歩いているうちに、彼女は生け垣のなかになにか青いものを見つけて、私に言った。「あら、
つるにちにち草(ペルヴァンシュ)がまだ咲いているわ」。私はつるにちにち草というものを
見たことがなかった。かがんでよく見ようともしなかった。それに私はひどい近眼で、土に
生えている植物は、立ったままでは見分けがつかないのだ。で、通りすがりに、その花に一
瞥を投げかけただけで、それから三十年近く、つるにちにち草というものをふたたび見もせ
ず、注意もせずに過ごした。一七六四年、友人デュ・ペール氏と一緒にクレシェにいたとき、
二人で小さい山に上った。(……)上る途中、草むらに注意していた私は、よろこびの声をあ
げる、「やあ、つるにちにち草だ!」はたしてそれだった。デュ・ペール氏は私が有頂天にな
っていることはわかったが、その原因を知らなかった。いつかこの文章を読むとき、なるほど
とうなずいてくれるだろうと思う。こんな小さいことの印象からでも、読者は、この同じ時
期に関係のある一切の事柄が私にあたえた印象を、判断してくださるだろう。
ここには、その後に文学に多大な影響を及ぼし、磨かれ、洗練され、さまざまな形に展開される
<文学的モチーフ>がある。ささやかな何かが、人生のある時期に感じていた気分全体、場合によって
はすっかり忘れていた記憶全体を、ありありと蘇らせるという物語である。小さな青い花は、ルソー
によれば、過去のある時期全体を回想のなかでふたたび生きることを可能にするものだった。眼差し
は、見つめる対象がなければ何も見分けられないが、見つめられる対象において本当に問題になって
いるのは、その対象そのものではない。見つめる人間の過ぎ去った時間に対する意識が、ものに深み
をあたえるのである。
小さな青い花は、見つめる人間がかつて生きた時間の象徴である。
つるにちにち草(ペルヴァンシュ)がまだ咲いているわ」。私はつるにちにち草というものを
見たことがなかった。かがんでよく見ようともしなかった。それに私はひどい近眼で、土に
生えている植物は、立ったままでは見分けがつかないのだ。で、通りすがりに、その花に一
瞥を投げかけただけで、それから三十年近く、つるにちにち草というものをふたたび見もせ
ず、注意もせずに過ごした。一七六四年、友人デュ・ペール氏と一緒にクレシェにいたとき、
二人で小さい山に上った。(……)上る途中、草むらに注意していた私は、よろこびの声をあ
げる、「やあ、つるにちにち草だ!」はたしてそれだった。デュ・ペール氏は私が有頂天にな
っていることはわかったが、その原因を知らなかった。いつかこの文章を読むとき、なるほど
とうなずいてくれるだろうと思う。こんな小さいことの印象からでも、読者は、この同じ時
期に関係のある一切の事柄が私にあたえた印象を、判断してくださるだろう。
ここには、その後に文学に多大な影響を及ぼし、磨かれ、洗練され、さまざまな形に展開される
<文学的モチーフ>がある。ささやかな何かが、人生のある時期に感じていた気分全体、場合によって
はすっかり忘れていた記憶全体を、ありありと蘇らせるという物語である。小さな青い花は、ルソー
によれば、過去のある時期全体を回想のなかでふたたび生きることを可能にするものだった。眼差し
は、見つめる対象がなければ何も見分けられないが、見つめられる対象において本当に問題になって
いるのは、その対象そのものではない。見つめる人間の過ぎ去った時間に対する意識が、ものに深み
をあたえるのである。
小さな青い花は、見つめる人間がかつて生きた時間の象徴である。