サブロー日記

随筆やエッセイを随時発信する

サブロー日記   晩酌のあと はらが立つ

2007年03月13日 | Weblog
 真っこと、、、、今日高知竜馬空港の事故。随分前から、毎日のようにトラブルが起きていた。今に大きな事故が起きるぞ、、と思っていた。案の定、起きた。今日は死者がなかったが、当然起こるべくして起こったと思う。あれほど再々起きるトラブル、その飛行機を、どうして黙認して運行さしていたのか、これは県、県議会、国会議員の信を問われる問題だ。 もっと確りして貰いたい。サブロー

草鞋を履いた関東軍  サブロー日記  10

2007年03月13日 | Weblog
草鞋を履いた関東軍  10
   草鞋を履いた関東軍 10   サブロー日記

 私達の入る兵舎は、三方を湿地に囲まれ一方は小白山山脈(張広才嶺山)に連なる広漠たる大地てある。
内原で精神訓話に習った。天照大神が、高天原(たかまがはら)へ、天降りしたとき。「ここは朝日の直(ただ)さす国、夕陽の日照る国なり、故(かれ)ここぞいとよき処」と宣(のた)まわれたと言う。私達は今此処、大満州の草原に、いとよき処として、少年の神々が天下(あまくだり)したのである。

 加藤莞爾は「この土地は神様が世界人類に与え給うた共通の資産である。その資産が荒蕪地として放置されている。この広大な満州に、人口過剰、耕作地の狭隘な日本の農村の子弟を送り込み、開拓させ、世界人類に寄与するのが、大御心にそい奉る、なによりの聖業なのである。」と言う。
兵舎周辺は、よく見ると何年か前まで耕作されていたと思われる。畝の跡や、墓が歴然と残っている。此の土地も、かっては中国人の畑であったのではなかろうか。それを日本が。関東軍が、満拓公社が。銃剣をちらつかせ、半強制的に安い代価で買取り、この訓練所を建てたのであろう。
しかし私達はそんな事まで思考する知識も教養も持ってはいなかった。ただただ、身を満州建国の聖業に捧げ!、の一心でやって来たのである。
兵舎はもう九分通り出来上っていた。まだ講堂の大きな建物は建設中で、何処から来るのか中国人の大工、左官が4.5人来て働いていた。三郎は、中国人をこんなに近くで見るのは初めてである。脚の先から頭のてっぺん迄、まじまじと見つめる。日本人と変わったところは何も無い。が、服装は違う、黒く垢まみれの綿入れの様な、そうで無いような、いわゆる支那服なのであろう。私達の好奇心が益々働いて、片言の満語で話しかける。しかし、とても通じるようなものではなかった。
私達の中隊は北西2キロに中国人、和尚屯が在り。東に3キロ訓練本部。南に5キロ沙蘭鎮。北に4キロ、ここには建国10年も経っていると言うのに、うっかり日本人は行かれん、恐ろしい中国人があった。
兵舎は、幅6メートルくらい、長さ20メートルくらいの煉瓦造りが5棟、幹部宿舎2棟、倉庫1棟、ここは兵器庫と、農具庫となっている。そして今建築中のものは、大きな講堂、炊事場、中隊本部合同の建物であった。兵舎は、中央に2メートルほどの土間が貫き、その両側に一段高く床がある。此処に寝起きし、窓際には机の代わりに通しの板が設えてある。窓は二重の防寒。入り口の両側は風呂とトイレが有り。入り口に立てば舎内全体がほぼ見渡せ、小隊の統率がし易いようになっている。軍隊と違うのは、銃は、いつもは兵器庫に入れられていて、隊舎には置かれてない。
 此処に来て一番先の仕事はペチカに焚くヤンソウ(枯れ草)刈りであった。ヤンソウは、潅木と違って直ぐに燃えてしまい、大量に取って来なければならず、折角のペチカも充分の機能をしない。零下何十度と言う時は、皆、服を着たまま寝るのである。そのような時は、ねずみも寒いのか、人の布団に潜り込んで来る。よくねずみに咬まれることがあった。この大地の果てまで、ねずみが居るとは。そしてまた、この新築の兵舎に入った時、沢山のノミが飛び付いて来た。これには驚かされた。地球は人間の物だけでは無いことがよく解った。一番大事な水は、炊事場の近くに井戸が掘ってあり、これが見たことも無い、巻き上げ式になっている。柳を編んで作ったザルを落とし込み巻き上げるのである。ザルで水を汲む、のたとえがあるが、此処では喩え話ではない。何か理屈があるのだろう。しかし、やったもの、水はたいして漏れる事もなく釣瓶の役を果たしていた。井戸の口は氷で穴が狭くなり水汲みも一苦労、舎内当番は此処から風呂の水を汲まなければならないのである。
 満州の冬は何もかも凍り果てる。声まで凍って春先にはあちこちで人の声が解け出し賑やかになるそうな!?、一日の事、ヤンソウ刈りに1キロほど離れた小川まで来た。訓練本部への道筋でもあった。小川は底まで凍り、その中央に氷が大きく割れ目を開けていた。これは面白い、川底に魚が冷凍になっておるかも?。 三郎の好奇心は恐る恐るも、この氷の割れ目に入ってみた。わが背丈より深い、冷凍になった魚を探し回ったが見付けることが出来なかった。さて魚はどうなっているのだろう、今でもがてんがいかない?。
