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2021年6月3日【第13回】ユングスタディ報告
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前回6月3日のスタディでは、テキスト第16回の中盤部分を取り上げました。
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ユングはここで、図を用いて、個人のパーソナリティの構造についての説明を行っています。外的客体と個人とをつなぐのがペルソナ、内的な集合的無意識と個人とをつなぐのがアニマ・アニムスです。自我は主体としてのパーソナリティであり、影は客体としてのパーソナリティ、そしてその間に仮想の個人の核としての自己がある、とされます。
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これに併せて、集合的無意識の影響力についても説明がなされます。集合的無意識の本体は必ずしも心理的なものではなく身体的なレベルにあります。集合的無意識の影響力は外界に投影され、外的世界に存在するように感じられます。
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そして最終的に影と自我が結合し、個人が二つの世界の媒介となれば、現実の客体が神話的性質を帯び、生は途方もなく豊かになる、とユングは言います。外的客体への投影を引き戻した上で、無意識的イメージの投影をあえて生きることも必要だとするユングの指摘は、たいへん意味深いものと思われます。
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ユングは続く補論において、主客の関係を捉える立場として、素朴実在論的で唯物論的な「事物の中の存在 esse in re」、唯心論的な「理性のみの中の存在 esse in intellectu solo」の二つを挙げた後に、自身の第三の立場となる「魂の中の存在 esse in anima」を説明します。これは外界の客体を認めるとともに、我々が知覚可能なのは精神内のイメージのみとする立場です。私たちにとってのイメージは、単なる主観でも客観でもなく、主体と客体との間の相互作用として立ち現れてくる何ものかなのです。
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翻訳についての議論も活発に行われました。「集合的無意識の本体は必ずしも心理的なものではなく身体的なレベルにある」に関する部分で、「psychical」を「physical」の誤りとして訳すこと、また「esse in intellectu solo」を「知性のみの中の存在」ではなく「理性のみの中の存在」としていることの意味合い、などについて意見が交わされました。