鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【宇多田ヒカル】『忘却』という曲

2017-04-30 02:40:09 | 宇多田ヒカル

Fantomeが発売されてから随分経ったが、今更ながら感想を書く。

初めて聴いた時から今に至るまで俺を魅了して止まない曲の一つである。暗い曲なのにとても癒しがある。これは宇多田ヒカルの歌だからとか、『忘却』だから、という理由で癒しを感じているわけではなく、昔から暗い音楽のほうが身に馴染むというか聴いていたいと思う体質なのだ。とはいえ『忘却』は『桜流し』には劣るものの俺にとってはとても大切に聴きたい曲であることには間違いない。

彼女は滅多に「幸せ」を唄わない。主観かもしれないが、喜びや感謝を唄う曲はあっても、それ以上に憂いや儚さや悲しみへのふるまいを形にした曲の方が遥かに多いと思っている。言うまでもないことだが、苦しみがあってこその喜びである。光と影がコインの表と裏であるように、彼女の歌にはまず絶望があって初めて形作られる。

絶望を嘆き、立ち尽くして、立ち向かう。この世界には救いがあると信じて。全ての終わりや祈りに報いがあらんことを。その景色を美しいと感じているからなのだろうか。濁った世界に疲れた時に、彼女のような人が祈る姿はこの世のどこにもないほど純粋に誠実な姿をしているからだろうから心を打たれるのだろうか。

宇多田ヒカルには別の世界が見えているような気がしてならない。みんなより多くのものが見えていて、だけどみんなよりも多くのものを見ないで生きていこうとしているような。わざとみんなに合わせているかのような。きっと人の一生で行ける果てを彼女はある程度知っていて、でもそこには空っぽの宝箱があるだけで、それをみんなは知らずに生き急いで取り合っていて、彼女はいつも虚しそうに遠くから眺めている。或いは悲しそうに。

この一連の感想も、俺が彼女に抱きたいイメージを勝手に抱いているだけなのかもしれない。他人のことを語るようでいて自分の理想を語っているだけなのかもしれない。もしかしたら自分のことを語っているだけということもあるかもしれない。

大空いっぱいに葉を広げた木や、足元で賑やかにしている草達を見ると、俺たち人間が複雑に営んでいる時間をとてもシンプルに過ごしていて、それに比べたら人間って滑稽だなって思えたりして。

女が出産を諦められず、男が女を追いかけずにはいられない。でも最近すごく思うのは、性欲に限らずそういった本能や欲求という支配から逃れたいだけなんじゃないかなって。

俺たちって本当はもっと他のことがしたいんじゃないかなって。青春だとか育児だとか、老いの中で誰かに何かを託すことに喜びを感じるとか、切迫した時間とか、そういったやかましいあれこれにうんざりしている。『忘却』の歌詞からは、なんだか『Show Me Love(Not a Dream)』とは真反対な現実逃避欲求を感じる。

ちなみに俺はShow me sweet dreamとにかく良い夢を見たい。そうすれば明日も頑張れるから。

おわりっ
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【考察】選ぶべきことは何か 〜決断疲れ〜

2017-04-16 15:35:26 | 考察

>>毎日同じ服を着る成功者は、スティーブ・ジョブズやアインシュタインに限った話ではありません。米オバマ大統領は、ほぼ毎日同じスーツを着ることで知られています。その理由を、彼は以下のように語ります。

「私は常にグレーか青色のスーツを着用している。こうすることで私が下さなければならない決断の数が減るんだ。何を食べるか、何を着るか決める余裕はないし、他に決断しなくてはならないことが山のようにあるからね(Vanity Fair)」<<
以下より引用@「世界の成功者たちが毎日同じ服を着る興味深い理由」

参考@wiki決断疲れ

一流アイディアマンやオバマのように、人類の中でも強い力と可能性を持った人であれば決断一つ一つの価値は計るまでもない。しかしこれが俺のような低所得層の人間になるとどうだろうか。せいぜい住居や車や配偶者の選択ぐらいだろうか。1日単位では、食べるものや誰と会うとかそういう話になる。環境や性格によって様々だ。

