東京都の社会保険労務士のデイリーブログ 

東京都港区の社労士ブログ!人事労務から様々、ワンポイントレッスン

ゴールデンウィークスペシャル⑤

2020-05-04 16:13:17 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、ゴールデンウィークスペシャル⑤と題して書きたいと思います。どうぞ先の①~④より、お読みください。

時は、1975-1978(昭和50~53)年前後の頃です。私自身は保育園に幼い頃から所属し、年長児にかけて自らの希望で幼稚園に登園しました。

まず、保育園では、思い出深いのはやはりミカちゃんのことで、当時は子供たちがふて腐れた怒りを表現するのに、

各個人にあてがわれた、自らの背丈ほどあるロッカーに、まるで木の洞穴に腰を掛けるように、ロッカーにヨッコラショっと一人腰を下ろし、ひたすら泣く、

ということがあって、私も結構それでストライキを表現して、でもミカちゃんの頻度が一番で。彼女も私も親のお迎えの時間がとても待ち遠しくて。

そして、一番今から思うとなんでもごじゃれだったのは、担任の先生のお話の時間。ある女性の先生が当時の現代風の怪談話を始めて、

その結末が今でも忘れられない、生首がトイレに置いてあった、おしまい、みたいのもあって。
▲綿毛。たんぽぽ、幼い頃の思い出の象徴だなぁ。

幼稚園では、給食もあったのか、好き嫌い無く食べることを特に推奨し、その一環でシシャモの衣揚げが嫌いで困っていた私は、好き嫌い無く食べることができる一番クラスでハンサムな男の子に声を掛けて、

どうして(どうすると)美味しく食べられるのか尋ねると、しっぽから食べるのではなく、シシャモを宙ずりにして頭からパクッと食らいついて食べる、と教わりそのイニシエーションで

見事にシシャモが好きになり、その彼の優しさが今でも忘れられなかったこととか、実に思い出深い話です。

実は、埼玉県に在住、高校を都内に通う高校生になって、当時のこの千葉県の松戸市のこの「せんだんようちえん」へ、当時の団地の男友達と共に、私は訪問します。

当時の園長先生も変わらずご在勤で、私のことを認識してくれて、良い先生方に恵まれていたなぁ、と今でも思い出します。

終わり

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。



ゴールデンウィークスペシャル④

2020-05-02 11:22:48 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、ゴールデンウィークスペシャル④と題して書きたいと思います。どうぞ先の①、②、そして③よりお読みください。

まず「ミカちゃん」について、なぜ親同士からしても、行き来があったのか、について思うところがあって、

当時(1970?-?)、私の伯父が東京表参道の駅近で、「ラ・パンセ」というパブを経営していました。現在その場所は周りはおしゃれなお店が立ち並ぶのに、

(伯父はそこだけなぜか時が止まっているように)物置?倉庫?にしているみたいなんですけど(この投稿当時現在)。
▲乾杯!

その繋がりで、そのような世間体的なことは、免疫があったといいますか(伯父は今は中小企業経営者としておさまっています。パブはもう経営していない)。そんなもんなんだって感じですかね。

ミカちゃんのお母さんが私の母とすれ違って挨拶を交わした後の、とても嬉々とした、本当に嬉しそうにしていた姿がとても印象に残っています。

ミカちゃんはですから私の当時の大事な友達の一人で、忘れられない一人になっているわけです。で、カヨちゃんについては、ミカちゃんのおまけ的についてきて、面白かったから一緒にいたって感じですかね。

ヨシエさんとは、坂戸に引っ越してからも文通がしばらく続いていて、ストレートヘアで髪が長く、きれいで優しくて、皆の憧れの的でしたね。お母さまが看護婦出身でまた美人で、お姉さまもキレイな方でした。

文通も、ヨシエさんの便せんがとてもかわいい値が自由に選べてる感じのものが楽しみで。ある時ヨシエさんからの切手の貼付がない手紙に、祖父がその分支払って受領し、よって私が怒られ、それをヨシエさんに伝えた時から手紙が途絶えた、って感じですね。

つづく

注釈)「ラ・パンセ」のパブは、創業年も継続年も実は専ら不明です。調べられる方は調べてみてください。現在その所在地はおしゃれなカフェになっています。

その土地は売買が成立か、定期借地権かの扱いは存じません。伯父の具合が悪く確認しようも無く、元々借地だったのかもしれませんし…。

伯父は、私の身元保証的存在にはなりますが、伯父の家族とこちらの関係性は実は一般的なものでかつ薄く、今後に置いても恐らく特に発展性は想像に難いでしょう。

こちらに一切相続もありませんし、指示する政党の伯父の信条も引き継ぐ関係性には、残念ながら直近においてはありません。

よろしくご理解賜りますよう、お願い申し上げます。

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。



ゴールデンウィークスペシャル③

2020-05-01 15:30:09 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、ゴールデンウィークスペシャル③と題して書きたいと思います。どうぞ先の①、②よりお読みください。

特に覚えているのは、男の子の大場君です(クラスに「大場」が二人いて)。ドラえもんが大好きで勉強ができる大場君は、運動体育は全くダメ。歩き方は、へなちょこ、のび太そっくり。
▲大場君は、どら焼きは好きだったのだろうか。今は確かめようもないけど。tara578さんによる写真ACからの写真

