日蓮(にちれん))は、日本で最も有名な僧侶の一人でしょう。
江戸時代までは法華宗(ほっけしゅう)と呼ばれていた、現在の日蓮宗の宗祖です。
日蓮の人生とその後の弟子たちの歩みは、鎌倉新仏教の中でも最後発組であるがゆえに、とても厳しいものでした。
しかし戦国時代には京都で最も注目される宗派に成長し、数々の歴史的事件の舞台となります。
またあまたの芸術家の帰依を受けたことで、かけがえのない文化財を今に伝えることにもなりました。
とても個性的な宗派なのです。
目次
- 日蓮は波乱の人生を送った
- 六老僧が門流をつくる
- 日朗(にちろう)
- 日常(にちじょう)
- 日興(にっこう)
- 最後発ながら京都で地盤を築いた「日像」
- 日隆(にちりゅう)
- 京都で町衆の心をつかんだ「教え」の秘密
- 不受不施派(ふじゅふせは)とは?
日蓮は波乱の人生を送った
日蓮は、鎌倉新仏教の開祖の中でも、時宗の一遍と並んで最も遅い世代にあたります。
1222(貞応元)年、千葉県の外房の小湊で、漁師の子に生まれました。
生家近くの清澄寺(せいちょうじ)で出家した後、比叡山や畿内・鎌倉の寺を遊学します。
1253(建長5)年に清澄寺に戻った日蓮は、朝日に向かって題目「南無妙法蓮華経」を唱えたのです。
日蓮宗では、この年を開宗の年としています。
日蓮宗は、仏教の経典の一つ「法華経」の教えと「釈迦」を、何よりあがめます。
「法華経」とは、題目「南無妙法蓮華経」で唱えられる「妙法蓮華経」の省略です。
他宗の教えを否定することが特徴的で、あたかも一神教のように映ります。
死後の往生よりも、現世利益を主にアピールすることも特徴的です。
著書「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」では、当時相次いだ災害の原因を以下のように主張しました。
- 唯一正しい教えである法華経をあがめない
- 法然による称名念仏の教えが間違っている
- 浄土宗を放置すれば日本は新たな国難に見舞われる
この主張の背景には、同じ法華経をあがめる天台宗への親近感があったかもしれません。天台宗も新興勢力の浄土宗を攻撃していました。
【市川市公式サイトの画像】 法華経寺蔵「立正安国論」
1260(文応元)年、過激ともいえる立正安国論を、時の幕府最高実力者の北条時頼に見せます。
浄土宗徒の反発に加えて、禅宗徒だった時頼をも怒らせました。
日蓮が伊豆に流された「伊豆法難」です。
しかし流罪は2年で許され、その後も支持者を広げていきました。
蒙古からの国書が届いたことを知ると、立正安国論での「予言が的中した」と自信をさらに深めます。
多宗派との軋轢は増す一方で、1271(文永8)年から再び、3年ほど佐渡に流されました。
日蓮の佐渡配流を境にした前後の時代を「佐前佐後」と呼び、日蓮の考え方が大きく変わったと現在では考えられたいます。
- いかなる迫害にも耐え、法華経の教えを広め続ける
- 題目「南無妙法蓮華経」には法華経の教えが集約さたれている
- 法
- 題目を唱えるだけで成仏できる
この考えは、徹底的に批判してきた法然の教え「念仏を唱えるだけで往生できる」とよく似ています。
しかしとてもわかりやすいことも事実です。
結果的に後の急速な信者獲得に大いに貢献しました。
佐渡から戻ると、有力な支持者から現在の祖山・身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)の土地を寄進され、弟子の育成に努めます。
1282(弘安5)年、湯治のため常陸国に向かう途中、現在の東京・池上本門寺(いけがみほんもんじ)で入滅しました。
死の直前に後継者と定めた6人の弟子、六老僧がその後の発展を担うことになります。
【Wikipediaへのリンク】 日蓮
【Wikipediaへのリンク】 日蓮宗
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六老僧が門流をつくる
六老僧とは、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持です。
門流(もんりゅう)と呼ばれる日蓮宗独特の派閥を形成し、それぞれの考え方で信仰を続けていきます。
日蓮宗はルールに厳格な宗派であり、ルールの運用や解釈をめぐって門流の分派や合従が頻繁に起こりました。
戦前に本山・末寺制度を廃止していることもあり、どの門流に属していたかは「旧本山寺院名」で表しています。
