古天気学 A

明治時代以前の日本のお天気や地震また天文関係の資料を収集中

古天気学 今までの検証結果 5

2013-05-30 08:29:00 | 古天気学
古天気学 今までの検証結果 5

2013年5月30日 木曜日 天気 曇 昨日関東地方梅雨入り


(36)「享保日記」享保二年八月十六日巳中刻(10時頃)ヨリ辰巳(南東)大嵐大雨。未ノ刻(14時ころ)南ニ風替り御家中町共所々破損或潰家。御城内ニも御屋上破損多。御城廻り松本所々風折有。或根がへり有り。
→ データより関東・関西で大風大雨であることがわかり、茨城県水戸市での資料と一致する。 享保二年八月十六日に 茨城県水戸市で 大嵐大雨の貴重な資料であります。

(37)「享保日記」當四年以前八月九日ノ嵐ヨリよほどつよし。中川もよほど洪水、石垣、橋、水落口御堀と一面ニ成ル。但十六日夜中水はな。十七日五ツ時分ニ貮尺餘水落ル。
→ 當四年以前八月九日 → 正徳四年八月八日の暴風雨の全国的な大被害をもたらした正徳四年の暴風雨です。 但十六日夜中水はな。 → 「水はな」の意味不明。 十七日五ツ時分ニ貮尺餘水落ル。 → 「水落ル」の意味不明。

(38)「享保日記」
享保二年十月二十二日 1717年11月24日 千葉・松戸 晴天 江戸御屋敷→小金
享保二年十月二十三日 1717年11月25日 茨城・藤代 晴天 小金→藤代
享保二年 十月二十四日 1717年11月26日 茨城・藤代 晴天 藤代
享保二年十月二十五日 1717年11月27日 水戸     晴天 藤代→水戸
享保二年 十月二十七日 1717年11月29日 水戸     晴天
享保二年十月三十日  1717年12月2日 水戸       晴天 

→ 十月二十二日(1717年11月24日)日光 曇 ・千葉 晴 
十月二十三日(1717年11月25日)日光 晴 ・藤代 晴 
十月二十四日(1717年11月26日)日光 晴 ・藤代 晴 
十月二十五日(1717年11月27日)日光 晴 ・水戸 晴  
十月二十七日(1717年11月29日)日光 晴 ・水戸 晴  
十月三十日 (1717年12月2日)日光 晴 ・水戸 晴

上記のように、関東圏では、日光しか資料がないが、享保日記の資料を加えることで、関東圏の天気が晴であることがわかる。 関東圏、茨城県水戸市での天気の大変貴重な資料である。

(39)「享保日記」十二月二十八日朝より夜九つ時迄、江戸大火事ノ由。牛込山伏町より出火ノ由。春中ノ火□□(ムシ)程ノ由。幅十町ホド所ニヨリ不レ同、長三十四五丁ト云。此度燃候所ハ、六十年ホドニテ焼候由。増上寺内へ火ウツリ、拾ノモノ九ツ寺内類焼。但本堂クリ御靈屋無2別條1。
→ ネットでいくら検索しても、享保二年十二月二十八日の江戸大火の資料がありませんでした。古天気学データベース(KTDB)に「有徳院殿御実紀」「増訂武江年表」に記録あり。 享保二年十二月二十八日 江戸大火 数少なき貴重な資料です。

(40)「享保日記」享保三年正月朔日 晴天・正月二日 晴天・正月三日 晴天・正月廿七日 雨(古宿村常照寺)」
→ 享保三年正月朔日 晴天・正月二日 晴天・正月三日 晴天・正月廿七日 雨(古宿村常照寺)」

(41)「享保日記」鳥取県立公文書館HPに大変おもしろい物を見つけました。 

「第36回県史だより・室長コラム(その30):「鳥取藩家老日記」に皆既日食は記されたか?」 と「第80回県史だより・江戸時代の日食」
から概要を明記しました。

第36回県史だより・室長コラム(その30):「鳥取藩家老日記」に皆既日食は記されたか?

鳥取藩家老日記が残っている時代の内、鳥取県で日食があったのは次の5回だそうだ。  
                                
1.享保15年 6月1日 1730年 7月15日 14時51分 金環日食      
2.寛保 2年 5月1日 1742年 6月 3日 8時49分 皆既日食        
3.天明 6年 1月1日 1786年 1月30日 12時17分 かなり深い部分日食 
4.嘉永 2年 2月1日 1849年 2月23日 10時14分 かなり深い部分日食
5.嘉永 5年11月1日 1852年12月11日 12時43分 皆既日食
鳥取県で日食があったのは次の5回だそうだ。→ 本当に5回なのか。
旧暦年を西暦に直す際に、12月や1月にかかるズレ
→ 詳しくはさじアストロパークにお尋ねください。
→ 一般読者向けのコラムという記事の性格を考慮し、一般的な歴史年表の表記を参考に西暦を記載しました。御了承ください。

(41)「因府年表」「因府歴年大雑集」鳥取県での日食時の、天気を検証していきたい。  
                                因府年表       因府歴年大雑集
1.享保15年 6月1日 1730年 7月15日 14時51分 金環日食      日蝕の記載有り    日蝕の記載有り
2.寛保 2年 5月1日 1742年 6月 3日 8時49分 皆既日食       日蝕の記載有り    不明  
3.天明 6年 1月1日 1786年 1月30日 12時17分 かなり深い部分日食 日蝕の記載有り    不明 
4.嘉永 2年 2月1日 1849年 2月23日 10時14分 かなり深い部分日食 因府年表の対象時期外 不明
5.嘉永 5年11月1日 1852年12月11日 12時43分 皆既日食 因府年表の対象時期外 不明
鳥取県立公文書館 県史編さん室HPより
→ 享保15年 6月1日 1730年 7月15日

天気は、全国的に晴れで、鳥取県も「因府年表」「因府歴年大雑集」の日食記録があり天気は晴れです。

寛保 2年 5月1日 1742年 6月 3日

鳥取県の天気は、曇りで日食の記録がある。

天明 6年 1月1日 1786年 1月30日

中国地方で雪ですが、鳥取県の天気も雪で日食が見えた記録有る。

嘉永 2年 2月1日 1849年 2月23日

鳥取県の天気は晴れ曇。日食の記録がなし。

嘉永 5年11月1日 1852年12月11日

鳥取県の日食の記録あり、また、中国地方が晴れの為、鳥取県の天気が晴れであることがわかる。


古気象学と古天文学が融合した大変面白い初めての企画でした。

(42)第80回県史だより ・江戸時代の日食

鳥取城では、正月を除く毎月1日および15日に、「式日御礼」または「朔望(さくぼう)御礼」として、家臣が登城して藩主に御礼をするという行事が行われていました。
日食を理由に行事を延期したり中止する記事が下記の見られます。日食の有無と天気について検証していく。
明和5(1768)年12月1日1769年1月8日
安永2(1773)年3月1日1773年3月23日
安永4(1775)年8月1日1775年8月26日
天明4(1784)年7月1日1784年8月16日
天明6(1786)年1月1日1786年1月30日
寛政6(1794)年12月1日1795年1月21日
文化11(1814)年6月1日1814年7月17日
文政12(1829)年9月1日1829年9月28日
鳥取県立公文書館HPより
→ 明和5(1769)年12月1日1769年1月8日 日本では日食無

池田 曇(雨)
津山 晴
鳥取 雨 日本全国で日食は無かった。 

安永2(1773)年3月1日1773年3月23日 日食有  

池田 晴
津山 曇
鳥取 雨 どのくらいの雨量か不明 雨で日食が見えたのか (資料の調査が必要)

安永4(1775)年8月1日1775年8月26日 日食有

池田 晴
津山 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  晴

天明4(1784)年7月 1784年8月16日 日食有

池田 晴
龍野 晴
津山 晴
多度津 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要) 

寛政6(1795)年12月1日1795年1月21日 日食有

池田 晴 
龍野 晴
津山 晴  
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  曇

文化11(1814)年6月1日1814年7月17日 日食有

池田 晴(曇)
津山 晴(にわか雨)
豊岡 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  晴

文政12(1829)年9月1日1829年9月28日 日食有

池田 晴(曇)
津山 晴
豊岡 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  晴

上記のように、日食が鳥取県で見えたことがわかる。資料が手元にないので不明。

(43)「享保日記」「享保三年一月朔日、讃州高松火事有り。町屋三千軒程、御家中もよほど類焼ノ由。」を検証する。
→ 1月1日高松城下で大火,夜西浜村より出火し,翌2日に東浜村・築地まで類焼し鎮火.武家屋敷・町人屋敷2300余戸,船30余艘(又はを焼失300艘)が焼失する。(増補高松藩記・恵公外記)ネットでも、享保三年一月朔日の高松城下で大火はあまり記事に書いていないため、大変貴重な資料です。

(44)「享保日記」享保三年一月 1718年2月26日「・・・古宿村常照寺(水戸市元吉田町)・・・但廿七日・・・雨降る・・・。」を検証する。
→ 関東圏では日光晴(雨)・東京曇の資料二つ、享保日記の資料を加えれば、晴れ又は曇から途中から雨が降った模様。 茨城県水戸市での天気の大変貴重な資料です。 

(45)「享保日記」享保三年二月十日 1718年3月11日 「享保三年戌戌二月十日夜九つ過、御領分東野、寺田両村大風ニて民家貮百四十軒吹潰レ、人三十七人怪我、外ニ四人死ス。其外馬三疋死ス。光り物有テ其すさまじき言語ニのべがたき由也ニ、龍まきと云なるべしと申候。右之段早速御郡奉行塙清左衛門御奉行衆へ被②申出①候。御城下ハ風雨也。九つ過ニいな光有テ、雷ノ音三度有り。風初ハにし南にて、九つ時ニ辰巳ニかハり大風ニも可Ⓥ成と在候間ニ、早速風雨止、晴天ニ成ル。此節所々脇々ニ大風ニて大木ヲ吹切、行衛なく失セ候ト云。
寺田村ハ少□□(ムシ)事ニて、家五六百潰レ候由。東野ニ而相果候者四人之内一人ハ樫村之者來而死候由也。此事ニ付むかしも如Ⓥ此事有Ⓥ之と前方御聞候由、圓通寺和尚ノ被Ⓥ迎候。今ほど(ママ)八十年ほど以前ノ事と被Ⓥ在候。太田ノ近所田渡村にて、龍まきにて民家七十軒ほど、壽松院と云寺ノ客殿其外不Ⓥ殘風ニ吹とられ、或つぶれ候由。寺ノ中間、夕飯ヲ給候が、明りくらく成候付、めし椀トはしヲもちながら戸ヲ明ケ見候と風ニ吹あげられ、大山ヲ越、隣郷長谷へ落候由。
此時榎ノ枝ニ鼻之あなヲ引かけ引さき落命ニハさハり無Ⓥ之。此節七十年ほど以前と云けれバ、只今迄ハ八十年ほどと被Ⓥ在候由物語也。」
→ 茨城県中部地方で竜巻が発生したことがわかる(他に資料の調査が必要)、大変貴重な資料です。 

茨城県の竜巻といえば、2012年5月6日茨城県つくば市から常総市や栃木県真岡市益子町茂木町から茨城県常陸大宮市にかけて竜巻が発生。
死者1名 負傷者約30名 700棟以上に被害。竜巻などの自然現象は大変恐ろしいことですね。
コメント
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