写真上、森永製菓の「(組合に加入したらクビにする)誓約書」(1924年)
写真下、野田醤油争議団の児童劇の様子(1924年)
卑怯卑劣な「誓約書」の森永製菓など飲食食物工場の争議 1924年主要な争議⑨ (読書メモ)
参照
「協調会」史料
「日本労働年鑑」第6集/1925年版 大原社研編
1924年における飲食食物工場の争議は、福岡の明治製糖戸畑工場(スト参加者340名)、東京の森永製菓会社(同1,000名)、兵庫の森永製菓第四工場(同220名)、野田醤油会社(同1,200名)、中央製菓(同300名)、宮城のキリンビール会社(同250名)、兵庫のキリンビール会社(同200名)など46工場です。『森永製菓争議』と『野田醤油争議』を紹介します。
1、森永製菓争議
(兵庫第四工場争議)
1924年6月、大阪の森永製菓第三工場、兵庫の第四工場の労働者は日ごろの劣悪な待遇に怒り、労働組合結成に向けて熱心に活動をはじめた。これを察知し労働組合を嫌悪し組合を作らせまいとする森永製菓は、第三工場を閉鎖すると共に労働者9名を解雇してきた。第四工場150名労働者は、6月16日園田村の河原に運動会の名目で集合して断固ストライキを決行することを決議した。
労働者は、
一、解雇者の復職
一、女性4割男性3割の賃上げ
一、年2回の定期昇給
一、閉門制度の廃止
を要求したが、会社は拒絶してきた。怒った150名労働者は白川支店長と直接面会しようと、堂島ビルディングのキャンデーストアーになだれ込んで店舗を占拠した。
23日、労働者代表3名が技師アッセル氏と面会した結果、
一、解雇された者への退職手当を増やす
一、森永の他の工場並に賃上げする
一、定期昇給は会社が紳士的に考慮する
一、出勤停止制度は廃止
の妥協案で解決した。
(東京本社工場の争議)
芝区田町の森永本社工場(男184名、女491名)で、1924年4月森永の機械技工組合は機械労働組合聯合会を脱会して以来、「東京製菓工組合」結成に向け工場で組合勧誘を熱心に行っていた。その結果本社工場に約15名、第二工場に約25名の計約40名(うち女性6名)の加盟者を得た。6月2日、会社は組合加入を阻止せんと労働者森岡清ら12名を第四工場へ突然配転命令をだした。これに怒った労働者はいよいよ組合結成に向けて本格的に着手した。6月23日大崎町で「東京製菓三組合」創立大会を挙行した。会社は、27日に本社第三工場の労働者33名、第二工場の34名のクビを切ってきた。また、会社は「今後組合に加入し、または組合を組織した者は解雇する」と宣言し、労働者一人ひとりに「(組合に加入しない)誓約書」の提出を求める強圧的挑戦的姿勢で迫ってきた。
誓約書
・・左記条項に該当したる場合には解雇処分を受くるとも異議なき・・
第一条
第二条 会社の許可なくして組合及び団体を組織し又は会社外の組合及び団体に加入したるとき
第三条
大正 年 月 日 住所
姓名
森永製菓株式会社御中
組合員は不当解雇だと翌28日にも出勤した。会社は退場を命じたが、30日朝にはビラ300枚を出勤してきた労働者に配布し、東京製菓工組合員の応援のもと更に入場しようとし、警官隊によって阻止された。
7月2日夕刻工場を退場する労働者に約300枚のビラを配布して訴えた。4日、会社は更に組合員10名のクビを切り、再び「誓約書」の提出を命じてきた。5日に出勤した男152名、女482名中、男工はほぼ全員「誓約書」を提出したが、女工200名は提出しなかった。会社は女性200名はまだ「幼年」だから、事情がわからないのだとして、再度今一度自宅に持ち帰らせ、7日の提出を命じた。提出を拒否してきた男性3名は解雇した。
(第二・三工場)
6月27日、工場側は労働者4名を組合勧誘を行ったと解雇してきた。うち3名は不当解雇だと28日出勤し不当解雇撤回を迫った。工場は本社と同じ全労働者に「誓約書」の提出を命じた。7月7日労働者は、「強制的な誓約書の調印」は人権蹂躙だと抗議したが、8日には再び誓約書に調印しない7名の労働者を解雇してきた。
(組合)
組合員は工場倉庫前にて昼の休憩時間を利用して「組合に加入団結して資本家に対抗せよ」と呼び掛けた。品川警察署は労働者5名を拘留した。機械労働組合聯合会は反総同盟系の各団体(印刷工聯合会など)に応援を求めた。機械技工組合、芝浦労働組合、東京製菓工組合らは、各組合からの闘争資金募集、各新聞社を訪問する、聯合大会の開催などを決めて大々的なストライキを決行することを決めた。
(会社)
会社は「高圧的手段を選ぶことが有利だ」とし、あらためて組合加入者は断固クビにする方針を固めた。
(訴訟の準備)
組合側は、会社の「強制的誓約書の調印」を人権蹂躙だと山崎今朝嗣弁護士を代理人とする訴訟の準備を始めた。
(争議解決)
7月18日に至り医師坂本三郎が仲介に入り、20日労資の交渉が成立し、解雇手当を払う覚書を取り交わして解雇問題は解決した。組合側の文字通りの惨敗であった。
2、野田醤油争議
千葉県野田町の野田労働聯合会(組合員1,000名)は、1924年6月17日午後3時より関東醸造工本部にて臨時大会を開き、以下の要求を決めた。
一、兵役者に対する職業保障
一、解雇・老衰退職手当支給
一、3ヵ月以上勤続した者を本工とすること
一、賃金2割の増額
この要求を会社に提出しようとしたが、前年の争議の調停で、調停者千葉県斎藤知事らとの間で「待遇に関して意見が或る時は、まず調停者に申し出る」との覚書があり、問題が生じたが、結局第一回交渉員として10名を選任し、野田醤油会社と直接交渉することとした。会社側は7月8日に一切の調停を千葉県に委ねるとしたが、労働組合側は議論百出で容易にまとまらず、10日午前2時にようやく「組合最高幹部に一任」と決めた。結局労資とも千葉県に調停を一任することとなり、ストライキには至らなかった。