和楽の会民謡(唄、三味線、尺八、太鼓、箏 etc..)

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 二度と唄えない音戸の舟唄

2017-04-25 17:33:04 | 熊本支援コンサートHANA
二度と唄えない 音戸の舟唄


私は9年連続で音戸の舟唄全国大会に出場してきました  正直にいつか日本一になりたいとずっと思って唄ってきました  だけど、この日の音戸の舟唄は人と競う必要のない特別なステージだったのです  私は生まれて初めて強めのスポットライトを浴びていた

床屋をやっていて歌が好きなお客様から「スポットライトは眩しいぞ」と聴いていたのでしたが・・ まさか、こんなに眩しいとは知らなかった  それでも心地の素晴らしい眩しさだった・・ 客席は、ほとんど見えず  その強い光線は、私をまるで天国へと導く・・ そう、フランダースの犬とパトラッシュが最後に天に召される時の・・ 上昇してゆくような不思議な感覚だった 

私は、まるで自分の背中に跳ねが生え・・ 17年前に亡くなった大好きな父の下へと会いにゆけるような聖なる雰囲気に浸っていた  今日は、世界一尊敬していた民謡歌手の須賀道子さんも舞台袖で私のことを見守ってくださっていましたし、私にとっては本当に天に行くには絶好のロケーションだった。 あれだけの素晴らしい民謡人の中で天に召されたならば、どんなに幸せだろうか と一瞬だけ思いにふけった 

後方ではプロの尺八奏者である、米谷大輔さんが、まるで隠岐に生える樹齢600年のかぶら杉の根元のごとく非常にどっしり安定感抜群のメリハリと静けさ、力強さとを巧みにわけた大変素晴らしい音色に私は嬉しすぎて酔いそうになった  大輔さんの音戸は本当に度肝を抜くほどに太くたくましく、最高だったのであった 

私は、つまり、最高の舞台上に立っていた  心から尊敬している民謡人ばかりに囲まれ、最高の布陣に支えられ、スポットライトを大量に浴びて、それは、まさに私だけのためのセッティングのように感じられた。 その素晴らしすぎる条件に毎日睡眠不足と過労で弱っていたはずの私が・・ なぜ、これだけの唄が唄えたのだろうか と考えても今でもわからないのです。

確実に信じられない力と勇気が働いたのでしょう  民謡は心だと思っておりましたが・・ この時の音戸の舟唄を唄っている時の心情は誠に幸せであり、その裏には人に言えない苦しみを乗り越えた現実が隠されていたのであった  主催者にしかわからない苦しい重圧と責任  去年の暮れに秘書が誕生し運よくも私は助けられた。

もうコンサートは止めようと、何度考えたことだろうか 結局、無理に実行するより、私は自分の命が惜しかったのです。 最悪、止めようと考えておりました。 でも、どたんばで命の覚悟をした時、最悪、逃げる手もあるので大丈夫だと自分を励ましました。 逃げて、恥をかいてでも、自分の命だけは絶対に守らなければならないと思ったのでした。 私は1週間寝込みました、本番1ヶ月半くらい前の話です 

島では、相棒の田村さんが、無償で写真を作ってくださったり、チラシの作成を受けてくださっておりました。 お金を注ぎ込んだのは私だけではありませんでした。 秘書も京都から何度も呉に足を運んでは、観覧数を上げようと、各、会社にお誘いしては努力を重ねていたのでした。 一つのイベントを成功させる陰には、人に見えない水の底があるのだと痛感致しました。 それらの苦労や辛さ努力の積み重ねがあったからこそ、この時の舞台上での喜びの大きさがすごいのです 

このコンサートは、まさに命を掛けた私にとっては大イベントだったのです。 皆さんの協力があってこそ、成り立つもので、力を貸してくださった方、観に来てくださった観覧者さん、ボランティアを自分から申し出てくださった勇敢な方もいらっしゃいました  

これらの事実は、必ず私が未来に残してゆきたいです  この動画を民謡を始めたい方々が観てくださり、そこから何かを感じていただけたならば、この和楽の会の活動も意義があるのではと想像しております。 本日もご視聴、並びにご拝読、誠に感謝申し上げます。 有り難う御座いました 