生産性の有無で判断するのであれば、無駄に高いランチやディナーは一時的に満たされるだけなので排除されるべき選択である。なので、的確な栄養摂取さえできれば可能な限り安く済む方法が最適解である。空腹感さえどうにかなるのであれば、1日の消費カロリーに対して余分な摂取カロリーを割くべきである。更に好き嫌いや味といった要素を排除すれば、炊いた白米に梅干し納豆味噌汁の後にヨーグルトでも食べておけば生活習慣病や肥満にはならないだろう。毎日同じ食事にはリスクが伴うので適度なローテーションが必要だが、1週間で食べるものを予めそうした計算のもとで選ばれたものを決めておけば「決断疲れ」と「健康リスク」と「無駄な消費」を避けることができる。

冒頭にもある通り、毎日同じ服を着ることで「着る服を選ばない」。といったように、「決断疲れ」を排除することは難しいことではない。そしてそのメリットは今更言うまでもない。しかし、対してアイディアマンである必要もない一般庶民で低所得層の我々が決断疲れを減らしたところで、他に決断するべき重要なこととはなんなのだろうか?

どの保険に入るか、どんな車を買うか、どんな仕事をするか、といったようなあからさまに重要な決断はさておき、ありふれた休日の使い道のような場合はどうすれば最適解になるのか。言うまでもなくそれは個々人の持つ社会的背景だったりによって様々だが、もし二択の問題に対して正解率を最大限まで高める方法があるなら是非とも知りたい。

時間を置いて考えてみたが、答えはあっさりしていた。

他でもないこの執筆作業こそが、決断エネルギーを費やすべき行為なのだと。因みに俺にとっては執筆だが、他の人にとっては趣味と呼べるものが該当するだろう。スポーツでも芸術活動でも動画編集でも物作りでも。それに収入が伴うかどうかは重要ではない。仕事も遊びも俺からすれば、目標を持って行う以上はそれほど大差がないからだ。

つまり、些細なことであればあるほど決断エネルギーを節約するべきなのだ。何が有意義かどうかはわからなくとも、無駄なものを省いておけば残った他のものから決断の質が向上する筈なのだから。

おーわりっ。
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【考察】思考を妨げるもの

2017-04-16 13:47:26 | 考察

ほんのつい先ほどのことである。寝起き直後だというのに、考え事が捗り過ぎたせいなのかは定かではないが、頭の異常な回転力を感じた。脳内処理だけではこの駆動力を活かしきれないと判断した俺は、布団の中でとりあえずiPhoneのメモ機能を使うことにした。が、しかしメモ機能では記憶の意識に対する作用が不安だったので、布団から出てデスクに座り、とりあえずPCは立ち上げずにB5のプリント用紙に半ば半狂乱状態で走り書きをした。漢字を書いたり、漢字を思い出したりするのがすぐに煩わしくなって、PCを起動するも、キャッシュが溜まりに溜まった状態では文字入力がもたつくのでスリープを解除して直ちに再起動した。そして今に至る。

メモ機能への入力からプリント用紙に走り書きまでの間、俺は言葉遣いや文章の精度と文字の綺麗さには構わずに続けた。なぜなら、それらは各々が小さいとはいえ逐一時間がかかるからである。読むのはそれを書いた本人である自分自身のみであり、それを伝える相手がいるわけではない時点では(厳密に言えば未来の自分だが)、綺麗で読みやすい文字や文章は不要だと考えたからだ。

読み手へ配慮する場合には、言葉遣いや文章の精度は勿論必要である。しかし、物書きの人なら感じたことがあることかもしれないが、俺がこうして書いている糞みたいな趣味のブログにおいては、論文のような書き方に需要があるはずもない。「私は〇〇のように思い"ます"」のように、「です」「ます」といった丁寧な書き方は必要ない。むしろローマ字入力なのでmasuとdesuで、その都度二文字ずつが余計な入力になると言っても過言ではない。たまに丁寧な口調になることもあるが、いつからか俺はそれを意識してこのブログの執筆を行うようになった。