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日蓮宗系の主な宗派
宗旨 | 宗派 | 本山 | 所在地 | 住職名 |
日蓮宗 | 久遠寺 | 山梨県身延町 | 法主(ほっす) | |
日蓮本宗 | 要法寺 | 京都市左京区 | 貫首(かんしゅ) | |
顕本法華宗 | 妙満寺 | 京都市左京区 | ||
本門法華宗 | 妙蓮寺 | 京都市上京区 | ||
法華宗本門流 | 本能寺 | 京都市中京区 | ||
【独立】 | 日蓮正宗 | 大石寺 | 静岡県富士宮市 |
宗派の中心となる久遠寺を、日蓮宗では祖山と呼びます。
久遠寺の著名な旧末寺には、京都の常照寺や大阪の能勢妙見山があります。
他に日蓮の生涯の重要な節目となった誕生寺(たんじょうじ)・清澄寺・池上本門寺も宗派内では格別な位置づけです。
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日朗(にちろう)
東京・池上本門寺(いけがみほんもんじ)や鎌倉・妙本寺(みょうほんじ)の礎を築き、それぞれ池上門流・比企谷(ひきがやつ)門流となって発展していきました。
池上本門寺には現在、日蓮宗を統括するオフィスである「宗務院」が置かれています。
京都にある日蓮宗寺院の多くも、日朗の門流によって建立されたものです。
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日常(にちじょう)
元は日蓮の有力な支持者の一人で、下総中山の自邸で日蓮の執筆活動を助けていました。
日常と他の支持者が建立した寺は、戦国時代に現在の法華経寺として合併します。
法華経寺に「立正安国論」など、日蓮自筆の書跡が多く残るのはこうした由縁があるからです。
法華経寺は中山門流の中心となり、京都の本法寺・頂妙寺や堺の妙国寺とともに門流を支えています。
法華経寺の著名な旧末寺には、東京の柴又帝釈天があります。
京都の本法寺(ほんぽうじ)は、焼いた鍋を頭にかぶせられる弾圧を耐え、「鍋かぶり」と称された日親(にっしん)が室町時代に創建しました。
本阿弥光悦が檀家だったこと、長谷川等伯が京都に出てきた頃の寄宿地だったこと、で知られています。
著名な旧末寺には、京都の光悦寺があります。
本法寺・長谷川等伯像
中山門流からは日什(にちじゅう)が、京都で妙満寺(みょうまんじ)を創建しました。
日什門流と呼ばれ、現在の顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)になっています。
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日興(にっこう)
日蓮の六老僧の他の5人と対立して身延山を下り、現在の富士宮市に大石寺(たいせきじ)を建立します。
法華経の解釈の違いによるもので、日興の考えは勝劣派(しょうれつは)、他の5人の考えは一致派(いっちは)と呼ばれます。
富士門流と呼ばれた弟子たちもさらに分派していきました。
東駿河の西山本門寺・大石寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺に京都の要法寺・伊豆実成寺、内房の保田妙本寺とあわせて「興門八本山」を形成します。
富士門流の中でも一致派が存在するほど、日蓮宗は競技の解釈の違いに厳格です。
大石寺は日蓮正宗として、日蓮宗から独立しました。
幕末以降に活動を開始したいわゆる新興宗教の中で、最大の信者数を誇る創価学会は、日蓮正宗の一派として活動を始めたのが原点です。
【Wikipediaへのリンク】 日朗
【Wikipediaへのリンク】 日常
【Wikipediaへのリンク】 日興
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最後発ながら京都で地盤を築いた「日像」
法華宗は鎌倉新仏教で最後発ですが、戦後時代には京都で多くの信者を獲得しました。
最初に布教始めた日像(にちぞう)がまいた種が、見事に実ることになったのです。
日像(にちぞう)
日朗の実弟で、日蓮から京都での布教を直々に託されます。
1293(永仁元)年から始め、既存仏教からの反発で3度京都から追放されますが、不死鳥のように都度戻ってきました。
1334(建武元)年には、京都の拠点だった妙顕寺(みょうけんじ)が後醍醐天皇の勅願寺となります。
40年掛かってついに認められたのです。
