ユングスタディ報告
2月1日【第11回】
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引き続き、ユング「チベットの大いなる解脱の書」を読み進めていきました。テキスト前半「東洋と西洋の思考様式の違い」の中盤部分が今回の範囲です。
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まずユングは、自身のタイプ論を改めて援用して、西洋の認識は典型的な外向的視点、東洋の認識は典型的な内向的視点を示しているとします。外向的人間と内向的人間が互いに相手の価値を軽視するのと同様、東洋的な見方と西洋的な見方の間にも情緒的な対立が見られることになります。
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外向的な西洋においては、外的対象や外的状況への適応が重視されるため、内向性は何か異常なもの、病的なもの、許しがたいものと感じられます。一方で東洋においては、外向性は空しい貪欲として低い価値しか与えられません。外界に対する欲望は因縁のつらなりを生み出し、輪廻の中に留まることの本質的要因になるからです。
これまでのスタディで見てきたように、ユング心理学の観点からすれば、外的対象への欲望や固着は、内的な無意識内容とその情動を外的客体に投影していることに他なりません。この投影を意識化して引き戻さない限り、主体は投影の対象となる外的客体に捉えられ、情動的に揺り動かされ続けることになります。この投影の意識化と引き戻しこそが、ユングの考える「悟り」の心理学的側面になります。
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また、この外向性と内向性の問題に含まれた宗教的な側面も重要です。キリスト教的西洋は、人間を全く神の思寵に依存する存在と見ていますが、東洋では人間の内にある「たましい」の仏性、自己救済が信じられています。
西洋の場合の「偉大なる力」は、彼自身にあるのではなく、自己の “外に” あるものであり、それが唯一の実在です。よいものは全て自分の外にある以上、それをなんとしてでも獲得して、ちっぽけで空っぽな自分に注いでいくようにしなければならない。ユングはここで、神の代わりに何か現世の価値あるものをはめこむならば、貪欲な「西洋的人間の完壁な像」が得られるとします。
西洋人が東洋の修行方法をそのまま取り入れることに対して、ユングが否定的であるのは、単に「外から良さげなものを獲得してくる」だけの姿勢が、そもそも非東洋的なものであり、東洋思想が示している価値を受け止めることになっていないからです。西洋人は、単に東洋の方法を真似るのではなく、自身の無意識内部の内向的傾向を認識し、内から東洋的価値へと至る必要がある、とユングは言います。
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またユングは、西洋人が使う「精神」Geist や「心」mind という概念は、多かれ少なかれ「意識」と一致しているとします。西洋人は、ものを見る主体の無い認識、自我に関係づけられていない意識的な心の状態を考えることはできません。しかし東洋的における「精神」や「心」は、意識よりもむしろ「無意識」に近いもので、意識は自我の状態を越えることができ、「高次の」状態においては自我は完全に消えてしまう、としています。
東洋においては、西洋のいう「心」とは同一視できない「心」があり、あまり自我中心的ではない、弱められた自我を前提にした心の状態の方がより重要です。西洋が使っている意味での意識は、東洋ではむしろ劣等で真理を知らない「無明」の状態であって、西洋において「意識の暗い背景(無意識)」とされるものが高次の意識とみられています。
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ユングはこれらを受けて、「東洋的な『昇華』のしかたは、結局のところ、心の重力の中心を、身体と、『たましい Psyche』の表面化された過程である心とを媒介する位置を占めている自我意識から引き下し、取り戻すこと」と述べます。これはユング心理学の観点からは、意識領域の中心たる自我から、心全体の中心である「自己」に、心の重心が移ることに相当します。この「自己」に関係づけられた意識の状態が、東洋における「高次の意識」に相当することになります。
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「昇華 Sublimation」とは精神分析用語で、人間の内的衝動が社会的に望まれるあり方に転換していくことを指します。東洋では、「たましい」の下位の部分である半ば身体的な諸層は、ヨーガの辛抱強い訓練によって「高い」意識の成熟を妨げないように適応させられ、形づくられてゆきます。これは西洋的な昇華の場合に行われているような、身体的な諸層の全くの否定や、強い意志の努力による抑圧とは異なる、統合的なあり方になります。
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ユングの言う外向的な西洋・内向的な東洋という対比は、実際のところかなり雑ではあります。例えば、日本仏教における自力と他力の立場の違いを見ると、日本にも外向的宗教観があるように思えますし、西洋においても内向的傾向を持つ文化の伝統はあるでしょう。とはいえ、問題を明確化して考える上での理念的枠組みとして、この対比は有効であると思います。
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また、このユングの枠組み設定の背景に、フロイトとユングとの意見対立の問題を見ないわけにはいきません。ユングはフロイトを外向的、自身を内向的としていますが、フロイトのような外向的な立場からは、外的な現実への対応がうまくできないことが問題であり、内向的な姿勢は基本的に病理的なものとみなされます。
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フロイトは内向の状態を、通常は外的客体に向けられるはずのリビドーが空想へと後退することであるとし、それを神経症の症状形成への中間段階として捉えました。それ自身では神経症とまでは言えなくとも、心理的に不安定であって、場合によっては神経症の症状が引き起こされる状態です。フロイトは「空想と現実との違いの無視は、内向によって規定されている」とも述べており、内向は外界への関心が引き上げられて現実認識に問題がある状態と関連づけられています。
またフロイトは、内向という言葉の意味をリビドーの空想への後退に限定しており、ユングが内向という言葉に、フロイトの考える自己愛(ナルシシズム)まで含めてしまっていることを問題視します。フロイトにとってナルシシズムは、一般的な神経症とは異なる精神病圏の病理を説明する上での重要な理論的問題でした。ユングは実際、そうした内向概念における区別を重要視しないようで、今回のテキストでも、フロイトが内向性を「自己性愛的 autoerotic で自己陶酔的 narcissistic な精神態度と同一視」したと指摘しています。
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ユングの考える内向とは、内的イメージにおいて現れてくる元型的なものに向かい合うことになる状態です。元型的イメージの情動性に圧倒されてしまうと病的な状態になりますが、他方でそれと能動的な関わり方を保ち、意識して投影を引き戻すことができれば、現実への補償性や創造性が生まれるとします。
ユングは東洋の思想や修行の中に、内向的姿勢のプラス面を見て取ったことになります。内向的なものの価値を理解できなければ、つまるところ東洋的な体系の価値も理解できないわけです。
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左の絵は、カラヴァッジォによる有名な「ナルキッソス」(1594-96) です。ギリシア神話でのナルキッソスは、水面に映る自分の姿に恋し、終には命を落としてスイセンの花となります。この神話が「ナルシシズム」の語源です。
しかし実のところ、精神分析におけるナルシシズム概念は、その言葉から通常イメージされる自己陶酔や自己愛的なあり方とは、必ずしも一致しません。むしろ外部に対する自己防衛として、外界の対象から関心が引き上げられ、自己にリビドーの備給がなされるような状態を指しています。
この意味において、ナルシシズムの現代的問題として挙げられる例の一つは、いわゆる「引きこもり」です。右の引きこもりのイラストは、フリー素材「いらすとや」からの一枚になりますが、これは一般的なナルシシズムの理解とはかなりイメージが異なるところです。ユング心理学の観点からすれば、こうした状態のなかにも、人が生き方を変えていく上での必要な後退という面があるかもしれません。