仰げば尊しの季節になりました。
近頃この名曲を聴くことが殆どなく寂しいですが。
昨年はヤンゴン日本語教師会・カラオケ部会で
誰も聞いていないけれど熱唱した覚えがあります。
長谷川潔先生は関東学院大学・文学研究科・博士前期課程(修士)で2年間
修士論文のご指導を頂いた主査の恩師です。
旧制の湘南中学(現湘南高校)在学中に軍事工場での動員中
米軍の爆撃に会い片目をなくされました。
横浜市戸塚駅のすぐ近くにご自宅があり
お怪我とやけどが回復するまで1年以上床に就かれたそうです。
敗戦を迎え長谷川先生の行く末を案じた寡婦のご母堂が
枕元にラジオを備え、そこから英語を学んだと語っておられました。
回復後は横浜根岸にあるアメリカ軍のハイツで
ハウとボーイとして住み込みで働き英語をマスターされたそうです。
その後NHKラジオ放送の「カムカム英語」の講師を務め
お茶の水大学・横浜国立大学などで英語教育学の教鞭をとられ
関東学院大学の修士課程設置時に招聘されたと聞きました。
昼夜開講制だったので、授業の終わるのは2030pm過ぎ。
当時ジムニで職場から大学院へ通っていた私は金沢八景の駅や
時にはJR逗子まで先生をお送りしながら
経験に裏打ちされた英語教育学についてのお話を伺うことができました。
だいぶ後になってわかったことですが
長谷川潔先生の母上はガールスカウト神奈川連盟の設立にご尽力された方で
父親のなかった病床の長谷川青年を英語へと導いたのも頷ける気がしました。
とてもお洒落な長谷川先生はループタイとバッグの色を揃えたり
大きな石のついた指輪を身に着けていらっしゃったり
そしていつもパヒュームも纏っていらっしゃいました。
我々の在学中に大腸がんで切開手術をされましたが
外国の学会に行くたびに元気になって戻られ
学部長や学科長の先生方も驚いておられました。
1998年、長野オリンピックの年、私たちが最後の卒業生で
75歳の特任教授の定年を迎えられ、その後は80歳定年の
短大での講義のお仕事をされていましたが
美術家の奥様とご一緒に、我々卒業生をご自宅に招いてくださり
蔵書もたくさんいただきました。
メールがまだないあの頃、修士論文の締め切り直前には
ファックスで先生のご自宅に手書きのものを送り
添削していただいたものを夜なべでワープロに打ち込み
なんとか50枚を書き上げることができたのは
定年を前にして、教え子を落第させられないという
先生の責任感あってこそだったと思います。
好奇心が旺盛で
100円ショップで販売するために文庫本を執筆なさったり
定年後の肩書は「日本丸名誉船長」だけだったり
手弁当で教育研究会への助言に全国行脚されたり
NHKの「ようこそ先輩」に出演したいのだけれど
自分には母校がないから、君の勤務する中学で授業をさせてくれないか
という希望は叶わないままでしたが
仰げば尊し、人生の師は数多いらっしゃいますが
最終学歴の主査の恩師、長谷川潔先生
20年余を経てもなお先生の声が耳に残ります。
pic is from Danan Museum in VietNum
Japanese 60's TV.
にほんブログ村
近頃この名曲を聴くことが殆どなく寂しいですが。
昨年はヤンゴン日本語教師会・カラオケ部会で
誰も聞いていないけれど熱唱した覚えがあります。
長谷川潔先生は関東学院大学・文学研究科・博士前期課程(修士)で2年間
修士論文のご指導を頂いた主査の恩師です。
旧制の湘南中学(現湘南高校)在学中に軍事工場での動員中
米軍の爆撃に会い片目をなくされました。
横浜市戸塚駅のすぐ近くにご自宅があり
お怪我とやけどが回復するまで1年以上床に就かれたそうです。
敗戦を迎え長谷川先生の行く末を案じた寡婦のご母堂が
枕元にラジオを備え、そこから英語を学んだと語っておられました。
回復後は横浜根岸にあるアメリカ軍のハイツで
ハウとボーイとして住み込みで働き英語をマスターされたそうです。
その後NHKラジオ放送の「カムカム英語」の講師を務め
お茶の水大学・横浜国立大学などで英語教育学の教鞭をとられ
関東学院大学の修士課程設置時に招聘されたと聞きました。
昼夜開講制だったので、授業の終わるのは2030pm過ぎ。
当時ジムニで職場から大学院へ通っていた私は金沢八景の駅や
時にはJR逗子まで先生をお送りしながら
経験に裏打ちされた英語教育学についてのお話を伺うことができました。
だいぶ後になってわかったことですが
長谷川潔先生の母上はガールスカウト神奈川連盟の設立にご尽力された方で
父親のなかった病床の長谷川青年を英語へと導いたのも頷ける気がしました。
とてもお洒落な長谷川先生はループタイとバッグの色を揃えたり
大きな石のついた指輪を身に着けていらっしゃったり
そしていつもパヒュームも纏っていらっしゃいました。
我々の在学中に大腸がんで切開手術をされましたが
外国の学会に行くたびに元気になって戻られ
学部長や学科長の先生方も驚いておられました。
1998年、長野オリンピックの年、私たちが最後の卒業生で
75歳の特任教授の定年を迎えられ、その後は80歳定年の
短大での講義のお仕事をされていましたが
美術家の奥様とご一緒に、我々卒業生をご自宅に招いてくださり
蔵書もたくさんいただきました。
メールがまだないあの頃、修士論文の締め切り直前には
ファックスで先生のご自宅に手書きのものを送り
添削していただいたものを夜なべでワープロに打ち込み
なんとか50枚を書き上げることができたのは
定年を前にして、教え子を落第させられないという
先生の責任感あってこそだったと思います。
好奇心が旺盛で
100円ショップで販売するために文庫本を執筆なさったり
定年後の肩書は「日本丸名誉船長」だけだったり
手弁当で教育研究会への助言に全国行脚されたり
NHKの「ようこそ先輩」に出演したいのだけれど
自分には母校がないから、君の勤務する中学で授業をさせてくれないか
という希望は叶わないままでしたが
仰げば尊し、人生の師は数多いらっしゃいますが
最終学歴の主査の恩師、長谷川潔先生
20年余を経てもなお先生の声が耳に残ります。
pic is from Danan Museum in VietNum
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