鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

言葉にしてみるだけ

2024-07-12 00:08:27 | 日記
ここ数日の苛立ちはなんなのだろう。

高温多湿による肉体への負荷?
外出すれば極端な寒暖、引き篭もれば運動不足と血行不良。
疲労感?加齢?
バッドニュースの過剰摂取?

挙げればキリがなく、そのどれもがそれなりに妥当。大きな要因から排除したいが難しいだろう。

日本が突入しているこの時代のあらゆる局面の負の側面は、その殆どが庶民にとって防衛のしようがない。過剰に思える徴税、使い道が不透明な税収、溢れる陰謀論と終わらない水掛け論。一部地域では移民によって日本の尊厳が脅かされ、司法も警察もその本質と機能を疑われている。日本人である女子供を果たして男達は守り通せるのだろうか。女子供でなくとも守りたい人・モノはあるだろう。

国境で分断され、権利によって分断され、年齢によって分断され、日本の結束力はじわじわと崩されてきている。自分の"イマ"も"将来"も"家族"もいっぱいいっぱいだというのに、国のことを案ずる余裕がどこにあるのだろう。ミクロな視点でもマクロな視点でも懸念材料の多さにいつも目を背けてしまう。TVを消したところで、否応なしにSNSから臭いニュースが鼻を抜けていく。

そういうものには蓋をしてしまって、作り話でもいいからくだらない話をしたくても、家族や知人や同僚がせーのでメディア断ちをしてくれるわけはない。そうなるともはや現実逃避するためには、東出のように山籠りするしかなくなる。あるいはひろゆきのように海外という安置で過ごすしかなくなる。生まれ育った場所でなくとも幸せになれるタイプの人間ならそれで良いと思う。

攻めに転じるべきか、逃げという名の防御に徹するべきか。その二択に到達すらできない人間がどれほどいるだろうか。「せめて大恐慌時代から逃れられなくなるその時まではこの残り少ないかもしれない平和な日々のうちに人生を楽しもう、きっとヤバイ時がこなくとも突然の病や事故でだってゲームオーバーは訪れるのだから。」という考え方が、全うな正解だと断言はできなくとも極めて安心できるアイディアだと思えてしまう。宵越しの金は持たず、疲れたらケチらず好きな物や美味しい物を食べよう。こんなことになるならもっと食べておけば遊んでおけばとなるかもしれないから。

救いは無い。侵略は既に進んでいて、"敵"は恐ろしいほど狡猾で強かだ。時間をいくらでもかけて着実に計画を成功させようとしている。川口市や北海道を脅かしているものは遅かれ早かれ必ずみなのところへ到達する。あれらは臭いものを抱えてきて美しい緑や清流をあっという間に灰色に変えていく。

そんなことに思考を割いたところで、積極的に署名活動に協力したり意見を発信したりするわけでもないのでいち庶民である自分にとってこれほど非生産的な行動は他にない。憤慨や悲観したところで精神衛生を損なうだけ。であれば可能な限り自分自身のQOL向上に努めるべきだ。

世間に普及する情報の真偽はどうせ庶民には判断ができない。それをわかっていてメディアは悪意で切り取って発信している。仮に真であると証明ができたとしても、愚衆は信じたいものだけを信じる。埋もれる。揉み消される。そして忘れ去られる。強大な力が働いていて為す術がない。

ただ一つ、もしかしたら救いがあるかもしれない。それは人為的でないもの。宇宙からの来訪者だとかそうしたトンチンカンな話ではなく、荒天や地震のようないわゆる天災である。それは言い換えて仕舞えばただの不謹慎な神頼みと言っても過言ではないが、人類みな殆どが等しくコロナウィルスのダメージを被ったように、敵である者達にとってもそうでない者達にとっても文字通りそれはもはや敵味方関係なくそして善悪のない純粋な"力"として人類を脅かす。我々が土地を奪い合っているという事実が意識から思いがけず欠落してしまうような事態になったなら或いはー。

