私が生を受けた時、家族は私を含めて7人。
大正生まれの祖父、祖母、昭和6年生まれの父と母、
昭和33年生まれの姉、昭和34年生まれの兄と昭和43年生まれの私の7人。
他に犬や猫、鶏や小鳥等もいっしょに生活していた。
祖母は既に他界しているが、幼少時、少年期には本当に世話をやいてもらっていて、
いつも頼りにしていた。
農作業や家事の合間にもよくくっついていたものだ。
私が小生意気になっていった小学生高学年~高校を卒業するまでは、
本当に申し訳ない言葉や態度で接してしまい、祖母には何の孝行も出来ずに別れてしまっている。
祖母の人生については私が生を受けて自意識を持ってからしか解らないが、
幸せだったのか疑問に思うくらい苦労を重ねた人生だったような気がする。
そんな祖母の夫である祖父は私が生まれた時は生きていたようだ。
私が抱きかかえられている写真も残っているが、
物心ついた頃にはもう既に他界していた。
当時としては珍しいくらい腰の軽い人だったようで、あちこち行っていたと聞く。
詳しくは分からないが、祖父と祖母の間には死産した父の兄弟が何人かいたようだ。
父と母は昭和6年の生まれで、父は戸根家の10代か11代目の長男として、
一生を全うし続けている。
周囲からの人望も厚い実直で強く、情の厚い人だ。
人生を上手く渡り歩くのは苦手で時々損もするため、
自分に少々苛立ちも感じていると思う。
恐らく長男でなければ別の道で成功し人の上に立つ人だと思う。
私が父親を尊敬する一つのエピソードが、確か私が小学校3年か4年生の頃だったかと思うが、
農作業から戻ってきた父は血まみれになっているにもかかわらず医者にもいかず、
応急処置のみで過ごしていて、家族はみな救急車を呼んだほうがと思っていたものを制して、
結局かすり傷扱いでやり過ごしたことがあり、
その時私はこの人には勝てないと感じ、
この人はどんな困難も突破していく精神力を持っているものと感じられた。
故に、周囲の人の精神力や、責任感、度胸のない言動に対して、
だらしないと口にするのも頷けた。
・・・つづく。
自伝制作はZIDEN.produce. www.ziden-produce.jp
大正生まれの祖父、祖母、昭和6年生まれの父と母、
昭和33年生まれの姉、昭和34年生まれの兄と昭和43年生まれの私の7人。
他に犬や猫、鶏や小鳥等もいっしょに生活していた。
祖母は既に他界しているが、幼少時、少年期には本当に世話をやいてもらっていて、
いつも頼りにしていた。
農作業や家事の合間にもよくくっついていたものだ。
私が小生意気になっていった小学生高学年~高校を卒業するまでは、
本当に申し訳ない言葉や態度で接してしまい、祖母には何の孝行も出来ずに別れてしまっている。
祖母の人生については私が生を受けて自意識を持ってからしか解らないが、
幸せだったのか疑問に思うくらい苦労を重ねた人生だったような気がする。
そんな祖母の夫である祖父は私が生まれた時は生きていたようだ。
私が抱きかかえられている写真も残っているが、
物心ついた頃にはもう既に他界していた。
当時としては珍しいくらい腰の軽い人だったようで、あちこち行っていたと聞く。
詳しくは分からないが、祖父と祖母の間には死産した父の兄弟が何人かいたようだ。
父と母は昭和6年の生まれで、父は戸根家の10代か11代目の長男として、
一生を全うし続けている。
周囲からの人望も厚い実直で強く、情の厚い人だ。
人生を上手く渡り歩くのは苦手で時々損もするため、
自分に少々苛立ちも感じていると思う。
恐らく長男でなければ別の道で成功し人の上に立つ人だと思う。
私が父親を尊敬する一つのエピソードが、確か私が小学校3年か4年生の頃だったかと思うが、
農作業から戻ってきた父は血まみれになっているにもかかわらず医者にもいかず、
応急処置のみで過ごしていて、家族はみな救急車を呼んだほうがと思っていたものを制して、
結局かすり傷扱いでやり過ごしたことがあり、
その時私はこの人には勝てないと感じ、
この人はどんな困難も突破していく精神力を持っているものと感じられた。
故に、周囲の人の精神力や、責任感、度胸のない言動に対して、
だらしないと口にするのも頷けた。
・・・つづく。
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