此処に来て一番つらいのは寒さである。風呂に入って、タオルを外の窓際に掛けると、瞬時にして、もうカチンカチンに凍る。後で干し直すことも出来ない速さで凍る。またトイレが大変。新築なので、暫くは何の事もなかったが、下から筍のように、上へ上へと伸びてくる。当番が鶴嘴で叩き壊すのであるが、油断すると床より上に上がって来る。また辛いのが歩哨に立つ事である。うっかり銃口に唇でも触れると、焼肉のようになって肉が剥ぎ取られる。防寒靴を履いていても一時もじっと立っては居られない。いつも足踏みして居なければならない。そして寒いだけではなく、夜になると狼が出て来る。隊の畜舎に入り、牛の仔や豚をさらって行く。豚は尻をがぶりと咬み取られたまま、元気に走り回っていた。この狼の番をするのも歩哨の大きな役目であった。一度これを退治すべく実弾を込め、数人で張り込みをしたが姿を現さなかった。 
冬は農事訓練は出来ない。軍事教練である。特に3月10日陸軍記念日はもうすぐだ、当日は訓練本部で、全中隊が集まっての競技大会がある。其の為にも厳しい訓練が続く。三郎も銃剣術の先鋒として、また武装競技の選手として出なければならなくなった。
 銃剣術は桑江教練幹部に鍛えられた。防具を着けての訓練は、今迄初めての事である。今までは木銃をもって、前々、後々、前々突け!の、型ばかりの訓練であったが、今度は防具を着け本当に相手の胸に突っ込まねばならない。しかも先鋒、一番先にやらねばならない、桑江幹部が「中平!もう時間がない、色々教えても間に合わん、「試合初め!」の号令と同時に、目をつぶってでも相手の心臓へ突っ込め、お前にはこれしかない。」と言われた。先鋒に出よと言ったのは中隊長であった。この中さん(中隊長)、この三郎をピリケンと呼ぶ、ちょっと鍛えてやろうとの魂胆か?。三郎の心配は今度の試合の事ばかりではなかった。愈々ソ連との戦争になり、白兵戦となったら、どうしょう、とてもこの細い腕では相手を斃せるはずがない、突撃の時は暴発を防ぐ為、銃に安全装置を掛けて突っ込む事になっているが、自分は絶対実弾込め、突込むと同時に発射してやろう。これしかない、と日頃から本気になって心配し、考えているのであった。
いよいよ3月10日本部には全中隊よりおよそ2.000名の隊員が集まり、また近隣の中国人の人々も集まり観戦していた。三郎はこの以外な光景を目の当たりにし、やはり五族協和が実践されているのだと感心した。
 愈々試合が始まった。幾つかの競技が進み、いよいよ銃剣術。先鋒だから当然一番先にやらねばならない。そもそも三郎のような、痩せが試合に出るのが間違っているのだが、中さんの命令である。恐る恐る立ち会うと、相手も大男ではなく一安心、さあ!始まった。桑江先生に教えられた通り、旗が降りると同時に相手の胸を狙っておいて、目を瞑りエィとつっ込んだ。確かな手ごたえがあった。だが旗が挙がらん。もう一回突いた。又確かに入った手応え。これで勝ったと思った。だが、何と旗は相手に挙がっていた。
審判員曰く。「広瀬中隊の方の声が細い」。残念、三郎はこれを習っていなかった。「突けなくても、大声をあげよと! 」と。
そして試合は進み、最後の主将同士の試合となり、吾が隊の主将、筒井小隊長の勝ちで、広瀬中隊は勝利を収めることが出来た。次は、武装競技である。各中隊から二人ずつ出る。競技は、一同、上着、ズボンを脱で寝る。そこへ非常呼集のラッパが鳴る。衣服を着け、靴を履き、ゲートルを巻く、このゲートルの巻き収めの端が、ズボンの両側の縫い目にピタリと収まらなければならないのである。これは競技の時ばかりでなく、日頃よく小隊長に注意される事項である。帽子を被り、あご紐を掛け、銃をとり、出来た者から整列する。三郎は五番目に整列したのだが。先の者、検査で次々と落とされ、三郎は二番に上がった。三郎にとっては重大な出来事であった。小学生の頃より走るのが遅く、いつも後から二番目くらい。金棒も、箱と跳び、体操の時間や運動会が大嫌いであった。運動会で友達は、いろんな賞品をもらって喜んでいるのを横目で見ながら、自分の体力の無さを嘆いた。こんなことも有った。当時学校の勤労奉仕で炭焼きを手伝いに行かされ、帰りには各自、炭一俵を負はされた。三郎も農家の子である。学校が終わると、家の手伝いを随分とさせられた。が炭一俵を負う事は初めてである。皆が負うのだから、当然三郎も負い、山を降っていた。すると下から同級生の鈴木五郎君が上がって来て。「中平、おらが負うちゃろう」彼は我が荷を奪いとるように負い、すたすたと降りて行った。五郎君は自分の荷は逸早く下の道路まで負い降し、三郎を見かねてか助けに来てくれたのである。近くにいた担任の先生は、不機嫌な顔で三郎を睨んでいた。
話が故郷へとんでいたが。三郎が二位になり賞品をどっさり貰った感激は、今まで感じたことの無い喜びであり、自信を得た想いであった。競技も順調に進んでいる。
其の時である。はるか東の稜線に一台の軍用車が現れ、こちらに向かい、砂塵をまきながらばく進して来る。さて何事だろう、三郎達の見たことも無い、小型で幌張りの車。  つづく