鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【考察】欲情トリガーと女性

2017-03-28 21:02:00 | 考察

困ったような上目遣いでこちらを見上げる女性の表情だったり、あえて興奮状態を演出した化粧(濃いチーク)だったり。それらは確かに、一定数以上の男性の注意を引いている。尻に向かって下がる眉(困り眉)も同じ原理だと考える。

日常で目にする現実の女性にしろ、PCやTVの向こう側の女性にしろ、三次元の女性にしろ、俺は見ていて常日ごろから疑問に思うことがある。

「なぜ〇〇をもっと見ていたいのだろうか」と。最たるものがサムネバキュームである。

「俺は今なぜこれを選んだのだろう??」と不思議でたまらなくなる。例えばアダルトムービーを選ぶ際には、よほど女優にこだわりが無い限りはサムネで決める。そこにはユーザーを釣るために選び抜かれた一枚の画像がある。フェラテクに定評がある女優だったらば、フェラ好きを乱獲するためにちょうどモノを咥えて上目遣いをしている絵を使うはずだ。着衣セックスを好むユーザーを狙うなら着衣が乱れた姿を収める。

俺は、まあ個人的な嗜好の暴露になるが、三次元も二次元も見る。最初に見た方で良いものがなければ残るもう一方にシフトする。そこで二次元の場合の話だが、一番重要なのが表情である。制作費がなくて貧しいメーカー…なのかは定かじゃないが、喘ぎ声や表情がミスマッチな作品が多々ある。表情が殆ど変化せずに声だけが高ぶっているものもある。二次元アダルトムービーを引き合いに出してなにを語りたいかというと、この”表情について”である。

女性が頬を赤らめて苦しそうにしている姿を見ると男性は興奮する。これを不思議に思ったのである。同じ人間同士であるはずの仲間が苦しそうにしているのを見て快楽を感じるというのは、女性や性行為という単語が出ていない文脈においてそいつはかなりの確率でドSかサイコパスである。しかし、ことが性行為であり夜の営みの最中であるとすれば話は別。

さて本題。

なぜ男性の本能がそういう仕組みになっているのか。俺が思うに、これは生殖行為という種にとって必要不可欠な手段をとる際に、射精と受精までのプロセスを中断させてしまわないように快楽システムが機能している結果だと考える。例えば、成人した人間であれば、何かの怪我や病気で悶え苦しむ仲間がいたら「すぐになんとかしてあげなきゃ」「あんなに苦しんでいる。なんてかわいそうなんだ」「大変だ。どうしよう。誰か助けを」という思考に至るのが自然である。しかし、首から上に血が登って肉体の異常事態から全身が発汗し始めている姿は、オーガズムを感じている時の女性の状態とほとんど同じである。セックス中に男性が「なんてかわいそうなんだ。大変だ、どうしよう、誰か助けを」といった思考になってしまったら性行為どころではない。つまり、苦しそうに喘ぐ姿は「かわいそう、大変だ、助けてあげなきゃ」という思考を男性に誘発すると同時に、男性を欲情させてしまう姿なのである。

まとめてみる。頬を赤らめて泣きそうになって苦しみ喘ぐ姿に興奮する本能は、生殖行為をその姿を見た男性がパニクったり青ざめて中断してしまわないようにするシステムである、と推測する。

この推測が正しいのであれば、レイプ犯罪者が被害者の嫌がり苦しむ姿に興奮する理由も想像がつく。

と、まあ馬鹿なりに「こういうことなのかなぁ?」と思って調べてみるんだけど探し方がわからないんだよね・・・。とにもかくにもキーワードをどう選べばいいかわからない。女性 表情 苦痛 男性 欲情 っていろんなパターンを試したり単語を変えてみたりするけど、女性の体の仕組みぃとか男性を落とす表情ぅとかみんなが調べてそうなサイトが当然ながら上位に来ててキリがない・・・。

