秋田船方節
私は当初、野村さん(岡山県:和楽の会民謡会員)より、「どうしてもこの曲を唄いたい」と聴いた時、なぜなのか
わからなかった ただ、この曲は、東京浅草みどり
にて専属の三味線奏者
のお兄さんが秋田船方節を弾いていたのを、よく覚えていた
その時の感想では、早弾きではなく、ゆっくりめだし、同じ旋律が多く簡単そう
というのが印象であった。 だから野村さんから依頼を受けた本番3ヶ月前に、3ヶ月もあれば余裕で覚えられると私は踏んでいたのだった 
ところが譜面を送ってもらい見てみると3枚(6ページ)にもわたってビッシリと少しづつ手が違うパターンのような内容が書かれてあるのを観てショックを覚えた
え
これを3ヶ月で
しかも歌い手は和楽の会エース
の梅佳である。
私は、すぐに三味線で弾き始めた
1ヶ月でとにかく覚えることを目標にコンサートの準備に追われながら練習を重ねていった
ところが、私が覚えなければならないことは、コレだけ
ではなかったのだ 
一番に優先しなければならないことは、特別ゲストである須賀道子さんの太鼓パート3曲だった
実は、このプロ歌手の太鼓パートには、誰も近寄ろうとする民謡人はいなかった
近寄るどころか プロの太鼓なんて無理ですという人ばかりだった
私は途方に暮れた
だけれども、このコンサートを成功するためには、どうしても須賀道子さんの太鼓は必要であった。 苦しかった私は須賀道子さんに「専属の太鼓さんに来ていただくこと出来ませんでしょうか」とお願いしてみた 
ところが「あいにく予定があるようで無理ですね」とのことだった
私は覚悟を決める他なかった。 実は私は一度、太鼓の舞台に挑もうとした経験があった。 それは松江のこばさんがNHK民謡フェスティバルに隠岐しげさ節で出場された時、私は太鼓で参加させていただけないだろうかとの甘い考えで、お願いした経験があったのだ。 残念ながら願いこそ叶わなかったが(未熟でしたのでね
)
実は、その経験があったことが自分の太鼓魂
に勇気という明りを灯して
くれたのだった(感謝
) 私は決意した
よしっ 私が太鼓に入るしかない
ということで、私が須賀道子さんと同じ舞台に参加できることとなったのであった。 三味線には、兵庫県を代表する夏木さんが入っていたので、私に出番はなかったが、ただ1曲だけ、五木の子守唄では、三味線が2枚必要(本手と替手と)だったので、その時、私も三味線に入らせていただくことが叶った
つまり、私は奇跡的にも須賀道子さんの4曲すべてに入らせていただける運びとなったのであった 
それは良いことではあるのだが同時にとてつもなく重い責任に押しつぶされることとなった
私は、一人でなんでもやっていたのだったのだが、本番の1ヶ月半ほど前に、精神疲労と肉体疲労、悩みが重なってしまい
私は、とうとう精神がおかしくなってしまい狂った
その時の様子は田村さんが見ている。 私は、もう田村さんは二度と来ないと思った。 私が田村さんだったとしたら・・ 恐ろしくて近寄らなかっただろうと思う。
田村さんは、コンサート成功のために、私が出来ない写真の印刷やパンフレットの増刷などを受けて、その経費さえも取らず、全て自分で行い助けてくださっていた。 田村さんがもし、抜けてしまうと、このコンサートは傾くのは避けられない状況下だったのだった。
話は戻るのだが、そういった短期間での厳しすぎる状況下の中で、私は、とりあえず狂いながらも生きていた。 時に夜、眠れるのか
どうか、そして恐怖が襲ってきてパニックになるのではなかろうか
との不安が付きまとい
私は戦っていたのであった。 心の中で島本家のご先祖に何度も感謝を唱えた 「おばあちゃん有り難うございます お父ちゃん見守ってくれて有り難うございます」 これを5回ずつ心の中で唱えた時・・
少し心が安らぎ眠りにつくことが出来た
それを峠に私の精神状態は落ち着きを取り戻してゆく・・ とりあえず1週間は体がおかしかった。 私は、とにかく体を休めることを最優先にし、働いている以外を横になることにし、家での家事も母にお願いした。 母は全力で私を助け、支えてくれた。 この母の支えがなかったなら、コンサートは成功していなかったであろう。
私は本当に命を掛けていた。 あまり無理を重ねると自殺に追い込まれる危険もあったからだ。 私は一度、狂った時に田村さんに言った 「自分の命を落とすくらいなら、コンサートは止めます!」と叫んだ。 命を守ろうと必死だった。 世の中で、どんなに恥をかいても構わない! 自分の命は、とりあえず守るのが最優先だとの判断だった。
その1週間後、田村さんがやってきた。 まるで何事もなかったかのような明るい表情の田村さんを観て
私は大泣きし田村さんの肩にすがった
田村さんは私を受け止めてくださった。 そして私は元気を取り戻し、体調も回復していった
そのような中、この秋田船方節を覚えるというのは、私にとっての試練だったのです
似たようなフレーズが続くので、とても覚え辛かった 
私は、なるべく譜面を観ながら弾くことは避けたかったので、必死に頑張って毎日、弾き練習を重ねていったのだったが・・ 他にも太鼓や三味線の練習に追われていたのと・・ ポスターを20枚もすべて手書き
で書いていたために、暗譜は、はかどらなかった
一番、覚えにくかった原因は、歌い手がいなかったことだった。
名手である野村梅佳は岡山県におり、江田島から練習に向かう余裕と時間など、とてもなかった
結局、母に頼むしか方法はなかったのである。 三味線伴奏を覚えるために欠かせないのが
唄い手なのです。 唄がないと、三味線ばかり弾いていても、歌詞のどこと一致するのかわからないし、またCDを聴きながらだと、三味線が入っているのが邪魔になったりするんです 
母は間違えながらも必死で覚えてくれた
とうとう本番半月前に9割くらい唄が唄えるようにまで成長してくれ、本番6日前の予行演習に間に合った
私は、この予行演習でも、野村さんに会えなくて
ぶっつけ本番に頼らざるを得なかった
そして本番を迎えたわけだが・・ 譜面を観ずに、なんとか弾き終えることが出来た 
小さな失敗が2,3箇所あったが・・ お囃子であった池宗さんが見事なリカバリーを発揮され、私が止まりそうになった三味線をモノトモセズ
とても素晴らしいタイミングでお囃子を入れてくれたのをキッカケに
隣の太鼓の安坂さん(甥です:高校2年:和楽の会民謡新星:岡山県)が太鼓に入れましてね
いや、本当に助かったのでした 
こうして、男の船出の秋田船方節は、途中で嵐に遭遇致しましたが
なんとか無事に航海を終えるのでした
たった4分ほどの、この曲に、私にとって命を掛けた浪漫がつぎ込まれていたのです。 次のコンサートでは、最低でも2年の準備期間を設けましてね、私一人ではなく、10名体制くらいを組み、しっかりとしたコンサートが出来るよう頑張って参りたいと思いますので、どうぞ、これからも宜しくお願い申し上げます 
本日もご視聴、ご拝読、
誠に有り難うございました 
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私は当初、野村さん(岡山県:和楽の会民謡会員)より、「どうしてもこの曲を唄いたい」と聴いた時、なぜなのか




