鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

残酷な空想、無慈悲な現実

2022-08-17 00:58:29 | 日記
善良な人間はいる。完璧で聖人のような人間はいなくとも、思いやりに溢れた尊い人がいる。争いや盗みや独り占めや騙すことを良しとせず、安心や笑顔のために日々頑張る人がいる。

音楽や踊りや絵や物語の全てがそうとは言わないが、その殆どが誰かの心を打ち、挫けそうな誰かの糧となり、未熟な人間を導く光になる。日本でなければ生み出されることがなかった"形"は数えきれない。そのどれもがたまらなく尊い。作り出した彼らのうち一体誰が、争いや奪い合いを望んだというのだろうか。彼らは時代の荒波にも負けず、ただひたむきに自分の情熱に寄り添っただけだというのに。「それらがもしかしたら遠くない未来に消失するかもしれない」そんな風に憂い、それが杞憂ではなさそうなこの時代に、それでも創ることをやめない人たちがいる。

どこで間違えたのか。何がいけなかったのか。

戦争、災害、ウィルス、不況。明治も昭和も平成も、全く平和だったとは言えないかもしれないし、どこを切り取っても歴史の節目だったかもしれないが、令和はあらゆる課題がネットの普及によって史上最も浮き彫りになっている。

どんな時でも、思いやりに溢れた人の味方でありたい。そしてそれと同じ熱量で、嘘や盗みで独り占めしようとする人を憎みたい。

これから大人になる子供たちと、今を眺める大人とでどちらが辛いだろうか。

俺は無力だ。ただただ、祈るしかできない。

人の世に世界平和という理想は存在しなくとも「争いや奪い合いなんて興味がない。ただ最高の音楽を、最高の物語を、最高の踊りを、最高の芸術を、最高の料理を、最高の絵を」そういう人間がいる。それは日本に限った話ではないが、日本にはたくさんいる。彼ら情熱の人々の尊い営みが奪うのは、どうかやめていただきたい。見るだけで心が締め付けられるようなニュースを見聞きするたびに、俺は祈るしかできない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【邪推】ONE PIECE FILM REDの評価が賛否両論?

2022-08-07 21:41:22 | 考察
考察したり推しがいたりするガチ勢に対し、ニワカ勢な私ですが観てきました。

「もはやadoのMVやんけ」というレビューがありましたが、それはまぁ確かに。うっせぇわで有名なadoさんですが、うっせぇわも含めて殆ど聴いたことがない。そんな状況で映画観ました。

現代の若者が推してる今時の曲を歌う今時の歌手、そうやって斜に構えていた。はっきり言って舐めてた。ONE PIECEとのマリアージュがあるのかどうかはさておき、その歌唱力と表現力は予備知識無しハードル増し増し心理的抵抗強めでも圧倒されるほどでした。

ディズニーばりの尺と頻度で歌唱シーンがあるわけだが、じゃああれを漫画やアニメという媒体でやろうとして映えるかと言われるとそうではない。漫画と音楽の相性は皆無。じゃあアニメでも良かったのでは?登場人物一人のためにそこまでできるか?コスト的にNOだろう。

adoのためか、utaのためか、今後ワンピースのクライマックスへ向かうための資金調達か、尾田先生の意図は定かではない。しかし商業的な戦略としては、とても強いアイディアだと思う。

複雑ではない物語、豪快な演出、流行りのショートやダンス、トップランカーの歌手、夏休み、子供達、etc。劇場版を作る以上、そうした戦略を選ぶのは当然だろう。売り上げが望めなければ元も子もない。

シャンクスの娘という重要キャラのエピソードなのだから本編で数十話使ってしっかり積み重ねれば良いのにとも思ったが、音楽の島で歌の能力となると確かに劇場版が一番かと思ってすぐに棄却された。しかし、だからこそ尾田先生がutaに込める思いの強さについて考えずにはいられない。劇場版を作ってまで命を吹き込みたかったキャラクターなのか。いや、ただ現代の流行と市場に合ったキャラクターを考案しただけなのか。はてさて。



ちょっとした外伝という位置づけで構えていれば全く問題無く楽しめる作品である。否定的なレビューで「歌唱シーンの多さにぐったりした。adoの押し付けが強すぎて萎えた」というものがあった。現代の超情報社会で、あれだけ大々的に「ウタウタの実の能力者、ウタ!音楽の島エレジア!歌唱はado!」って告知してたんだから歌唱シーンが多いのもadoのプッシュが強いのも、超絶びっくりするくらい当たり前な話でしょうに。お茶を買ってみたら凄くお茶の味がしてがっかり、という言語障害者も真っ青なサイコレビューである。

麦わらの一味がメインではなく、あくまでutaか或いはシャンクスがメイン、もしくはutaとシャンクスの絆がメインという話なら納得である。ワンピース正史につながらないパラレル前提で2時間ほどで完結ならまあこんなとこだろう、というのが正直な感想である。麦わらの一味がそれほど活躍しないのも納得だし、というかそこに割ける尺なんてそもそも殆ど無いだろう。utaが「歌うこと」にどれほど想いを込めているのか、それを観客の意識に落とし込むのが最重要だと思う。次いでシャンクスとの関係、他諸々は二の次。商業的に考えてadoプッシュ。正史でようやく再登場したシャンクスのディティールをいかにバラさずに格好良く戦わせるか。

かくいう私は、ado(uta)目的で足を運んだわけではないが曲「新時代」に骨抜きにされた。あれを見返すためだけにリピートしようか悩んでるところだ。踊って歌うutaちゃんは、youtubeのそれより40億倍ぐらい可愛かった。尾田先生のデザインx中田ヤスタカx劇場版じゃなかったら骨抜きにはならなかったと思う。そういうことなので、ado反対派のレビューとはどうしても相容れないですね。ado信者ではないし、「うっせぇわ」は今後も聞かないけど、あの歌唱シーンには間違いなく価値があってado抜きでもいいとかONEPIECEじゃなくてもいいとか劇場版じゃなくてもいいということにはならないので。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【宝飾】男から見た女

2022-08-07 20:55:16 | 考察
子供をよく愛する?
家庭を守る?
臀部と乳房が大きい?
肉付きがよくとても健康的?
見目麗しく多くの者を魅了する?
確かな品性と知性を持っている?

男にとって美しいものというのはいつだって女性である。

自身が生涯でこの人以上の女性には出会わないと確信した時、富ある者ならば全てを賭して彼女を飾る。力ある者ならば全てを賭して守る。女の死後には彼女の生を全て記し、歌い、全ての夜に彼女の夢を見る。

陰湿で、卑怯で、淫らで、嫉妬深く、強欲で高慢。それが女だと言う者がいる。確かにそうかもしれない。しかし、そうだったとしても、男にとって美しいのはいつだって女性ということに変わりはない。

男は至上の女のために塔を建てるし、至上の女のために黄金を集める。たとえ彼女が彼のために踊ることや歌うことがなくても、男である限りそうせずにはいられない。

たとえ女が男に振り向かなくても、男は至上の女について語り継ぐことをやめないし、唄うこともやめない。

男は大勢の飢えを凌げるほどの黄金を使って塔を建てても、「どうか今日も歌っておくれ」「どうか今日も笑っておくれ」と願うだけである。

女であれば、そうはしない。

丈夫な子を産み、強くて聡い大人に育てることが女の使命ではない。男の欲を駆り立てて男の思うがままに身体を許すことが女の宿命ではない。美しさを磨き続け、それを長引かせることが女の義務ではない。

男に塔を築かせる女は、口でそんなことを頼みはしない。男に黄金を集めさせる女は、そんなことを望みはしない。

口で頼む女も、望んで止まない女も、至上の女ではない。

男と女、必ずどちらか片方で産まれてくる。妊娠や出産や求愛は、時代と環境に決められた振る舞いでしかない。片方であることを認識し、それでいてどちらでもあるべきではないと気づき、女らしくある必要などないと悟り、しかしそれでいて自身は「それでも自分は片側なのだ、そこから逃れる術はない」と知ること。女として生きてきた血潮は、その流れを変えることはない。男にとって美しいものはいつだって女、男がそこから逃れる術を得られないのと同様に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする