1962年、神奈川県で生まれました。
両親は岐阜出身、父は東京にある会社で働く若い夫婦の長女でした。
1歳の時に公団住宅の抽選に当たり、千葉の借家か横須賀市鶴が丘の一軒家かで
「いずれれ自分のものになる家がいい」という母の決断で
バスもない電話も引かれていない新興住宅地、丘の上の小さな家に越しました。
鶴が丘2丁目31番地。
隣近所には同じような家族がいて
異年齢の子どもたちが未舗装の道路で遊びまわる昭和30年代。
聖心第2幼稚園に園バスで通い、横須賀市立鶴久保小学校から不入斗中学校。
学校がある場所は兵舎、軍馬の訓練場などなど。
海軍横須賀の名残が街中にのこり、中学校は豊島小学校から来た生徒と共に11クラスの学年で過ごしました。
豊島小学校は上町といわれる地区にあり、明治の学制発布の頃かあの名門。
市長官舎、軍の上官の官舎などがある横須賀の一等地が学区。
鶴久保小学校は新興住宅地、県営住宅、日産の社宅、公団の大きな集合住宅地が学区で
県外出身の保護者がほとんどだったと記憶しています。
そうそう、柏木田や佐野という昔の歓楽街、商店街も学区でした。
中学では視聴覚部という変わった部活に5人の同級生女子と一緒に所属して
何をしていたかというと学年主任の顧問の先生の指導の下
お昼のテレビ放送を毎日放映していました。
大きなカメラを電すけと呼んでいた、録画機材に優先でつなぎ
放送室のスタジオから、先生が殴り書きをしたニュース原稿を読み
職員室からの伝達、生徒会の連絡などなど
思い返せば、学年主任の理科の先生は全校に向けて遠隔教育をしてたんですね。
断続的に「荒れ」がつづくマンモス校
日教組傘下の三浦半島教職員組合の本部が学区にあり
教職員にも「組合」と「非組ひくみ」の色があるのは生徒だった我々にも明確で
視聴覚に長けていた、ベテランの滝沢直義先生(学年主任)が
報道を使い学校全体に「まっすぐな教育」を遠隔で構築していたんです。
生徒会広報委員会では新聞を発行し
印刷所で版下を作るようなきれいな誌面で毎月生徒を啓蒙していました。
校門でビラ巻きをして、横暴な服装規定に講義をしたり
生徒集会で朝礼台から、布の名札撤廃をアジったりした生徒たちでしたが
11人の担任の先生と一緒に、それぞれが曲がりながらも巣立っていけたのは
あの「遠隔教育」のお陰もあると大人になった今はわかります。
中3の秋、日が傾いてくる木造校舎の教室で
担任の先生を囲みながらのお喋りで「私絶対に先生になる」って宣言した日を
いつまでも忘れません。
担任の神崎克己先生のお宅に残る、幼い私たちが書いた班ノートを
いつか拝見しにいきたいな~
Pic is from my family. In our school we could not have a football team cause school ground was too small to have a baseball team, track and field club, and softball team for girls.
両親は岐阜出身、父は東京にある会社で働く若い夫婦の長女でした。
1歳の時に公団住宅の抽選に当たり、千葉の借家か横須賀市鶴が丘の一軒家かで
「いずれれ自分のものになる家がいい」という母の決断で
バスもない電話も引かれていない新興住宅地、丘の上の小さな家に越しました。
鶴が丘2丁目31番地。
隣近所には同じような家族がいて
異年齢の子どもたちが未舗装の道路で遊びまわる昭和30年代。
聖心第2幼稚園に園バスで通い、横須賀市立鶴久保小学校から不入斗中学校。
学校がある場所は兵舎、軍馬の訓練場などなど。
海軍横須賀の名残が街中にのこり、中学校は豊島小学校から来た生徒と共に11クラスの学年で過ごしました。
豊島小学校は上町といわれる地区にあり、明治の学制発布の頃かあの名門。
市長官舎、軍の上官の官舎などがある横須賀の一等地が学区。
鶴久保小学校は新興住宅地、県営住宅、日産の社宅、公団の大きな集合住宅地が学区で
県外出身の保護者がほとんどだったと記憶しています。
そうそう、柏木田や佐野という昔の歓楽街、商店街も学区でした。
中学では視聴覚部という変わった部活に5人の同級生女子と一緒に所属して
何をしていたかというと学年主任の顧問の先生の指導の下
お昼のテレビ放送を毎日放映していました。
大きなカメラを電すけと呼んでいた、録画機材に優先でつなぎ
放送室のスタジオから、先生が殴り書きをしたニュース原稿を読み
職員室からの伝達、生徒会の連絡などなど
思い返せば、学年主任の理科の先生は全校に向けて遠隔教育をしてたんですね。
断続的に「荒れ」がつづくマンモス校
日教組傘下の三浦半島教職員組合の本部が学区にあり
教職員にも「組合」と「非組ひくみ」の色があるのは生徒だった我々にも明確で
視聴覚に長けていた、ベテランの滝沢直義先生(学年主任)が
報道を使い学校全体に「まっすぐな教育」を遠隔で構築していたんです。
生徒会広報委員会では新聞を発行し
印刷所で版下を作るようなきれいな誌面で毎月生徒を啓蒙していました。
校門でビラ巻きをして、横暴な服装規定に講義をしたり
生徒集会で朝礼台から、布の名札撤廃をアジったりした生徒たちでしたが
11人の担任の先生と一緒に、それぞれが曲がりながらも巣立っていけたのは
あの「遠隔教育」のお陰もあると大人になった今はわかります。
中3の秋、日が傾いてくる木造校舎の教室で
担任の先生を囲みながらのお喋りで「私絶対に先生になる」って宣言した日を
いつまでも忘れません。
担任の神崎克己先生のお宅に残る、幼い私たちが書いた班ノートを
いつか拝見しにいきたいな~
Pic is from my family. In our school we could not have a football team cause school ground was too small to have a baseball team, track and field club, and softball team for girls.