タイトルの解説。『遺伝子の乗り物説』が意味するところでの"乗り物"が、遺伝子の積極的な管理を放棄したとしてー。
何を望む?
遺伝子の存続と繁栄を目標にすれば、願望は数え切れないほどにある。
しかし、ヒトがとり得る選択と行為をすべて種にとって最適なものとして見なすのであれば、それがいかに強引であったとしても我々は遺伝子にとっての奴隷から解放されることは叶わない。
一見、人類全体にとって不利益と思われるような選択であっても、とある意志からすれば長期的に見て利益とみなされていたり合理的だという結論が出ていたりもする。虐殺・テロ行為・略奪・戦争も、とある集団が下等と見なした対象を淘汰しようとした結果なのだと。規模の大小は関係なく、劣る者・弱い者・遅い者・小さい者・醜い者も殆ど同じような理由で淘汰される対象とみなされた挙句に迫害を受けたり、精神的傷害による自殺への追い込みを間接的に行っているに過ぎない。
…と、個人的にはそういう風に物事を見てしまうようになった。いつからか、それはきっと『遺伝子の乗り物説』について知り始めた時期に。
危険な感じ方と思う人もいるかもしれないが、少なくとも俺にとってこの知識は薬だった。
なぜなら、ネガティヴな考え方がアホくさくなったからだ。極端に言えば自殺願望は下らない、と思うようになれた。
その他にも、他者が(無意識に)向けてくる淘汰圧にも強力な耐性がついた。「彼らは種の存亡をかけて必死に遺伝子の乗り物として積極的に他者の管理(対象Aの営みが種にとって得か損かの品質管理)をしようとしている」なんとも滑稽な話である。
話が逸れたので閑話休題。
今回書きたいのは、乗り物としての自覚を持ち、その役目を放棄したとして、しかしプログラムは奴隷のままだということについて、だ。
プログラムが奴隷のまま、というのは我々生物が快楽を得ようとすることはその9割以上が間違いなく種にとって有益になるであろう行為だということだ。つまりその逆行をするということは、奴隷プログラムのままだと快楽が得られないということになる。
甘味、アルコール、旨味、ニコチン、物理的生殖、霊的生殖(自分の得た知識や経験や言葉を後世や他者に伝える行為)、美食、笑い・・・などなど。それらを摂取したり行ったりすることによって我々は満足感・達成感・充実感・快感を得られるようになっている。その一切を行わずに快感を得ようとしてみてほしい。果たして方法が思い付くだろうか?
強靭な意志を持ち、なおかつ過酷な訓練に耐えてやっとプログラムのほんの一部を書き換えられるかどうかという程度だ。
乗り物としての役目ー。それは優秀な異性との間に子供を作り、育児に可能な限りの投資をすること。集団の中にいるのであれば、時に仲間を助け絆を築きその規模を大きくしていくこと、などなど。
それらが難しい者もいる。成熟していく過程で運悪く能力が平均に届かない者は少なくない。子孫を残せない者、集団に属せない者、絆を築けない者、etc...。彼らは自身の能力不足を責め、ある者は引き籠り、ある者は自害し、ある者は壊れる。しかし『遺伝子乗り物説』を自覚することで、能力不足や自責からくるネガティヴィティから解放される。美女との生殖行為を夢見るのは山田くんだからではなく、遺伝子が望んでいるからだ。遺伝子なんぞに舵を奪われるな。
と、そういう話がしたかったのではなく、無理をして他者と付き合わない。無理をして結婚しようとしない。無理をして仲間を助けない。無理をして集団に属そうとしない。この選択はそれらがもともと難しい者たちにとっては救済である。
しかし奴隷プログラムはそうしようとすると負の感情で当人を脅かしにかかる。それらの選択は遺伝子にとって奴隷として全くふさわしくないからである。
これには大変な苦労が伴う。ヒトが得られるはずだった幸福感がすべて得られなくなるのだから当然である。幸福感が得られないだけでないばかりか、それに加えて苦痛がやってくる。ヒトは群れで過ごすものだ。だから仲間と協力していくために親しくなることは種にとって必要なことであり、それを成し遂げるほどに奴隷プログラムは快感を与えてくれるようになっている。
負の感情の源泉を知り、対処法を得て耐性もつけたとしよう。しかしこれでは幸福感を得る方法がない。遺伝子のいうことをおとなしく聞かなければドーパミンもセロトニンも分泌されないからだ。
それらハッピーホルモンの助けなしに幸せになるにはどうしたらよいのだろう?
厨二で終わるはずじゃなかったのかよ。まさかこの歳になっても幸せについて考えるなんて。