という妄想をしてしまうほど、はっきり言って未来が見通せない。

もっと身近なものに目を向けよう。そう思っても仕事もお金も家庭もままならない。彼らも自分も苛立っている。人間なのだから。綻びから亀裂。裂け目から瓦解。どれだけ広い器で理性的な生活と言動を心がけていても、人間の負を視界から消し去るのは難しい。いっそのことホームレスや野人のほうがQOLが高いとすら言えるかも知れない。

健やかな精神衛生を維持できている人は、令和ノイズへの自衛術を極めている。この年齢にもなればあとは前年と変わらない繰り返しが続くだけかと思っていたが、存外そういうわけでも無いらしい。

数十年前とは違って、変化の激しい時代の世代は順応する間もなく振り回されるだけの生涯になるかもしれない。

守りたいモノがそれほど多くない自分はそうでない人に比べて幸いなのかもしれない。

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ポケモンカードとワンピースカードで遊んでみた

2024-01-12 00:10:10 | 日記
スタートデッキ¥550〜1100ほどのものを知人の分も含めそれぞれ何種類か購入して遊んでみた。

子供時代にはこれほど画期的かつ手頃な値段で遊べるカードゲームは無かった。コストパフォーマンスだとかタイパという言葉を多用することには抵抗があるが、このスタートデッキはコスパが非常に高い。下手をすればちょっとしたボードゲームよりもよっぽど安く済む。ボドゲに比べて楽しさが長続きするかは別としても、楽しみ方を工夫できる大人の手にかかればなんてことはない。

スタートデッキ同士で対戦するのであれば、カードパワーの均衡がそれなりに保たれている。プレイングと運で埋まる程度のデッキポテンシャルなので、たった2種類のスタートデッキでもやりごたえがある。

しかし、ギャザリングや遊戯王で育った身としては、ゲームデザインの粗さに注目してしまう。せっかく洗練されたカードゲームが存在していて見習えばいいというのに、なぜあのような不親切なテキストが綴られているのか。任意なのか、強制なのか、対象はどれで、何を指しているのかがこんなにわかりづらく、不明なものは随時ネット検索で補正しなければならない煩わしさを感じた。慣れてしまえと言えば簡単だし、ネットがある時代なのだからその程度の手間は惜しむなと言われればそれまでなのだが、検索を前提にしていたり、慣れるまで我慢しろというのはクリエイターやデザイナーとしては消費者に対してさすがに甘えすぎだと思わざるを得ない。

とはいえ、ポケカやワンピースカードに関してはターゲット層が幅広く設定されているように感じるので、目を瞑れないほどではない。文章が易しく、少し曖昧なニュアンスになってしまうのは、国語力に優れた大人に対してというよりかは子供に対し受け取りやすくするためなのだろう。

せっかくこうしてブログに投稿しようと思ったので不満な部分も一応ある程度文字にしてみただけで、実際のところそこまで気にしてはいない。手頃なお金しか消費してないし、そこまで勝敗にこだわっているわけでもないからである。今やこの2種類のカードに関しては転売厨の餌食になっており、ブースターパックが入手困難になっている。自分好みのデッキを作りたい場合は、カードショップやオンラインショップにて1枚づつ欲しいカードを選択して入手するほかない。パックを剥いてみて獲得できたカードを組み合わせてデッキを作るという遊びは叶わない。シークレットレアやかっこいいデザイン可愛いデザインのカードは瞬く間に値段が高騰して、転売かコレクション目的の人間に渡ってしまう。

つまり、スタートデッキのみで遊ぶのが最もコスパの高い方法なのである。

転売厨がおらず、シングルカードの価値が高騰せず、カードショップがそこそこ近場にあってブースターパックが気軽に入手できるなら自分好みのデッキを作るのはとても楽しい行為なのだが、ポケカの闇だとかワンピースカードの闇だとかの検索結果を見ている限り、そんな時代が訪れる気配はまるで無いだろうね。

