目新しい山門からは境内に入りやすい
誠心院(せいしんいん)は、京都の繁華街・新京極のど真ん中にある寺で、平安時代の歌人・和泉式部(いずみのしきぶ)が初代の住職を務めたと言う。和泉式部は恋多き女性と伝えられることから、縁結びのパワースポットとしての御朱印を目当てに訪れる人は少なくない。京都の中心繁華街の新京極・寺町付近は興味深いゆかりを持った寺が多い。案外訪問していない方も多いかもしれないが、近くに行った際にはぜひ。
新京極通と六角通が交わる小さな三角公園のすぐ南に、まだ目新しい寺の山門がある。そこが誠心院だ。山門をくぐると小さな境内がある。訪れた人のほとんどは、知恵授け・恋授けの「鈴成り輪(すずなりくるま)」を回す。一周させると功徳が得られると言う。
奥には和泉式部の墓と伝えられる石塔がある。高さ4mある立派な塔で、多くの人は鈴成り輪を回した後にこちらも訪れる。
和泉式部は、最初の夫と不仲になった後に、自らの身分とは不釣り合いな天皇の皇子から求愛されたことで、当時の貴族社会で知られるようになった。その皇子が早世すると、今度はその皇子の実弟・敦道親王からも求愛され、ますます恋多き女性として名をあげるようになった。
一条天皇の中宮・藤原彰子(しょうし)に女房として出仕していた際には、源氏物語の作者・紫式部と同僚だった。周辺には女流歌人・伊勢大輔(いせのたいふ/おおすけ)もおり、雅な宮廷サロンを形成していたと考えられる。そんなサロンの中で、和泉式部の歌は情熱的な恋愛感情をうたったものが多い。やはり豊富な恋愛遍歴があってのことなのだろうか。
本人の作かどうかは諸説あるが、敦道親王との恋の顛末を物語風にした「和泉式部日記」まで残されている。平安時代の貴族社会の恋愛に関する倫理感は、現代の価値観とははるかにかけ離れて自由奔放だったようだ。そんな中でも「恋多き女」として記録に残されていることから、よほど目立つ女性だったのだろう。
誠心院は、藤原道長が娘の藤原彰子に仕えていた和泉式部のために一庵を与えたのが起源と伝えられている。時の関白から庵をプレゼントされるとは、よほど世渡りも上手な女性でもあったのだろう。如何せん平安時代のことなので、どこからが伝説なのかはどうにもわからないが、恋愛上手のイメージだけは現代に絶妙に伝えられている。
なお隣接する誓願寺(せいがんじ)には、和泉式部が娘を亡くした悲しみに対して祈り続けたという話も伝えられている。あわせておすすめしたい。
こんなところがあったのか。
日本の世界の、唯一無二の「美」に会いに行こう。
京都に生まれ育った著者が路地裏の京都らしさを伝授
誠心院
http://www.seishinin.or.jp/index.html
原則休館日:なし
※仏像や建物は、公開期間が限られている場合があります。