■そうなんですよ。今は目先ではなく、W戦線と来年の山陰戦ですよ。その時に勝利すれば、またまたお金なんて転がり込んでくるってことです。いえいえ、守銭奴ではありませんよ。ちゃんと先を見越してるだけです…離島した異心の塔に対し、「偽物の異心になった」、末野代表らが、正当交付金を分配する「文等」を拒否していることについて、「金にガメつい人は、じき消滅しますよ!」…まあ、どっちもどっちなんでしょうよ。言ったもん勝ち、みたいなところがありますからね。ダチョウ倶楽部でそんなギャグがありましたよね。「俺ににやらせてやらせて!」と言っておいて、上島が「じゃあ、俺にやらせてくれよ!」というとほかの人は即座に「どうぞ!!」と引いてしまうというやつです。…霜橋「俺は金なんか要らねえよ!」、末野「じゃあ、おれもいらねえよ!」と言ったとたんに、霜橋が「じゃ、もらっとくわ」みたいな。なんか、腐ったギャグを見せられそう。ゴゲッ。…それに、正解?青磁?からきっぱり縁を切る!みたいに言ってるらしいんですけど、どんなんだか。タレントに信義はないから…それにしてもそんないい加減にやってても票を入れてしまうんだね。関西人はオモシロければいいのかな?なんていっても「横山ノック淵事」でしたからね。…そんな人たちに大坂任せても良くなるはずないよね。…落ち着いて考えればわかるんでしょうけどね。…まあ、愛知でも、ブルドッグと(占拠の時平地のみ)自転車野郎がはびこってて気持ち悪いんですけどね。

①ご飯(金山寺味噌)
②シジミ汁
③ウインナ
④厚焼き玉子
⑤ハンバーグ
⑥サラダ
⑦菓子パン
●今日は、オーソドックスなお弁当となっています。弁当の定番、ハンバーグと玉子焼きです。
今日のメインは、ハンバーグです。

● 浄土宗
●法然上人37年の布教活動から
京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
・記主良忠(きしゅりょうちゅう)
・然空(ねんくう)
・良空(りょうくう)
・道光(どうこう)
●良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●良暁(りょうぎょう)(寂恵、智慧光ともいう。)1251-1328(建長3-喜暦3)
良忠の後継者として鎮西流の興隆に尽力、やがて白旗派の派祖として今日ある浄土宗の基礎を作った人。
浄土宗第四祖。石見国三隅庄(いわみのくにみすみ)(島根県那賀郡)の人。良忠の長男ともいわれる。
69年(文永6)比叡山に登り、翌年東塔南谷極楽房の仙暁について出家授戒。3年間天台宗の学問に励む。
72年(文永9)良忠大病の報によって鎌倉に下り、良忠から自房悟真寺(佐介谷(さすけがやつ))の房地と寺領(鳩井)を譲られた。 良暁はやがて檀越大仏時遠に認められ、76年(建治2)良忠上洛のときは、性心や尊観らと一緒に奥義の相伝を受け、良忠の代理として悟真寺を守り、また、この時上野国(こうずけのくに)(群馬県)に善栄寺を創建、布教にも活躍した。
京都で献身的な活躍を続けた良忠は、86年(弘安9)鎌倉に帰り、法然・弁長・良忠三代相承の九条の袈裟、松影の硯、『阿弥陀経』などを文書にして良暁に授け、さらに浄土宗の奥義のほか、翌年には『伝通記』以下の注釈類をすべて伝授して後継者の立場を明確にした。 ところが良忠が入寂すると、数多くいた門下の中で、正統性をめぐって分裂が生じた。すなわち藤田派性心・一条派然空・名越派尊観・木幡派良空・三条派道光らは、それぞれ自信に満ちた態度で布教に専念し、それぞれ自派の正統を主張するようになった。
こうした中で年少の良暁も懸命に宣伝につとめ一歩も譲らなかった。やがて尊観と正面から対立するようになった。 互いには付法相伝の骨子となるのは『末代念仏授手印』で、いずれが弁長の正本を使用したかということであるが、内容に変りはない。問題は解釈の相違で、一念業成(いちねんごうじよう)の尊観に対し、多念業成を主張する良暁の立場である。 しかも良暁は、これを裏付けるために『伝通記』や口伝をも授与して弟子たちを納得させている。良暁が門下の異義を除くために作った『口伝鈔』に対して、尊観は1314年(正和3)『浄土十六箇条疑問答』を作って論難し、やがて個人的な批難にまで及んでいった。