四条門流の祖と言われます。
妙顕寺・光琳曲水の庭のアカマツは美しい
妙顕寺は本圀寺(六条門流・日静が創建、戦後に山科に移転)とともに、日蓮宗の京都の二大拠点となります。
秀吉の都市政策で現在の寺之内通に移転し、近隣の立本寺・妙覚寺とともに「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」として市民や観光客に親しまれています。
塔頭の泉妙院(せんみょういん)は、尾形光琳の菩提寺として著名です。
立本寺(りゅうほんじ)の著名な旧末寺には、京都の涌泉寺、名古屋の圓頓寺があります。
妙覚寺(みょうかくじ)は、本能寺の変の際に信長の嫡男・信忠が宿泊していました。
また狩野派の菩提寺だったことでも知られています。
妙覚寺の狩野家墓所
六条門流の本圀寺の著名な旧末寺には、京都の常寂光寺があります。
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日隆(にちりゅう)
一致派の妙顕寺で修業していましたが、勝劣派に考えを改め、1415(応永22)年に本能寺を建立します。
現在の法華宗本門流(ほっけしゅうほんもんりゅう)の原流です。
本能寺は、戦国時代には堀と土塁に囲まれた強固な要塞のような体を成していました。
信長が光秀に襲われた日本史上もっとも名高い歴史的事件の舞台としてとて、あまるにも有名です。
日隆は京都の妙蓮寺(みょうれんじ)を大本山とする、本門法華宗(ほんもんほっけしゅう)の祖でもあります。
【Wikipediaへのリンク】 日像
【Wikipediaへのリンク】 日隆
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京都で町衆の心をつかんだ「教え」の秘密
法華宗は、戦国時代には商工業者を中心とした町衆から絶大な支持を獲得するようになっていました。
本願寺の洛中進出を警戒した法華宗徒を中心とした軍勢は、1532(天文元)年に山科本願寺を焼討し、京都での勢力を確立します。
しかしこの勢いが多宗派の反発を受け、1536(天文5)年に延暦寺を中心とした軍勢に、京都の法華宗寺院をすべて焼討されました。天文法難です。
法華宗徒は京都を追放され、多くが堺に避難します。
京都での禁教は6年に及びました。
禁教が解かれると法華宗徒は京都に戻り、寺の再建を始めます。
しかし再建もつかの間、秀吉の都市政策により、上京の寺之内通近辺(一部は寺町通)に再び移転させられたのです。
現在の日蓮宗寺院の位置はほぼ、この際の移転によるものです。
しかし苦難は続き、京都市中を焼き尽くした1788年の天明の大火で、ほぼ全焼しました。
法華宗寺院は幾度も再建を余儀なくされていますが、他宗に比べるとそのスピードは圧倒的に早いことで有名でした。
信者は富裕な町衆が多く、援助がすぐに集まったからです。
京都の法華宗寺院の檀家に、あまたの芸術家が並んでいることからもわかります。
この再建の速さを、他宗は「指をくわえて見ている」しかありませんでした。
法華宗が富裕な町衆の心をとらえることができたのはなぜでしょうか?
- 法華経の教えが唯一、今生きている人々を救うことができる。現世利益を重んじることが、日々の現実の生活に直面する町衆の心をつかんだ。
- 女性を排除しなかったことも大きな要因。山岳寺院を中心に「女人禁制」はとても多く、商工業の「おかみ」が制限なく信仰できることは、合理的で便利だった
- 日蓮宗は、主要寺院のある静岡県や千葉県に加え、京都や堺と言った町衆の力が強い都市で多くの信者を獲得した。主に地方の集落で多くの信者を獲得した浄土真宗や曹洞宗とは対照的。
妙覚寺には有力大名の宿舎となった気品が今に伝わる
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不受不施派(ふじゅふせは)とは?
法華宗僧の中からは、多くの信者の獲得を「日蓮の教えをカジュアル化しすぎた」と疑問視する声も出始めていました。
不受不施派(ふじゅふせは)と呼ばれ、非法華宗徒から一切施しを受けず与えないという、厳格な考えです。
本法寺を開いた日親が初めて唱えたとされます。
不受不施派は、秀吉による方広寺の千人供養への出仕を拒み、家康にも屈しませんでした。
不受不施派は江戸幕府から禁教とされます。
【Wikipediaへのリンク】 不受不施派
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