東京都の社会保険労務士のデイリーブログ 

東京都港区の社労士ブログ!人事労務から様々、ワンポイントレッスン

ゴールデンウィークスペシャル②

2020-05-01 15:03:08 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、ゴールデンウィークスペシャル②と題して書きたいと思います。どうぞ先の①よりお読みください。

ヨシエさんとアキコさんとは同じクラスでした。彼女らには、毎年誕生日パーティーにお呼ばれしていました。特にアキコさんとは親繋がりで。

ヨシエさんの誕生日会では、私は雁(がん)の群れの中に、唯一アヒルが混じっているかのような、そんな違和感をヨシエさんのお母さんから感じていました。
▲ランドセルは、父方の祖父母からの贈り物の本革の赤のランドセル。堪らなく重い。

クラスは別でしたが、ミカちゃんとカヨちゃんとは何が面白いって分からないのですが、放課後よく遊んでいて(その間他の子供たちは勉強していたのでしょう。私は野放しだったので)

それを知ってか知らないでか、ヨシエさんとは不意に遊べなくなって、わざわざ遠い彼女の自宅を訪れても、門前払いだったこともありました。

ある時、大君という男の子が、美女(器量良し)グループヨシエさんたちの頬っぺたに、チュッとキスして盛り上がることがあったのですが、

その美女グループがうらやましくて、大ちゃんに「私には?」と人差し指で右頬を指し示し伝えると、「オェっ」と吐き捨てるように言われる始末。私がどんな子だったか、想像に難くないでしょう?

一番心が落ち着いて話せたのは、地味で目立たない大場さんという同じ団地出身の子で、私が手に取っていた「キリスト」の本繋がりで仲良くなったのがきっかけです。

つづく

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


ゴールデンウィークスペシャル①

2020-05-01 11:38:55 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、私の小学1-2年生の頃から特筆すべき、友達関係について、書きたいと思います。まずは、背景から。

遡ること1979(昭和54)年、千葉県松戸市牧の原小学校という小学校に入学した私は、頭はおかっぱで、何しろいつも敗れ被れ(やぶれかぶれ)な、一応女の子、みたいな感じでした。

入学式のクラス全員写真では、小首を傾(かし)げるのが可愛さの定義であったあの頃、決して傾げてはいけないと教頭先生が全員に念には念を押して撮影に臨みますが、残った写真は、私だけ、こけしの首が途中ポキッと折れたように傾げているもの。
▲ぶっ飛んでは、いません。いや、いる?

一学年の中には、公立小ではありますが当時の新興住宅街の中に位置し、様々なご家庭出身のお子さんが集っていました。ピンからキリまで、といいましょうか。

閑静な高級住宅街に個人開業医として立派な自宅兼医院を経営する父を持ち、必ず馬のデッサンのお絵描きをするヨシエさん(お父さんを「おとうちゃま」、お母さんを「おかあちゃま」と、自らを「ヨンヨン」と呼ぶご家庭)や、

やはり広い庭付住宅街の戸建てに住み、誕生日パーティーを毎年7-8人呼んで行い、パーティーには必ず円柱の苺のショートケーキが出、ファンタのジュースが飲み放題のご家庭、「秘密のアッコちゃん」の番組をこよなく愛すアキコさん、

ハイツ的な賃貸マンションに住み、生まれた時から、お父さんも知らず、子供には無愛想なパブにお勤めのお母さんを持つミカちゃん、彼女とは保育園でも一緒でした。

そして、新しい戸建てに住み、いつも青っ鼻水を拭(ぬぐ)わず、当時私は見ることを禁じられていた「ルパン三世」のアニメが好きだったようで、そのエッチな場面に、奇妙な歯っ欠け婆さんみたいな声で笑うカヨ?ちゃん(だけど面白く憎めない)。

私の位置づけは、新築の公団団地に住む、建築士でサラリーマンの父を持ち、母は無農薬栽培と鶏飼育に夢中、ボストンマラソンに出場、片手間にそろばん教室と英語教室を自宅で小学生に教えて、というような家庭背景で、当時の私の名は、細木優子(Yuko Hosoki)です。

つづく

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


人生デザイン

2020-04-12 15:07:41 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

前回のブログの続きで、恋愛沙汰になると、どうしても一部の人だけが、モテにもてまくって、モテまくった当人は、どうして良いか分からない、という事態が想定されます。(モテ期は誰にでも!その時に備えて)