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 包まれる声 祖谷の粉挽き節

2017-04-23 11:01:31 | 熊本支援コンサートHANA
包まれる声 祖谷の粉挽き節


この方を私が直接お呼びすることなど出来なかった。 菅笠節全国大会で一度だけお会いし少しばかり会話をしただけでしたので予定出演者の中には入っておりませんでした(無理だと考えていたので) ところがコンサートを本気で起そうと考え始めた去年の秋頃に兵庫県のお夏さんから  お電話をいただきましてね 「ふみさんを僕がお誘いしてみますよ」との申し出を聴いて私は驚いていた 

ふみさんといえば・・ 全国大会各地で優勝され日本民謡フェスティバルでも出演されるなど日本一等級の唄い手さんだからだった  私みたいな民謡人が気軽にお誘いできるような仲ではありませんでしたし・・ まさか岡山県からはるばる参加してくださると思ってもみなかったのでした  ところが、そこはお夏マジックということでしてね 

お夏さんがお声を掛ければ なぜだか美女さん達が  まるでこぼれる葡萄のごとくOK出しちゃうんですから 驚いたのなんのって ゆうさんもお夏さんのこと好きですけども・・ 皆さん、お好きだったんですね  ってことで勝手に妄想しておりますが  とにかくお夏さんからのお誘いもございましてね、このような素晴らしい出演者が揃ったというお話でした 

この、ふみさんのお声  なんて品の高い素敵なお声なのでしょうか  大輔さんの笛の音色とお夏さんの品の良い三味線の音色とが見事にマッチされ、本当に素晴らしい民謡となっておりました  永遠に残したい 私は、そう感じましたから  この映像を1000年後の民謡ファンに是非とも観ていただきたいのです 

お夏さんのお陰で大輔さんや、ふみさんを呉にまで引っ張ってくださって、ゆうさん、誠に幸せでした  いや、私だけでなく、観覧者の皆様や、出演者全員、特別ゲストまで、全ての人の心を幸せにしてくださったと思うのです そして、残念ながらも会場に来ることの出来なかった方々も、ここで素晴らしい民謡を観ることが出来るということは、幸せだと感じております

私も、これから何度、この映像を観ることでしょうか  何度、この映像で民謡を心から楽しみ、やる気と勇気をいただけることでしょうか  嬉しくて仕方がございません  ふみさん、大輔さん、お夏さんに心から感謝申し上げます  ありがとうございました  本日もご拝読、誠におおきに 

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 涙を耐えた日向木挽唄

2017-04-22 08:58:06 | 熊本支援コンサートHANA
涙を耐えた日向木挽唄


田村さんは半年も前から、ずっと私達の舞台練習に付き合ってくださった  時には体調を崩された日もありました  それでもこのコンサートの成功のために手伝いを止めることはありませんでした  いつも私達親子を支えご尽力くださったのです 

田村さんは毎年、音戸の舟唄全国大会で私の合いの手を受けてくださっており、NHKのど自慢でもコンビを組み、お陰様にて合格できました  音戸の舟唄に田村さんあり  この方がいたからこそ、協力してくださったからこそ、私は活躍できているのです 

当初、私の音戸の舟唄は、この日向木挽唄のタイミングでの演目順序でございましたが 6日前の予行演習にて田村さんが私の音戸の後に木挽唄の衣装に着替えるのに2、3分必要だということになりましてね  舞台監督のかおるさんが「第二部の先頭に音戸を移動させましょう」との案を出されたことで、私は第二部のトップと変わったのでした 

それにより、田村さんが衣装を着替えるのに急ぐ必要もなくなり、スッキリしたのでした この舞台監督がかなりしっかりしておりましてね 東広島を本拠地に活躍されている ワークス(プロの音響、設備、照明、舞台関連を手掛けておられます) この会社を教えてくれたのが、地元で同級生の音響プロの(広島県江田島市)金川氏だった。

私は金川氏に照明をお願いしてみたのだったが、くれ絆ホールでの照明経験がなかったことから、「ワークスさんなら良くしてくれるよ」とのアドバイスから、私は、かおるさんと出会うこととなった。 かおるさんのお話は、ここではここまでにしておくことにして  田村さんは本当に素晴らしい唄を披露してくださった  私は横でお囃子をしていてスポットライトを浴び眩しい田村さんを観て  感動し涙が出そうになった 

田村さんは、音戸の大会でも、緊張され、時折、音を外される時もあったのだったが、このコンサートでは、ほぼ音を外さなかった  誠に心の篭った見事な唄を母と同じ年にて唄える素晴らしさ  私は民謡というものの伝統ジャンルに未知の可能性を秘めているということにも同時に感動をしていたのだった