今回は女性の苦痛の表情と男性の欲情について書いたけど、女性の仕草だったり体のパーツだったりファッションの露出についてだったり気になることを挙げたらキリがないぐらいある。それらが遺伝子戦争の中でどういうふうに機能しているのかがすごくきになるのよ。

おーわりっ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【読書感想文】『子供は40000回質問する / イアン・レズリー』

2017-03-27 13:42:38 | 感想文

>>「好奇心は、"不整合"から生じる」
「好奇心は、"情報の空白"に対する反応である」
情報の量が多すぎる場合と少なすぎる場合には好奇心が減る。
知識に対する自信が不足している場合と自信が過剰な場合にも好奇心が減る。

不安と好奇心は非対称であり、相反するものである。
恐怖を感じている状況では、好奇心が生まれにくい。
不安の多い家庭環境で育った人間は、強い好奇心を持てない。

世界に名が轟くような偉人達には総じてこの好奇心が旺盛だった人物が多い。
好奇心が育まれていればいるほど人生は豊かになるし、自らを退屈や不安から解き放つことができる。

「キツネは多くのことを知っているが、ハリネズミは大事なことを一つ知っている」
キツネは、攻撃してくる相手から、独創的だが骨が折れる様々な方法で身をかわす。
ところがハリネズミは、確実に有効だとわかっている一つの戦略を貫き通す。つまりうずくまって針を立てる。
思想家は誰もがこの二つのパターンに当てはめることができる。
著者曰く「しかし、キツネハリネズミの議論では、どちらになるべきかという二者択一になりがちだが、私たちはどちらか一方ではなくキツネハリネズミになるべきなのである。」<<


読了したのはつい先日。購入したのはもう数カ月以上前で、すっかり読み忘れていた本である。けれども、読み始めてみたら面白くて、気づいたらもうページ数がなかったので我ながらびっくりした。

この本は、これから育児に関わる全ての人たちに是非とも読んでもらいたい本だと感じたのが第一印象である。どんな分野でもいいので、好奇心を持ってスタートを切ることができれば、以降の人生で好奇心の有無が周囲との差にも繋がるうえに、退屈を感じる機会を減らすことにも繋がるからだ。というのも、戦前のような騒がしくて忙しくて荒れた時代であればこのようなことは言えなかったかもしれない。なぜなら徴兵や労働のほうをまず優先されることが多くなっていただろうからだ。比べて平和な現代であれば、10人のうち2、3人は働かなくても充分な衣食住を得られる。それだけ余裕があるのならば、今や先を急ぐよりもこの瞬間を充実させることもできよう。優秀で自発的に研究や発明をする人も必ず現れる。労働はその多くが機械に任せられるようになり、現代人は過去よりも多くの時間を得ることができる。それなのになぜ切迫しながらも労働をしなければいけないのかといえば、消費による快楽や贅沢に時間とお金を費やしすぎているからである。

「楽しむ」というのもまた一つの技術であると仮定するのであれば、多忙で不健康で貧乏な人はそれが不得手なのだと言っても過言ではない。たとえばこうしてブログを書いている俺だが、PCとインターネットさえあればこの趣味に必要な金額は¥0である。書籍代はかかっているが、毎日一冊買うわけでもあるまい。どんな種類の快楽だろうとも、それを快楽として一括りにするのであれば、どれも代替が可能なのだ。何かに没頭していると寝食を忘れる。未だに飽きないほど美味しいあそこのラーメンを食べに行きたいという欲求を忘れることができる。不要なカロリーを摂取して肥満を進行させなくて済む。例えば読書に支払うコスト(集中力、書籍代、読む時間)と、ラーメンを食べるために支払うコスト(食事代、向かう時間、帰る時間、交通費)が同じだった場合、知識と満足度を得た前者とただ単に腹が膨れた後者とでその一日にどれだけ差が生まれるだろうか。