そんなとき、この本を読んでみてください。「スタンフォード式 人生デザイン講座」ビル・バーネット&デイヴ・エヴァンスさん著、千葉敏生氏訳(定価800円+税)。特にすべてをかっ飛ばしても、

「第9章 幸せを選びとる 『幸福なひと』と『不幸なひと』を分けるもの」は、様々な選択肢に迷ったとき、ここでの知識があるのと無いのでは、私のような世代の他の方々ですら、人生の充実感や選択してきたことへの満足度が違ってきます。
▲心の栄養に、この本をどうぞ

どうして、新型コロナでこのような時に、私が恋愛の密かなおススメをするかと言うと、人生を幸せにする要素には、一般的に学術の知能指数である『IQ』だけでは足りず、心の知能指数である『EQ』をも頼らざるを得ません。

『EQ』とは、何か。古き良き「直感」、つまり「感情の知恵」です。つまり、今まで何がうまくいって何がうまくいかなかったのかという人生経験の集合体のことであり、私達がある判断を評価するときに参考にするもの(P252から抜粋)です。

この『EQ』を発達させるためには、感情的、直感的、霊感的(?)に「知る」能力を磨き、成熟させていく必要があります(P254)。殊に恋愛に関しては、こうした地味な時間のかかるプロセスである自己鍛錬が欠かせない、と私は思うのです。

一人でも多くの方に、幸せを、将来生涯に渡って、実感できる世の中になって欲しい、その為には、自己充実感は必要不可欠です。自己充実感は、手っ取り早く「家庭」から、そして変えられる自分の「人生」から。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。








武勇伝?

2020-03-31 13:38:06 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

新型コロナの中、私の「武勇伝?」を一つ。

最近の運動会では、組体操の危険度合いの低さへ自粛気味の傾向があるようですが、私自身は小学校5-6年時、そして中学生の時も、組体操の醍醐味を味わいました。

小学生高学年の時は、先生の練習時の熱心さに、当時関西出身の先生が「おまえら、●小(●●小学校を略して●小と呼んで)の顔やない、●小の足の裏や!(顔になれるぐらい頑張れ)」と言われて、一生懸命練習したにもかかわらず、

本番当日、身長の高い順から先頭に並んでの競技の最中、私は来賓の真ん前で一番先頭、静かにカウント音の鳴り響く中、私一人だけ一部カウントの取り間違い10秒以上、そんな赤っ恥をかいたあの日。

そして、シンクロの競技本番でも音楽内でのカウントが大事で、ここでも同じことをしでかして、大ヒンシュクをあびることも、しばしば?!誰かのビデオにその様子は残っているでしょうねぇ。
▲けんぼさんによる写真ACからの写真

しかし、中学時の組体操6段?のピラミッドでは、身長が高い方だったので、もちろん踏み台的な役回りのはずにもかかわらず、一番上に昇る子が怖がって登れないでいたところ、

急きょ、あの体育のかどよ先生だったかなぁ「おまえなら、やれるかもしれない」とおっしゃって、本番も私で成功したんですよ。もちろん、下段の皆の腕は重みでプルプルするし、こっちは全然平気ですけどね。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。




あるある?出来事

2020-03-30 22:58:40 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、これまた子供の頃のあるある?出来事を書きたいと思います。

私が小学4年生(昭和58年1983年)の頃、当時埼玉県坂戸市に住んでおりました。最寄り駅は北坂戸という駅です。その北坂戸駅前に駅前ハイツという11階建てのマンションがあります。

その頃、クラスに引っ越してきたHさんという女の子は、そのマンションの10階?9階?8階?に住んでいて、たまたま私はその子のお宅に遊びに行きます。

ところがあいにく、その日はHさんのお母さんがご不在。Hさんご自身もおうちに入れません。幼い私は何しろそのマンションがどんな様子なのかを知りたくて、うずうずしておりました。

何かの事情で、おうちの窓は開いていて、隣人宅のベランダから少しは中が見える、ということを聞きだします。そこで私は、実際そのベランダから、のぞいてみたところ、いやこれならこのベランダをつたって、Hさん宅に入り、玄関を開けられそうだな、と確信します。
▲憎まれっ子、ではなくいたずらっ子世にはばかる?

