窓の向こうには観覧車が見えていた。その光の点滅をじっと見つめていると、それが観覧車であったことなど忘れてしまって、意味のないようで意味のあるような、光の点滅の仕方に拘るようになった。ふとヒッチコックの めまい を思い出したりもした。吸い込まれる感じ、落ちる感じ。そんな観覧車への拘りを捨てる時、ふと宵の口に観覧車に乗っているのは誰なんだろう、なんて思うのは、よくない。
料理はずいぶん間を置いて運ばれてくるのだった。着物の女性が運んでくれる。綺麗どころ、でもアルバイト臭い、若い娘。なぜか着物が匂う、ちょっと臭い。匂い袋でも付けたらどうかと思ったのは、ここが日本料理屋であるせいで、カーテンのような匂いのする着物の袖口は、配膳のたび鼻先に匂った。
少し向こうの空に、飛行機が飛んでいた。その下の辺り、アルファベットの電光掲示、これは灯台のようなものだったろうか。他の場所からも何度か見ている。ベイブリッジもぼんやりと見えたような。ビルもいくつか。見上げる感じですぐそこのランドマークタワーは、下のほうしか見えない。イルミネーションが安っぽい日本丸の帆柱も窓の向こうに。そしてすぐそこに川、というより運河、幾艘かの屋形船は赤い光を並べて浮かんでいた。観覧車に目をやれば、相も変わらず、誰かを乗せて、誰かを落とそうと、光を点滅し続ける電光花火。
食後にわらび餅と抹茶は出て、なんの期待もしていなかったせいか、ずいぶん美味かった。今までに知っていた甘くてゆるいだけのわらび餅ではなく、苦くて微妙にべたっとするわらび餅は、灰汁巻きというのに似ている気もして、苦味と食感が美味かった。そして初めてのようで初めてじゃない抹茶は、ようやく美味いものなんだと認識することができた。
値段のせいか気取った処と思えばついつい緊張し、汁は垂らすやら箸は転がるやらでケラケラと無作法になった日本料理屋も、ヨコハマという土地柄のせいか、夜景のせいか、若い娘たちのせいか、気楽に来る処なのだと、店を出てから思えた。けれども、こういう店は雰囲気も大事なのだろうとは思ったし、京風の味付けは何故か懐かしく、毎日喰えればいいのにとは思っても、家庭ではなかなかできないだろう味、やはりそこそこ改まって落ち着いて食べたほうが楽しめるんじゃないかと考えてしまったのは貧乏臭いか。たまには日本料理屋もいいもんです。
料理はずいぶん間を置いて運ばれてくるのだった。着物の女性が運んでくれる。綺麗どころ、でもアルバイト臭い、若い娘。なぜか着物が匂う、ちょっと臭い。匂い袋でも付けたらどうかと思ったのは、ここが日本料理屋であるせいで、カーテンのような匂いのする着物の袖口は、配膳のたび鼻先に匂った。
少し向こうの空に、飛行機が飛んでいた。その下の辺り、アルファベットの電光掲示、これは灯台のようなものだったろうか。他の場所からも何度か見ている。ベイブリッジもぼんやりと見えたような。ビルもいくつか。見上げる感じですぐそこのランドマークタワーは、下のほうしか見えない。イルミネーションが安っぽい日本丸の帆柱も窓の向こうに。そしてすぐそこに川、というより運河、幾艘かの屋形船は赤い光を並べて浮かんでいた。観覧車に目をやれば、相も変わらず、誰かを乗せて、誰かを落とそうと、光を点滅し続ける電光花火。
食後にわらび餅と抹茶は出て、なんの期待もしていなかったせいか、ずいぶん美味かった。今までに知っていた甘くてゆるいだけのわらび餅ではなく、苦くて微妙にべたっとするわらび餅は、灰汁巻きというのに似ている気もして、苦味と食感が美味かった。そして初めてのようで初めてじゃない抹茶は、ようやく美味いものなんだと認識することができた。
値段のせいか気取った処と思えばついつい緊張し、汁は垂らすやら箸は転がるやらでケラケラと無作法になった日本料理屋も、ヨコハマという土地柄のせいか、夜景のせいか、若い娘たちのせいか、気楽に来る処なのだと、店を出てから思えた。けれども、こういう店は雰囲気も大事なのだろうとは思ったし、京風の味付けは何故か懐かしく、毎日喰えればいいのにとは思っても、家庭ではなかなかできないだろう味、やはりそこそこ改まって落ち着いて食べたほうが楽しめるんじゃないかと考えてしまったのは貧乏臭いか。たまには日本料理屋もいいもんです。