燃焼機関、つまりガソリンを燃やして回転力にし、それを車輪に伝達することで推進力に変える自動車。火力発電や風力発電にも言えることなのだが、駆動力にしろ電力にしろ、それらは変換する毎に失われるエネルギーが存在する。主に自動車の車輪に注目して話を進めていこう。フリクションロスというものがある。ブレーキディスクとブレーキパッドの間には、ブレーキレバーに対する入力がない限り必ずそこに隙間が存在している。しかし使用年月の経過や所々の劣化によってその隙間は着実に埋まっていく。パーツ同士の接合部などにも同じことが言えるので、車体が浮いた状態でタイヤを空転させてみた時に、タイヤが停止するまでの時間は走行距離に比例して早くなる。この、タイヤの回転力を妨げているものをざっくり言うとフリクションロスと呼ぶのである。聞いた話では、腕の良い整備士かどうかはこのフリクションロスの度合いを見れば分かると言う。先述したとおり、タイヤを浮かせて空転させてみればいいだけである。

このフリクションロスがどうしたかといえば、今回の記事タイトル「思考を妨げるもの」に繋がるのである。

フリクションロスやロスエネルギーは一般的には自動車の推進力や発電に対して使われる言葉だが、そうしたエネルギーのロスというものは人間の計算処理能力、もしくは思考能力にも同じことが言えるのではないか。

冒頭からも述べているように、文章や言葉を書いたり入力する際に、ペンであれば漢字の画数が煩わしく、入力であればミスタッチや誤変換に対する訂正が手間になる。それらは思考したいこととは全く関係のない処理であり、可能ならば省きたい手間である。2007年10月-12月に放送されたTVドラマ『ガリレオ』では天才演じる福山雅治が、ペンがあれば紙に、校内であればチョークで黒板に、砂場であれば指で土に、何もなければ空に、といったようにとにかく「思考を整理すること」を手段を問わず優先している。

漢字を変換することは機械に任せてしまえれば、限りある処理能力を他にまわすことができる。漢字を思い出したり変換することだったり、ペンで書かれた文字の訂正や、フリック入力による誤変換や誤入力に対するBackspaceだったり、そもそも文字を書くという行為だったりは全てキーボードで入力することによって塵と化すものである。

ガリレオの福山が黒板やメモ用紙がなかったからといって思考整理を諦めなかったように、そうした思考している内容とは無関係なものを可能な限り排除することは夢中になっている人間にとっては自然なことである。スティーヴジョブスのような超一流アイディアマンは、毎日服を選ぶという「決断疲れ」つまり精神的エネルギーの消費を避けるために毎日同じ服を着る。髪はボサボサ、靴下を履かないアインシュタイン。ザッカーバーグ、etc。彼らは何かに気をとられることをとても嫌がる。それが些細なことであればあるほど無駄だからだ。赤か青か緑かを気にするべきなのはカラーコーディネーターであり、赤と青の結果が等しい者にとっては無駄なことである。


「決断疲れ」というものがあるように、日常には人間の精神的エネルギーを損なうものが数え切れないほど潜んでいる。究極的なところで言えば、こうして文章を書いていく際に、単語を頭にするか真ん中にするか最後にするか、句読点はどこにするか、接続語はどれにするか、などまである。それはさすがに極端だが、もっとありふれているもので言えば「日常のノイズ」である。ノイズと呼んでしまっているということはすでにネガティヴなイメージを持たせているのだが、身近なものではメールが該当する。開いてしまったが最後、視界に入った時点で脳が条件反射で反応してしまうので、直前まで行っていた思考作業が中断されてしまう。視界に入れてからでは思考を中断するかどうかを選ぶことができない。なので開くよりも前に選ばなければいけない。

こうして無意識に損なわれていくエネルギーの存在を意識できる人間は少数派だろう。主に頭脳労働者に多いと推測する。さらにその中には天才と呼ばれる者が多いと推測する。

部屋が散らかっている方がIQが高いみたいな、一見なんの根拠もなさそうなくだらん理論が存在する。根拠や信憑性はともかく、今回の記事をここまで読んだ愚かな暇人がいるのであれば天才のデスクが散らかりがちな理由の予想ができるはずである。デスクと言わず作業場所と言ってもいいし、天才の身の周りと言ってもいい。なんなら散らかっているというのは天才の見た目そのものにも言えることである。彼らは片付けることができないわけではない。片付ける能力もあり、片付けることのメリットも知っていてなお片付けないのである。なぜなら片付けることなんかよりもしたいことがあるからである。思考の整理だったり、アイディアの記録であったり、発明であったり、実験であったり。片付けなんてものはどうでもいい。今この瞬間一分一秒に溢れ流れる思考閃き創造のチャンスを、一つとして失いたくないのである。後回しにできることはいくらでも後回しにする。片付けなんていうものは散らかっている場所さえあればいくらでもできるのだから。今しかできない思考、今するべき思考が、今すぐ形にするべき想像が、彼らの脳内に押し寄せては、「片付け」だとか「毎日違う服を着る」とかいうクソつまらない常識を埃のように吹き飛ばしてしまうのである。