そして、実行します。ベランダのコンクリート塀の上をつたって歩き下を見ると、そびえ立つ真下が見えます。そこを身体を横歩きにして、無事Hさん宅のベランダに足を下ろし、部屋に入り鍵を開け、Hさんと再会しました。

ところがHさんは、今度は自らが同じベランダの塀をつたうことをすぐ真似し、無事帰宅したHさんのお母さんにそれを報告、驚かせます。本当は鍵は開いたんですから、真似する必要性の事実ってあるぅ?とは、思いましたが。

そのマンションの内部の当時の印象は、私が小学3年生になる前(引っ越す前)住んでいた千葉県松戸市牧の原団地の方がよっぽどいい、あの頃に戻りたい、という悲しく懐かしむ幼心だったように思います。

Hさんのお宅は、女二人に弟一人の三人兄弟。お母さんが帰宅するとお腹が空いたと燕の巣の子燕のように三人でお母さんを取り囲んで、という姿が一人っ子の私には強烈に印象に残っています。

そう言えば、私は幼い頃からお腹を空かせて困った記憶がほとんど無くて、祖父からも「やっか?(福島弁?東北弁?)」とアルファベットビスケットや干し芋など、催促しなくても頂戴していました。恵まれていたんですね。

とにかく、この新型コロナ時、お子様の身のまわりには、充分気を付けてくださいね。私自身への、戒めもありまして。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。

火遊び

2020-03-30 19:27:28 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、「火遊び」について、書きたいと思います。

時は遡ること、私が小学4年生(昭和58年1983年)の頃、厳めしい祖父のおかげで、学校から帰宅後、相変わらず外出禁止で、一応机に向かって漢字の書き取りか、何かしておりました。

当時、マッチや叔父が使っていた煙草のライターなどが自宅にあり、それを2階の勉強部屋にこっそり持ち込んで、孤独にマッチをすって火を灯したり、ライターを付けてみては、アッちっち、というように。

ところがあるタイミングで、青白い炎が机周り周辺そして一部の壁に一気に燃え広がります。当時母は会社員として埼玉から都内へ出勤中。自宅に居りましたのは1階にいる祖父と祖母のみ。この事態に背筋が一瞬で凍りつきます。

慌てて水も無い中消しにかかり、とっさにあった傍の上着でバサバサと叩きつけるように、火めがけてひたすらそれをぶつけます。実はその様子が、当時読んでいた確か「大草原の小さな家」の本の中に挿絵の一つとして載っており、

それをただ真似ただけなのですが、運よく私の時は無事炎は消えたのです。しかし、その時の一瞬の戦慄、その恐怖は今でも蘇るほどです。この事実は、やはり今の今まで家族の誰にも知られず(もちろんご近所にも)今に至るのですが。
▲火気厳禁

新型コロナで、在宅していらっしゃるお子様方のお母さまやお父さま、シニアの皆様、充分気をつけてくださいね。想定外のことをしでかすのが、子供というものでもあると、自分自身を振返り思う次第です。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。






 

大脱走

2020-03-30 17:56:41 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

新型コロナとは、別の話題にしたいと思います。題して「大脱走」と銘打って、綴ります。

時はかれこれ遡ること、私が小学3-6年生(昭和57-60年1882-1985年)の頃、埼玉県のとある地域の母方祖父母宅へ、母の離婚に伴い移住し久しく経ったある日の冬のことです。

祖父はこの私を優秀な大学に入れたいと、一生懸命勉強を促す一環として、放課後外出禁止で勉強を強いるわけですが、私と言えば外で遊ぶことで頭の中は一杯、脱走を試みます。
▲大脱走

当時一戸建ての2階に私の勉強部屋がありました。そこから勉強机の脚に幅広のビニール紐をくくりつけ窓を通して、外の狭い庭地面に着くまで長く垂らし、その紐をつかみながらハーネスも無い中、時に這いつくばって一人っ子の私が降りていきます。

祖父に見つかったら一大事なわけですが、確かに無事両足が地面に一応着地できました。しかし、そこからが問題です。果たして元の部屋に自分は極秘に戻れるのだろうか、と心配になるわけです。

そこで、今度はまたもと来た壁と屋根をつたって2階の部屋に戻ることを試みます。なんとか辛くも人知れず部屋に戻ります。そこで、私は息絶えます。つまり、部屋の暖かさと共にもう緊張が一気に緩んで脱走する気が失せちゃうんです。

そんなことが2回ぐらいありましたでしょうか。結局その大脱走については最後まで家族の誰にも知られずに、今ここまで生きて来てるんですけど。自分を分析するに、意気地なしというか…?

