参照・労働争議野田血戦記(日本社会問題研究所編)
・野田大労働争議(松岡駒吉著)
・野田争議の真因経過及現状(日本労働総同盟関東労働同盟会)
・野田争議の顛末(野田醤油株式会社)
・野田争議の経過目録(野田醤油株式会社)
野田醤油争議1928年の略史―1928年の労働争議(読書メモ)
戦前最長の216日間ストライキ(1927年9月16日~1928年4月20日)
ストライキ労働者1,047人、同盟休校をする小学児童564名を含める争議団家族数千名は、1927年の9月16日の初秋より翌1928年4月20日までの戦前最長の216日間ストライキを闘い抜いた偉大な野田醤油争議は、ついに4月20日342名だけを復職させ、他の700余名はことごとく解雇されるという悲痛な大敗北で終結した。
1928年に入った野田醤油争議は最後の局面に入った。1千名のストライキは100日がすぎ、この時解雇者は1千名を数えていた。以下、1928年(昭和3年)に入った野田醤油労働争議略史をあげてみた。ぜひ一読してほしい。労資のその時々の緊迫が刻々と伝わると思う。とりわけ3.15事件の前後がすごい。2月20日には第一回普選が行われた。
この野田醤油労働争議の敗北したほぼ一ヶ月前の3月15日、野田醤油争議が文字通り最後の血戦状態のその最中に、政府は3.15事件といわれる戦前史上最大、最悪といわれる治安維持法違反の全国的政治大弾圧を行ってきた。4月10日には評議会など三団体解散命令もだされた。田中軍閥反動内閣の面々と親しい会社がこの政府の反動姿勢にならい、暴力的組合攻撃に血道をあげている。
田中軍閥反動内閣の姿勢と動きと緊迫する状勢に恐れをなした松岡駒吉ら総同盟幹部は2月2日、『要求条項の一切を撤回し、争議の解決を松岡駒吉に白紙委任する』の決議文を騙しと等しいやり方で無理やり争議団に決議させ、さっそく会社を訪ねその決議文を見せて争議解決を求めた。小躍りした会社は、2月13日の第三団交で、「争議団は解散、解雇者全員の復職を拒否、いくばくかの金銭提供」というふざけた回答をしてきている。
しかし、争議団の意気すこぶる旺盛で、3月に入るや争議団家族連は大挙して連日の神社参拝と称する示威行動・デモ。会社暴力団の度重なる襲撃に対抗するため、争議団の中には出刃を所持するものもでてきた。3月7日、東京の労働記者団は野田醤油争議の調停に立とうとしない内務省社会局ととりわけ協調会に対して痛烈に糾弾した。すなわち「協調会は官憲、財閥の庇護のもとで巨額の財を擁し、本来かかる争議にこそ適宜の調停をなすべきこそ本分であるのに、今日に至るも拱手傍観を決め込み、無用の存在だ」と罵倒した。世論は争議団の味方だった。3月20日天皇直訴事件決起、4月1日家族数千名によるよってたかって宮内省への大押し出し闘争と続いた。硫酸事件や労資双方互いの襲撃事件もおき、亀甲萬へのボイコット運動も全国的に爆発していた。評議会系の応援も拡大しつつあった。
野田醤油争議1928年の略史
1928年
(1月)
1月1日、第一次硫酸事件で総同盟関東本部の組合員野口三郎が検挙され、野口は8ヵ月の刑に処せられた。
1月14日午後7時、争議団300名は二手に分かれ喚声を挙げて怒涛のごとく駆け足で町内に繰り出した。会社の手先である正義団幹部の商店約30戸を大量の投石で襲撃した。警官隊と衝突した争議団80名が騒擾罪で検束された。署内は検束された労働者でみたされ、署内の労働者は労働歌を盛んに歌った。
1月17日、いよいよ約564名小学児童が同盟休校に突入した。児童たちは『父と共に戦いに立つ』と書いた旗を先頭に『労働少年軍の歌』を大声で歌いながら隊伍を組んで野田町の街路を練り歩いた。
1月18日早朝、争議団の妻、家族が大挙して茂木佐公園で争議解決の祈願名目のデモンストレーションをした。
1月20日朝、争議団の女房連は連日大挙して町内の各神社参拝に名を借りた示威運動を行っている。