その時の感想では、早弾きではなく、ゆっくりめだし、同じ旋律が多く簡単そう


ところが譜面を送ってもらい見てみると3枚(6ページ)にもわたってビッシリと少しづつ手が違うパターンのような内容が書かれてあるのを観てショックを覚えた




私は、すぐに三味線で弾き始めた




一番に優先しなければならないことは、特別ゲストである須賀道子さんの太鼓パート3曲だった

実は、このプロ歌手の太鼓パートには、誰も近寄ろうとする民謡人はいなかった




ところが「あいにく予定があるようで無理ですね」とのことだった


実は、その経験があったことが自分の太鼓魂



よしっ 私が太鼓に入るしかない

ということで、私が須賀道子さんと同じ舞台に参加できることとなったのであった。 三味線には、兵庫県を代表する夏木さんが入っていたので、私に出番はなかったが、ただ1曲だけ、五木の子守唄では、三味線が2枚必要(本手と替手と)だったので、その時、私も三味線に入らせていただくことが叶った


それは良いことではあるのだが同時にとてつもなく重い責任に押しつぶされることとなった



田村さんは、コンサート成功のために、私が出来ない写真の印刷やパンフレットの増刷などを受けて、その経費さえも取らず、全て自分で行い助けてくださっていた。 田村さんがもし、抜けてしまうと、このコンサートは傾くのは避けられない状況下だったのだった。
話は戻るのだが、そういった短期間での厳しすぎる状況下の中で、私は、とりあえず狂いながらも生きていた。 時に夜、眠れるのか



少し心が安らぎ眠りにつくことが出来た

私は本当に命を掛けていた。 あまり無理を重ねると自殺に追い込まれる危険もあったからだ。 私は一度、狂った時に田村さんに言った 「自分の命を落とすくらいなら、コンサートは止めます!」と叫んだ。 命を守ろうと必死だった。 世の中で、どんなに恥をかいても構わない! 自分の命は、とりあえず守るのが最優先だとの判断だった。
その1週間後、田村さんがやってきた。 まるで何事もなかったかのような明るい表情の田村さんを観て





私は、なるべく譜面を観ながら弾くことは避けたかったので、必死に頑張って毎日、弾き練習を重ねていったのだったが・・ 他にも太鼓や三味線の練習に追われていたのと・・ ポスターを20枚もすべて手書き


名手である野村梅佳は岡山県におり、江田島から練習に向かう余裕と時間など、とてもなかった



母は間違えながらも必死で覚えてくれた





小さな失敗が2,3箇所あったが・・ お囃子であった池宗さんが見事なリカバリーを発揮され、私が止まりそうになった三味線をモノトモセズ




こうして、男の船出の秋田船方節は、途中で嵐に遭遇致しましたが



本日もご視聴、ご拝読、



大変でしたね🚢
こころの羅針盤が指す方へ
民謡の大海原へ
仲間とともに出港できて
良かったですね😊✨
やめられないと思いましたよ。 こんな
に苦労して辛い目にあったのに、2年
ほど経つと、また開催したくなるのは、
私が背負った運命だと思うのです。