元教師で警察官でもあった明治生まれの母方の私の祖父、父方の私の従兄も北海道で警察官をしていると風の便りに聞いています。こんな自分なんで、悪さは出来ないなぁと、しみじみ思い返してみては感じているこの頃です。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


キーパソン、フェリーマーに

2020-02-24 20:55:41 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、私のインスタにもアップした通り、「CATS」の映画を観て来ました。そこで、一度だけ参加した私の留学時代学年末に行われるボールパーティ(ダンスパーティ)について、書きたいと思います。

この「CATS」の映画で、私の雄猫(男性)タイプというのは、キーパソンになり得るマジシャンの名は確かフェリーマーです。シーンでは、独壇場で手品で稲妻を起こし、人知れず威圧感をシニア猫の為に尽くすところが感じがいいです。

見返りを求めないこの雄猫の場面イメージはNZerに被るところがあります。特に学生時代同学年のカエリブ君は、その優しさという面で私にとって彼そのもののように感じました。
▲ミラーボール、きれいですね。

ところで、ボールパーティの話ですが、ボールでは、男女対になって参加するのが通例ではあったようなのです。実は、私はカエリブ君にご一緒にどうか尋ねます。

ところが断られます。そして、もう2-3人男友達にお声を掛けます。ところがその全員から断られます。そして、最後は女友達との集団参加という形で参加し(ダンス自体は、私に限らず皆男女混合不特定多数同志になって最後は終了)、

当日は別の男友達と、写真にだけは二人だけで何とか記念におさまります。その写真の彼は、とても私の恋焦がれた男の子でしたが、結局片想いで終わりました。

カエリブ君は、何だったのかと言うと、彼のことは私にとって友達以上だったかもしれませんが、それ以上の関係性は今から思うとべブさんと彼の父を交え仲違いでは無いが彼らの関係性の中で、彼女がそこから先を良しとしなかったように思います。

皆様もティーンがどのようかご存知でしょう?心は異性に敏感でその中でとても揺れ動くし、今もそうですが、身近な者の意見が心の大きな位置を占めます。カエリブとは、

Outdoor Educationでキャンプがあれば都度一緒だし、Dramaのクラスではお互いにお互いの演技を他の皆と同様起爆剤にして楽しみ。

カエリブには、私のことを若草物語(Little Women:Louisa May Alcott)風に「ジョー」と呼んでもらったり(して周囲には中傷気味に笑われやめましたが)、

本当に目立たない、派手さを求めない、慎ましいそんな青年です。つまり、心が広く、シニアを敬い心から優しく、文学的な面も好み、そしていわゆる片田舎の純粋なカントリーボーイですね。どうしているかな。

かと言って、私が彼と付き合っていた事実はありません。私は結局約2年の留学期間を通して、日本の高校2年生の夏休み初めてのNZホームスティで出来たNZerの彼氏を除けば、特定のボーイフレンドはいません。

そろそろモテない私の話はこれくらいにして、久しぶりに洋画の映画を観て、あれこれ人間模様を思い出しました。今日もお風呂で、「Pokarikariana(ポカリカリアナ)」のマオリ語の歌でも歌おうかな。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


大学の思い出

2019-11-17 14:47:23 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、私の大学時代、大東文化「大学の思い出」について、書きたいと思います。

先日の私のブログ「テレワーク月間+α(アルファ)」で書き足しました、大東文化大学の当時の経済学部教授塩田先生について、実は覚えていることがあるのです。

当時私は、東松山校舎の国際関係学部生でしたが、サークル活動で国際法研究会に所属していて、当時から経済学部のある板橋校舎にしばしばサークル活動で来ていました。

男子の同サークルの先輩がある時、塩田っていう男性の教授がいるから、同じ苗字の私だから先生に会わない?というようなお誘いを頂いて。一回目のお誘いは辞退。二回目も同じようなことがあって、

「どんだけ、色好みの先生なんだろ」と内心。当時は他にも約1年弱オールラウンドのサークルに入っていたこともあって、そこでは学祭の美人コンテストに出場した方が…なんて話もあって(その時の学祭から、なぜかコンテストが不可解にも中止になり出場無く)。