コスト(金銭、所要時間)が同じならば満足度の高いほうを選ぶべきである。もしくはメリットの大きいほうを選ぶべきである。書籍による情報収集は、違法アップロードが当たり前となった昨今でも全文がまるまる掲載されていることは殆どありえないので、直に手を取り目を通すには然るべき金銭を支払い購入する以外の方法は、立ち読みなどしか無い。映画鑑賞も、映画館という巨大スクリーンと密閉隔離された暗室は別荘を簡単に購入できるぐらいの収入がなければ手に入らない。それらに比べてラーメンというのは、食事である以上その満足度はいくらでも代替が可能である。無論ラーメン通の場合は例外だが。

代替ができないものにコストを費やすのは賛同できるが、その反対は賛同できない。目をつぶって食べたら違いがわからないようなら高級食材を食べる価値はない。過剰な糖分を必要とする状況が頻発することはないので猛暑日のポカリスエット以外のジュースを飲む必要性は極端にいえばかなり低いと言える。

主観だが、人々は本当によく食事・飲酒を筆頭に一時的な快楽にコストを支払う。巨大プロジェクトを進行中、多忙の中束の間の休息の際には必要な時もあるかもしれないが、庶民がそういった状況に置かれるとは考え難い。休暇であればよし。しかしそれらが楽しみの中心となっているようではあまりに趣がない。

とにもかくにも、なぜそこまで知的活動以外の娯楽を否定するのか。好奇心至上主義と言われても否定はできないのだが、実際人生において好奇心を持つことのメリットが絶大であると言わざるをえないのだ。

好奇心には、不安や悲観や退屈を意識の外へ追いやる力がある。その果てにはもしかしたら富や名声があったりするかもしれない。好奇心が絶対条件かどうかはともかく、いずれの偉人達の多くに備わっていたことは間違いない。

「気になる」という気持ちが、退屈だった会話に彩りを与えることもある。それは会話だけではなく何十年も目にしていたはずの見慣れた景色だったり、日常そのものだったりするかもしれない。これから子供を育てる人たちにとっては、彼らの愛子の将来に明るい未来を与えるかもしれない。

なぜなら好奇心さえあれば、学習の仕方や教科書なんて与えなくとも自ら探し周り自ら成長していくようになるからだ。そんな万能アイテムの存在を知らずに生きることはもはや愚か以外の何物でもないということを教えてくれた一冊である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【考察】Bias & Misdirection ~進化心理学と目標への動機付け~

2017-03-01 14:48:32 | 考察

世界的TCGであるMTG(マジック・ザ・ギャザリング)には『誤った指図』というカードがある。知らない人は軽く流してくれて結構だが、一応説明すると、プレイされた呪文の対象を別の対象に変更する、というカードである。そのカードがどうしたかといえば、日本語のカードでは「誤った指図」で英語版だと「misdirection」というカード名である。


さて本題。

つい先ほど、一流ゲーマーについて考察している際に、ストリートファイターで言わずと知れた梅原大吾のスタンスについて調べ考えていた。

>>他人から「ウメハラの良さはここ」と言われると、それをことごとく否定し、指摘されたプレイは極力捨てるようにしてきた。そもそも勝負の本質は、その人の好みやスタイルとは関係のないところにある。勝つために最善の行動を探ること。それこそが重要なのであって、趣味嗜好は瑣末で個人的な願望に過ぎない。<<
※『勝ち続ける意志力 / 梅原大吾』P.56より抜粋

今回執筆したいのは、色を塗った「好み」について。進化心理学の観点から言えば、母性や味覚というのは、生存を最適化するために発達してきたものである。過去の記事で何度か書いていると思うが、人間が甘いものを食べたいと思うメカニズムは、「甘い→食べたい」ではなく、「食べたい→甘い」となっている。

