鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【絶望】塞翁が馬【希望】

2019-09-29 07:28:30 | 考察

膨大な財源、近代技術、超科学、それらが得られるのであれば可能なこと。それは、「庶民にとっては容易くないこと」である。

それは例えば、「生まれ」「育つ環境」「遺伝子」である。整形・高度な肉体改造・高度な医療手術のいずれにも庶民には想像が難しいほど高額な出費が伴うことは避けられない。これらは極端な例だが、平均の少し下、つまり極めて貧困と言うには恵まれているが、中の中と呼ぶには物足りないという水準の家庭にとって「衣食住娯楽以外のために毎月10万円以上支払わなければ彼らの人生の豊かさが著しく損なわれてしまう」という状況も、高額な出費を要求していると言える。

不慮の事故や事件の際に、それ以降生活が脅かされるほどではないが、贅沢や娯楽を大きく制限せざるを得ない金額を支払わなければならないという状況は、誰の身にも起きる可能性が常に存在している。例えば、手足などが不自由になった自身のためや子供のためだったり、怪我を負わせてしまったゆえの治療費だったり、老いた祖父母の介護活動のためだったり…。

人生これまでかつてないほどに自身の無力を嘆いたところで翌朝になって突然、自身の稼ぎがみるみる増していくなんてことはあり得ないし、不幸を見かねた神様が宝くじに当選させてくれるなんてことも有り得ない。前置きが長くなったが、要するにどうしようもないことに対してはほとんどの場合、「とりあえず絶望するしかない」ということだ。

直接的な対処は勿論誰だってすることだろう。稼ぎが足りないから副業するとか残業するとかそういうレベルの話をしているわけではない。ちょっとした閃き一つで事態を改善するみたいなことをやり尽くしても尚絶望するしかない状況の話をしているのだ。

法律が変わるのを待っていられるほど人間の寿命は長くないし、自分を苦しめている人間を自分が直接排除するのも難しい世の中だ。花粉の飛散は個人の力ではどうしようもない。嘆いたところで杉の木も無くならない。花粉症であっても苦しまずに住む仕事に転職できるほど身軽な状況なんていうのはごく少数の人だけに当てはまること。

施設に入れる金が無いから在宅介護。介護する一人の人生の全てを無に帰す要介護老人。糞尿の手伝いと始末、行動の監視、昼夜逆転がどうやっても治らず夜の暗がりにパニックを起こしては介護する側の精神力と体力を奪う。この有様を俺は何と呼べばいいかわからない。候補はいくつかあるのだが、もはやどれでも良い気もしている。奴隷・犠牲・生贄・人柱。ひどい呼称ならなんでもいい。この悲惨な状況が伝われば何でも良い。なぜなら介護する側はそこまでして更に罵声を浴びせられたり中傷を受けたり暴力を受けることもあるのだ。

だからといって、こうしてネット上で、殺害の推奨や殺意を伺わせるような意見を残すような危険を冒そうとは思わない。だが、祖父母の片方が子息の為を思って心中を決断してしまう事件がそれなりに多発している昨今において、超超高齢化社会の日本いち国民としては、もはや一般教養として懐疑的になるべきテーマの一つにこの「老老介護」を優先的に挙げるべきだと思って止まない。

このブログ主であり、投稿記事を書いている俺自身もこの老老介護に悩んでいるわけだが、これだけ何百日と悩む日々を経ても、まるで光が見えてこない。最近となっては毎度同じ壁にぶち当たる。その壁がなんなのかと言えば、「倫理観のアップデート」である。

日本が抱える問題の一つに、高齢化による日本国民の人口減少と出生率の減少があるが勿論それだけではないことは分かっている。しかし、外国人を非正規雇用することによって生じる技術継承の途絶という問題などは、日本の経済がそもそも豊かで安定していれば起きないわけである。そしてそのためには、日本国民の一人一人が総じて高い生産力を持っているという条件が必要。それを可能にするためには貴重な20~40才の日本人、つまりは日本の可能性を、老人のために浪費するのが合理的でないことは極めて明確である。

日本人の人口は「増える見込みが無い」。そしてとどめを刺すかのように「減り続けているのを止められない」。

ミクロな視点では、認知症の要介護な祖父母を在宅介護をするしかないような家庭では「誰か一人が絶対服従の執事であるかのように付き添い生贄となる」しかない。非常に献身的な介護の限りを尽くしても罵声中傷暴力を受ける、そんな状況で耐えかねた介護する側の人間が無意識に我を忘れてしまい取り返しのつかないことに至っても・・・・・・おそらく司法は介護していた側の人間を裁くだろう。これが今回書きなぐりたかったテーマである。

どうしようもないのだ。いくら嘆き悔しがっても、国の法律は変えられない。司法に対抗する力は得られない。どう考えても理不尽な事態に対して、不思議なことに疲弊し消耗する側が裁かれる。それこそビルゲイツ並の財力だったり、名だたる天才を百人集めても得られないような閃きだったり、不老不死の薬だったり、完全自立型介護専用ロボットの開発だったり、そうした嘘みたいなことにすがるしかない絶望。逃げても見放してもつまるところ見殺し。一生罪悪感と十字架が付きまとい、霊の存在を信じるのであれば、自分の次の代まで呪われる可能性すら感じてしまう。

「そもそも自分の一族が一括りにそういう運命にある」みたいなことを告げる占い師が現れたら納得してしまうかもしれないほどにはそこそこ精神を病んでいる自覚がある。

とにもかくにも逃げ場がない。ある時からは法律の正義その一切を信じられなくなった。世の中はクソだった。いまの時代の日本は絶賛浄化中で、劣等生を淘汰しているところである。自分の祖父母を介護する余裕もない、もしくは介護されなければいけないような健康状態の老人をもつ家庭は親子共々消滅するがいい。老人1人に対し若者数人の生産力で支えなければならないが、その老人もいずれ死去する。収入が低いつまり生産力の低い劣等生も遅かれ早かれ滅びる。勿論、家庭を築き子供を沢山産んだところで劣等生の親ゆえに子共々同様である。この超高齢化社会というのは出来の悪い日本人を一掃して優秀な日本人だけを残すための淘汰圧でしかない。政策の失敗に次ぐ失敗は、そう考えると大成功である。先代が抱えた失敗を全て現代の貧困層に丸投げして諸々消し去ってしまおうという、そんな魂胆があるんじゃないかとどこかで誰かから聞いたらまるで否定する気が起きない。

俺は誰かに八つ当たりするつもりはないし、責任の一切を負わせようというつもりもない。日本を立ち直らせる方法として先述した「超高齢化社会=淘汰圧」作戦を日本の舵取りがもし本当に企んでいるとしたら、それはむしろ合理的な作戦だ、大したもんだと肯定したくなる気持ちすらある。同意して支援するつもりは全くないが、ベーシックインカムを正式に採用して不足した労働力をAIで補い働かない国民にも一定額を支給して優秀な人間にだけ働いてもらって少数精鋭で日本を運営していくよりも遥かにコスパが良い。だから誰が悪いとか言うつもりはないし、誰が悪いのかも正直わからないし、悪者がいるせいでこうなっているとも思わない。

俺はただ、日本全体で「倫理観」をよーく考え直すべきなんじゃないかと言いたいだけ。糞尿の始末を要求し、手取り足取り介抱してこちらの貴重な睡眠時間と精神を削るだけ削って何も生み出さない存在が人権という人間界最強の盾をこちらに向けたまま突進してくるわけだが、それに耐え続けるだけという人生のどこが美しいのだろうか??その突進してくる者を果たして人間や生物や生命と定義しても良いのだろうか??国が滅びかけても考える人は少ないのだろうか?

あらゆる欲求の価値が自分の中で小さくなっていくのを感じる。矛盾の多さに足の力が抜けていく。正義と悪がゲシュタルト崩壊する。思考の多くが圧迫されていく。もはや考えるよりもこの苦しみに耐える力を無心で鍛える方がよほど合理的なんじゃないかとすら思ってしまう。

悩みの根源を断つための実際的なアプローチに有効的なものが無いと分かった以上、この苦しみに負けない心身を磨き守る方法のほうが重要だと悟った。

具体的にはストレスへの高い耐久性を得ること。適度な運動と読書習慣、そして健康的な食生活。もはやこれしかない。もはや、これしか、ないのだ。生まれ持った肉体や育った環境を変えることはできない。遺伝子は変わらない。飛躍的変化を得るためのお金もない。奇跡を待つ時間はない。耐えるしか無いのなら、上手に耐える方法を身につけるしかない。この絶望を理解できる者がどれだけいてくれるというのだろうか。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【考え事】個人の潜在能力とその覚醒について

2019-09-02 03:16:33 | 考察

スポーツ選手でも歌手でも芸能人でも職人でも学者でも、誰でも、人生でおそらく一度…極々稀に二度以上する人もいるかもしれない。

歌手。満員になった会場で全力のパフォーマンスを披露しているその姿はやはり輝かしい。彼彼女は自分の中にある情熱や理想や信念を、そして人生の集大成を声や表情や動きに込める。数々の辛苦を乗り越え、自分の殻を破り、立ちはだかる壁や迫る谷を超えて、確かな成果を生み出し続けていくということは、その人は覚醒を済ませているということなんじゃないかと思う。

成りたい自分になっている、それを覚醒と呼んでもいいし、それは成功と同義でも良い。特別or稀有な能力に目覚める前の人は覚醒していない。運動能力、歌唱力、表現力、計算力、発明力、etc。

脚光を浴びなくとも、成りたい自分に成れている人のことが心の底から羨ましい。俺はモブキャラの1人でしかない。まるで若者が「自分探し」でかっこ悪く足掻いているような、そんな懐かしい感覚になる文章を書いている気がして恥ずかしい。昔はこんなことばかり書いてたなぁ。ださい(笑)

そんな時代からもうだいぶ月日が流れた今でも、大した人間には成れていないこの事実を直視すると、膝から崩れ落ちそうになる。なにがって、何を目標にするべきかも分からないでいることほど空虚に感じられるものは無いからだ。

過去の自分と今の自分ではほとんど差が無いどころか、若い分だけ昔のほうが良かった可能性すらあることが更にも増して辛い。

ネットサーフィンはすっかり日常で、覚醒した人たちを目にすることも日常だ。ゆえに、羨望ばかりが募って辛い。だったら動き出せばいいじゃん。

情けないねぇ。ほんと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする