古天気学 A

明治時代以前の日本のお天気や地震また天文関係の資料を収集中

古天気学 今までの検証結果 6

2013-05-31 09:03:30 | 古天気学
古天気学 今までの検証結果 6

2013年5月31日 木曜日 天気 晴


(46)「享保日記」享保三年戌四月廿日、江府小傅馬町より出火。南風ニ而浅草迄焼ル。大火也。
→ 江戸小伝馬町から浅草大恩寺まで焼ける

(47)「享保日記」享保三年(戌)二月十三日、鹿島へ家僕惣ヲ代参ニ遣ス。夜中ニ出宅ス。同夜明ケ方ニ夏海ノ壹より海面ヲミれバ、火もへたつ如ク壹丈計光り上り、兩度迄ミへける也。龍燈ト申ニ可Ⓥ有Ⓥ之と道連之もの共一同ニおがミ候由。
十四日ニ飯島村へ行けれバ、晝過ニ海面ニ黒雲おはひまつくらになり、い□(な カ)びかり、雷のおとしてすさまじき様子、黒雲の間よりねづミ色の長サ四五間とミへ、かたちはうなぎなどやうにミへて、海中へふらふらさがり候様ニミへける也。其所のもの今朝も如Ⓥ此のものミへ候とかたりけるよし、龍にても有Ⓥのかと申候由。是又道連のもの一同ニ見候由。道連の者、手前屋敷ノ内孫三郎、三丁め喜惣次、江戸町八郎次、權七など云もの也。
→ 龍燈は、初めて聞く言葉で日本各地に伝わる怪火。 茨城県にとって数少ない初めての大変貴重な資料だと思います。

(47)「享保日記」享保三年(戌)二月十四日ニ飯島村へ行けれバ、晝過ニ海面ニ黒雲おはひまつくらになり、い□(な カ)びかり、雷のおとしてすさまじき様子、黒雲の間よりねづミ色の長サ四五間とミへ、かたちはうなぎなどやうにミへて、海中へふらふらさがり候様ニミへける也。其所のもの今朝も如Ⓥ此のものミへ候とかたりけるよし、龍にても有Ⓥのかと申候由。是又道連のもの一同ニ見候由。道連の者、手前屋敷ノ内孫三郎、三丁め喜惣次、江戸町八郎次、權七など云もの也。」
→ 日光では、天気不明・江戸は晴 茨城県鉾田は、朝海上に竜巻発生、その後晝過ぎ大曇り大雷そして竜巻発生。 茨城県鉾田市海上での、竜巻発生の大変貴重な資料です。

(48)「享保日記」 「享保日記」享保三年四月晦日~五月二日 1718年5月29日~5月31日「四月晦日、五月朔日、二日之朝迄霜降ル。
→ 享保三年四月晦日~五月二日(1718年5月29日~5月31日)の水戸地方では早朝は、最低気温が2~4℃で風が弱き晴れであることがわかった。 茨城県水戸市付近で、気温が数値化された大変貴重な資料です。

(49)「享保日記」去々申ノ年(正徳六年(1716年8月9日)六月二十二日に改元 享保元年)如(V)此也。此比ノ寒サ冬ノ如シ。
→ 正徳六年五月も寒さが冬のように気温が低いと書かれている。

気温を数値化するのには ?
享保時代の日記
1. 日記が記録された場所が一定であること。(江戸・日光・水戸)
2. 一年間毎日天気が書いてあること。(晴・曇・雨・寒・暖)
3. 十数年間天気が書いてあること。(晴・曇・雨・寒・暖)

享保時代と現代との天気・温度を比較検討して月単位・半期単位で気温の数値化が出来るか。これからの課題です。

(50)「享保日記」同五月朔日、晝八ツ時より夜ノ八ツ迄、江戸五郎兵衛町ヨリ出火、北風ニ而芝筋へ焼、芝見付御門迄其外方方へ火うつり、西門跡寺中焼、本堂ハ残り候由。去る四月廿日ノ火事ニハ一倍ほども焼候半由。
→ 江戸五郎兵衛町から出火、八丁堀・築地まで焼ける ネットで色々検索してもヒットしない、出火発生時間や風方向などが書いてありもしかして、新発見の江戸の火事か ?

(51)「享保日記」當戌、春ヨリ夏ニ至寒ムキ事何年ニも覚なし。五月中旬迄臥具等去冬ノ如シ。予老衰ゆへかと被とニ尋ヌルニ、諸人同様ト云々。」
→  気温を数値化するのには ?

享保時代の日記
1. 日記が記録された場所が一定であること。(江戸・日光・水戸・その他)
2. 一年間毎日天気が書いてあること。(晴・曇・雨・寒・暖・雪・霜・その他)
3. 十数年間天気が書いてあること。(晴・曇・雨・寒・暖・雪・霜・その他)

享保時代と現代との天気・温度を比較検討して月単位・半期単位で気温の数値化が出来るか。これからの課題です。
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古天気学 今までの検証結果 5

2013-05-30 08:29:00 | 古天気学
古天気学 今までの検証結果 5

2013年5月30日 木曜日 天気 曇 昨日関東地方梅雨入り


(36)「享保日記」享保二年八月十六日巳中刻(10時頃)ヨリ辰巳(南東)大嵐大雨。未ノ刻(14時ころ)南ニ風替り御家中町共所々破損或潰家。御城内ニも御屋上破損多。御城廻り松本所々風折有。或根がへり有り。
→ データより関東・関西で大風大雨であることがわかり、茨城県水戸市での資料と一致する。 享保二年八月十六日に 茨城県水戸市で 大嵐大雨の貴重な資料であります。

(37)「享保日記」當四年以前八月九日ノ嵐ヨリよほどつよし。中川もよほど洪水、石垣、橋、水落口御堀と一面ニ成ル。但十六日夜中水はな。十七日五ツ時分ニ貮尺餘水落ル。
→ 當四年以前八月九日 → 正徳四年八月八日の暴風雨の全国的な大被害をもたらした正徳四年の暴風雨です。 但十六日夜中水はな。 → 「水はな」の意味不明。 十七日五ツ時分ニ貮尺餘水落ル。 → 「水落ル」の意味不明。

(38)「享保日記」
享保二年十月二十二日 1717年11月24日 千葉・松戸 晴天 江戸御屋敷→小金
享保二年十月二十三日 1717年11月25日 茨城・藤代 晴天 小金→藤代
享保二年 十月二十四日 1717年11月26日 茨城・藤代 晴天 藤代
享保二年十月二十五日 1717年11月27日 水戸     晴天 藤代→水戸
享保二年 十月二十七日 1717年11月29日 水戸     晴天
享保二年十月三十日  1717年12月2日 水戸       晴天 

→ 十月二十二日(1717年11月24日)日光 曇 ・千葉 晴 
十月二十三日(1717年11月25日)日光 晴 ・藤代 晴 
十月二十四日(1717年11月26日)日光 晴 ・藤代 晴 
十月二十五日(1717年11月27日)日光 晴 ・水戸 晴  
十月二十七日(1717年11月29日)日光 晴 ・水戸 晴  
十月三十日 (1717年12月2日)日光 晴 ・水戸 晴

上記のように、関東圏では、日光しか資料がないが、享保日記の資料を加えることで、関東圏の天気が晴であることがわかる。 関東圏、茨城県水戸市での天気の大変貴重な資料である。

(39)「享保日記」十二月二十八日朝より夜九つ時迄、江戸大火事ノ由。牛込山伏町より出火ノ由。春中ノ火□□(ムシ)程ノ由。幅十町ホド所ニヨリ不レ同、長三十四五丁ト云。此度燃候所ハ、六十年ホドニテ焼候由。増上寺内へ火ウツリ、拾ノモノ九ツ寺内類焼。但本堂クリ御靈屋無2別條1。
→ ネットでいくら検索しても、享保二年十二月二十八日の江戸大火の資料がありませんでした。古天気学データベース(KTDB)に「有徳院殿御実紀」「増訂武江年表」に記録あり。 享保二年十二月二十八日 江戸大火 数少なき貴重な資料です。

(40)「享保日記」享保三年正月朔日 晴天・正月二日 晴天・正月三日 晴天・正月廿七日 雨(古宿村常照寺)」
→ 享保三年正月朔日 晴天・正月二日 晴天・正月三日 晴天・正月廿七日 雨(古宿村常照寺)」

(41)「享保日記」鳥取県立公文書館HPに大変おもしろい物を見つけました。 

「第36回県史だより・室長コラム(その30):「鳥取藩家老日記」に皆既日食は記されたか?」 と「第80回県史だより・江戸時代の日食」
から概要を明記しました。

第36回県史だより・室長コラム(その30):「鳥取藩家老日記」に皆既日食は記されたか?

鳥取藩家老日記が残っている時代の内、鳥取県で日食があったのは次の5回だそうだ。  
                                
1.享保15年 6月1日 1730年 7月15日 14時51分 金環日食      
2.寛保 2年 5月1日 1742年 6月 3日 8時49分 皆既日食        
3.天明 6年 1月1日 1786年 1月30日 12時17分 かなり深い部分日食 
4.嘉永 2年 2月1日 1849年 2月23日 10時14分 かなり深い部分日食
5.嘉永 5年11月1日 1852年12月11日 12時43分 皆既日食
鳥取県で日食があったのは次の5回だそうだ。→ 本当に5回なのか。
旧暦年を西暦に直す際に、12月や1月にかかるズレ
→ 詳しくはさじアストロパークにお尋ねください。
→ 一般読者向けのコラムという記事の性格を考慮し、一般的な歴史年表の表記を参考に西暦を記載しました。御了承ください。

(41)「因府年表」「因府歴年大雑集」鳥取県での日食時の、天気を検証していきたい。  
                                因府年表       因府歴年大雑集
1.享保15年 6月1日 1730年 7月15日 14時51分 金環日食      日蝕の記載有り    日蝕の記載有り
2.寛保 2年 5月1日 1742年 6月 3日 8時49分 皆既日食       日蝕の記載有り    不明  
3.天明 6年 1月1日 1786年 1月30日 12時17分 かなり深い部分日食 日蝕の記載有り    不明 
4.嘉永 2年 2月1日 1849年 2月23日 10時14分 かなり深い部分日食 因府年表の対象時期外 不明
5.嘉永 5年11月1日 1852年12月11日 12時43分 皆既日食 因府年表の対象時期外 不明
鳥取県立公文書館 県史編さん室HPより
→ 享保15年 6月1日 1730年 7月15日

天気は、全国的に晴れで、鳥取県も「因府年表」「因府歴年大雑集」の日食記録があり天気は晴れです。

寛保 2年 5月1日 1742年 6月 3日

鳥取県の天気は、曇りで日食の記録がある。

天明 6年 1月1日 1786年 1月30日

中国地方で雪ですが、鳥取県の天気も雪で日食が見えた記録有る。

嘉永 2年 2月1日 1849年 2月23日

鳥取県の天気は晴れ曇。日食の記録がなし。

嘉永 5年11月1日 1852年12月11日

鳥取県の日食の記録あり、また、中国地方が晴れの為、鳥取県の天気が晴れであることがわかる。


古気象学と古天文学が融合した大変面白い初めての企画でした。

(42)第80回県史だより ・江戸時代の日食

鳥取城では、正月を除く毎月1日および15日に、「式日御礼」または「朔望(さくぼう)御礼」として、家臣が登城して藩主に御礼をするという行事が行われていました。
日食を理由に行事を延期したり中止する記事が下記の見られます。日食の有無と天気について検証していく。
明和5(1768)年12月1日1769年1月8日
安永2(1773)年3月1日1773年3月23日
安永4(1775)年8月1日1775年8月26日
天明4(1784)年7月1日1784年8月16日
天明6(1786)年1月1日1786年1月30日
寛政6(1794)年12月1日1795年1月21日
文化11(1814)年6月1日1814年7月17日
文政12(1829)年9月1日1829年9月28日
鳥取県立公文書館HPより
→ 明和5(1769)年12月1日1769年1月8日 日本では日食無

池田 曇(雨)
津山 晴
鳥取 雨 日本全国で日食は無かった。 

安永2(1773)年3月1日1773年3月23日 日食有  

池田 晴
津山 曇
鳥取 雨 どのくらいの雨量か不明 雨で日食が見えたのか (資料の調査が必要)

安永4(1775)年8月1日1775年8月26日 日食有

池田 晴
津山 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  晴

天明4(1784)年7月 1784年8月16日 日食有

池田 晴
龍野 晴
津山 晴
多度津 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要) 

寛政6(1795)年12月1日1795年1月21日 日食有

池田 晴 
龍野 晴
津山 晴  
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  曇

文化11(1814)年6月1日1814年7月17日 日食有

池田 晴(曇)
津山 晴(にわか雨)
豊岡 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  晴

文政12(1829)年9月1日1829年9月28日 日食有

池田 晴(曇)
津山 晴
豊岡 晴
鳥取 晴 鳥取で晴れなので、日食は見えたはず。 (資料の調査が必要)
萩  晴

上記のように、日食が鳥取県で見えたことがわかる。資料が手元にないので不明。

(43)「享保日記」「享保三年一月朔日、讃州高松火事有り。町屋三千軒程、御家中もよほど類焼ノ由。」を検証する。
→ 1月1日高松城下で大火,夜西浜村より出火し,翌2日に東浜村・築地まで類焼し鎮火.武家屋敷・町人屋敷2300余戸,船30余艘(又はを焼失300艘)が焼失する。(増補高松藩記・恵公外記)ネットでも、享保三年一月朔日の高松城下で大火はあまり記事に書いていないため、大変貴重な資料です。

(44)「享保日記」享保三年一月 1718年2月26日「・・・古宿村常照寺(水戸市元吉田町)・・・但廿七日・・・雨降る・・・。」を検証する。
→ 関東圏では日光晴(雨)・東京曇の資料二つ、享保日記の資料を加えれば、晴れ又は曇から途中から雨が降った模様。 茨城県水戸市での天気の大変貴重な資料です。 

(45)「享保日記」享保三年二月十日 1718年3月11日 「享保三年戌戌二月十日夜九つ過、御領分東野、寺田両村大風ニて民家貮百四十軒吹潰レ、人三十七人怪我、外ニ四人死ス。其外馬三疋死ス。光り物有テ其すさまじき言語ニのべがたき由也ニ、龍まきと云なるべしと申候。右之段早速御郡奉行塙清左衛門御奉行衆へ被②申出①候。御城下ハ風雨也。九つ過ニいな光有テ、雷ノ音三度有り。風初ハにし南にて、九つ時ニ辰巳ニかハり大風ニも可Ⓥ成と在候間ニ、早速風雨止、晴天ニ成ル。此節所々脇々ニ大風ニて大木ヲ吹切、行衛なく失セ候ト云。
寺田村ハ少□□(ムシ)事ニて、家五六百潰レ候由。東野ニ而相果候者四人之内一人ハ樫村之者來而死候由也。此事ニ付むかしも如Ⓥ此事有Ⓥ之と前方御聞候由、圓通寺和尚ノ被Ⓥ迎候。今ほど(ママ)八十年ほど以前ノ事と被Ⓥ在候。太田ノ近所田渡村にて、龍まきにて民家七十軒ほど、壽松院と云寺ノ客殿其外不Ⓥ殘風ニ吹とられ、或つぶれ候由。寺ノ中間、夕飯ヲ給候が、明りくらく成候付、めし椀トはしヲもちながら戸ヲ明ケ見候と風ニ吹あげられ、大山ヲ越、隣郷長谷へ落候由。
此時榎ノ枝ニ鼻之あなヲ引かけ引さき落命ニハさハり無Ⓥ之。此節七十年ほど以前と云けれバ、只今迄ハ八十年ほどと被Ⓥ在候由物語也。」
→ 茨城県中部地方で竜巻が発生したことがわかる(他に資料の調査が必要)、大変貴重な資料です。 

茨城県の竜巻といえば、2012年5月6日茨城県つくば市から常総市や栃木県真岡市益子町茂木町から茨城県常陸大宮市にかけて竜巻が発生。
死者1名 負傷者約30名 700棟以上に被害。竜巻などの自然現象は大変恐ろしいことですね。
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古天気学 今までの検証結果 4

2013-05-28 08:26:33 | 古天気学
古天気学 今までの検証結果 4

2013年5月29日 水曜日 天気 曇


(28)「享保日記」享保二年四月十七日ノ御祭禮、神輿出御。途中より大雨
→ 福島県須賀川で雨・栃木県日光で晴(雨)・東京で雨  日本中で福島関東関西で雨が降ったことがわかり 茨城県水戸市で雨が降ったことは間違いない。 享保二年四月十七日 茨城県水戸市で 大雨が降った貴重な資料であります。

(29)「享保日記」(享保一年四月十七日)去年は大雨也。前々も雨ふり候事なく候所、去年當年之御祭ノごとくニ大雨にて諸人及2難儀1候事は無レ之也
→ 盛岡で 二つの資料で天気が異なるのが気になる。日本中で東北・関東・関西・中国・九州で雨が降ったことがわかり 茨城県水戸市で雨が降ったことは間違いないことがわかる。 享保一年四月十七日 茨城県水戸市で 大雨が降った貴重な資料であります

