今から、一世紀半ほど前の1854年頃、マハーラーシュトラ州のシルディーという村に、白い衣に身を包み、ファーキル(イスラム神秘主義の行者)のような風体をした若者が現れた、背が高く、やせてはいたが、どことなく力にみなぎったところがある。何処から来たか誰にもわからない。
彼は一旦他所を彷徨った後、1858年に再びシルディー村に戻り、以来死ぬまで、そこを離れることがなかった。はじめの内、日中はニームの木陰にいて、夜間は地面に付して眠る生活が続く。村の人々が恵んでくれるわずかな食べ物によって暮らしていた。
村に定着するに及び、ヒンドゥー寺院を住処にするようになる。しかし、程なく、外見からムスリンと見なされてしまい、寺院から追い出されてしまう。それ以後、小さな土壁のムスクが彼の住居となる。その後も、村の住民からは無視されたり、奇人扱いされ続けた。
彼は、ほんの時折、ムスリンの祈りの言葉を唱えることがあった。しかし、奇妙なことに、モスクの中にせいか聖火を絶やさないのだ。まるで、バラモン(司祭階級)かパールシー(拝火きょうとでもあるかのように。ある日、灯明に使う油をもらおうと、村に物乞いに出かけた。しかし、人々は意地悪をして、彼に油を施すのを拒否する。
モスクに戻った彼は、油の代わりに水を満たし、聖火を灯し続けたという。この奇跡を目の当たりにした村人達が、彼をシルディー村の聖者として崇め、名声は徐々に広がっていく。
このシルディー、サイババ(1838年~1918年)の生い立ちについては、不明なことが多い。伝説によれば、彼はハイダラーバード藩王国の中流のバラモンの家に生まれ、幼年で父を失ったろされる。八歳の時、ムスリンのファーキルに従って家を出たが、まもなくファーキルにも先立たれ、やがてヴェーンクーサーという名のヒンドゥーのグルに師事するようになる。
この師から大きな精神的感化を受けたようだ。彼の名声は、1900年頃から大いに高まり、1918年に世を去った後も、彼への信仰は衰えを見せていない。祭壇などに、シルディー、サイババの肖像を掲げている家は、今でも多い。
彼は、書物を著すことがなかった。本を読むこともしなかった。それだけではなく、書物から知識を得ることを人々に求めなかったという。「書物の中に真実はない。体系的な知識を身につけても、真理は把握されない」・・・・これが、彼の信念だった。
彼は、風変わりな行動で知られ、また人々に惜しげもなく奇跡を見せ付けた。人々が彼に魅せられ、ご利益を願ったのも、常軌を逸した、こうした奇行や奇跡が大きく関係している。稀有な人格のもつ勧化力と霊能が、彼の名声うぃインド中に浸透させていった。
彼は、容赦なく信者を罵り叱りつけ、時には、杖で叩いたり、石を投げつけることすらあったという。彼は、遠慮なく信者達から金銭を要求した。そいして、得たお金を惜しみなく貧者に施した。
彼の霊能はとりわけ「癒し」に発揮された。始めの内、その都度霊能ある薬草などを信者に与えていたが、ある時から、聖火の灰を配るようになった。彼にとって、病気治しをするのに、そもそも「物質」は不要だったが、サイババの元を訪れることの出来ない、遠方の信者たちが、聖火(=物質)を有り難かったからである。遠くからサイババを祈るだけで、治癒した患者も多かったという。
サイババは説いた。・・・・・「私はシルディーの土地やこの身体に限定されない。私は偏在する。あなたが思えば、私はそこにいる」と。
病気の快癒の他、子宝、勝訴、縁結び、学業の成就(じょうじゅ)などを願って、人々はサイババの恵みにすがった。彼は、現世的な効験を求める人々から絶大なる信仰を集めた。
※1854年から1858年の4年間の空白期間がヒマラヤで修行していたと思われます。(須藤)