今は民謡人気は弱いのだが、必ず和が見直される時代は来るのである  外国人を含めた日本のすべてが着物を着て銀座を歩くことが流行するということは、この私が予想しておく  予想することは誰でも自由なので迷惑もかかるまい  特に笛、鼓、太鼓、三味線、尺八、鉦、筝などの和楽器類は、プレーヤーが少ないために、この先の未来に向けて、非常に価値が高まります

現代では、ニューミュージックが世界をリードし、皆、酔っているのですが  この日本では、これから民謡が少しづつ見直され、子供の教育、趣味に於きましても活躍する日は来ると考えます。 ならば、私達、民謡人が頑張って今、継承し、舞台を設け、発表することは、とても意味深くて素晴らしいことであるように考えております 

母や田村さんは年齢こそ70代で高齢の域に入りつつございますが、その時代に生きてきた人でないと、この味や深い優しさは、現代の若い人には、決して表現できません。 民謡の素晴らしさは、そこにあるのです  それぞれの時代背景が常にその人の民謡の表現や味わいに甘味されているのですから  民謡は、若ければ若さのういういしさ  そして高年齢の方には、その昔の日本の時代の雰囲気を表現できるために味わいも深いのです 

なので民謡に年齢は、あまり関係がございません。 どこからでも習えて楽しめるのが民謡なのでございます。 そして今の子供達にも伝えたい 民謡を始めてください  民謡は頭脳を鍛えてくれるだけでなく和の音色に自らも癒され、モバイルなどの液晶を見なくて済みますので視力を維持できる点も優れています。 近年では、視力の低下が顕著に現れており、心配するところでございます。

田村さんの素晴らしい日向木挽唄は、これから未来に向けて、この日本の民謡ファンのどなたかが気に入ってくださり、何十年先のファンに向けて受け継がれてゆくことを願っております  この唄の中に田村さんの人生のすべてが凝縮され、その歩んだ深い歴史を感じ、私は感動したのでした  本日もご拝読、誠にありがとうございました 


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 運命を握る 秋田船方節

2017-04-21 09:58:42 | 熊本支援コンサートHANA
秋田船方節


私は当初、野村さん(岡山県:和楽の会民謡会員)より、「どうしてもこの曲を唄いたい」と聴いた時、なぜなのか わからなかった ただ、この曲は、東京浅草みどりにて専属の三味線奏者のお兄さんが秋田船方節を弾いていたのを、よく覚えていた

その時の感想では、早弾きではなく、ゆっくりめだし、同じ旋律が多く簡単そう  というのが印象であった。 だから野村さんから依頼を受けた本番3ヶ月前に、3ヶ月もあれば余裕で覚えられると私は踏んでいたのだった 

ところが譜面を送ってもらい見てみると3枚(6ページ)にもわたってビッシリと少しづつ手が違うパターンのような内容が書かれてあるのを観てショックを覚えた  え これを3ヶ月で しかも歌い手は和楽の会エースの梅佳である。

私は、すぐに三味線で弾き始めた  1ヶ月でとにかく覚えることを目標にコンサートの準備に追われながら練習を重ねていった  ところが、私が覚えなければならないことは、コレだけ  ではなかったのだ 
一番に優先しなければならないことは、特別ゲストである須賀道子さんの太鼓パート3曲だった 

実は、このプロ歌手の太鼓パートには、誰も近寄ろうとする民謡人はいなかった  近寄るどころか プロの太鼓なんて無理ですという人ばかりだった  私は途方に暮れた  だけれども、このコンサートを成功するためには、どうしても須賀道子さんの太鼓は必要であった。 苦しかった私は須賀道子さんに「専属の太鼓さんに来ていただくこと出来ませんでしょうか」とお願いしてみた 

ところが「あいにく予定があるようで無理ですね」とのことだった  私は覚悟を決める他なかった。 実は私は一度、太鼓の舞台に挑もうとした経験があった。 それは松江のこばさんがNHK民謡フェスティバルに隠岐しげさ節で出場された時、私は太鼓で参加させていただけないだろうかとの甘い考えで、お願いした経験があったのだ。 残念ながら願いこそ叶わなかったが(未熟でしたのでね

