鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【児童観?】三つ子の魂百まで

2015-08-23 14:28:51 | 日記

4歳と6歳と8歳の三姉妹の遊び相手を担った際のおはなし。

結論からいえば、まだ幼いながらも既に"女"であるということ。

注釈。誤解しないで欲しいのは、幼児のくせに発育が良いとかそういう性犯罪予備軍的な感想ではないということ。

8歳を相手にすれば6歳が嫉妬で暴れ出し、6歳を相手にすれば4歳が泣きだし、4歳を相手にすればこれまた6歳が暴れ出す。

「おんぶして!抱っこして!遊んで!一緒にきて!ねぇどこいくの!?はやく帰ってきてね!」

どこかでよく聞く台詞だなぁ…、と思い出してみたら酔っ払った女友達がよく同じように甘えてくるやん!

この歳で既に"女"が始まってるのか……。凄いな…。と。

4歳の子はただ単純に大人に甘えているという感じだった。

6歳の子はこれが単純ではなく、その子はちょっと変わっていて既に女王様だったのがとても印象深い。4歳児が構ってもらえなくて泣いているところへ介抱しにいったのだが「そんなの放っておいてあたしと遊んでよ!」って感じだ。恐ろしい…。

8歳の子は長女というのもあってか、4歳と6歳がいないところではべったり甘えてくるが、他の子達がいるところではそっと身を引くか或いは「お兄ちゃん困ってるじゃん!やめなよ!」と言う。偉いなと思う一方で、長女という身分を最大限に活かしてお兄ちゃんを妹達には触れさせないようにしているのかもという邪推をせずにはいられなかった。

男児のいない社会、つまり家庭内で既に存在している女社会で育つ娘たちはどういった大人になるんだろうか?非常に興味深かった。

俺自身末っ子というのもあってか、年下の相手は無条件で苦手だ。どう接すればいいのかわからない。


子供達の要求は至ってシンプルだ。甘えさせて欲しい、遊んで欲しい。

俺は親という立場になったことがないのでわからないが、親は子供を育てなければいけない。可愛がるだけなら誰でもできる。甘えさせることも遊んであげることも至極簡単だ。しかし親となると話しは別だ。それに加えて教育もしなければいけないし、健やかに育って行くための充分な衣食住を確保しなければいけない。

子供達が俺に懐くのは当然だ。自慢じゃないがまだまだ子供達の溢れる元気にもついて行ける。そんな都合の良い大人が叱らずにわがままを沢山聞いてくれるのだから。まだ小さい子供がおじいちゃんおばあちゃんに懐くのも然り。

それを実際の体験を持って知ることができた。成熟した女性でも成人男性に甘えたくなるのはその名残なのだろうか?無論、媚びや打算があっての場合もあるだろうけど。


恋愛している時の男性への要求の種類は、性格によって様々だという認識は至極一般的だ。自分が甘えたいのか、相手に甘えて欲しいのか。

「性格によって様々でありその要求がどちらであっても社会的に何の問題はない」という説があったとしてこれに言及したい。

俺の認識では、交際相手に甘えたい女性の多くは、幼少期に満たし損ねた欲求を成人後も保持している傾向があるんだと思っている。次女や末っ子や、家庭内が放任主義の一人っ子に多いと考える。

反対に、交際相手に甘えたい欲求が特に強いわけではなく、むしろ甘えてくる相手に対して面倒を見てあげてしまう女性の多くは、長女の場合が多いと考える。幼少期に、面倒見が良い=親からの評価が高いからではないだろうか。

とはいえ、甘やかされてきた次女や末っ子だからこそ周囲からの注目や配慮に飢えていない場合もあるだろう。長女の場合も、自分が貰える筈だった両親の愛情が下の子達へ向いてしまったことによってその飢えを成人後に満たそうとするかもしれない。

ここで根本的な問いを一つ。そもそも「甘え」というのはなんだろう?

甘え下手よりは甘え上手のほうがいい。けれど向上心を持つ者や競争にとって甘さは敵だ。

愛情や思いやりや小さな気遣いと「甘え」を区別しなくちゃいけない時は間違いなくあると思う。

人生観によっては、俺が生涯尊敬して止まない宇多田ヒカルも「甘えてなんぼ」とか言ってるように、甘えてはいけない理由がわからなくなる時もある。

話が逸れたな。

世話好きでダメ男にはまってしまう(甘えさせたい)女性も、女王様気質の(甘えたい)女性も、俺の価値観からすればどちらも大人としては未成熟だと感じる。

ではしっかりしている女性とはどんな性格をしているのだろう?