(30)「享保日記」「(正徳五年年四月十七日)前々も雨ふり候事なく候所、去年當年之御祭ノごとくニ大雨にて諸人及2難儀1候事は無レ之也
→ 日本中で北関東で雨が降ったことがわかり 茨城県水戸市で雨が降ったことは間違いないことがわかる。 正徳五年四月十七日 茨城県水戸市で 雨が降った貴重な資料であります。

(31)「享保日記」一、中川六所ノ淵當正月ニ鯉集事大分前代未聞也。地引網ヲ以引ニ、一アミニ七八十本かゝり候由。是ヨ(リ)若キ士衆毎日釣候由。 多ハ針鯉ノヒレ或(ハ)ウロコナドニかゝり上り候由。是ハ多ノ中へ針ヲ入レ候故也と云。ソレヨリ河岸ノ邊へ集り大方川中ニ見へ候由。二月四日の雪水ニて散候由也。
→ 「享保二年正月に、中川(那珂川)で鯉が大量発生し、二月四日に雪が降り川の水が低温になり鯉が居なくなった。」 色々ネットで検索したが、那珂川で何故鯉が大量発生したか不明です。誰かわかる方教えてください。お願いします。

(32)「享保日記」享保二年二月朔日 終日曇ル。同夜中雨ふる。二日 小雨。三日 終日曇。四日 雪フル。六日 曇 七日ヨ(リ)晴天
→ 享保二年二月二月朔日 1717年3月13日 日光・東京は晴 水戸は終日曇。同夜中雨ふる。
享保二年二月二月二日 1717年3月14日 日光は曇 水戸・東京は小雨。
享保二年二月二月三日 1717年3月15日 日光は晴 水戸・東京は曇
享保二年二月二月四日 1717年3月16日 日光・東京・水戸で雪。
享保二年二月二月六日 1717年3月18日 日光・東京は晴 水戸は曇
享保二年二月二月七日 1717年3月19日 日光・東京・水戸で晴

(33)「享保日記」享保二年四月十一日 夜酉中刻より寅ノ刻迄よほど雨ふり候ても、去年より之旱魃ゆへ地しめり候迄也。 十四日 申刻より夜中雨降。 十七日 巳下刻より大雨 二十四日より至に今、北風毎日雨も繁シ。□(ムシ)之不正ノ氣ニ中リ焼シ畠作ニモよほどさハり候由。
→ 享保二年四月十一日 1717年5月21日 水戸 夜酉中刻(18時ころ)より寅ノ刻(4時ころ)迄よほど雨ふり候ても、去年より之旱魃ゆへ地しめり候迄也。
日光・東京では、日中は晴その後雨 → 関東では、日中晴 夕方雨

享保二年四月十四日 1717年5月24日 水戸 申刻(14時ころ)より夜中雨降。
                  日光では、小雨・東京では 晴後雨 → 関東では、日中晴 夕方雨

享保二年四月十七日 1717年5月27日 水戸 享保二年四月十七日ノ御祭禮、神輿出御。途中より大雨・・・今年より去年は大雨也。前々も雨ふり候事なく候所、去年當年之御祭ノごとくニ大雨にて諸人及2難儀1候事は無レ之也。
                  水戸 巳下刻(10時ころ)より大雨
                  日光は、晴後雨 東京は雨 → 関東では、晴後10時ごろから雨
 
享保二年四月二十四日1717年6月24日 水戸 二十四日より至に今、北風毎日雨も繁シ。□(ムシ)之不正ノ氣ニ中リ焼シ畠作ニモよほどさハり候由。
                  日光・東京では、曇のち雨 → 関東では、曇または雨

享保二年四月十一日・十四日・十七日・二十四日の、茨城県水戸市での天気の大変貴重な資料です。また。「享保日記」 享保二年四月 天気編(2013年4月22日 月曜日)では、四月十七日の大雨の時刻が、・・・輿出御。途中より大雨・・・と不明でしたが、今回の資料で四月十七日巳下刻(10時ころ)より大雨が降ったことが分かった。

(34)「享保日記」享保二年六月九日 1717年7月17日  江府ニ火有り。小伝馬町ト油町との間ノ新道より出火ノ由。朝五ツより七ツ半迄焼候由。南風ニ而馬喰町、柳町ノ方へ焼、浅草ノ方へも焼候由。凡町ノ積六十町程にても可レ有レ之かと申候由。井筒作十手代ノ者見候而相下物がたり候也。
→ 小伝馬町大火。

(35)「享保日記」享保二年六月十四日 1717年7月22日 十四日夜亥ノ刻(22時ころ)迄ノ間月ノ廻りニ五寸程トミへ暉有り。戌刻(20時ころ)過ニ暉滅白ク輪有り、珍敷事之由諸人申候。輪ハ月ノ廻りより一尺ほども間有レ之とミゆる。其圖如レ此。
→ 茨城県水戸で見つかった、享保二年六月十四日の幻月環です。
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古天気学 今までの検証結果 3

2013-05-28 08:21:25 | 古天気学
古天気学 今までの検証結果 3

2013年5月28日 火曜日 天気 晴 曇


(19)「享保日記」享保二年 一月十一日初雷、西ノ方ニ當ル。雨ふらず。江戸は同七日雷よほどなる。雪ふり候由。奮冬より大旱魃なり。去冬寒ノ内少雨ふり、さらり雪少降。其外正月十五日迄一切雪雨不(V)降。此巳後近日雨ふり可(V)申様ニ不2相見1、毎日有(V)風。

(20)「享保日記」享保二年 一月十一日初雷、西ノ方ニ當ル。雨ふらず。
→ 日光の天気は、晴と小雨 東京の天気は、晴 であることから 茨城県水戸では、天気は晴又は曇で初雷があったと思う。

(21)「享保日記」享保二年一月、江戸は同七日雷よほどなる。雪ふり候由。
→ 東京で雪が降った補足資料ですが大変貴重です。雷の記録はデータ不足のためはこれからの調査していきたいです。

(22)「享保日記」享保一年 奮冬より大旱魃なり。去冬寒ノ内少雨ふり、さらり雪少降。其外正月十五日迄一切雪雨不(V)降。此巳後近日雨ふり可(V)申様ニ不2相見1、毎日有(V)風。
→ 日光において、117日間で晴れが88日 全体の75,2%となり、大旱魃・少雨・少雪であることがわかる。
水戸地方でのデータはないが、日光でのデータより水戸地方の大旱魃・少雨・少雪が立証された。(これからの水戸地方の当時の記録の発掘が必要)


(23)「享保日記」享保二年 一月二十一日 夜中よほど雨ふり夜中天晴。
→ 日光・東京での夜の天気が不明 水戸では 夜中 雨 晴


(24)「享保日記」享保二年一月二十五日 少雨降
→ 日光・東京 雨あり      水戸では 雨


(25)「享保日記」享保二年一月二十九日 夜半過より雨ふり
→ 日光・東京での夜の天気が不明 水戸では 夜半より 雨


(26)「享保日記」享保二年一月卅日 終日雨ふる。
→ 日光・東京 雨あり      水戸では 雨

(27)「享保日記」享保二年一月二十二日 1717年3月4日  晝八つ時駒込竹町邊より出火。西北ノ風吹大火ニ成 江府大火
→ 小石川馬場火事 死者100人以上という 小石川馬場の武家屋敷から出火し、西北風で延焼した。
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古天気学 今までの検証結果 2

2013-05-27 08:46:53 | 古天気学
古天気学 今までの検証結果 2

2013年5月27日 月曜日 天気 晴

8.「村松虚空蔵尊の霊験木」古天気年代測定法を試み検証
元禄2年(8月・後からネットでいろいろ検索したら8月であることが分かった)、陸奥の国の船が村松の沖で嵐に遭いました。船乗達は助かるようにと、船板に村松虚空蔵尊への願文を書いて流しました。嵐が過ぎ去って助かった船乗達が村松虚空蔵尊にお礼参りに来た時、偶然その船板が海岸に流れ着きました。黄門水戸光圀はこの事実を知って、その船板に事の経緯を彫らせました。
和暦 元禄二年八月七日(西暦1689年9月20日)と特定した。「曽良随行日記」曽良様と天下の副将軍 水戸光圀に感謝 
 
     

9.正徳四年八月八日と九月八日に水戸領内で暴風があったか無かったかの検証
「水戸紀年」 正徳四年八月八日 暴風屋を倒し、樹を抜く。水戸領中、損耗数多、35年来の大風
1714年9月16日 正徳四年八月八日の「水戸紀年」の記録は間違いなしです。
高倉逸斎『探旧考証』正徳四年九月八日 暴風屋を倒し、樹を抜く。水戸領中、損耗数多、35年来の大風
1714年10月15日 正徳四年九月八日の『探旧考証』の記録は旧暦・月の書き間違い。


10.正徳四年暴風雨 追加
「享保日記」水戸藩士 與力西野清八郎正府 「當四年以前八月九日ノ嵐ヨリよほどつよし。」
正徳四年八月八日の暴風雨の全国的な大被害が甚大であることを考えると、享保二年に記事「當四年以前八月九日ノ嵐ヨリよほどつよし。」は、正徳四年の暴風雨であることに間違いないと思う。
「正徳四年八月八日 暴風屋を倒し、樹を抜く。水戸領中、損耗数多、35年来の大風」「水戸紀年」・「探旧考証」・「享保日記」

11.35年来の大風の項目について検証 
「正徳四年八月八日 暴風屋を倒し、樹を抜く。水戸領中、損耗数多、35年来の大風」「水戸紀年」・「探旧考証」・「享保日記」
延宝七年と延宝八年どちらも水戸地方で被害があるため該当するような気がする。 延宝七年の暴風雨は、水戸地方だげの大被害なのか。(全国的にデータの不足) 延宝八年の暴風雨は、水戸も含め全国的で大被害のため、「35年来の大風」は、延宝八年(1680年10月5日~6日)閏八月十三日~十四日 と断定する。
                
12.「琉球国山中王の年貢米廻船が台風にあって、五月十三日に川尻海岸へ漂着すとという事件が起きた。出動した藩役人の取り調べの結果、漂着した理由もわかり、乗組員を手厚く保護して、六月には薩摩藩へ引き渡している。」「続水戸紀年・茨城県史料=近世政治編Ⅰ」 
全国的に雨や大雨が多く、文政二年五月十三日(1819年7月4日)茨城県日立市川尻町沖合で台風に遭遇したことが、事実である事がわかる。

13.「享保日記」 享保十年十月廿日、午ノ后刻より廿一日、廿二日朝迄、地震有り。晝夜絶えず。都合三十度ほどほど云。此内両度つよし。是も酒やノ酒などゆりこぼし候ほどニハ之無。其外ハ少づゝ也。
東北・茨城県に、午後12時ごろに発生した地震で、茨城県水戸市は震度 3 津波なし 震源地不明

14.「享保日記」 享保十一年十一月廿七日未ノ上刻 よほどの地震也。近年に無(レ)之地震也。然共廿四年以前未ノ年之地震ニ格別軽き事也。
東北・関東に、午後2時ごろ発生した地震。茨城県水戸市 震度 4 津波無 震源地不明

15.「享保日記」享保十一年十一月廿七日(1726年12月20日)未ノ上刻 よほどの地震也。近年に無(レ)之地震也。然共廿四年以前未ノ年之地震ニ格別軽き事也。
関東地方を襲った 元禄大地震 元禄16年11月23日(1703年12月31日)震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.2と推定されている。 水戸 震度 5 


16.「享保日記」 享保十五年戌十月朔日、夜明七ッ過地震也。當廿八年以前未ノ年以来之大地震也。追而承侯得バ、地震以後ニ湊磯へ津波入、夥敷きハぎニ有(レ)之。舟大分波にとられ、或は破損有(レ)之由。湊にてなひやなどにハ破損有(レ)之山。人死ハ無(レ)之山也。
茨城県に朝4時ごろに 地震二より津波の高さ2m以上が発生し 舟の被害あり。 震源地 茨城県沖 ?享保十五年十月朔日の地震資料数が少ないため、今後の発見が必要。

17.「享保日記」 享保十五年戌十月朔日、夜明七ッ過地震也。當廿八年以前未ノ年以来之大地震也。追而承侯得バ、地震以後ニ湊磯へ津波入、夥敷きハぎニ有(レ)之。舟大分波にとられ、或は破損有(レ)之由。湊にてなひやなどにハ破損有(レ)之山。人死ハ無(レ)之山也。
関東地方を襲った 元禄大地震 元禄16年11月23日(1703年12月31日)震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。マグニチュード(M)は7.9-8.2と推定されている。

18.「享保日記」享保十六年九月七日夜、五ッ時よほどの地震。近所紺やノ藍ヲゆりこぼし侯由。
東北地方を中心に、震源:38.0°N、140.6°E 宮城白石付近 規模:M≒6.5 大地震 茨城県水戸では、震度 4
コメント
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