●真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。

第五代 綽如 (1350年 - 1393年)元中7年(1390年)、継承。(継承後まもなく、寺務は巧如に委任。)
綽如(しゃくにょ)は、南北朝時代の浄土真宗の僧。父は善如。権大納言日野時光の猶子となる。本願寺第五世。
【生涯】年齢は、数え年。日付は、文献との整合を保つ為、旧暦(宣明暦)表示(生歿年月日を除く)とし、南北朝時代の元号は、北朝(京都)で表記する。
・観応元年3月15日(1350年4月30日)、誕生。得度した後、権大僧都に任じられた。
・康応2年/明徳元年(1390年)、「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務を法嗣である第2子の巧如に委任し、越中国杉谷に草庵を結び居所とする。
明から朝廷に送られてきた難解な国書を読むのに、青蓮院門跡は綽如を推挙し、上洛する。綽如によって、その国書の内容が分かり、また返書の草稿も書く。その才と功績を認めた後小松天皇より、「周圓上人」の号を賜わる。
また後小松天皇より、宮中で『無量寿経』を講ずることを依頼される。その礼として、聖徳太子2歳の南無佛木像と「聖徳太子絵伝」8巻を賜わる。
後小松天皇は、綽如に一寺建立の願いがある事を知ると、「勧進状」の作成を認め「料紙」を授ける。越中国に戻ると「勧進状」(重文)を作成し、加賀・能登・越中・越後・信濃・飛騨において勧化する。その浄財により井波の地に寺を建立し、「瑞泉寺」の勅号を賜わる。これより後は、「瑞泉寺」を拠点に教化にあたる。
・明徳4年4月24日(1393年6月12日)、44歳にて示寂。
・応永元年(1394年)、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承する。
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