川崎重工公式サイト THE STORIES
「松方コレクション」という言葉は、2016年に東京・上野の国立西洋美術館・本館が世界遺産に登録されたことで、より広く知られるようになったと私は感じています。
コレクション名の冠となった人物は松方幸次郎(まつかたこうじろう)、川崎重工の前身である川崎造船所の初代社長です。第一次大戦期に世界中でひっ迫した造船需要に応えて巨万の富を築き、当時のヨーロッパでも西洋絵画コレクターとして名を売っていました。
日本で有数の西洋美術の流れを俯瞰できる西洋美術館は、そもそも松方コレクションを保管・展示するために1959(昭和34)年に創設されたものです。そんな伝説的な人物の生涯を探ってみたいと思います。
松方幸次郎は、明治時代に首相を務めた薩摩出身の元勲・松方正義の三男として1866(慶応元)年に生を受けました。川崎造船所の社長には、正義と同郷の現・川崎重工グループの創設者・川崎正蔵に請われて就任したものです。
第一次大戦中の1916(大正5)年、貨物船のセールスのためにロンドンを訪れます。そこで偶然目にした戦時期に愛国心を煽るポスター、画家・ブラングィン作の一枚が彼の心をとらえました。画家の作品の蒐集をきっかけに、松方は画家に西洋絵画コレクションのアドバイスを請うようになります。
その後も幾度のヨーロッパ滞在の際に、マネ、モネ、ピサロ、クールベ、ゴッホ、ボンヴァン、ゴーギャン、ミレイ、ロセッティら、19世紀の著名画家の作品を次々と買い、数千点に及ぶコレクションを形成していきます。
松方はコレクションを少しずつ日本に持ち帰り、ブラングィンの設計をもとに「共楽美術館」と名付けた美術館で公開する準備を始めます。
しかし第一次大戦後の世界恐慌でその夢は実現しません。1927(昭和2)年に川崎造船所の経営が破綻、負債整理のため日本国内にあった松方コレクションは売立てにより散逸してしまいます。愛情込めて蒐集した作品を手放すことに、当人しかわからないとても深い悲しみがあったことは想像に難くありません。
松方コレクションの代表作とも言えるゴッホの「アルルの寝室」、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」も、コレクションの運命を物語るように数奇な道を歩みます。
関東大震災復興資金捻出のための高額な関税が敬遠されたことで、ロンドンとパリにコレクションの多くが残されます。しかしロンドンのものは倉庫の火災で焼失、パリのものは第二次大戦後に敵国財産としてフランス政府に接収されることになります。
1951年のサンフランシスコ講和会議で吉田茂首相がフランスに直談判し、コレクションの返還が大きく前進します。その中で「アルルの寝室」など一部作品はフランス側が譲らず、現在もオルセー美術館などが所蔵しています。一方「アルジェリア風のパリの女たち」などの作品は、美術館を建設して展示するという条件付きで返還されました。これが西洋美術館誕生のきっかけです。
【公式サイトの画像】 オルセー美術館「アルルの寝室」
【公式サイトの画像】 国立西洋美術館「アルジェリア風のパリの女たち」
松方コレクションは西洋絵画ばかりではありません。明治から戦前にかけて欧米で日本・中国美術品の画商としてその名を高くとどろかせた山中商会を通じて、浮世絵8,000点を一括購入しています。この浮世絵はその後、皇室献上を経て東博の所蔵となり、東博における浮世絵コレクションを代表する存在となっています。
【公式サイトの画像】 山中商会の歴史
松方幸次郎は蒐集の記録を残していなかったため、コレクションの全貌は明らかではありません。しかし2016年になってロンドンで画商が残した松方との取引記録が発見され、全貌が明らかになることが期待されています。世界を股にかけて激動の20世紀を生きた美術コレクターに、とても奥深いロマンを感じることは禁じえません。
こんなところがあったのか。
日本にも世界にも、唯一無二の「美」はたくさんあります。
明治の大物実業家が収集に傾けた情熱には脱帽
川崎重工の礎を築いた男 松方幸次郎(川崎重工業株式会社)
https://www.khi.co.jp/stories/articles/vol31/
松方コレクション(国立西洋美術館)
http://www.nmwa.go.jp/jp/about/matsukata.html