割と若者がとっついてそうなワードの記事なので変なコメントが来そうだが、自己満足でやってるブログなので悪しからず。

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【独り言】誰も彼も自分の楽園を探している

2023-09-11 16:00:10 | 日記
少子化、エネルギー問題、腐敗政治、不景気、上がらない賃金、上昇し続ける物価、緊張が高まる一方の領土問題、洗国。

日本人の人口は支配され、極めてその数を減らされるか或いは滅ぼされる。日本の美しい文化や土地も消滅するかもしれない。長い人類史の中で蹂躙された民族は沢山ある。滅ぼされた文化も沢山ある。そのうちの一つになるかもしれない。

少子化は止まらない。高齢者が票を握るだけでなく、各地に潜む統一教会の信者が自民党を必ず支持するよう立ち回る。悪政は止まらない。一方的な利益の搾取を望む者いわゆる悪者に対して、助け合い思いやり合える人々はどれだけ抗えるのか。

それでも日本には素敵なものが溢れている。美しさや楽しさや喜びのために、創造を求めて止まない人たちがいる。ひとたびインターネットにつながれば、まるでこの世界が悪い方へ進んでいるなんて嘘だと思いたくなるほど楽しい世界や美しい世界に触れることができる。

日本はきっと一番楽園に近づいた国なんじゃないかと思った。治水や治安の良さ、識字率の高さ、高い民度、思いやり、謙虚さ。地理的な理由を除くことはできないけれど、楽園だったからこそつけこまれてしまった。人々が略奪を警戒しなくなるほどの楽園なら、つけこむのは容易かっただろう。

そんなことを考えても、一個人にはどうにもならない。バッドニュースに何度憂いたところで今の日本の未来を明るくすることはとても難しい。膨れ上がった悪はとてつもなく強大で、それでも抵抗する人たちはきっと少なくはない。けれど、敗北して誰の目にもとまらず退場した戦士がどれほどいただろうか。Bad is stronger than good.

こんなにも世界が憂いで満たされているのに、日本人が作り出す物語や音楽や映像や工芸やモノ、日本人に深く根付いている信条の思いやりと察し、それら全てが愛おしくてひたすらに輝かしい。

前向きに考えよう。どの国よりも先に楽園で近づいてしまった日本は、どの国よりも一足さきに滅びることになる。それはもう止められない。けれど、ひたむきな人たちの営みも止まらない。最後の灯火が消えるまで、その輝きは尚も増していく。

滅びゆくフェーズの中で、目を背けたくなるような惨劇が沢山起こるだろう。悲しみや悔しさが沢山生まれるだろう。けれど日本はいつまでも輝かしくあり続ける。


負の側面を受け入れて、ならば最期の時まで美しい輝かしいと感じるものに包まれていたい触れていようと望む。ここは一つの楽園。憂うだけで行動できない弱者の楽園。ただ、愛する心を忘れていないのであれば誰にでもそこへ繋がる扉が開く。自分だけが得をしようとするものには固く閉ざされている扉。

今ぶつかっているのは正義と正義ではない。
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残酷な空想、無慈悲な現実

2022-08-17 00:58:29 | 日記
善良な人間はいる。完璧で聖人のような人間はいなくとも、思いやりに溢れた尊い人がいる。争いや盗みや独り占めや騙すことを良しとせず、安心や笑顔のために日々頑張る人がいる。

音楽や踊りや絵や物語の全てがそうとは言わないが、その殆どが誰かの心を打ち、挫けそうな誰かの糧となり、未熟な人間を導く光になる。日本でなければ生み出されることがなかった"形"は数えきれない。そのどれもがたまらなく尊い。作り出した彼らのうち一体誰が、争いや奪い合いを望んだというのだろうか。彼らは時代の荒波にも負けず、ただひたむきに自分の情熱に寄り添っただけだというのに。「それらがもしかしたら遠くない未来に消失するかもしれない」そんな風に憂い、それが杞憂ではなさそうなこの時代に、それでも創ることをやめない人たちがいる。