良暁は20年(元応2)再度定恵に付法状を授与して正統をのべ、22年(元亨2)には寂仙に付法を授けるというように、積極的な付法を行ない、『浄土述聞鈔追加』を書き、24年には『浄土述聞見鈔』『浄土術聞口伝切紙』と宗義の詳説を続け、翌25年(正中2)には起請文の形をとった『述聞副文』を書いて門下の疑問に答えている。こうした中で相模国(神奈川県)芦名に浄楽寺を創建、武蔵鵜木光明寺で教化するなど布教発展にも意を配った。
晩年弟子定恵に悟真寺を譲った後も活躍を続けた。著書は多く、前述のほかに『決疑鈔見聞』『伝通記見聞』『東宗要見聞』『重書無題鈔』『選択集見聞』『浄土述聞鈔』などがある(3・1寂)
(浄土宗大辞典より)
●法然上人37年の布教活動から
京都・東山「吉水の庵」。浄土宗を開いた法然上人が、念仏往生の教えを人々に広めるために結んだ庵。法然上人のここでの布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、開宗の43歳から80歳で生涯を閉じるまでの長きにわたり、浄土宗の中心地となっていました。現在の総本山知恩院がここに建てられました。
ここには、多くの人々が法然上人を慕って集まってきました。教えを聞きにきた僧、さまざまな悩みをかかえた庶民、戦乱にあけくれて地獄行きを覚悟した武者たち・・・。庶民や女性、殺生をした者には救いの道がないとされていた当時の仏教。そんななかで、だれもが平等に救われるという法然上人の念仏往生の教えは人々に光明を与えました。
そうした人々の中から、出家をして法然上人の教えをうける多くのお弟子たちが生まれました。法然上人亡き後の浄土宗を支え、全国津々浦々にまでお念仏の教えを広めたお弟子もいれば、師に先立って亡くなったお弟子もいます。また、名前しか知られていないお弟子も多くいます。
その中から主だったお弟子たちと法然上人との関係を紹介しましょう。
現代に生きる私たちに連綿と伝わる念仏の教え、その礎を築いたお弟子たちの横顔です。
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【教えを広めた弟子たち】
その他の弟子たち
・隆寛(りゅうかん)
・成覚房幸西(せいかくぼうこうさい)
・正信房(聖信房)湛空(たんくう)
・覚明房長西(ちょうさい)
・蓮寂房信慧(しんえ)
・記主良忠(きしゅりょうちゅう)
・然空(ねんくう)
・良空(りょうくう)
・道光(どうこう)
●良暁(りょうぎょう)
•尊観(そんかん)
•性心
●良暁(りょうぎょう)(寂恵、智慧光ともいう。)1251-1328(建長3-喜暦3)
良忠の後継者として鎮西流の興隆に尽力、やがて白旗派の派祖として今日ある浄土宗の基礎を作った人。
浄土宗第四祖。石見国三隅庄(いわみのくにみすみ)(島根県那賀郡)の人。良忠の長男ともいわれる。
69年(文永6)比叡山に登り、翌年東塔南谷極楽房の仙暁について出家授戒。3年間天台宗の学問に励む。
72年(文永9)良忠大病の報によって鎌倉に下り、良忠から自房悟真寺(佐介谷(さすけがやつ))の房地と寺領(鳩井)を譲られた。 良暁はやがて檀越大仏時遠に認められ、76年(建治2)良忠上洛のときは、性心や尊観らと一緒に奥義の相伝を受け、良忠の代理として悟真寺を守り、また、この時上野国(こうずけのくに)(群馬県)に善栄寺を創建、布教にも活躍した。
京都で献身的な活躍を続けた良忠は、86年(弘安9)鎌倉に帰り、法然・弁長・良忠三代相承の九条の袈裟、松影の硯、『阿弥陀経』などを文書にして良暁に授け、さらに浄土宗の奥義のほか、翌年には『伝通記』以下の注釈類をすべて伝授して後継者の立場を明確にした。 ところが良忠が入寂すると、数多くいた門下の中で、正統性をめぐって分裂が生じた。すなわち藤田派性心・一条派然空・名越派尊観・木幡派良空・三条派道光らは、それぞれ自信に満ちた態度で布教に専念し、それぞれ自派の正統を主張するようになった。
こうした中で年少の良暁も懸命に宣伝につとめ一歩も譲らなかった。やがて尊観と正面から対立するようになった。 互いには付法相伝の骨子となるのは『末代念仏授手印』で、いずれが弁長の正本を使用したかということであるが、内容に変りはない。問題は解釈の相違で、一念業成(いちねんごうじよう)の尊観に対し、多念業成を主張する良暁の立場である。 しかも良暁は、これを裏付けるために『伝通記』や口伝をも授与して弟子たちを納得させている。良暁が門下の異義を除くために作った『口伝鈔』に対して、尊観は1314年(正和3)『浄土十六箇条疑問答』を作って論難し、やがて個人的な批難にまで及んでいった。
良暁は20年(元応2)再度定恵に付法状を授与して正統をのべ、22年(元亨2)には寂仙に付法を授けるというように、積極的な付法を行ない、『浄土述聞鈔追加』を書き、24年には『浄土述聞見鈔』『浄土術聞口伝切紙』と宗義の詳説を続け、翌25年(正中2)には起請文の形をとった『述聞副文』を書いて門下の疑問に答えている。こうした中で相模国(神奈川県)芦名に浄楽寺を創建、武蔵鵜木光明寺で教化するなど布教発展にも意を配った。
晩年弟子定恵に悟真寺を譲った後も活躍を続けた。著書は多く、前述のほかに『決疑鈔見聞』『伝通記見聞』『東宗要見聞』『重書無題鈔』『選択集見聞』『浄土述聞鈔』などがある(3・1寂)
(浄土宗大辞典より)
■…というところから始まってますから。…簡単に「情勢が変わった」の一言で、何でもアリですよ、この人は。…誰も真に受けてませんからご心配なく…改めて“引退宣言”「浸透に青磁的には関わらず、きっぱり終わりにする」と霜橋クン。…う~ん「政治的」には関わらなくて、「何的」に関わるんでしょうね???…ああ、そうか。浸透、には関わらなくて、古くなれば(一日でもたてば、もう新ではなくなるってことかな?)、関わることはあるかもね。…100(2)万%ない!!!!…ですからね。


●今日の天気は、なんと、台風21号崩れの低気圧のせいでした。中国大陸からやってきたんですね。スマホでは「爆弾低気圧」とか言ってました。まあ、台風並みと言いたかったのでしょう。なんだか、夜中になって風が吹いてきまして、ホント台風みたいですね。低気圧は北海道方面だったようですのに、この風だと北海道や東北では相当吹いてるんでしょうね。被害がないといいのですがね。この地域では、また来週の土曜あたりに雨マークが入ってます。気温のほうは、最低気温が15度前後になってくるようで、肌寒くなってきますね。気を付けましょう。
さて、今日は日頃の業務がありまして、なおかつ、夜にはお参りが入ってしまいました。ホント、突然の出来事で、びっくりしてしまいました。雨はあまり降ってませんでしたから、まあ、良かったんですが、こういうことは仕方がないとはいえ、あまり遭遇したくないことではあります。仕方ないことですけど。ご冥福を祈ります。合掌。
さあ、「安歩反対者集会」は?どうなったでありましょうか?頑張ってるんでしょうね!?…うわっ!今「反対者集会」で検索してたら「中国語」のプラカードがあるんですって!?なぜに???中国にアピールするんですか???二本セーフではなくて???なにに対してアピールするんですか???あなたたちはどこの国の人なんでしょうか???中国は武装国家で「徴兵制」のある国なんですけど???二本の安保関連法反対ですよね!?中国に対して行うのですか???わからん。で、ここまでやっておきながら、「二本セーフは言論の自由を奪う気か!」と怒ってるらしい。ここまで自由にやらせてる国はそんなに多くないし、どこの国の酷民も自国を貶めるような酷民はそんなにいない。恥ずかしい。…誰も「子ども」は狙ってませんしね。ここでの「子ども」の定義をしっかりしておかないと「誤解」を受けるでしょうね。80歳の人の子どもは、何歳でしょうね?一般的な?子どもと言えば、=国際連合の児童の権利に関する条約では、子供を「18歳未満のすべての者、ただし子供に適用される法律の下でより早く成年に達する場合は、この限りでない。」(即ち、本国法の規定により18歳の誕生日を迎える前に成年に達する場合を除き、18歳の誕生日を迎えるまでのすべての者)と定めている。この条約は加盟194カ国中192カ国で批准されている。英語の用法では、胎児も子供の範疇に含める場合がある。しかし本来「子供」とその発達段階は明確に区分できない漸進的なものであり、その概念は歴史的に構築され、また社会や文化の違いが反映される。法律で大人と子供を定める際には、個人の成熟度合いを考慮していては法的安定性が損なわれるため一律の線引きを置く必要に迫られる。そのため各法律の目的に沿って、様々な用語を使いながら「子供」に対する個別の定義を行っている。=ということですね。まあ、そこまで考えてはいませんよね、きっと。「ノリ」でやってるだけでしょうから。







「戯けは、戯け」
残念なことは
いくらでもあるが、
こんなに残念に
思ったことはない。
世の中には
馬鹿な人間がいて、
問い詰めて
聞きたがる馬鹿がいる。
真実の追及者なのか?
それとも
ただ、馬鹿なのか?
よくわからない。
人間には
いろんな種類がいて、
今までいろんな人がいたが、
こんな馬鹿は、初めて見た。
他人を問い詰めて
何が面白い?
自分が面白い?
他人が面白い?
第三者が面白い。
アホな奴ほど
問い詰める。
問い詰めたとて
面白かろうはずはない。
でも、
馬鹿な人間ほど
問い詰める。
何を求めているのだろう?
どういう答えを求めているのだろう?
わからん奴には
真実を言ってもわからんのだ。
どういう答えを発したところで、
わからん奴には
いつまでたってもわからんのだ。
どういう答えがほしいのかさえ分からん奴には、
何をどう応えてもわからんのだろう。
これが真実だ、といってもわからんのは、
どうしようもない。
そういうやつは、
馬鹿なんだろう。
自分の言ったことさえ分からず、
反芻してもそれが、
自分の言ったこと、でさえ、
わからんのだ。
もう、思考回路が
どこかで狂ってしまって、
残念ながら
どうしようもない。
残念ながら
何を言っても
聞く耳持たぬ。
自分はすべて正しくて、
他人のやってることは
すべて間違ってる、と思ってる馬鹿に
つける薬はない。
残念ながら
何を塗っても
治りはしない。
とても、とても
残念だ。
残念なことは
いくらでもあったが、
こんなに残念だったことはない。
残念なことは
いくらでもあるが、
こんなに残念に
思ったことはない。
世の中には
馬鹿な人間がいて、
問い詰めて
聞きたがる馬鹿がいる。
真実の追及者なのか?
それとも
ただ、馬鹿なのか?
よくわからない。
人間には
いろんな種類がいて、
今までいろんな人がいたが、
こんな馬鹿は、初めて見た。
他人を問い詰めて
何が面白い?
自分が面白い?
他人が面白い?
第三者が面白い。
アホな奴ほど
問い詰める。
問い詰めたとて
面白かろうはずはない。
でも、
馬鹿な人間ほど
問い詰める。
何を求めているのだろう?
どういう答えを求めているのだろう?
わからん奴には
真実を言ってもわからんのだ。
どういう答えを発したところで、
わからん奴には
いつまでたってもわからんのだ。
どういう答えがほしいのかさえ分からん奴には、
何をどう応えてもわからんのだろう。
これが真実だ、といってもわからんのは、
どうしようもない。
そういうやつは、
馬鹿なんだろう。
自分の言ったことさえ分からず、
反芻してもそれが、
自分の言ったこと、でさえ、
わからんのだ。
もう、思考回路が
どこかで狂ってしまって、
残念ながら
どうしようもない。
残念ながら
何を言っても
聞く耳持たぬ。
自分はすべて正しくて、
他人のやってることは
すべて間違ってる、と思ってる馬鹿に
つける薬はない。
残念ながら
何を塗っても
治りはしない。
とても、とても
残念だ。
残念なことは
いくらでもあったが、
こんなに残念だったことはない。