サヴァン症候群のような、そもそも出発点から常識を持つことが難しい天才ではなく、常識を得て育った者が特化に特化を重ねて変人(天才)へと覚醒していくのは、人間の処理能力に限りがある以上は当然のことなのかもしれない。そう感じたのも、不本意ながら当記事執筆直前に俺自身も「思考の整理や創作活動」以外の一切が煩わしくなったからである。寝食を忘れるだけなら誰もが感じたことはあるだろうが、そうではなくて、身の回りの音や光や温度だったり、親友からのメールだったり、いつも行っていたはずの習慣だったり、果ては思考""の思考"の思考"(考察に対するメモ、メモの際の段取り、段取りの選択、選択肢に対する選択、思考したいことに対するノイズを排除するための思考…)だったりというのは初めてだった。

おーわりっ
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【考察】サニーブレインとモチベーション

2017-04-14 07:31:35 | 考察

朝の脳は比較的楽観的。夜の脳は比較的悲観的。

楽観的な状態ではリスクに対する積極性が低い。物事のネガティヴな情報に対し鈍感な傾向を持つ。悲観的な状態ではその反対である。

しかし、人の気分というのは極めて不安定かつ不規則なものである。風も穏やかで雲ひとつない空と春の陽気に包まれた朝を迎えたとしても、その人が置かれている社会的環境が悪いものであれば気分は高揚しないかもしれない。

不安や恐怖を抱かせるものに遭遇すれば神経を鋭敏化させて警戒するのは生物として勿論のことだが、ある視点から言えばその心理状態を悲観的と定義できる。

リスクに対する積極性の高い状態をレイニーブレイン。つまり悲観脳と呼ばれるものだ。この時の人の選択は優柔不断で、とにかく決断に時間がかかってしまう。なぜならリスクを計算しているからだ。これがサニーブレインと呼ばれる楽観脳の場合は、大小問わず決断が速くなる。

日中と夜の気分が、同一人物であっても同じではないのは、こうしたサニーブレインとレイニーブレインが交互に入れ替わっているからである。狩猟時代、人が明るい時間帯に効率的な狩りを行うためにはサニーブレインである必要があり、日の沈んだ暗闇では慎重な行動をとるためにレイニーブレインが必要になった結果である。しかし狩猟の必要がなくなった現代において、日没や暗闇に対する精神的な反応や生理現象は、純粋に肉体の休止状態を目指すこと以外にはほとんど存在しないと言える。

サニーブレインの時にした友人との約束が「日没からレジャー」だとしよう。この予定が決行されるかどうかはともかく、レイニーブレインの思考では「当日その時間になった時に面倒くさくなる」可能性が高い。過去の記事にも似た様なことを執筆したが、約束をするのに適しているのはサニーブレインの時に約束するのであればサニーブレインの時間帯を設定するべき、あるいは調整するべきである。気分の高揚時と鎮静時では当然ながら気分も違えば思考も違うからである。


前置きが長くなったが本題。それがどうしたかといえば、サニーブレイン時の活力は人間にとっては欠かせないものだし、目標に対して取り組んでいくためにはなお必要なものである。しかし、サニーブレインは活力をあたえてくれる一方でリスクに対する積極性を損なわせているとしたら、デメリットについても考えるべきではないのか、というのが当記事のテーマである。

とはいえレイニーブレインの何かと足踏みしてしまうような状態を考えると、サニーブレインの「片っ端から行動」とレイニーブレインの「慎重に選んでから行動」では、片付けや買い物といったように、物量と質を計算するべき状況などによってどちらが適しているかは極めて多様化しているので、手っ取り早いのがサニーブレインだと言えなくもない。


と、まあ特に結論もオチもないわけだが、単純に思いついた疑問を書いてみた日記になりました♪

おーわりっ
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