美の五色 bino_gosiki ~ 美しい空間,モノ,コトをリスペクト

展覧会,美術,お寺,行事,遺産,観光スポット 美しい理由を背景,歴史,人間模様からブログします

後白河法皇が愛した中世の道 ~熊野那智大社

2017年04月29日 | お寺・神社・特別公開

熊野那智大社 大門坂

 

熊野三山とは、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の3つの神社の総称だが、通常は仏教寺院をあらわす「三山」とも呼ばれる。江戸時代まで神仏を区別しなかった頃の呼び名が習慣として残っているのだろう。山形県の「出羽三山」も同様の例だ。

 

熊野や出羽、また吉野もそうだが、山岳信仰の聖地は全国各所にあり、仏教の仏や菩薩が日本の八百万の神として姿を変えて現れた「権現(ごんげん)」を多くが本尊・ご神体としていることが特徴だ。すなわち権現とは本来は「神」だが、姿形は「仏」であり、150年ほど前まで日本人が神仏を区別せずお参りしていた時代の信仰の姿を今に伝えている。

 

山岳信仰はどこか神秘的である。うっそうとした森の中、両手に杖を突きながら果てしなく続くように見える石段や急坂を一心不乱に上っていき、やっとたどり着いた時の達成感は、おそらく登山愛好家が登頂に成功した時と同じ心理状態のように思える。科学による事象説明がなかった江戸時代以前はなおさらであろう。病気・死・天変地異を恐れる心を鎮めるためには祈るしかなかった。

 

熊野三山は、平安時代に都から法皇や貴族が度々参拝したことで、最初に脚光を浴びるようになった。当時都の貴族の間で絶大な信仰を集めていた浄土信仰から、熊野は西方の極楽浄土の地と考えられたのだ。平安末期の源平争乱の時代、鳥羽上皇23回、後白河上皇33回、後鳥羽上皇29回、熊野御幸(ごこう)を行った。京都から片道2週間かかった時代に、莫大な富をつぎ込んだことがうかがえる。

 

中世の都の貴族があこがれた熊野への道の面影は、熊野三山の中でも熊野那智大社に至る「大門坂」に最もよく残っているという。田辺と新宮を結ぶ中辺路の一部とされ、高さ50mほどある杉木立が両側に生い茂る石段が1kmほど続く。まさに天狗が木の上から飛び降りてきてもおかしくない臨場感を感じさせる。

 

大門坂を上がり、土産物屋が並ぶ道を横切って、あと少し石段を上がると境内に着く。山の高台に位置するため目の前には絶景が広がる。よくぞここまで来たと、熊野権現が絶景をプレゼントしてくれたと考えればよい。

 

那智大社に隣接する青岸渡寺の赤い三重塔のあたりからは、那智の滝を遠望できる。落差は133mで、段差なくまっすぐ一本で滝つぼに落ちているため、見ていて非常にすがすがしく、心を凛とさせてくれる。

 

 

那智の滝、神聖な空間

 

 

後白河法皇も、幾度もこの滝を前に、浄土への思いをささげたことだろう。源平の争乱の時代に「大天狗」と呼ばれていくたびの政争を乗り越え、30年以上院政を行った法皇は、時の権力者平清盛に、法皇が好んだ千手観音の殿堂である蓮華王院(三十三間堂)をプレゼントさせている。また平重衡の南都焼討による大仏復興にも今に残る文化遺産の創造に絶大な貢献をした法皇の一人なのである。

 

後白河法皇が生きた時代、欧州では十字軍の時代であった。1096年に始まった第1回十字軍だけは聖地エルサレム奪還に成功したものの、1147年に始まった第2回以降は成果を得られず、教皇より各国の王や北イタリアの商業都市の方が力をつけるようになっていった。

 

日本も欧州も12世紀末から13世紀初頭にかけて、長らく君臨していた政治権力(日本の天皇、欧州の教皇)から、新たに台頭した政治権力(日本の武士、欧州の国王・商業都市)に転換し始める時代であった。後白河法皇はそんな現実を前に、きわめて理知的に生きた人だった。

 

 

 

日本や世界には、数多く「ここにしかない」名作がある。

「ここにしかない」名作に会いに行こう。

 

 

 

 「大天狗」と呼ばれた後白河法皇の生き様と知恵がよくわかる。

歴史作家の著者・河合敦氏の文章は読みやすい。

(幻冬舎新書)

 

 

 

休館日 なし(例外が発生する可能性もあるので訪問前にご確認ください)

公式サイト http://kumanonachitaisha.or.jp/

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 800年前のパワースポット ~... | トップ | 人間よりも艶(つや)のある... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

お寺・神社・特別公開」カテゴリの最新記事