どこで間違えたのか。何がいけなかったのか。

戦争、災害、ウィルス、不況。明治も昭和も平成も、全く平和だったとは言えないかもしれないし、どこを切り取っても歴史の節目だったかもしれないが、令和はあらゆる課題がネットの普及によって史上最も浮き彫りになっている。

どんな時でも、思いやりに溢れた人の味方でありたい。そしてそれと同じ熱量で、嘘や盗みで独り占めしようとする人を憎みたい。

これから大人になる子供たちと、今を眺める大人とでどちらが辛いだろうか。

俺は無力だ。ただただ、祈るしかできない。

人の世に世界平和という理想は存在しなくとも「争いや奪い合いなんて興味がない。ただ最高の音楽を、最高の物語を、最高の踊りを、最高の芸術を、最高の料理を、最高の絵を」そういう人間がいる。それは日本に限った話ではないが、日本にはたくさんいる。彼ら情熱の人々の尊い営みが奪うのは、どうかやめていただきたい。見るだけで心が締め付けられるようなニュースを見聞きするたびに、俺は祈るしかできない。
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【考え事ぉぅ】デザインのためのスキル

2019-03-28 06:17:08 | 日記

絵師・イラストレーターの絵を描く能力を筆頭に、絵に限らず「デザインする能力」って万能だよなぁ…というよりかは、スマートフォンによる綺麗な映像が当たり前になった現代においては、そうした「魅せる能力」が多くの局面において必要とされており、習得していることが強みであり、未習得であることが弱みになると普段から強く思わざるを得ない。

ゲームデザインをする過程でも、ビジュアルがプレイ感に及ぼす影響は非常に強い。例えば、とあるカードの絵は見事な画力で描かれているが、テキストやそのカードの強さがヘンテコだったり面白おかしいものであれば遊んでいて退屈しないことだろう。カードをめくるたびに期待を持って過ごすことができる。

とあるイラストレーターによる自分好みのイラストがあったとする。その人が描いたキャラクターの絵はたったの一枚で静止画だ。構図や姿勢は決まっていてそのキャラクターが動く姿は想像の中にしかない。あんな口調で喋ってこんなふうに走ったり戦ったりしたらかっこいいだろうなと思ったところで、そのイラストレーターが新たに描くような状況にならなければ、実物をお目にかかる機会はおそらく訪れない。

しかし、もし自分にそのキャラクターを一定の精度で模写できる能力があったとしたら?

鳥山明のドラゴンボールや荒木飛呂彦のジョジョは数えきれないほど多くの漫画家やイラストレーターにとって定番のお題になっている。もちろん著作権を侵害しない範疇で、編集社の企画だったりというものである。自分がキャラクターへの愛情ゆえに模写する場合はそのほとんどが自己満足や承認欲求を満たすためのものになるだろう。好きなキャラクターを生み出してくれた作者への感謝でもある。

俺は好きになるキャラクターが人より偏っていて、認知度が低かったり人気が少なかったりするキャラクターを好きになる傾向がある。なのでそのキャラクターが動画になったりゲームになったり漫画になったり、という機会に恵まれないことが多々ある。

そうした時に、もし自分に画力があれば!と何度思ったことだろう。

画力に限らず、動画編集・MMD・MAD・プログラミング・作曲・etc・・・。

能力の有無はともかく、自分はそうした創作活動によって得られる喜びが多い側の人間なのだろうと思う。何かに感動したあと「自分でもやってみたい」と思ったりするタイプなのだ。そう書いていた瞬間思ったことなのだが、それはつまり創作物に対して惜しいところを感じたり、もっと多くの可能性があると感じることができる能力なのでは?と思った。それだけなら誰しも持っていることだろうが、そこから延々と想像や妄想を繰り返すことがとても好きだという人間はまた絞られてくるだろう。

自己完結な日記になってしまったが、とにもかくにも、創作活動というのは本当に良いものだなぁとつくづく感じたのであった。

おわり

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