1月23日朝、女房連の連日の神社参拝は官憲と衝突し、この日11名が検束された。
1月26日午前5時、争議団の妻女約200名は、ひそかに野田町を抜け出し徒歩で松戸駅から上京し内務省に押し出そうと試みた。子どもを背負い、乳飲み子を抱いた母たちを松戸署は全員拘束し、野田町に追い返した。この日第二回硫酸事件が勃発した。
1月28日、東京市電自治会現実同盟は『亀甲萬(キッコーマン)をボイコットせよ』のビラを全都各所でまいた。
1月29日(日曜)、東京方面より多数の支援が野田にかけつける。
1月30日、茂木家の野田町長茂木要右衛門が襲われ人力車ごと倒された。
(2月)
2月2日、松岡駒吉が来て野田劇場において争議団緊急総会を開催し、『要求条項の一切を撤回し、争議の解決を松岡駒吉に白紙委任する』を決議させた。その足で松岡は本社を訪ね、会社に決議文を示し争議解決交渉を申し入れた。
2月6日、本社にて第一回交渉が開催された。協調会草間労働課長が立ち合う。
2月8日、第二回交渉
2月13日、第三回交渉。会社は、「争議団の解散、解雇者の復職は拒否、解雇者に一人あたり金100円を支給、解雇者の社宅からの即時退去等」と回答した。
2月15日、争議団は次回18日の交渉出席を拒否
2月16日、争議団のピケ闘争、争議団団員の意気すこぶる旺盛
2月20日、第一回普選総選挙
2月22日、街頭に力強い労働歌響く、争議団の強固な団結を示した。
2月23日、野田町町議会。議場に小泉七三を先頭にした70名争議団員が乱入し、会社側議員を糾弾した。
2月26日、町長排斥の町民署名運動が始まる。夜、会社重役宅に投石の嵐。
2月27日午後6時、野田劇場において町民大会が開催、町長の辞任決議。
(3月)
3月1日、争議団家族連大挙して連日の神社参拝示威行動。会社暴力団の度重なる襲撃に対抗するため、争議団の中には出刃を所持するものもでてきた。
3月4日、警察、争議団員14名を拘束
3月5日深夜、第四工場の塀が何者かによって破壊され大音響をたてた。
3月7日、労働記者団は野田醤油争議の調停に立とうとしない内務省社会局ととりわけ協調会に対して痛烈に糾弾した。すなわち協調会は官憲、財閥の庇護のもとで巨額の財を擁し、本来かかる争議にこそ適宜の調停をなすべきこそ本分であるのに、今日に至るも拱手傍観を決め込み、無用の存在だと罵倒した。
3月10日、会社はますます暴力団を狩り集めた。争議団もスト破り労働者への襲撃を繰り返していた。陸軍記念日、本社大会議室において中隊長とて戦役に参加した工場課長からの講話あり。争議団は野田劇場で素人演芸大会を開催。
3月11日、野田劇場で片山哲、鈴木文治、西尾末廣、亀井貫一郎による会社糾弾演説会開催。『民の声は天の声成り』と叫んだ民衆の歓声は止むことはなかった。
3月12日、本所公会堂で野田醤油糾弾演説会は、1200名の満場の聴衆を前に、小泉七三は「ひろしき」時代の悲惨なる労働者状態と会社の暴虐ぶりを細大もらさず暴露糾弾した。争議団家族を代表して石塚とくが演壇にたち「夫と共に最後の血の一滴まで闘う」と決意を語り満場の人を泣かせた。会場からは多額のカンパも寄せられた。
3月15日、3.15事件。全国で評議会、労農党、共産党など約1600名一斉検挙(報道は禁止)。
会社暴力団の暴行が続く。争議団もスト破り労働者を襲撃する。第4工場の塀が破壊された。午後町民大会が開催され、会社一族の町長辞任が決議される。埼玉川口で安部磯雄らによる野田争議応援演説会開催、多くの労働者が押しかける。
3月17日、争議団、スト破り阻止のピケッテング部隊を上野、南千住、金町、松戸、柏、浅草等に拡大配置。
3月18日、争議団による連日のスト破り阻止のピケッテング益々激しくなる。
3月19日、会社暴力団の襲撃が随所で行われ、争議団との衝突が続いた。争議団清水公園で運動会開催。
3月20日、争議団副団長堀越梅男が、東京駅に於いて天皇直訴に決起。会社重役、官憲は驚愕狼狽し誰もが色を失った。労働総同盟本部も「畏れ多くも衷心より恐懼に堪えない」と声明をだした。
3月21日、争議団、野田劇場において緊急総会を持ち、小岩井団長は直訴事件に争議団として謹慎の意を示しながら、一方で「堀越君の苦喪を推察して一層結束しよう」と声涙共に下った。
3月22日、この日、天皇直訴に動揺した渋沢栄一子爵は、総同盟本部の鈴木文治を呼びだし協調会の調停による野田醤油争議解決の姿勢を示した。現場では相変わらぬ会社暴力団の襲撃が続く。争議団もスト破りの労働者を襲う。
3月24日、同盟休校中の小学児童卒業式が争議団本部で執り行われた。
3月26日、全国的な亀甲萬(キッコーマン)醤油ボイコット闘争が呼びかけられた。
3月28日、会社暴力団は酒気を帯びて街中を徘徊し、争議団と小競り合いを繰り返した。全重役と幹部の邸宅は、それぞれ数十名の暴力団によって護衛され、物々しい限りである。
3月29日、争議団のスト破り阻止のピケ闘争は激しさを増し、会社側暴力団と暴力傷害の衝突が随所で起きた。会社側、争議団側双方が懐に短刀を所持する、あるいは第3工場の工場裏門が破壊されるなど緊張の高まりはとどまるところを知らない。会社は各工場の塀に高圧電流を流した鉄条網を張り巡らし危険極まりない。
夜、争議団は一斉に石油缶を叩き労働歌を高唱し野田の街々を練り歩いた。第11工場では争議団が隊伍を組み猛然と工場内の突入を試みたが、警官隊と暴力団により阻止された。
3月30日、東京憲兵隊特別高等課係長来社。
(4月)
4月1日、警察は争議団幹部小岩井、小泉ら約10名の寝込みを襲い検束して、この日の争議団家族の内務省押し出し請願行動をやめるように圧力をかけた。
しかし、争議団家族ら5千名は続々と集結し千葉全県から動員した警官隊と対峙し凄まじい攻防を繰り返した。
(野田醤油争議(その七) 闘い② 「よってたかって宮内省へ大押し出し闘争」)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/8093d4828418eb7524d39cc24e12e153
(「何たる壮烈なる場面であろう。そこには何らの偽りもなければ、てらいもない。ただ生きんがための真剣な叫びがあるのみだ。」『野田血戦記』)
4月2日、会社職制をねらった硫酸事件3件目発生。
4月4日、松戸町で会社糾弾演説会開催。
4月10日、3.15事件の報道が許可される。この日評議会、労農党、無産青年の3団体に解散命令
4月13日、争議団幹部和田喜一郎は愛宕神社で会社側10数名に袋だたきにあった。憤慨した約500名の争議団はただちに現場にかけつけ会社側と対峙した。互いに凶器を手にしてあわやという場面で警察が会社側7名を検束して事態を収めた。
4月17日、協調会添田理事は添田調停案を示し連日労資双方と頻繁に交渉を重ねた。総同盟の松岡駒吉は福永千葉県知事と争議解決の会見を重ねた。
4月19日、総同盟緊急執行委員会が開かれ、協調会添田理事の調停案について激烈に討論のすえ受け入れが決定された。午後5時協調会会議室で茂木社長以下重役、総同盟鈴木会長、松岡関東同盟会長と調停者協調会理事、千葉県知事、警察部長のもと会社側解決案が提示された。最終的に747名の大量解雇を認め、復職者はわずか300名という屈辱的解決案が労資間で合意された。争議団の完全な敗北であった。
4月20日午後4時半、争議団とその家族5千名が詰め掛けた争議団緊急総会は場内総だちの労働者から『なんだその条件は、松岡の馬鹿野郎』『ダラ幹』の罵声が松岡らに浴びせられた。ようやく午後8時黙祷をもって争議団は解団した。
午后9時30分、会社社長茂木七左衛門以下役員、調停者の協調会添田理事ら、千葉県警察部長、伊藤野田署長、争議団は小泉、小岩井、総同盟は松岡ら幹部により覚書が調印された。
以上