甘えさせたい欲求と甘えたい欲求のどちらかが優位ということはなく、大人になる前にそれらをちゃんと満たしてきたという場合、その女性の望む物はなんなのだろう?

たいていマズローの欲求階層説で言うところの最上階の欲求が当てはまる類だと思うが、性別問わずその領域に達している人間は総じて理知的で人格者の可能性が高いと考えていいのだろうか?


三姉妹の話からだいぶ論点が外れているが、つまりはどんな人間を尊ぶべきなのかその基準を知りたいだけである。




余談だが、その三姉妹は本当に可愛かった。ロリコンや性犯罪者の気持ちがわからないでもないほどに。

親御さんには申し訳ないと思うほど懐いてきた。どちらかといえば子供はそもそも苦手だし、強いて言えば嫌いなほうだが、その時ははじめて子供達を好きだと感じた。遊んであげたいし守ってあげたいし、教えれることがあるなら是非もない。

なぜ今なのだろう?と考えてみた。ひどく懐いてきてくれるからだろうか?と結論に至った。なんて単純なんだ。そしてなんだか自分の感性が陳腐に思えた。あっちが好きになってくれたから好きになったなんて嫌じゃないか?好きにならないのなら未来永劫好きにならないみたいな大人げない考え方はあんまり認めたくない笑



考察の余地はまだ沢山あるが時間切れ。

また次回の記事にて。
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【三途の川の渡り賃】

2015-08-19 02:37:15 | 日記



「やがて訪れる生の果てには、思い出ぐらいしか持ってゆけるものはないだろう。」


お気に入りの漫画のとある台詞を少しいじった。

俺はこの台詞が好きだ。


盛者必衰。どんなに屈強でどんなに健やかな心身であろうとも人は死ぬ。

偉業を成し遂げても、多くの名声や富を得ても、どれだけ多くの仲間を得ようとも、いずれも向こう岸へはもってゆけない。

老衰で逝けるのであれば、その時まで最愛の人が傍で手を握っていてくれたらそれ以外になにが要るだろう?

漫画『HUNTER×HUNTER』のメルエムとコムギがそうだったな。


思い出。

出自が思い出せないのだが、「人は最終的には感性を巡って過ごすものなのだ」的な言葉をどこぞで見聞きした。

日頃それを痛感している。

典型なのが、雪だるま。

勿論保存する方法はいくらでもあるだろう。

しかし殆どの場合はいずれ溶けてなくなる。

雪だるまに限らず「つくる」という行為が肝要だということ。

仲間がいるのならその作業やその時間を共有したという記憶が脳みその中に積まれていく。

言うまでもなく、日々の収入や労働は生きていくうえで死活問題だ。

しかし、人の一生で価値があるものというのは、どれだけ稼いだとかそういうことではない。

長い人生でふと立ち止まって振り返ってみた時に、思い出達がどんな顔をしているかというところでその一生の価値が問われるんじゃないかと思う。

自分がどんな人間であったかなんてこともそれに比べたら大したことじゃない。どんな容姿をしていたかというのはそれにも増して気にすることではない。

不思議なことだが、私達はあの世で人生のレポートを閻魔大王に提出しなくちゃいけないという決まりがあるつもりでいるように思えるのだ。そんなことは全くないというのに。


映画を見るのもつくるのも、車を走らせるのもつくるのも、食べ物を料理するのもつくるのも、どれも全て喜びのためでしかない。

合理的だとか生産的だとか、人の幸せや喜びが効率主義に埋もれてときどき見失うことが多い世の中だなって思う。


俺は一般的にも社会的にも大して価値のない人間だが、年収4桁を越えるとか医者になって大勢を救うのも、一人の誰かと楽しい時間を築くのも同じ実りだと思っている。人生の使い方がどんなものだったとしても、喜びを基準に比べるなら俺の人生はなかなか捨てたもんじゃない。

そういうふうに考えると、今の俺を振り回して止まない焦燥感も不思議なくらいおとなしくしていてくれる。
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