敬愛する片山日出雄さんの処刑をしなければならなかった元オーストラリア兵の告白②
文章・画像は「百万人の福音 2006年8月号」からの転記です。
残された仕事
一般の日本の兵士たちの引き揚げが終了し、裁判の一通り終わると、刑の執行を残すのみとなった。ラバウルには60人以上の死刑囚がいた。その刑の準備や執行にも役目上立ち会わねばならない。任務とはいえ、とても気のめいる仕事だった。戦争中に自分に向かって撃ってくる敵に銃を向けるのと、すでに平和がやってきいている時代に、抵抗できない相手のいのち奪うのとは全く違うと痛感した。法のもとにであるとは言え、目を覆いたくなる光景に幾度も立ち会った。彼らは残酷な犯罪者なのだ、と自分に言い聞かせた。
狙撃兵たちの心理的重圧を軽減するため、10本のライフルのうち1本には弾がこめていない。しかもどれがその銃かは司令官以外だれも知らないのだ。それは10人が一斉に引き金を引いてだれも「あの人間を殺したのは自分だ」と思わなくてすむためだった。死刑囚に目隠しするのも、至近距離から撃つ相手の表情をまともに見ることに、兵士たちが耐えられないからだ。
我々の任務だった
ある日、いつものようにメルボルンからの死刑執行命令書が届き、カタヤマと彼の同僚タカハシの処刑は明日と、憲兵隊長から発表された。準備担当はドンともう一人の憲兵と決まった。「何かの間違いだ!」彼は心の中で叫び続けた。その夜は一睡もできず、朝食も喉を通らなかった。翌朝早く、今村大尉が二人の助命をラバウルの最高指令官ネイラン准将に掛け合ったが、ついに聞き入れられなかった。
「私はその朝、死刑囚のいる独房までジープで迎えに行きました。しかしカタヤマの顔はとても見られませんでした。同僚は彼と何か話していましたが、私は胸が張り裂けそうで、泣き崩れないようにすることが精一杯でことばをかけることなど到底できなかった。ずっと黙ったまま運転し、処刑場の手前に車を止めました。刑の執行は我々の任務だったのです。
銃殺刑はいすに縛って行うことになっていました。私はひとり黙ったままカタヤマの腕を取り、いすの所まで連れて行きました。手錠をはずし、自分の気持ちと激しく闘いながら、彼の両腕をいすにしばり、彼の脚も同じようにしました。その間も彼は終始落ち着いていました。軍医が彼の左胸に白い丸い目印を留めつけました。その時、カタヤマは「ありがとう」と彼にむかって言ったそうです。その時の私の耳には何も入らなかったのですが、後年、彼がそう教えてくれました。
すでに整列している10人の狙撃兵を背に、私は始めて一対一でカタヤマと向き合うことになりました。ライフルはすでに彼らの前の長机に置かれていました。毎回立ち会うわけではないネイラン准将までその場にいました。今村大将はじめ人々の助命嘆願があったためでしょう。
「目隠しはいらないよ」
私がカタヤマに目隠しをしようとしたとき、彼は私を見上げて、「目隠しはいらないよ。僕は死は恐れないから」とはっきり言ったのです。この時、二人は初めてことばを交わしたのです。私はかすれ声で「規則なんだ。すまない」と答えました。私は狙撃兵たちのことを考えたのです。これまでも、彼らは引き金を引いた直後、ライフルを机の上に投げ出し、両手で頭を抱えて机に突っ伏す姿を幾度も見たからです。
了解してくれたので目隠しをすると、カタヤマは落ち着いた、よくとおる声で「主の祈り」を英語で祈り始めました。その場にいる全員に聞えるはっきりした声でした。私はその時、自分と彼の二人だけがそこにいるように感じました。彼の祈りに合わせて、胸がつまって声にならないのですが、心の中で祈り、やっとのことで最後の「アーメン」だけが声になりました。彼も「アーメン」と続きました。私は身をかがめて、いすに縛られているカタヤマの肩を握りしめ、そしてそばを離れました。とてもいたたまれず、岩陰に駆け込んだとたん、「撃て!」という声と銃声が響きました。
私は彼の亡きがらをいすから担架に移し、泣きながら毛布でくるみました。その後、特別に許されてカタヤマたちの教会からサトウというクリスチャンが埋葬の祈りをささげるために来ましたが、涙が止まらず、墓標もない穴にニューギニア人兵士が彼の遺体を投げ入れ土で覆ったときには、心が引き裂かれる思いでした。
その夜からひどい悪寒と吐き気が続きました。自分は無実の人を、しかも敬愛していた人を殺してしまったという思いにさいなまれ、熱い焼きゴテをあてられたような痛みで、全身がバラバラになっていくようにさえ感じました。
続く