実は、その経験があったことが自分の太鼓魂 に勇気という明りを灯してくれたのだった(感謝) 私は決意した 


よしっ 私が太鼓に入るしかない 


ということで、私が須賀道子さんと同じ舞台に参加できることとなったのであった。 三味線には、兵庫県を代表する夏木さんが入っていたので、私に出番はなかったが、ただ1曲だけ、五木の子守唄では、三味線が2枚必要(本手と替手と)だったので、その時、私も三味線に入らせていただくことが叶った  つまり、私は奇跡的にも須賀道子さんの4曲すべてに入らせていただける運びとなったのであった 

それは良いことではあるのだが同時にとてつもなく重い責任に押しつぶされることとなった  私は、一人でなんでもやっていたのだったのだが、本番の1ヶ月半ほど前に、精神疲労と肉体疲労、悩みが重なってしまい  私は、とうとう精神がおかしくなってしまい狂った  その時の様子は田村さんが見ている。 私は、もう田村さんは二度と来ないと思った。 私が田村さんだったとしたら・・ 恐ろしくて近寄らなかっただろうと思う。

田村さんは、コンサート成功のために、私が出来ない写真の印刷やパンフレットの増刷などを受けて、その経費さえも取らず、全て自分で行い助けてくださっていた。 田村さんがもし、抜けてしまうと、このコンサートは傾くのは避けられない状況下だったのだった。

話は戻るのだが、そういった短期間での厳しすぎる状況下の中で、私は、とりあえず狂いながらも生きていた。 時に夜、眠れるのかどうか、そして恐怖が襲ってきてパニックになるのではなかろうかとの不安が付きまとい 私は戦っていたのであった。 心の中で島本家のご先祖に何度も感謝を唱えた 「おばあちゃん有り難うございます お父ちゃん見守ってくれて有り難うございます」 これを5回ずつ心の中で唱えた時・・

少し心が安らぎ眠りにつくことが出来た  それを峠に私の精神状態は落ち着きを取り戻してゆく・・ とりあえず1週間は体がおかしかった。 私は、とにかく体を休めることを最優先にし、働いている以外を横になることにし、家での家事も母にお願いした。 母は全力で私を助け、支えてくれた。 この母の支えがなかったなら、コンサートは成功していなかったであろう。

私は本当に命を掛けていた。 あまり無理を重ねると自殺に追い込まれる危険もあったからだ。 私は一度、狂った時に田村さんに言った 「自分の命を落とすくらいなら、コンサートは止めます!」と叫んだ。 命を守ろうと必死だった。 世の中で、どんなに恥をかいても構わない! 自分の命は、とりあえず守るのが最優先だとの判断だった。

その1週間後、田村さんがやってきた。 まるで何事もなかったかのような明るい表情の田村さんを観て 私は大泣きし田村さんの肩にすがった  田村さんは私を受け止めてくださった。 そして私は元気を取り戻し、体調も回復していった  そのような中、この秋田船方節を覚えるというのは、私にとっての試練だったのです  似たようなフレーズが続くので、とても覚え辛かった 

私は、なるべく譜面を観ながら弾くことは避けたかったので、必死に頑張って毎日、弾き練習を重ねていったのだったが・・ 他にも太鼓や三味線の練習に追われていたのと・・ ポスターを20枚もすべて手書きで書いていたために、暗譜は、はかどらなかった  一番、覚えにくかった原因は、歌い手がいなかったことだった。

名手である野村梅佳は岡山県におり、江田島から練習に向かう余裕と時間など、とてもなかった  結局、母に頼むしか方法はなかったのである。 三味線伴奏を覚えるために欠かせないのが 唄い手なのです。 唄がないと、三味線ばかり弾いていても、歌詞のどこと一致するのかわからないし、またCDを聴きながらだと、三味線が入っているのが邪魔になったりするんです 

母は間違えながらも必死で覚えてくれた  とうとう本番半月前に9割くらい唄が唄えるようにまで成長してくれ、本番6日前の予行演習に間に合った  私は、この予行演習でも、野村さんに会えなくて  ぶっつけ本番に頼らざるを得なかった  そして本番を迎えたわけだが・・ 譜面を観ずに、なんとか弾き終えることが出来た 

小さな失敗が2,3箇所あったが・・ お囃子であった池宗さんが見事なリカバリーを発揮され、私が止まりそうになった三味線をモノトモセズ  とても素晴らしいタイミングでお囃子を入れてくれたのをキッカケに  隣の太鼓の安坂さん(甥です:高校2年:和楽の会民謡新星:岡山県)が太鼓に入れましてね  いや、本当に助かったのでした 

こうして、男の船出の秋田船方節は、途中で嵐に遭遇致しましたが  なんとか無事に航海を終えるのでした  たった4分ほどの、この曲に、私にとって命を掛けた浪漫がつぎ込まれていたのです。 次のコンサートでは、最低でも2年の準備期間を設けましてね、私一人ではなく、10名体制くらいを組み、しっかりとしたコンサートが出来るよう頑張って参りたいと思いますので、どうぞ、これからも宜しくお願い申し上げます 

本日もご視聴、ご拝読、 誠に有り難うございました 

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 母と念願の初舞台 ひえつき節

2017-04-20 11:11:03 | 熊本支援コンサートHANA
母のひえつき節


和楽の会民謡ファンのみなさま いつもご視聴ありがとうございます  私が5周年記念コンサート(熊本支援)を行おうと決断した大きな理由の一つにと一度は一緒に舞台に立ちたいという夢があったからなのです  心の中に2017年4月が浮かんだのです(去年の暮れに) そしてたまたま4月9日だけが日曜日が空いており、須賀道子さんもスケジュールが空いていたことで決定したという経緯がございました 

この時期が春の入学式の時期であるために和楽の会民謡の関東の会員が参加することが出来なかったことは、とても淋しく残念ではございましたが、素晴らしい出演者が参加し協力してくださったことで、とても良い内容のコンサートになり、私にとりまして素晴らしい思い出となりました 

ただ、この、ひえつき節の時には2上がりの調弦が必要であり、私は調弦方法を緊張して大間違いしてしまったのです  隠岐しげさ節が9本の本調子でしたので、8本の2上がりということは 3弦とも、音を上げ下げする必要があったのです これは日ごろから、しっかりと練習を重ねておかなければなりませんでしたが・・

須賀道子さんの太鼓パートや三味線で五木の子守唄を完全に覚え安定させる必要があったのと・・ 岡山の野村さんより「秋田船方節」の三味線伴奏の注文が入っておりましたので・・ それらを覚えるのに必死なのと・・ コンサートの準備をほとんど一人で行ったために、この、ひえつき節の練習は余り出来ていなかったのでした  まぁ早い話が演目を多く欲張って出たために(短期間での準備なのに) 無理がいったというのが本当の話です 

2上がりでまずは1弦を9本→8本に少しづつ緩めて合わせればOKでしたが・・ 緊張していた私は、調弦を安定させねばと・・ 一旦、7本くらいに音を下げ・・ そこから1本上げて8本にして安定を計ろうとしてしまったのでした この方法は、3本くらいの開きが出る際に行う方法であり・・ 1本音を落とすだけであれば、無駄なのです

私は極度の緊張感に襲われてしまい 1弦の音が全く取れなくなってしまいました  わけがわからなくなり  隣の二宮さんも前を向いたまま待ってる感じで・・ 私は、やばい このままだと音がぜんぜん合っていない状態のまま  演奏を始めることとなる → 音が全く違うので三味線伴奏を止める必要があり = 唄も止めてしまう結果となる(最悪

それだけは絶対に出来ない と心の中で叫んだ瞬間 司会者が台本になかった話題を盛り込み 助け舟  を出してくれたのです(心の底から感謝) 「京都から池坊さんのしだれ桜を車に乗せて12時間も運転して大切に運んで来て、飾らせていただいております」と話してくれて 時間稼ぎをしてくれました 

私は、本当に助けられた感じで1弦の調弦がまずまずでしたが出来て、2弦、3弦と焦って合わせることに成功したのでした  もう観覧者さまに待たせてしまいましたので、少しあいまいではございましたが、演奏をスタートさせました 調弦は少し違っておりましたが  なんとか2番から3番にかけては、ずいぶんと合いましたので、最悪のケースを間逃れることが出来たのでした  危なかったのです 

連日、コンサートの準備に追われ、まともな睡眠時間も取れていなくて  本当に厳しい状況下でした。 私は、とにかく小さな失敗は、いくらしてもいいから、大きな失敗だけは避けたい一心でした  この母の唄は、最初の1曲目ということもあり、緊張して息使いが荒めです  だけれども、この立派なホールで観覧者さまを目の前にし、また素晴らしすぎる出演メンバーの高いレベルを考えますと、よく歌ったなって  母を褒めてあげたいです 

本日もご拝読、誠にありがとうございます。 そしていつも絵柄ランキングをクリックして応援してくださりまして、ありがとうございます(感謝 また、この場を借りまして私を助けてくださった司会者に御礼を述べます。 コンサートの命を助けていただいて本当に有り難う 

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