり。
○松葉楼(筆者注 先代中川茂市経営)
 楼主は新潟県人にして娼妓六名あり曰く/三四江、二葉、桜木、松島、初音、百代
○越中楼
 娼妓十人を有し楼主は富山県の人、妓も多くは同国人なり源氏名曰く/小千代、小福、玉浦、浅島、桃の井、増花、今吉、三福、小吉、花咲、外に芸者米吉あり。
○北盛楼
 娼妓八人有り源氏名曰く/小金、初鳥、勝利、小高、一竜、美代治、勝美、花井、外に芸者金太郎にして楼主は新潟県人なり。
○金松楼(筆者注イセのいた妓楼)
 娼妓七人、楼主は福井県人なり娼妓源氏名曰く/九重、港、金松、小桜、三勝、染治、揚巻
○昇月楼
 娼妓十人を有し楼主は秋田、娼妓源氏名左に/東郷、紅梅、浦鳥、白菊、馨、寿、若柳、大和、浜路、信夫、外に芸者小三あり。


 小桜はちょっと身づくろいをすると、客に向かって正座してから、やや低めの、落ち着いた声でうたいだした。
  ーつとせえ~人に知られた吉原のところは仲の町の病院で
  二つとせえ~両親そろっておりながらなんの因果でこの苦労
  三つとせえ~みなさん私の振りを見て哀れやら不憫とおぼしめせ
  四つとせえ~よもやこんなになろうとは夢さら私は知らなんだ
  五つとせえ~いつの検査に出てみても退院する日はわからない
  六つとせえ~むごいお上のご規則で門より外には出られない
  七つとせえ~長い廊下は冷たく暗い御内証じゃなんにも知らん顔
  八つとせえ~山中育ちの私でも病院の南京米は食べかねる
  九つとせえ~ここで私が死んだとて軒のすずめが啼くばかり
  十とせえ~ 遠いとこからやって来て親、兄妹にさえ逢えやせぬ
 唄が終わったとき、にぎやかな拍手は起きなかったものの、かといって座が白けるというのでもなかった。こういう場所でなければ聴けない哀調をおびた節まわしと悲しい歌詞に、みなそこはかとない哀愁を覚え、しばらくはその唄を反芻しているようで静けさが保たれていた。末席にいたイセのほおには、涙が伝っていた。


§

戦後日本の「遊郭」や「タコ部屋労働」等の人身売買・奴隷労働は、GHQの命令により、表面上姿を消しました。
しかし、現在に至るも技能実習という名目での外国人労働者の受け入れや風営法により、社会の表にはみえない形で延々と続いています。物理的な監禁や強制労働ではなくても、皆お金(借金)でがんじがらめに縛られています。
外国人労働者は、日本に来るためブローカーに多額の借金をしております。
楼主(オーナー)番頭(店長)がすべて前借金(ローン地獄)で娼妓(風俗嬢)を縛り、そこに群がる男たちからあぶく銭を吸い上げる構造は、本質的に何も変わってません。
いまこの国の若者は、ロスジェネ世代を含めて、一つのつまずきや失敗から立ち直ることができなくなっています。
あるいは「奨学金」という名の借金を社会に出る前から背負わされ、マイナスからの出発を余儀なくされています。
人生やり直しのきかない社会になってしまいました。

§

《あなたの生活が苦しいのは、あなたのせいにされていませんか。あなたが役に立たないからとか、あなたが勉強してこなかったからだとか。冗談じゃない》
《自信を奪われているじゃないですか、みんな》
《自己責任? 違う。国がやるべき投資をやってこなかったから》
《死にたくなるような世の中、やめたいんですよ》
 厚生労働省の調査によると、日本の貧困率は15・7%(2015年)。国民の7人に1人が貧困状態で暮らしている計算だ。ひとり親世帯に限れば、この数字は50%を超える。全世帯の15%、母子世帯に限れば38%が「貯蓄ゼロ」の状態だ。

(引用:山本太郎)

 「十勝の活性化を考える会」会員K

 

十勝の活性化を考える会」会員募集