待ち合わせの時間に遅れそうだった。
駆け足で急ぐ僕のほほを、折からの雪が打つ。
家を出るときは、晴れていた。
SNOW。
僕が見つけた、彼女の名前の喫茶店。
美雪はテーブル席で本を読んでいた。
顔を上げた美雪は立ち上がって、僕のコートの雪を払った。
「体冷えてるわね。熱いものがいいわ」
美雪はウェイトレスに、ホットレモネードを注文した。
僕に断りもしないで。
そして本を閉じ、窓の外に舞う雪を見つめていた。
庭にみるみる積もっていく。
ホットレモネードが運ばれてきたとき、彼女は言った。
「ねえ、覚えてる?あの日も雪だったわ」
「あの日?」
「私たちが出逢った日よ。あなたが滑って転んだところを私が助けてあげた」
「逆だよ。君が転んでけがをして、タクシーで病院へ連れて行ったのは、僕だ」
「あら、そうかしら」
「忘れるもんか。病院で君の名前を知ったとき、本当に雪のように美しい人だと思った」
美雪の表情が曇る。
「美しくなんかないわ。それに・・」
「それに?なんだか今日は変だね。どうしたの?」
美雪はしばらく黙り、やがて、意を決したように、口を開いた。
「今日で終わりにしましょう。理由は聞かないでね」
そう言われれば、何も言えやしない。沈黙の天使が通り過ぎる。
やがて美雪は伝票を取り、立ち上がった。
「最後だから、私が払うわ」
レジで支払いを済ませ、振り返りもせず、扉から消えた。
冷めたホットレモネードと僕だけが、取り残された。
窓の外の雪を眺めながら、美雪の別れ話の理由を考えた。
全く思い当たらなかった。
外に出て、携帯で彼女の家を呼び出した。
母親が出た。
そして、ためらいつつも、教えてくれた。
「喉の調子がおかしいって、昨日病院へ行ったの。咽喉がんと診断された。
手術すれば、命に別状ないけど、言葉を失うって」
礼を言って携帯を切るやいなや、僕は走り出した。
きっと、あそこだ。
雪はいっそう強く降ってきた。
手袋をしていない、手がかじかむのも忘れて走った。
美雪はいた。
あの日、転んだ歩道橋に。
手すりに寄りかかって泣いていた。
雪まみれになって。
歩道橋の端には、雪が積もっていた。
僕の突然の出現に、泣き顔の美雪は驚いていた。
「何も言わなくていい。全部知っている。
いいかい、君の気持ちが分かるのは、僕だ けだと自信がある。
君には僕が必要だ。
それ以上に、僕には君が必要なんだ。
ずっと一緒にいさせてくれ」
涙を流しながらも、彼女は笑った。
とても綺麗な笑顔だった。
雪の歩道橋は、とても静かだ。
通る車も、ほとんどいない。
しかし、溢れんばかりの愛のメッセージを、
雪は音もなく、僕らに運び続けた。