私は体育だけはいつも大得意で、そんな私は大場君をからかっては、腕力でも?泣かせちゃうこともしばしば。

大場君はとてもクリエイティブな発明家で、昔のパチンコのような仕組みのゲームを自由帳の切紙張り合わせで作り上げて、私に試させて面白いかどうか私に尋ねるのです。

私は、面白いと答えて、次に彼が持ってきた彼の考案したゲームを、今度は面白くない、と素っ気なく。

実はこのゲームのカラクリをその場で全て覚え込んだ私は、埼玉県坂戸市の小学校へ3年生で引っ越したときに、そのクラスのガキ大将カバン屋の息子ハヤシ君にこれを試すのです。

その時のハヤシ君の反応も、あの時の私が大場君に示した反応と同じ、二つ目のゲームで素気無く。しかし、あの時、ハヤシ君の反応が違っていたら、どうしていただろう、と今になって考える私です。もし、三つ目のゲームを欲しがっていたら?

なぜなら、これらのゲームのアイディアは全て、大場君に帰属するものだから。

つづく

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


ゴールデンウィークスペシャル②

2020-05-01 15:03:08 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、ゴールデンウィークスペシャル②と題して書きたいと思います。どうぞ先の①よりお読みください。

ヨシエさんとアキコさんとは同じクラスでした。彼女らには、毎年誕生日パーティーにお呼ばれしていました。特にアキコさんとは親繋がりで。

ヨシエさんの誕生日会では、私は雁(がん)の群れの中に、唯一アヒルが混じっているかのような、そんな違和感をヨシエさんのお母さんから感じていました。
▲ランドセルは、父方の祖父母からの贈り物の本革の赤のランドセル。堪らなく重い。

クラスは別でしたが、ミカちゃんとカヨちゃんとは何が面白いって分からないのですが、放課後よく遊んでいて(その間他の子供たちは勉強していたのでしょう。私は野放しだったので)

それを知ってか知らないでか、ヨシエさんとは不意に遊べなくなって、わざわざ遠い彼女の自宅を訪れても、門前払いだったこともありました。

ある時、大君という男の子が、美女(器量良し)グループヨシエさんたちの頬っぺたに、チュッとキスして盛り上がることがあったのですが、

その美女グループがうらやましくて、大ちゃんに「私には?」と人差し指で右頬を指し示し伝えると、「オェっ」と吐き捨てるように言われる始末。私がどんな子だったか、想像に難くないでしょう?

一番心が落ち着いて話せたのは、地味で目立たない大場さんという同じ団地出身の子で、私が手に取っていた「キリスト」の本繋がりで仲良くなったのがきっかけです。

つづく

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。


ゴールデンウィークスペシャル①

2020-05-01 11:38:55 | 社会保険労務士の日記
こんにちは。東京都の社会保険労務士という専門家の頼木(細木)優子〔Yuko Yoriki(Hosoki)〕です。

今日は、私の小学1-2年生の頃から特筆すべき、友達関係について、書きたいと思います。まずは、背景から。

遡ること1979(昭和54)年、千葉県松戸市牧の原小学校という小学校に入学した私は、頭はおかっぱで、何しろいつも敗れ被れ(やぶれかぶれ)な、一応女の子、みたいな感じでした。

入学式のクラス全員写真では、小首を傾(かし)げるのが可愛さの定義であったあの頃、決して傾げてはいけないと教頭先生が全員に念には念を押して撮影に臨みますが、残った写真は、私だけ、こけしの首が途中ポキッと折れたように傾げているもの。
▲ぶっ飛んでは、いません。いや、いる?

一学年の中には、公立小ではありますが当時の新興住宅街の中に位置し、様々なご家庭出身のお子さんが集っていました。ピンからキリまで、といいましょうか。

閑静な高級住宅街に個人開業医として立派な自宅兼医院を経営する父を持ち、必ず馬のデッサンのお絵描きをするヨシエさん(お父さんを「おとうちゃま」、お母さんを「おかあちゃま」と、自らを「ヨンヨン」と呼ぶご家庭)や、

やはり広い庭付住宅街の戸建てに住み、誕生日パーティーを毎年7-8人呼んで行い、パーティーには必ず円柱の苺のショートケーキが出、ファンタのジュースが飲み放題のご家庭、「秘密のアッコちゃん」の番組をこよなく愛すアキコさん、

ハイツ的な賃貸マンションに住み、生まれた時から、お父さんも知らず、子供には無愛想なパブにお勤めのお母さんを持つミカちゃん、彼女とは保育園でも一緒でした。

そして、新しい戸建てに住み、いつも青っ鼻水を拭(ぬぐ)わず、当時私は見ることを禁じられていた「ルパン三世」のアニメが好きだったようで、そのエッチな場面に、奇妙な歯っ欠け婆さんみたいな声で笑うカヨ?ちゃん(だけど面白く憎めない)。

私の位置づけは、新築の公団団地に住む、建築士でサラリーマンの父を持ち、母は無農薬栽培と鶏飼育に夢中、ボストンマラソンに出場、片手間にそろばん教室と英語教室を自宅で小学生に教えて、というような家庭背景で、当時の私の名は、細木優子(Yuko Hosoki)です。

つづく

以上、東京都の社労士(社会保険労務士)「頼木優子(Yuko Yoriki)」でした。