少し鼻高になっていたんだろうと思います。で、結局お会いしに行かなかったんです。でも、良かったですその時会わなくて。それから程なくして自分は、メンタル系疾患で散々になっちゃうんで(変な迷惑がかかると嫌だったもので)。

卒業式なんて、具合も悪かったけど、それ以上に嫌だったのは、晴れ着セット。袴だけ確かレンタルで、上の着物は母のお譲りでそれも母が伯父か誰かに若い時にあつらえてもらったとても良いものなんですけど、
▲春なのに、卒業ですかぁ、って。今は冬ですね。

管理が悪くて、白地の内袖の中が、汗染みでヒョウ柄みたいになっているのに(ちらり以上に外から見える)、なぜか着るのはそれでいいと言うんですよ。当日茶道部にも入っていた私は後輩が揃いもそろって挨拶に来て、もうほんと、恥ずかしくて。

昔から、確かにしばしば家族から言われてきた諺(ことわざ)に、「ボロは着てても心は錦」というのがあって。時代的な価値観もあるとは思うんですけど。

おかげでか、そんなこんなで大東文化大学の男子学生から、それ以降もお誘いのお声は全くかかりませんでした。在学中も、とかくSnobbyの私は、具合も悪かったので、同学部生(他学部も含め)との浮世話に恵まれませんでした。

実は後日談があって、在学中あの人やっぱりいい人だったなぁと思った同級生や先輩に、卒業後それとなく電話や様々でお声がけしたんですね。でも、皆さんすでに確固たる方がいて。時すでに遅し。

私は娘や息子には、大学時代の時には、第一目標としてはいい人は捕まえておくこと、と今から伝えています。学生時代は純粋だし、一番利害の反映が少ないかなって。愛さえあれば、ね、みたいな。

皆さま、どう思います?以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


わたしの錯誤

2019-11-13 15:27:23 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、「わたしの錯誤」について、書きたいと思います。

遡ること昭和59年(1984年)、当時私は埼玉県のとある公立の小学校5年生、帰りの会というのがありました。帰りの挨拶を一斉に交わし下校するわけです。

その帰りの会で、必ず一日の出来事を挙手をして発表する場がありました。それはほぼ、いかに風紀を誰がどう乱して、主に先生と生徒皆に見せしめる場と化していました。

▲このACの写真は、恐らく小学校ではなく、公立の中学校の様子かなぁ。


ある時、いつもの通り、男子生徒といさかいの絶えない私は、確か岡君という男の子が、下駄箱の上り場で泥まみれの土足で上がり込んだと思った足跡を見つけました。

岡君の靴裏を見ると泥の型と同じだったし、確証をもってその場で岡君を責めました。否定する岡君でしたが、これぞと幸い帰りの会で私はそのことをまくし立てました。

そして、発表の最後に「だって、私その場で(足跡つけた様を)見たもんっ!」と付け加えました。ところが、「あっつ、それオレ」と言っ放ったのは、確か橋添君。確かに靴も岡君と同じでした。

実際、足跡付けてる現場は見ていなかった私。死にたくなるくらい恥ずかしさでいっぱいでした。この一件からも、岡君のことが当時好きだったIさんからは、私と岡君のことを恋愛もどきのと誤解を受けて責められるし、

担任の先生からも大目玉だったし、本当に最悪で。私は本当は釣井君というクラスで1-2位を争うくらい身長が小さい、やはり母子家庭の男子が好きで、コタツのテーブルの下で彼の手なんか握っちゃったこともあって(ナハハハッ、今でも照れる)。

そんなことは、どうでもいいんですけど。とかく今ニュースで話題になってる「桜を見る会」についても、もっと継続するならどう縮小できるのかとか、そういった建設的な対策案に多くの時間を割くべきだと思うんです。

この昭和の帰りの会もどきの、戒めの会チックな様相が、この案件に限らずいつでもどこでも、永遠と時間と場を費やして続く限りは、やはり私たちは昭和の産物なんだなぁと、思うばかりです。

以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。

注釈)当時「桜を見る会」の話題が、ニュースに上がっていました。


錯誤って?

2019-11-12 17:04:18 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、昨日のNHKの放送番組、逆転人生「逆転裁判!警察のウソを暴け」について、書きたいと思います。(ご覧になりたい方は、アーカイブでもご覧いただけるようです)

このタイトル「警察のウソ」よりも、同じ日本国に対しての主張による逆転人生であるならば、社労士の一人として申し上げますが、障害年金申請で裁定不支給とされたが転じ支給となった逆転劇もあります。

さらに申し上げるなら、事実婚の夫が死亡し内縁の妻が遺族年金を請求したところ、婚姻関係がある法律婚の妻が先にいたことから、内縁の妻の給付が不支給とされた事例₁の逆転劇(審査請求などの不服申し立てを経たもの)等、もあります。

番組の婦人警官(しかも実名?フルネームで?)との駐車禁止のやり取りも寸劇で視聴しましたが、婦人警官役の彼女へ居たたまれないハラハラする思いを感じたのは私だけでしょうか。

▲パトカーって、かっこいいな。同乗したくはないけれど。


確かに彼女の誤解もあったかもしれませんが、その錯誤は誰にも起こし得るものです。それが人生の前半にあるか、中盤、後半に起き得るか、だけの違いかもしれません(警察官にとどまらず、と思います)。

私自身は、次号のブログのように、確かに人生の前半に早めに経験し、たまたまラッキーで、今ここにいることができるだけ、かもしれません。

番組では、当人は他の多くの一般の人が駐車しているのに、なぜ自分だけに違反を課すのか、という主張にも理解もしますが、残念に思います。

当人はその後の取り締まり経過で大変な思いをされ、正直気の毒な気持ちも生じます。しかし、なんだかやられたから、やりくるめるみたいな経緯で、強い言葉を放つ番組の構成内容は、どうかなと思います。

本来は逆転人生によって、人生が救われた人々の人生観を変える神々しい感動を、多くの人は待ち望んでいるのではないかと、思われてならない放送回でした(たまたまかもしれません)。

もちろんこの放送の当事者のご夫婦の人生が、あるべき望ましい方向へ向かったことは、何より多くの方の歓迎していることでもあります。良かったと思います。

最後まで、番組は見ていませんが、番組の最後は平和的な完結になっていると良いのですが。

私の家庭では、車の所有が過去に置いても現在に置いても全くなく、車にまつわる理解不足や配慮の欠如も、あるかもしれません。その点ご容赦ください。申し訳ありません。

ただ、ある他国から見れば、日本にはまだ警察が存在する、というこの奇跡を、私個人は大切にしていきたいと考えています。

以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。

注釈)1「ドキュメント社会保険労務士 社会行動派社労士が市民に語る」河野順一氏著 日本評論社p1~80より参考




What can I do?

2019-11-04 09:13:47 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

最近思うんですけど、映画『マディソン郡の橋』について、ようやく良いとされる意味が分かってきました。年齢が上がると共になのでしょうか。

べブさんの話で恐縮ですが、こんなことが私の留学中ありました。最後のホストファミリーであるJ.S先生(Englishの先生)宅に住んでいた頃、その週末はたまたまべブさん宅に宿泊することになっていて、

べブさん(*ESLの先生)のご主人であるルーペット(この方も先生)が私を車で迎えに来ていました。その場には、S.B先生(数学の先生)もいて(例の女性仲良し三人組の先生方です)、J.S先生とS.B先生はワインを片手に話が盛り上がっていたわけです。

彼女二人は、べブさんが自宅で食事の支度が出来つつあることを承知していて、ルーペットになんだかんだと言ってわざと食べさせちゃうわけです(私にも)。ルーペットもちょっとだけと言いつつも…。

帰宅すると、べブさんがそれを察知して食べて来てないと言い張るルーペットを制して、イライラしながら私に尋ねるのです。「ルーペットは食べてきたよね?」と。

私は、すかさず言いました「食べて来ていない」と。彼女は業を煮やしたのか、結局私がルーペットの満腹で手を出せなかった夕食分、お皿にてんこ盛りで食べる羽目になり。

あの時は平気なフリして食べましたが、正直お腹が苦しくて苦しくて、満腹感の最上級みたいな感じで。ルーペットは、後から「Thanks, Yuko.」としみじみと。
▲三連休最終日の今日、映画「天気の子」を子供と見てきました‼

私が『マディソン郡の橋』とこの留学の一コマの話に共通する西洋系の方が良しとする価値観というのは、「分かっていても寄り添う」という姿勢なのではないかと思うのです。

ルーペットが発した感謝の言葉の余韻は、はっきりと心に今も忘れられません。『マディソン郡の橋』の良さは、(例えば)武骨物の夫と分かっていても、それを知らぬ振りして死を分かつまで寄り添う、

その優しさが彼らの求めている、誠の優しさとして映るのではないかと思うのです。日系アメリカ人の方なら、このエピソードの私の取った行動パターンも私と同じく忠誠心から自然にやってるはず。中国系アメリカ人の方でも共有できそう。

ベイダア(北京大学)留学生楼で会った当時のアメリカ人留学生の彼らならしてそうだなぁ。時々思い出してるよ、あの時のこと、ポーカーやったり(中国語の勉強ではなく)。そしてあの頃の北京の様子(25年前)。

ごめん。長くなったからこれまでにします。ばいっちゃっ!!(って、ドクタースランプあられちゃんっぽいでしょ?)

以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。

*ESLとは、English as Second Language.(英語を母国語としていない人への英語の授業)の意味です。






百円の使い方

2019-09-29 08:28:28 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、「百円の使い方」について、書きたいと思います。

今では、缶ジュースも百円では買えませんが、私が幼い頃は百円でした。私の幼い頃(執筆当時45歳)は、この百円ジュースは決して手に入らない代物でした。

周囲の友達が皆でこぞって自動販売機で購入している時すら、自分はただ見ているだけ。それは母の意向でした。母子家庭故のこともあったのか、何か理由があるようでした。なぜかと聞くと、今でも虫歯になるしとだけは答えるのですが。

この百円の代物への使い方への考え方は、他の人々はどんなんなのだろうか、というのが当時、一戸建てに住んでいた私の興味関心事でした。
▲百円は、約1ドル前後と計算すると分かり易いですよね?(2019年当時現在)

ある時、●●ハイツと言われる11階建ての駅前に建っている(結構賃貸のお家賃高め当時確か)マンションに住むあまり親しみの無い友人のお母さんから、缶ジュースをその場の購入で渡されました。

当時のその時の驚きは、非常に大きなものでした。見も知らぬ私にこんなに手軽に百円を使い渡すのか、と。

そして、ある時は近所のやはり一戸建てに住む後に民生委員をされた方で当時の友人のお母さんに夜分に偶然居合わせると、ちょうどその方の自宅前にある自動販売機で湯上りにジュースを購入したところでした。

そのジュースを、祖父母に持って行って、と渡されます。その時も驚きです。うちでは、量の割には単価の高い缶ジュースを家の前であれ、いかなる理由があろうと決して購入することは許されなかったから。

そして、開成に行った従兄の家では、ジュースはジャブジャブで、でもいつも持ち歩いていたのかなぁ、とにかくこだわりはそんな事には全くありませんでした。

当時私の習い事も今のようにお高くは無かったとは思いますが、ピアノ、スイミング、塾、バレエ、剣道、書道、後にバレエとスイミングはシンクロナイズドスイミング(アーティステックスイミング)にとって代わり、と。

そして、高校は私立、大学も私立、そして高校時代は留学(留学は母が直接業者を通さす学校と交渉しマージン分無く達成)。もちろん、母は二つの仕事を土日も無く掛け持ちで。

訪問した事業主様から、250mlのペットボトルのお茶が出た時、今でもそのうれしさは、当時の百円の缶ジュースを頂いた時以上に噛みしめるような格別な喜びの私です。

今の私の百円の使い方はどのようかというと、すべてご想像にお任せしましょう。

以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。












留学で得たもの

2019-08-08 15:05:59 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、私が高校留学中最もお世話になり、影響をいまだに受け続けているお三方のことを書きたいと思います。個人情報を書くことがどこまで許されるのか、考えながらも。

まず、ご存知のようにべブ先生(English as second languageの先生)については、これまで何回も書きましたし、過去のものを読んで頂ければ先日亡くなった彼女の様子が分かります。

次に、S.B先生については、前回ニュージーランドの訪問の際、お泊りさせて頂いた方でして、数学の女性の先生。息子さん2人、娘さん1人といずれの方も私と同世代です。

特に息子さんの一人とは、同じ学年でクラスも共にし、結局ロトルアの元カレのすぐ後に好きになった当時の私の片想いの彼です。お互いに叶うことはありませんでしたけれども。

S.B先生は、私があるホストファミリーとの関係性で悩んでいると、度に現れ車にそっと乗せて彼女の家まで連れて行ってくれて。彼女の心身共にへのサポートがとても有難く、しばしば彼女宅で夏冬休みも含め時を過ごしていました。

三人目は、最後のホストファミリーで一番長くご厄介になった、J.G先生(Englishの先生)です。彼女は3回離婚を経験し、それぞれのご主人でお子さんを設け、女2人、男2人の順に授かり、男の子2人が私と同世代で学校も同じ。

特に長男君とは私と同じ学年で学び、末っ子君とは私とは親が離婚経験者という連帯感も重なり、当時半ば親友みたいな存在で。

前回のNZ旅行の時も、旅行中だったJ.S先生と電話で話しました。約30年ぶりがまるでその時の経過がなかったかのように。不思議な感覚で。

べブ先生、S.B先生、そしてJ.G先生はとても仲が良く、この三人が揃うと最強でした。彼女たちがいなければ、私は高校の単位すらおぼつかなかったと(恐らく他の気難しい先生方への影響力も大で。ひたすら感謝です)

いつも何か建設的なことを考える時、このお三方だったらどのように言うだろうか、考えるだろうかということが、私の一つの尺度になっています。
▲3人集まり喧々諤々話が盛り上がっている様子を浮かべながら。

べブ先生からはあこがれの自分へ、S.B先生からは構造的な考え方、J.G先生からは開放性とそれへの自己への引き締めバランスと。

そしてべブ先生は、高校終了時にNZでHospitalityの道(観光業やホテル業での一切合切、おもてなしへまつわる日常の機微を学ぶ学校)へ進むことを勧めてくれていました。

今になってその意味を深く噛みしめています。私に欠けていた所、そこだったんだなって。特に日常への機微。いまだに。

彼女たちならこう言うでしょう。
まずS.B先生が、No late to mend!(It is never too late to mend. 過ちを改むるにはばかることなかれ)、と言い、
J.G先生が、Ye,Yuko.(その通りだよ)、と。

以上、東京都の社労士「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


べブさんを偲んで

2019-05-17 23:36:07 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士の頼木優子です。

今日は、「べブさんを偲(しの)んで」を書きたいと思います。彼女は私のNZ留学時代の恩師です。

つい先ほど、本日の22時前後にEテレのドキュランド「最後の恋をさがして」を見ていました。スイスでの70歳代前後の複数の独身女性のドキュメントで、それぞれが各々男性パートナーを恋焦がれる展開です。

5~6人それぞれの生活感の中を背景に、順繰り順繰り場面が変わるのですが、その中で唯一男性と無事カップルになられた方がいました。

その方の人柄や話す内容が、べブさんとよく似ていて、人生を明るく見ていて快活で、朗らかで。思わず涙が出ます。同年代だけでなく、彼女にとって年が若い人たちの輪にも混じり楽しむ、それがべブさんでした。

オーストラリアでの彼女のお葬式で参加されていたのは、ほぼ彼女と同年代の方が多かったのですが、彼女は多くの人に愛されていました。

彼女の話し振り(方)は、英国のエリザベス女王のと似ている時があって上品でいてかつ気さくさを漂わせ、現に女王との食事会にも同席されています(その時の写真を留学当時拝見しました)。
▲てんとう虫(彼女が特に好きだった虫)

留学時代こんな事がありました。彼女の家にたまたまお泊りしていた私は、就学中彼女の家に忘れ物をしたことに気付きます。彼女の夫(この方も先生)に取りに行きたいと申し出ます。

ところが、彼ら夫妻は高校での責務によりすぐには戻れません。どうにかこうにかしたい私は、何か方法が無いかと思いあぐねていると、ルーペットが「窓は隙間が空いてるけど、とても(入れそうにない…)」と言いかけ、

私はすぐさま彼女宅に突進します。確かに窓は隙間が空いていました。そして私は躊躇わず窓を壊さないで内に入りました。彼らは後から駆けつけてくれて、家の中にいる私に驚愕したのはルーペット。

べブさんは、何事もなかったように。そして私は今は思うのです。どうしてこのように素行の悪い私を最後まで受け入れたのかと。

彼女は、時にそして人生最後に会ったときには、涙ぐむようにして「You are special」と言って。今日は、なぜだか涙もろくて、失礼!

以上、東京都の社労士ブログ「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。