誤 気持ちいいからセックスがしたい。
正 セックスがしたいから気持ちいい。

誤 甘いから食べたい。
正 食べたいから甘い。

@ダニエル・デネット 「かわいさ、セクシーさ、甘さ、おかしさ」よりhttps://www.youtube.com/watch?v=soPLDOhwAHE


@↑このブログで文字起こしした記事


それがどうしたかといえば、ゲームに限らずスポーツでも食べ物でも普段の趣味趣好にも通じていて、それが正しい時と誤っている時があるということについて書いていきたい。

梅原大吾は、プレイスタイルに対する好き嫌いを排除した。彼には彼なりの好みのプレイスタイルがあるはずだが、それを排除することによって「強さ」を求めるうえで極めて効率化することに成功した。格ゲーに限らずFPSにおける銃火器や兵科の種類への好き嫌いも同じである。

人間の体は、必要なものを欲するようにできている。しかし中毒や依存によってはその"必要"を間違えることもある。濃厚豚骨ラーメン、ニコチン、カフェイン、セックスなどなど。健康体であれば、妊婦が酸味や甘味を求めるように、随時不足している栄養素を求める思考になるのが自然である。

格ゲーでのプレイスタイルの好き嫌いについても、「このスタイルが正しいんだ!」という感情が強化され続けた結果、好き嫌いにまで発展したのだと考える。ピーマンが嫌いな子供が、「ピーマンは体に良いので、我慢して食べるのが正しい」と教えられ続けた結果、大きくなってからは食べられるようになってその苦味に気持ち良さを感じるのと同じである。

ピーマンの例は単純で間違えようがないが、格ゲーのように複雑な理論が根ざしているような分野では一筋縄ではいかない。俺はストリートファイターをそこまで極めていないので憶測で語るが、自分が負けた原因を明らかにしていく際に、1・ボタンの操作精度、2・コンボの組み立てが甘い、3・キャラの相性、4・訓練の不足など、と言ったように材料が多く、さらには負けた直後の精神的負荷(ストレス)がある状況では、「人の心は易きに流れる」と言うように自分にとってストレスの小さい「好きなやりかた」に落ち着いてしまうことがある。

肉体や体質は遺伝だが、人の性格というのは後天的に構築されていく。長い年月の中で得てきた経験が今の自分の性格を形作っている。未だにピーマンやトマトを嫌う人も、待ちガイル一辺倒な人も、芋砂でキルレ至上主義の人も、長い人生の中でそうした好き嫌いを形成、それらの快感回路を強化し続けてきたに過ぎない。

梅原大吾の強さの秘訣は、誤った快感回路にメスを入れたことが一つだと思う。そう、Misdirectionである。俺のブログでは再三書いてきたことだが、人間の快楽システム(あるいは報酬メカニズム)は、みんなが思っているほどしっかりしているものではないのだ。明らかに健康を害し寿命を縮め精神を乱すような食べ物や飲み物への欲求を、馬鹿の一つ覚えのように強化し続けてしまう。それは本来生存のために必要なことであったが、飽食である現代においてはその多くが誤って作動している。タイトルのmisdirection(誤った指図)の主体は、他でもない我々の本能である。

酸味の強い梅干しや苦味の強い梅干しを好むよう自分の報酬回路を再配線するのは、現代を生きる人間にとって必要なことである。飽食と安定した治安のある現代の地球上において「好きなことをする」というのはとても耳障りの良い言葉ではあるが、果たしてこのままでいいのだろうかと、今一度疑問に思うべきなのかもしれない。


はてさて。

しかし好き嫌い=個性という方程式が一般的だというのもまた事実である。好きにしろ嫌いにしろそれを強化していくことが、いつでも成果を阻むことだとは限らない。それは主に芸術の世界に現れるものかと推測する。なぜなら感性の振れ幅が物を言う世界だからである。とはいえ、じゃあ自制心が不要かと言えばそうではない気がするので悪しからず。

好き嫌いを排除、つまり個性を捨ててひたすら「強さ」に貪欲であることは"楽しい"のだろうか?

こだわりや愛着というのは、競争の世界とは程遠いものである。梅原大吾も言っているように結局のところ「自己満足」に過ぎないのだろうか。

とあるオンラインMMOでは、自分の操作するキャラクターの体格や声や衣装を極めて自分の好みに選択できるものがある。クリエイト勢と呼ばれているのだが、つまりは"見た目"のために尽力する者達のことである。彼らはゲーム内でのプレイを極めるでもなく、ひたすら衣装などのためにせっせと作業をする。個人的な感想では、それはまるで現実世界でに労働とあまり大差がないようにも思う。というのも、ダンジョン内で拾ったアイテムを集めて市場に売り出し、それらを相場によって安くしたり高くしたり、高く売れるものを探して高難度のダンジョンを巡ったりしているからだ。ゲーム内でいうドロップアイテムと市場は、現実世界でいうところのオークションだったり農産物に当てはめることができ、高難度というのは高給バイトだったり資格の必要な職業ということになる。

オフタイムである休日だというのになぜ彼らは、ゲーム内で擬似労働(?)というか擬似商売(?)をしているのだろうか。まあそれはおそらく、血と汗の結晶である衣装で着飾った自慢のキャラを晒して承認欲求なり美的感覚をみたしたいのだろうとは思うのだが、それはひとたびゲーム機から離れたら一銭の価値にもならない。現実では冴えないデブでチビでブスで汗臭い人は、ゲーム内という仮想空間で、充足できなかった欲求各々を満たそうとしている。先ほども言ったようにそれは競争とは程遠く、究極的に好き嫌いで自己満足な領域である。今回の執筆テーマに些か強引だが沿うのであれば、それらもmisdirectionだと言える。なぜならゲーム内という仮想空間内で、価値が限定されたゲーム内通貨だったりアイテムは、現実世界の市場で売買することができないからである。これが現実の自動車だったり衣服であったりフィギュアであれば、知人に譲渡するなりネットマーケットで売りに出すなりしてまたお金に還元することができる可能性があるが、ひとたび課金という行為によって仮想側に落とされた金銭が現実世界のお金に還元される可能性はゼロである。(厳密に言えばゲーム内で稼いだゲーム内通貨を現実のお金に還元するゲーム(RMT)も存在する)

仮に、彼らが満たしたい欲求が承認欲求だとはっきりわかるのであれば、努力の矛先を正すのが健全だとも言える。チビは改善が難しいかもしれないが、デブであれば痩せる努力を、ブスであれば清潔感や髪型や眉でどうにかできる部分もあるはずだ。人見知りだったりコミュ障だったりしても、それを克服するために接客バイトを始める猛者も今時珍しくない。とはいえ、自分もそこそこのゲーマーなのでゲームの世界にどっぷり浸かりたい気持ちを全否定するつもりはない。現実逃避のツールとしても、現実世界では叶わないような娯楽を擬似体験するためのツールとしても、やはりゲームをプレイするメリットは計り知れないからだ。さらに言えば、現代では"シェア"が流行である。些細な話題や出来事に限らず、強敵を討伐したりチームの勝利といったような"目的の共有"である。昔のゲームと言えば、ほとんどが一人で画面にかじりついていて、多くてもせいぜい二人対戦といったところだが、マルチプレイが当たり前の今では、チームでの共闘やサバイバルが珍しくない。

おっと。話題が逸れ始めた。そしてそろそろ時間なので中途半端だがこのへんでまとめることにする。

とにもかくにも俺が言いたいのは、報酬回路を見直すべきで、自分の好き嫌いは正しくない可能性があるということ。自分の掲げている目標や人生の充実にとって、今の配線で良いのか悪いのか。梅原大吾氏が強さを求めるために好き嫌いを排除したように、自分も排除するべき好き嫌いを持っている可能性を考えさせられたので執筆に至りました。

おーわりっ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする